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マハルシ 立ち現れた「私」も、いずれは沈みゆきます。それが個人の「私」、あるいは「私」という観念です。





立ち現れたことのないものは、沈みゆくこともありません。





それはただ存在しています。そして永遠に存在し続けるのです。それが普遍かつ完全な「私」真我実現です。


午後五時半、スイス人女性がシュリー・バガヴァーンに、「瞑想が長く続くと頭痛になる」という不平を訴えた。


マハルシ もし瞑想者と瞑想が同じであることを理解すれば、頭痛も、このような不平もなくなるでしょう。

(対話311)


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いつのときにも、あなたは選んできたのだ。いつでもあなたには選ぶ意志があるのである。あなたのために選んでくれる者など誰もいない。


人間は魂が邪悪なわけではない。人間は悪の保護のもとで生きてはいるが、より偉大な理解の中では悪というものはない。自分の好きなものを何でも思考から創造するという選択肢を人間に与えている、生命という基盤だけがあるのだ。それだけが、存在するただひとつの現実である。この現実の中で、神は、迷信や教義上の信念を通して、そして閉塞的できわめて制限された人類の態度を通して、悪という幻が創り出されることも許しているのだ。そして、長い間ずっと、悪というものに注目し、悪に審判を下し、悪が存在することを期待し続けてきたことによって、悪は実際に人の現実の中に存在している。


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質問者 どの面から見ても、欲望とその傾向からの自由が真我実現の第一条件だというお話ですが、この条件を満たすのは不可能に見えます。自己の無知は欲望を起こし、欲望が無知を永続させます。本当に悪循環です!


マハラジ 満たさなければならない条件などない。するべきこともなければ、あきらめることもない。ただ見て、そして覚えておきなさい。何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのものでもないのだ。それは意識の領域内に在る。だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知る者でさえない。何かをしなければならないという観念が、努力の結果のなかへとあなたを巻きこむのだ。動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これらすべてがあなたを引き止める。何が起ころうと、ただ見守りなさい。そしてあなたはそれを超えて在る、ということを知りなさい。


質問者 それはつまり、私が何かすることを慎むべきだということでしょうか?


マハラジ それはあなたにはできない! 何であれ起こっていることは、続いていかなければならない。もし突然あなたが止まったら、衝突してしまうだろう。


質問者 それは知られるものと知る者がひとつになるという問題でしょうか?


マハラジ どちらもマインドのなかの観念であり、それらを表現する言葉だ。それらのなかに真我はない。真我はその合間にも、その彼方にもない。精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。探求をやめなさい。そして見なさい。それは今ここに在る。あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。あなたがすべきことは、自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことをやめることだけだ。この問題についてあなたが熟考しないかぎり、私から一度聞いただけではだめだろう。過去の体験や達成を忘れ、人生の雨風に裸でさらされて立つがいい。そうすれば、あなたにもチャンスはあるだろう。


質問者 あなたの教えのなかに献身(バクティ)はありますか?


マハラジ 体がすぐれないとき、あなたは病名と治療法を告げてくれる医者のもとへ行くだろう。もしあなたが医者に信頼を置いているならば、順調にいく。薬を受け取り、食事制限にしたがって良くなることだろう。だが、あなたが彼を信頼しないときは、それでもやってみるかもしれない、あるいは自分で医学の勉強をするかもしれない! どちらにしても、回復への欲望があなたを突き動かすのだ。医師ではない。
信頼なしに平和はない。つねに誰かしらにあなたは信頼を置く。母親か妻かもしれないが。あらゆる人のなかで、真我を悟った人がもっとも信頼に足る人だ。だが、ただの信頼では充分ではない。あなたは強く望まなければならない。自由への欲望なくして、自由を獲得できるという確信が何の役に立つというのか? 欲望と確信はともに手と手を取り合って行かねばならない。欲望が強いほど、助けは難なくやってくる。最も偉大なグルも、弟子が学ぶことに熱心でなければ、まったく無力となる。熱心さと真剣さが重要なことのすべてだ。自信は体験とともにやってくるだろう。あなたが目的に対して献身的であれば、あなたを導く人への献身もそれにしたがってくるだろう。もし欲望と自信が強ければ、それらが作用し、あなたをゴールへ導くだろう。なぜなら、ためらいや妥協による先送りをしないからだ。
あなたの内なる真我が最も偉大なグルだ。本当に、彼が至高の師なのだ。彼だけがあなたを導くことができる。道の終わりにあなたが出会うのも彼だけだ。彼を信頼しなさい。そうすれば外側のグルは必要ない。しかしまた、彼を見いだすための強い欲望をもたねばならず、障害や遅れをつくり出すことを何もしてはならない。そして、後悔することにエネルギーと時間を浪費してはならない。過ちから学び、それらを繰り返してはならない。


