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次の二つに一つを選ばなければなりません。
あなた方は混乱に満ちた世界のなかで、一本の道の上を目隠しされてあちこちぶつかりながら歩いているのか、またはあなたと”神なるもの”とがいっしょになって、神に目覚めた自分の部分と再融合するために、その時々にふさわしい人生の選択を行っているのか、そのどちらかです。


いままであなたがしたことのすべては、神との共謀のもとでなされたのである、ということをどうか理解してください。私はこの「共謀」という言葉を、意図的に使っているのです。「共に創造する」という言葉を使うと、あなたは物事の明るい面のことをすぐに考えます。けれども「共謀」と言うと、タバコの煙がもうもうとする薄暗い部屋のなかで、悪事を企んでいる自分たちを想像します。「神との共謀」というのは、あなたがかつてしたこと、言ったこと、考えたことのすべては、そのエネルギーの一部に、あなたが神と呼ぶもの、”神なる一”を含んでいたという意味です。


神とあなたとが、あなたの人生やあなたの世界をいっしょに創り上げたのだとしたら、どうして罪の意識など持てるでしょうか。


「すべては一つだ」ということを認めないで、物事を善悪に分けているときのあなたは、真実をねじまげて、何らかの罪の意識にしがみつき、何かがまちがっていると思い込もうとしているのです。


「父なる神と私は一体であり、私がいままでしたことはすべて、この不思議な”パワー”との共謀でなされたのである」ということの真実性を、深く感じることができるようになると、あなたのなかやまわりであらゆることが変化していきます。


自責の念から解放された状態を味わってみてください。あなた方は罪の意識を感じなくなるのを怖れていますね。罪の意識を理解する必要はないのです。罪の意識を捨てることを学べばいいのです。そしてそうするには、「自分一人の力では何もできない。神が私といっしょにいてくださるのだ」ということを忘れないことです。


責任を充分に感じてほしいことが一つだけあります。生きることに対して、パワーと光と伸びやかさと美しさで応える、そういう自分の部分に関心を払うことです。あなたが怖れや罪の意識を感じているとしたら、何かがおかしいのです。そうしたときにあなたが耳を傾けているものは、神と共同で創造したり、共謀したりする部分ではないということです。



意識は、すべての存在、すべてのものが発するすべての思考から成りたっている。意識をつくり上げているさまざまな思考は、それぞれが異なる電気的な振動数を持っている。


社会意識は、電気的な振動数の思考からなる濃密なものだが、それでも空気よりは軽い。社会意識の濃密さをつくり上げているのは、表現された思考、すなわちあらゆる存在がこれまでに感情を通して表現してきた思考である。つまり社会意識は、「すでに実感された思考」からできているのだ。


それらの思考は、きわめて制限が多く、何にでも価値判断を下したがるとても厳しいものである。それは、あなた方の人生が、生存に関する態度によって、さらに化身の死であれ、自我の死であれ、死への恐れに関する態度によって、支配されているからだ。そのため、あなた方の意識は、食べ物や住居や仕事、そして黄金についての思考で占められている。また、正しい─正しくない、よい─悪い、といった価値判断、流行や美、他人に受容されること、他人との比較、年齢、病気、そして死についての思考で占められている。これらの低い振動数の思考は、あなたのまわりにいる人々の思考の中で支配的なものであり、その結果、あなたのオーラ・フィールドの中にいとも簡単に入ってくる。それゆえあなたは、きわめて制限の多い澱んだ意識からの限られた思考によって、つねに養われているのである。そして、このような思考が自分を養うのを許しているとき、あなたはそれらの思考が生むフィーリングを外に発し、人間の制限された思考を再生産し、永続させているのだ。


あなた方の大都市の意識はとくに制限されている。というのも、そこに生きる者のほとんどが、きわめて競争的で、時間志向、流行志向が強く、他人をとても恐れ、互いを受容することができないからだ。そのため、すべての大都市は濃密な意識でおおわれている。ほかの宇宙からここにやって来た者たちがそれらの都市を見下ろしたときに見るのは、さまざまな色の光でできた濃密な網目状のものである。


そういった思考よりも振動数の高い「超意識」の思考とは、「在ること」、存在、生命、調和、ひとつであること、絶え間ない継続性などの思考だ。


より振動数の高いそれらの思考は、人間の澱んだ思考から離れた自然の意識の中のほうが体験しやすい。そこでは、生命は単純であり、時間を超えて絶え間なく続き、それ自身と完全に調和しているからだ。


思考があなたの存在のスピリット、すなわち体のまわりにある光にぶつかると、その瞬間に思考は光となって炸裂する。つまり、思考が光にぶつかると、思考は自ら発光するのだ。光は思考という根本物質のレベルを下げるわけだが、それによって、光は自分と似たものを引き寄せるのだ。思考そのものは目に見えないが、思考が光に遭遇したとき、光の炸裂として見えるようになる。


