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一生懸命に祈りをささげ、神がそれに応える準備をしかかったところで、その人が立ち去ってしまうということがよくあります。自分とは何なのか、その本質を知りたいという願いに対する反応は瞬間的に得られます。けれども、





それを感じることを期待していなくてはなりません。





自分が何なのかを知りたければ、自分が純粋な目覚めた意識であり、どんな二極性にもとらわれず、他人も自分も批判せず、どんな制約も持たない存在であることを、体と心で感じたいと思うのなら、「静かに」という命令を自分に与えることです。あなたのなかの”大いなる完全性”は、あなたの心の底からの願いが何であるかを、正確に理解しています。


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弁護士の帰依者がシュリー・バガヴァーンに、「昨日の尋問で緊張しませんでしたか?」と尋ねた。


マハルシ 私は心を使わなかったので緊張もありませんでした。たとえ彼らが千日尋問したとしても、私はかまいません。

(対話281)


相対的知識は主体と対象を必要とします。一方、真我の気づきは絶対的なもので、対象を必要としません。記憶もまた相対的なもので、覚えられる対象と覚える主体を必要とします。

(対話285)


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質問者 私はフランスで生まれ育ち、この十年間ヨーガの修練を続けてきました。


マハラジ 十年もの修練の後、あなたは目的に近づいただろうか?


質問者 少しは近づいたのかもしれません。ご存じのように、修練は厳しいものです。


マハラジ 真我は近くにあり、それへの道は易しいものだ。あなたがすべきことは、ただ何もしないということだけだ。


質問者 それでも、私はサーダナ(修練)がたいへん難しいものだと知りました。


マハラジ あなたのサーダナは在るということだ。するということは起こるのだ。ただ注意深くありなさい。あなたは在る、と覚えていることに何の困難があるだろう? あなたはつねに在るのだ。


質問者 存在の感覚は疑いなく、つねにそこにあります。しかし注意の範囲は感情、イメージ、観念といった心理的な出来事にしばしば侵略されてしまいます。純粋な存在の感覚は、たいてい締めだされてしまうのです。


マハラジ マインドから不必要なものを取り除くためのあなたの手段はどのようなものだろう? マインドを浄化するためのあなたの方法と道具は何だろうか?


質問者 基本的に、人は恐れています。彼は彼自身をもっとも恐れているのです。私は、自分が今にも爆発しそうな爆弾を抱えこんでいる人のように感じています。彼はそれを取り除くことも、棄て去ることもできません。恐怖におののき、狂乱のなかで解決法を探しまわり、それを見いだせずにいるのです。私にとって解放とは、この爆弾から自由になることです。私はこの爆弾について多くを知りません。私の知っていることと言えば、それが私の幼年期からのものだということです。あたかも、私は愛されずにいることを激しく抗議している、怯えた子供のように感じます。子供は愛を切望し、それを得ることができないために恐れ、怒っているのです。ときどき、私は誰かを、あるいは私自身を傷つけたくなります。この欲望があまりにも強いため、つねに恐れているのです。しかも、どうやって恐怖から自由になれるのか、私は知らないのです。
ヒンドゥー教の精神とヨーロッパの精神に違いがあることはご存じだと思います。ヒンドゥー教の精神は比較的シンプルなものです。ヨーロッパ人はもっと複雑な存在なのです。ヒンドゥー教徒は基本的にサートヴィック(純質)で、ヨーロッパ人の落ち着きのなさ、より多くの一般的知識や、絶えず必要に駆りたてられた活動の追及といったことを、彼らは理解しないのです。