質問者 個人的な質問をしてもかまわないでしょうか?


マハラジ どうぞ、続けなさい。


質問者 あなたはレイヨウの皮の上に座っていますが、それが非暴力と一致するのでしょうか?


マハラジ 私は人びとの健康を害する手助けをするタバコ職人としていままで働いてきた。その上、市の自治体は、私の家の前に公共のトイレを設けて、私の健康を害している。この暴力的な世界でなんらかの類の暴力をどうやって避けることができようか?


質問者 もちろん、避けられる暴力はすべて避けるべきです。それでも、インドではすべての聖者が虎やライオンやヒョウやレイヨウといった皮の上に座っています。


マハラジ 昔はビニールがなく、皮が湿気を防ぐのに最適だったのだろう。関節炎は聖者にとってもやっかいなものだ。このように、長時間の瞑想には皮が用いられたのだ。ヨーギのレイヨウの皮は、寺院の太鼓の皮のようなものなのだ。私たちは気にかけることもない。


質問者 しかし、動物は殺されなければなりません。


マハラジ ヨーギが自分のために虎を殺したことなど聞いたこともない。殺す者はヨーギではなく、ヨーギは殺す者ではない。


質問者 皮の上に座ることを拒否することで、あなたの不賛成を表現すべきではないでしょうか?


マハラジ 何という考えだ! 私は世界全体を認めていないのに、なぜ皮だけ認めるのか?


質問者 宇宙の何が間違いだというのでしょうか?


マハラジ 真我を忘れることは最大の損害だ。すべての災いはそこからやってくる。最も重要なことの面倒を見なさい。それ以下のことはそれ自体が世話をするだろう。あなたは暗い部屋を片づけたりはしない。まず、窓を開ける。光をもたらすことがすべてを容易にするのだ。自分をあるがままに見ることで自分自身が変わるまでは、他者を改善することは待とうではないか。かぎりない質問で堂々巡りをする必要はない。あなた自身を見つけなさい。そうすれば、すべては正しい場所に落ち着くだろう。


質問者 源へ帰り着こうとする衝動はたいへんまれなことです。それは一体全体、自然なことなのでしょうか?


マハラジ はじめのうちは外向性が自然だが、最後には内向性が自然となる。しかし、息を吸うことと吐くことがひとつであるように、実在においてそれらはひとつなのだ。


質問者 同じように、身体と身体に宿るものもひとつではないでしょうか?


マハラジ 時間と空間のなかの出来事、誕生と死、原因と結果──これらはひとつであると見なされるだろう。だが、身体と身体に宿るものは同じ実在の理法上にはないのだ。身体は時間と空間のなかに存在する。はかなく、かぎりあるものだ。一方、身体に宿るものは時間と空間を超え、永遠で、普遍のものだ。この二つを同一視することは悲惨な過ちであり、果てしない苦しみの原因だ。マインドと身体がひとつだと言うことはできる。だが、「身体─精神」は実在の基礎をなすものではないのだ。


質問者 それが誰であろうとも、宿るものが身体をコントロールし、それゆえ責任があります。


マハラジ 普遍的力がコントロールをし、責任をもっているのだ。


質問者 では、私は何でも好きなことをして、普遍的な力に非難を浴びせればいいということですか? なんと楽なことでしょう!