あなたが何かに気づくとき、あなたはその思考を受け取っているのである。あなたがその思考を受け取っているとき、その思考の光があなたの脳によって受信されているのだ。


あなたの脳は、思考の電気的な振動数を受け取る偉大な受信機であり、その各部分は、それぞれ異なる振動数を持つ思考を受信し、宿らせ、増幅するようにつくられている。それぞれの部分は、その細胞壁の内側にある水の比率に応じて、異なる思考を宿らせ、それらを電流に変換する能力を持っている。


多くの人々が信じていることとは裏腹に、あなたの脳が思考を創り出しているわけではない。


あなた方のテクノロジーの中に、ラジオと呼ばれるものがあるが、ラジオには音量を決める調節器、そして受信する電波のメガヘルツ、つまり周波数を決める調節器がついている。それと同じように、脳も調節器を持った受信機であり、ある特定の振動数が受信されるためには、その振動数を宿らせるようにつくられた部分が活動状態になっていなければならない。


さまざまな振動数の思考を受信する脳の能力は、右脳と左脳の間にある脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によって制御されている。


それは単純な科学だ。憶えておいてほしい。思考はただ在る。それから、光が見える。次に、光が下げられて電気的な信号となる。電気的な信号はさらに下げられ、下げられ、下げられて物質となる。


同じ真実が体の中でもはたらく。それは、思考、光、受信装置であり、受信装置である脳からのエレクトラムが、物質である体に送られ、体がフィーリングを通して理解できるようにするのだ。



マハラジ 世界を知覚する者は、世界以前に存在するのだろうか、あるいは、彼は世界とともに存在を現すのだろうか?


質問者 何と奇妙な質問でしょうか?なぜあなたはそんな質問をされるのですか?


マハラジ あなたがその正しい解答を知らないかぎり、平和を見いだすことはできないからだ。


質問者 私が朝目覚めるとき、世界はすでにそこにあって私を待っています。もちろん、世界が先に存在のなかに現れ、私はずっと後になって、もっとも早くて私が誕生したときに現れます。世界と私の間では、身体が媒介となります。身体なしでは私も世界も存在しないでしょう。


マハラジ 身体はあなたのマインドのなかに現れ、マインドはあなたの意識の内容なのだ。あなたはあなたを変えることなしに永遠に変化しつづける意識の流れの不動の観照者だ。あなたの不変性があまりにも明白なため、それに気づかないだけだ。あなた自身をよく見てみなさい。そうすれば、それらすべての誤解や誤った観念は溶け去るだろう。魚が水のなかに生き、水なしでは生きられないように、全宇宙もあなたのなかに在り、あなたなしでは在りえないのだ。


質問者 それは私たちが神と呼ぶものです。


マハラジ 神はあなたのマインドのなかの概念にすぎない。あなたは事実だ。あなたが知っているたったひとつ確かなことは、「ここに今、私は在る」ということだ。「ここと今」を取り除きなさい。「私は在る」が確固として残る。世界は記憶のなかに存在する。記憶は意識のなかに現れる。意識は気づきのなかに存在し、気づきは存在の水面上の光の反映なのだ。


質問者 それでも、まだ私にとってはその反対の、「私は世界のなかに在る」ということがあまりにも明白であり、どうして世界が私のなかにあるのか理解できません。


マハラジ 「私は世界であり、世界は私だ」と言うことさえ無知のしるしだ。しかし、人生において、世界との自己同一化を確信するとき、無知を破壊し、完全に焼き尽くそうとする力が湧き上がってくるのだ。


質問者 無知の観照者は、無知から分離しているのでしょうか?「私は無知だ」ということは無知の一部分ではないでしょうか?


マハラジ もちろん。私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。しかし、推測が習慣になってしまったのだ。考えることと見ることといったあらゆる習慣を打ち破りなさい。「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。それを自己、神、実在、あるいはほかの名で呼んでもいい。「私は在る」は世界のなかにある。しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。水面に踊る月は、水のなかに見られる。だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。


質問者 それでも、まだ私は要点を逃しているようです。私がそのなかで生き、動き、存在する世界が私自身の創造、私自身の投影、私の想像だということは認めます。未知の世界、あるがままの世界、「絶対的物質」の世界、その物質が何であれ。映画のスクリーンが、その上に投影された画像とはまったく似ていないように、私自身が創造した世界は究極の、実在の世界とはまったく似ていないものかもしれません。それにもかかわらず、絶対の世界は私にまったく依存せず存在しているのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。あなたのマインドがその上に相対的な非実在の世界を投影してきた絶対的実在の世界は、あなたに依存していない。その単純な理由とは、それがあなた自身だからだ。


質問者 そこに言葉の矛盾はありませんか?どうして非依存性が自己同一性を証明できるのでしょうか?