マハラジ 彼の論証能力は実に大したものだ。彼はすべての論拠から彼自身を論証してしまうだろう! 彼の自己主張は、論理を頼りにしているからなのだ。


質問者 考えることと論証することは、マインドの正常な状態です。マインドはただその働きを止めることができないのです。


マハラジ それが習慣的な状態ではあっても、通常の状態である必要はない。正常な状態に苦痛はない。誤った習慣は、しばしば慢性の苦痛へと導くのだ。


質問者 もしそれが自然な、あるいは正常な状態ではないとしたら、どうやってそれを止めればいいのでしょうか? マインドを静める方法があるに違いありません。私はどんなによく、自分に向かって言うことでしょう。「もう充分だ。どうか止まってくれ。この何度も何度も果てしなく繰り返すおしゃべりに疲れ果てた」と。しかし、私のマインドは止まらないのです。ほんの少しの間、それを止めることはできると感じはしますが、長くは続かないでしょう。いわゆる「霊的」な人びとでさえ、マインドを静めるために策略を使うのです。彼らはマントラを復唱し、歌い、祈り、呼吸を強いたり、静めたり、揺さぶり、集中し、瞑想し、三昧状態を追い求め、美徳を積んだりすることで、働きかけることや、追いかけること、動きまわることをやめるために、つねに働きつづけているのです。


マハラジ マインドは二つの状態で存在している。ひとつは水として、もうひとつは蜜として。水はほんのわずかな乱れでも波立ってしまう。一方、蜜はどんなに乱されても、すばやく不動の状態に戻るのだ。


質問者 マインドはその本性からして落ち着きのないものです。それを静かにさせることはおそらくできるでしょうが、それ自身は、静かではないのです。


マハラジ あなたには慢性の高熱と身震いがあるのだろう。マインドを落ち着かなくさせるのは、欲望と恐れなのだ。すべての否定的な感情から自由になれば、それは静かになるだろう。


質問者 子供を否定的な感情から守ることはできません。誕生してすぐに、それは苦痛と恐れを学ぶのです。空腹は残酷な主人であり、それは依存と憎悪を教えます。子供が母親を愛するのは、彼女が食事を与えるからで、彼女を憎むのは、食事を与えるのが遅れるからです。私たちの無意識は葛藤で満ちていて、それが意識のなかへとあふれ出るのです。私たちはいつも火山の上に暮らしていて、つねに危険にさらされています。マインドの平和な人びととの交わりが、たいへんマインドを落ち着かせる効果があることは私も認めます。しかし、彼らから離れたとたん、古い問題がまたはじまるのです。私がグルとともに在ることを求めてインドを定期的に訪れるのも、この理由からなのです。


マハラジ あなたは来ては去り、また多様な気分や状態を通り抜けていくと考えている。私はものごとをあるがままに見ている。つかの間の出来事が急速な連続性のなかで私に呈示されていく。それらは私からその存在を引き出していながら、しかも確実に、私でも私のものでもないのだ。私は数ある現象のなかのひとつではなく、いかなる支配も受けない。私はまったく純粋に、完全に独立しているため、あなたの対立と否定になれ親しんだマインドで理解することはできないのだ。私には文字通り、何の対立も否定も必要ない。なぜなら、私が何かに反対や否定をすることができないのは明白なことだからだ。私はただ彼方の、まったく異なった次元のなかに在る。私と同一化する、あるいは対抗する何かを見つけだそうとしてはならない。私は欲望も恐れもないところにいるのだ。さて、あなたの体験はどうだろうか? あなたもまた、はかないものごとすべてから超然と離れて在るように感じているだろうか?


質問者 はい。ときどきはそう感じます。しかし、ひとたび危険を感じると、私は他者との全関係性の外に孤立してしまうのです。わかりますか? ここに私たちの精神状態の違いがあるのです。ヒンドゥー教徒は感情が思考にしたがいます。ヒンドゥー教徒にひとつの考えを与えると、彼の感情は湧きあがってくるのです。西洋人の場合は反対です。彼に感情を与えると、彼はひとつの観念を生みだすのです。あなたがたの観念は、私にとって知的には非常に魅力的なのですが、感情的には感応しないのです。


マハラジ あなたの知性を脇にのけておきなさい。これらのことがらに知性を用いてはならないのだ。


質問者 私に実行することのできないアドバイスが、何の役に立つというのでしょうか? それらはみな観念なのです。あなたは観念に対して感情で応えるよう求めているのです。なぜなら、感情なしに行為はありえないからです。


マハラジ どうして行為について話すのかね? あなたが行為をしているというのだろうか? ある未知なる力が行為をし、あなたはあなたが行為をしていると想像するのだ。いかなる形であっても、影響を与えることのできないまま、あなたは単に起こることを見ているだけなのだ。


質問者 どうして私には何もできないということを受け入れるのに、これほど途方もない抵抗が私のなかにあるのでしょう?