マハラジ そうだ。とても楽なのだ。すべての動きを司るものの存在を悟り、彼にすべてをまかせなさい。もしあなたがためらわず、ごまかすこともなければ、これが真我の実現への最短の道だ。欲望と恐れなしに、すべてのコントロールと責任を放棄しなさい。


質問者 何という狂気の沙汰でしょう!


マハラジ そうだ。神聖な狂気だ。ただの幻想である個人的コントロールと、個人的責任を放棄することの何が悪いのだろうか? どちらもマインドのなかにあるだけだ。もちろん、あなたがコントロールを握っていると想像するかぎりは、あなたに責任があると想像するべきだ。その逆もまたしかりだ。


質問者 普遍なるものが、どうして特定のものの責任をもてるのでしょうか?


マハラジ 地上のすべての生命は太陽に依存している。それが究極の原因だとしても、地上で起こることのすべてに関して太陽を非難することはできない。花の色を現す原因は光にあるが、それはコントロールするわけでも、直接責任があるわけでもない。光はそれを可能にする、ただそれだけだ。


質問者 私が嫌なのは、何か普遍的な力のなかに避難してしまうことです。


マハラジ 事実に抗うことはできない。


質問者 誰の事実でしょう? あなたの事実でしょうか、私の事実でしょうか?


マハラジ あなたの事実だ。あなたに私の事実を否定することはできない。あなたはそれを知らないのだ。あなたが知っているなら、否定はしないだろう。問題はここにある。あなたは自分の想像を事実と見なし、私の事実を想像と見なしているのだ。私はすべてがひとつだと知っている。相違が分離をもたらすことはないのだ。あなたには何の責任もないか、あるいはすべての責任があるか、どちらかだ。あなたがコントロールをしていると想像しながら、ひとつの身体のみの責任を取ろうというのは「身体─精神」の逸脱だ。


質問者 それでも、あなたは自分の身体に限定されています。


マハラジ この身体に関係する物質のなかでだけだ。私はそれでかまわない。季節を耐え忍ぶようなものだ。それらは来ては去っていき、私は影響されない。同じように、「身体─精神」も来ては去っていく。生命は永遠に新しい表現を探しているのだ。


質問者 あなたが悪のすべての重荷を神の背に担がせないかぎり、私は満足です。神は存在するのかもしれません。しかし私にとって、神は人間のマインドによって投影されたひとつの理念です。あなたにとって神は実在かもしれません。でも、私にとっては社会のほうが神よりも本物です。なぜなら、私がその創造者であり囚人でもあるからです。あなたの価値基準は智慧と慈悲です。社会の価値基準は賢い利己主義です。私はあなたと全く異なった世界に住んでいるのです。


マハラジ 誰も強要してはいない。


質問者 誰もあなたに強要してはいません。しかし、私は強要されているのです。私の世界は邪悪な世界で、涙と苦労と苦痛にあふれています。知的な解釈で弁明し、進化とカルマの理論を押しつけることは、ただ傷ついた者に屈辱を加えるようなものです。邪悪な世界の神は残酷な神です。


マハラジ あなたがあなたの世界の神であり、愚かで残酷なのはあなたなのだ。神が概念であると言うならば、そう言うがいい。それはあなた自身の創造物なのだ。あなたが誰なのかを見いだしなさい。あなたがどのように生き、邪悪な世界で真実と善と美を熱望するようになったのかを見いだしなさい。誰が神なのか、あなたが何を話しているのかをわかってもいないとき、神に対してのあなたの論議が何の役に立つというのだろう? 恐れと期待から生まれ、欲望と想像から形づくられた神が、宇宙のマインドとハートである力のはずがない。