マハラジ だが、あなたに何ができるというのかね? あなたは手術を行う外科医の手にかかり、麻酔薬の影響下にある患者と同じだ。目覚めたとき、あなたは手術が終わったことを知るのだ。それでもあなたが何かをしたと言えるだろうか?


質問者 しかし、手術を受けることを選択したのは私なのです。


マハラジ もちろんそうではない。あなたに決定をさせたのは、一方ではあなたの病気であり、もう一方では医師と家族からの強要なのだ。あなたに選択はない。ただ選択権があるという幻想だけだ。


質問者 それでもなお、私はあなたが言われるほど無力ではないと感じています。私は考えることすべてを実行することができると感じています。ただ、どうすればよいのか知らないだけなのです。私が力を欠いているのではありません。知識がないのです。


マハラジ 明らかに、知らないということは力がないのと同じだけ悪いという意味だ! だが、しばらくこの問題は置いておこう。結局、さし当たり私たちが無力だということをはっきり知っているかぎり、なぜ無力に感じるかはそれほど重要ではないのだ。
現在、私は七十四歳だ。それにもかかわらず、私は子供のように感じる。通り抜けてきたあらゆる変化にもかかわらず、私は子供であるとはっきり感じるのだ。グルは私に言ったものだ。「今でさえあなたであるその子供が、あなたの本来の自己なのだ」と。「私は在る」が、まだ「これが私だ」「あれが私だ」に汚される前の純粋な状態に戻りなさい。偽りの自己同一化があなたの重荷なのだ。それらをすべて落としなさい。グルは私に言った。「私を信頼しなさい。あなたに言おう。あなたは神聖なのだ。それを絶対の真実として受け取りなさい。あなたの喜びは神聖だ。あなたの苦しみもまた神聖だ。すべては神からやって来るのだ。それをいつも憶えていなさい。あなたは神だ。あなたの思いのみが為されるのだ」。私は彼を信じ、すぐに彼の言葉が的確であり、驚くほど真実だということを悟ったのだ。私は、「私は神だ。私は素晴らしい。私は超越している」と考えることでマインドに条件づけをしたわけではない。ただ「私は在る」という純粋な存在にマインドの焦点を合わせ、そのなかにとどまるという彼の教えにしたがっただけなのだ。私は、「私は在る」以外何もマインドのなかに置かず、何時間も坐ったものだった。そしてすぐに平安と喜びすべてを深く抱擁する愛が私の正常な状態となった。そのなかにすべては消え去っていった──私自身、私のグル、私の生きた人生、そして私の周辺の世界が。ただ、平和と計り知れない沈黙だけを残して。


質問者 それは一見、たやすく単純に見えます。しかしそうではありません。ときどき素晴らしい、喜びにあふれた平安が私の上に降り立ちます。そして私はそれを見て思うのです。「なんとたやすくそれはやってきて、なんと親密なのだろう。なんと完全に私自身のものなのだろうか。こんなに間近に在る状態のために、こんなにも努力する必要がどこにあったのだろう? 今回こそ、間違いなくそれはとどまるだろう。それにもかかわらず、なんと早くそれは消え去り、驚きのなかに私を取り残したのか──あれは実在の一瞥だったのだろうか、それとも何か異常な状態だったのだろうか? もしそれが実在ならば、どうして去ったのだろう? おそらく私を新たな状態に確立するために、何か特別な体験が必要だったのかもしれない。そして、決定的な経験が起こるまでは、このかくれんぼのゲームは続かなければならないのだ」と。


マハラジ ある特別で劇的な、何か素晴らしい爆発が起こることへの期待は、ただ単にあなたの真我の実現を妨害し、遅れさせるだけだ。爆発を期待すべきではない。なぜなら、あなたの誕生の瞬間、あなた自身を在ること─知ること─感じることとして自覚したときに、爆発はすでに起こったからだ。たったひとつ、あなたには誤りがある。あなたは内面を外面に見て取り、外面を内面として見ているのだ。あなたの内側にあるものをあなたの外側にあると見なし、外側にあるものをあなたの内側にあると見なしているのだ。マインドと感情は外側にあるのだ。だが、あなたはそれらを最も内部にあると見なしている。あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ。これが混乱の根本であり、新たな爆発がその混乱を正すわけではない。あなた自身で考え抜かなければならないのだ。ほかに道はない。


質問者 思考が好き勝手に去来していくなかで、どのようにして考えぬけというのでしょうか? この果てしないおしゃべりが私をかき乱し、疲れ果てさせるのです。


マハラジ 通りの往来を見るように、あなたの思考を見守りなさい。人々は来ては去っていき、あなたはそれに反応することなく印象をとどめていく。はじめのうちは楽ではないかもしれないが、いくらかの修練で、マインドがいくつもの層で機能し、あなたはそれらすべてに気づくことができると知るだろう。ただ、あなたがある特定の層で、あることに関心を持つとき、それに注意を捕らわれて他の層が忘却されるのだ。そのときでさえ、意識界の外側では忘却された層への働きかけが続いている。あなたの記憶や思考と闘ってはならない。「私は誰か?」「どのようにして私は誕生したのか?」「私を取り巻くこの宇宙はどこからやってきたのか?」「何が実在であり、何が一時的なものなのか?」といった、より重要な質問をあなたの注意の領域に取り入れなさい。
もしあなたが興味を失えばいかなる記憶も持続はしない。束縛を永続させるのは感情的なつながりなのだ。あなたはつねに快楽を求め、苦痛を避けている。いつも幸福と平和を追い続けているのだ。あなたの幸福への探求自体が、あなたを惨めに感じさせているのがわからないだろうか? ほかの方法を試してみなさい。苦痛と快楽に無関心でありなさい。求めず、拒まず、永遠に存在する「私は在る」のレベルに、あなたのすべての注意を払いなさい。すぐにあなたは平和と幸福があなたの本性そのものであることを悟るだろう。何か特定の経路を通してそれを探しだそうとすることがあなたをかき乱すのだ。障害を避けなさい。ただそれだけだ。探す必要はないのだ。すでにもっているものを探すことはない。
あなた自身が神、至高の実在なのだ。まず私を信頼しなさい。師を信頼することだ。それがあなたに第一歩を踏ませる。そうすれば、自らの体験によってあなたの信頼が正しかったことを認めるだろう。人生を歩んでいくには最初の信頼は欠かせないものなのだ。それなしでは何もできない。いかなる仕事も信頼の行為だ。日々の食事さえ、あなたは信頼をもとに食べている。
私の言うことを覚えていることで、あなたはすべてを達成するだろう。今一度あなたに言おう。あなたはすべてに遍在し、すべてを超越する実在なのだ。それにしたがってふるまいなさい。全体との調和のなかで考え、感じ、行為しなさい。そうすれば、私が言ったことの実際の体験はすぐにあなたに現れるだろう。努力は必要ない。信頼をもってそのとおりに行動しなさい。
どうかわかってほしい。私はあなたから何も欲してはいないのだ。私が話すのは、あなた自身のためなのだ。なぜなら、あなたは何よりもあなた自身を愛しているからだ。あなたは自分が安全で幸福でありたい。それを恥ずかしがることはない。それを否定することはない。それは自然なことで、自分自身を愛することは良いことだ。ただ、正確にあなたが何を愛しているのかを知るべきだ。あなたの愛しているのは身体ではない。それは生命──知覚し、感じ、考え、行為し、愛し、努力し、創造する生命なのだ。あなたが愛しているのはあなた自身であり、すべてである生命なのだ。それをその全体性において認識しなさい。すべての区別と限界を超えて。そうすれば、あなたのすべての欲望はそのなかに解け去るだろう。なぜなら、大いなるものは小さなものを包含するからだ。それゆえ、あなた自身を見いだしなさい。なぜなら、それを見いだすことであなたはすべてを見いだすからだ。
誰でも存在することが嬉しい。だが、その完全な意味を知るものはいない。「私は在る」「私は知る」「私は愛する」という言葉の意味の核心を知ろうとする意志とともに、それらに心をとどめることによって、あなたは知るようになるのだ。


質問者 「私は神である」と考えることはできるでしょうか?