質問者 私の住む世界と私が信じる神は、ともに想像の産物だということに賛成します。しかし、神と世界はどのようにして欲望からつくり出されたのでしょうか? なぜ私は世界をこんなにも痛みに満ちたもの、また神を無関心なものとして想像するのでしょうか? なぜ私はこんなにも残酷に自分を苦しめなければならないのでしょうか? 悟った人が来て、私に「それはただの夢だ」と言ったとしても、彼自身が夢の一部分なのではないでしょうか? 私は罠にはまって、出口が見つけられません。あなたは自由だと言います。あなたは何から自由なのですか? どうか、お願いです。言葉で答えないで下さい。悟りを与えて下さい。目覚めるのを手伝って下さい。私が眠りのなかでのたうちまわり、苦しんでいるのを見ているのは、あなたなのですから。


マハラジ 私は自由だ、と言うとき、私はただ事実を告げているだけなのだ。もしあなたが大人なら、あなたは幼児であることから自由だ。私はすべての描写と自己同一から自由なのだ。何であれあなたが見、聞き、考えるもの、それは私ではない。私は知覚の対象、あるいは観念としての存在から自由なのだ。


質問者 それでも、あなたは身体をもち、それに依存しています。


マハラジ あなたは自分の見解が唯一正しいと思いこんでいる。繰り返そう。私は今までも、現在も、これからも身体ではない。私にとってはこれが事実なのだ。私もまた、生まれてきたという幻想のもとにいた。だが私のグルが、誕生と死はただの観念だということを私に見せてくれたのだ。誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、死は「私は身体を失った」という観念なのだ。今、私が身体ではないと知ったとき、身体がそこにあろうと、なかろうと、いったいどんな違いがあるというのだろうか? 「身体─精神」は部屋のようなものだ。それはそこにある。しかし、いつもそこに住む必要はないのだ。


質問者 それでも身体はそこにあり、あなたはその面倒を見なければならないでしょう。


マハラジ 身体を創造した力がその面倒を見ている。


質問者 私たちはひとつのレベルから別のレベルへといつも飛びまわっていますよ。


マハラジ 考慮に入れるべき二つのレベルがある。事実である身体。観念である精神だ。私はその両方を超えている。あなたの事実も観念も、私のものではない。私はその彼方を見ているのだ。境界を超えて私の側へ来なさい。そして一緒に見てみなさい。


質問者 私の言いたいことは単純なことです。「私は身体だ」と信じるかぎり、「神が私の身体の面倒を見る」とは言えません。神はそうしないでしょう。神はそれを飢えと病によって死なせるでしょう。


マハラジ ただの身体から、それ以外の何をあなたは求めるというのだろう? なぜそんなにあなたは不安なのだろうか? なぜなら、あなたは自分が身体だと考えているからだ。あなたはそれが不滅であってほしい。適切な修練によって、かなりの期間人生を延ばすことはできる。だが、究極的にそれが何になるというのか?


質問者 健康で長生きをするほうがましです。それは幼児期と青年時代の過ちと、成人期の挫折と、老年時代の愚行や惨めさを避けるチャンスを与えてくれます。


マハラジ よろしい。では長生きするがいい。だが、あなたは支配者ではない。あなたに誕生と死の日を決められるかね? 私たちは同じ言語で話をしてはいない。あなたの話は信じこみの、仮定と推測に依存したものだ。あなたは不確かなことを、確信をもって話しているのだ。


質問者 だから、私はここにいるのです。


マハラジ あなたはここにいない。私はここにいる。入ってきなさい! しかし、あなたはそうしようとしない。あなたは私にあなたの人生を生き、あなたの在り方を感じ、あなたの言語を使ってほしい。それは私にはできないのだ。そして、あなたの助けにもならないだろう。あなたが私のもとに来なければならない。言葉はマインドのものであり、マインドは覆い隠し、歪めてしまう。それゆえ、言葉を超えて私のもとへ来ることが絶対に必要となるのだ。


質問者 私を連れていってください。


マハラジ 私はそうしている。だが、あなたが拒んでいるのだ。あなたは観念に実在性を与えている。だが、観念は実在を歪曲したものなのだ。すべての観念化を放棄しなさい。沈黙し、醒めていなさい。それに対して誠実でありなさい。そうすればすべてはうまくいくだろう。


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