マハラジ 自分自身を観念と同一化してはならない。もし神が未知なるものという意味ならば、あなたは単に、「私は私が何であるか知らない」と言うだけだろう。もしあなたがあなた自身を知るように神を知っているならば、言う必要もない。もっとも正しいのは「私は在る」という純粋な感覚だ。忍耐強くそのなかにとどまりなさい。ここにおいては忍耐が智慧なのだ。失敗を思ってはならない。この仕事に失敗はありえないのだ。


質問者 私の思考がそうさせないでしょう。


マハラジ 放っておきなさい。闘ってはいけない。それについて何もしないことだ。それが何であれ、あるがままにしておきなさい。抗うこと自体がそれに生命を与えるのだ。ただ無視しなさい。見過ごすのだ。「何であれ、私が在るゆえに起こるのだ」ということを思い出すことを覚えていなさい。すべてはあなたが在るということを思い起こさせる。体験するにはあなたがいなければならないということを充分利用するがいい。関心をもたないことが自由をもたらすのだ。しがみつかないこと、それだけだ。世界は無数の輪(リング)でできている。それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。あなたの鉤をまっすぐにしなさい。そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。あなたの耽溺を放棄しなさい。ほかに何も放棄するものはない。常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。そうすれば自由の世界はあなたのものだ。努力せずに在りなさい。


質問者 人生は努力です。そこにはするべき多くのことがあるのです。


マハラジ する必要があることはしなさい。抵抗してはならない。あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬間から瞬間へと活動的でなければならない。成長することに反抗する子供のようであってはならない。型にはまった身振りや態度は助けにならないだろう。完全にあなたの思考の明晰性、動機の純粋さ、行為の高潔さのみを頼りにしなさい。あなたが道を誤ることは、けっしてありえない。超えていきなさい。そしてすべてを置き去りにしなさい。


質問者 しかし、永遠に残されるような何かがありうるのでしょうか?


マハラジ あなたは二十四時間休みなしのエクスタシーのような何かが欲しいのだ。エクスタシーは来ては去っていく。人間の脳は、必然的に長期の緊張に耐えられないからだ。長引くエクスタシーは、非常に純粋で微妙なものでないかぎり、脳を焼き切ってしまうだろう。自然のなかでは何ひとつ停止しているものはない。あらゆるものが脈打ち、現れては消えていく。心臓、呼吸、消化。睡眠と目覚め──誕生、そして死、すべては波のように来ては去っていく。循環反復運動、周期性、両極の調和のとれた交替が法則なのだ。生命のパターンに対抗しても無益なだけだ。
もしあなたが不変なるものを求めるならば、体験を超えていきなさい。私が「私は在る」をつねに覚えていなさいと言うとき、それは「繰り返しそれに戻ってきなさい」という意味なのだ。いかなる特定の思考もマインドの自然な状態ではない。ただ、沈黙だけが自然な状態だ。沈黙という概念ではなく、沈黙そのものだ。マインドが自然な状態にあるとき、すべての体験の後に、自発的にそれは沈黙へと立ち返る。あるいはむしろ、沈黙の背景に反してすべての体験が起こるのだ。
さあ、あなたがここで学んだことが種子となる。表面上は、あなたは忘れてしまうかもしれない。しかし、それは生き、芽吹きの季節は訪れ、生長し、花を咲かせ、実を結ぶだろう。すべてはひとりでに起こるだろう。あなたは何もしなくてもいいのだ。ただ、それを妨げてはならない。


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HN:
Fiora & nobody