マハラジ 変化の動きを調べてみなさい。そうすればわかるだろう。あなたが不動である間、変わることのできるものはあなたに依存しないと言える。だが不変なるものは、何であれそれ以外の不変であるものとひとつなのだ。なぜなら、二元性は相互作用を暗示し、相互作用は変化を意味するからだ。言い換えれば、絶対的に物質的なものと絶対的に霊的なもの、完全に客観的なものと完全に主観的なものは、実体においても本質においても等しいということだ。


質問者 三次元画像のように、光がそれ自身のスクリーンなのですね。


マハラジ どんな比較もあてはまるだろう。理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもととした、想像の世界を投影したということだ。そして、そのなかにあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。


質問者 どのようにして魔法を解けばいいのでしょうか?


マハラジ 思考と行為において、あなたの非依存性を主張しなさい。結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信するあなた自身の信念にかかっているのだ。なぜあなたの信念を疑わないのか?この世界が意識のスクリーン上に、あなたによって描かれたものだということは疑いないのだ。そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。たとえ世界のなかにあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、世界に属さないものだ。どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」に変えることはできない。あなたの存在を否定すること自体が、あなたの存在を主張している。ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない!いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたものであり、あなたはそれに束縛されないのだ。誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい。
このカーペットの色は光によってもたらされたものだが、光がその色ではないように、世界もあなたによって現れたが、あなたが世界なのではない。
世界を創造し維持するものを、あなたは神、あるいは神の摂理と呼ぶかもしれない。しかし究極的には、あなたが神の存在の証明なのだ。その反対ではない。なぜなら、神についてのどんな質問をする前にも、尋ねるあなたがそこにいなければならないからだ。


質問者 神は時間のなかでの体験です。しかし、体験者は時間を超えています。


マハラジ 体験者でさえも二次的なものだ。根源は無限なる意識の広がりだ。存在してきた、存在する、存在するだろうすべての計り知れない可能性なのだ。何であれあなたが目にするとき、それは存在の究極を見ているのだ。だが、あなたは雲や樹を見ていると想像してしまう。
想像なしに見ること、歪みなしに聞くことを学びなさい。それがすべてだ。本質的に無名無形のものに、名前や形が属すると考えることはやめなさい。あらゆる知覚の形態は主観的なものであり、見たことや聞いたこと、触れたものやにおいをかいだもの、感じたことや思ったこと、期待したことや想像したことは、すべて実在のなかではなく、マインドのなかにあるのだと悟りなさい。そうすれば、あなたは平安を体験し、恐れから自由になるだろう。
「私は在る」という感覚さえも、純粋な光と存在の感覚から成るのだ。「在る」なしでも「私」はそこに在る。同様に、純粋な光もあなたが「私」と言おうと言うまいと、そこに在るのだ。その純粋な光に気づきなさい。そうすれば、けっしてそれを失うことはない。存在のなかの存在性、意識のなかの気づき、すべての体験への関心、それは描写不可能でありながら、完全に入手可能なものだ。なぜならそれ以外には何も存在しないからだ。


質問者 あなたは実在について、すべてに遍在し、常在、永遠、全知であり、すべてにエネルギーを与える第一の要因だと直接の体験から語っています。実在についての討論をまったく拒絶するほかの師たちもいます。彼らは、実在はマインドを超え、すべての討論は非実在の巣窟であるマインドの領域にある、と言っています。彼らのアプローチは否定的なものです。非実在を正確に示すことで、それ自体を超えて実在にたどり着くのです。


マハラジ 違いは言葉の上にしかない。結局のところ、私が実在を語るとき、それは非実在ではないもの、空間も時間もなく、原因もない、無始無窮のものとして描写する。つまりは同じことなのだ。荷車が進んでいくかぎり、それを押すか引くかは問題ではない。あるときには実在に引きつけられ、別のときには偽りに対して反発を感じる。それらはただ気分が交互に入れ替わっただけだ。完全な自由に向かうためには、どちらも必要なものだ。あなたはある道を選び、あるいは別の道を選ぶ。だが、それぞれのときにそれが正しい道となる。ただ全身全霊で行きなさい。疑いやためらいに時間を費やしてはならない。多くの種類の食べ物が子供の成長にとって必要だ。だが、食べるという行為は同じだ。理論的には、すべてのアプローチが正しい。実際には、与えられた時において、あなたはひとつの道を進むだけだ。もし本当に見いだしたいならば、遅かれ早かれひとつの場所だけを掘り進まなければならないことを発見するに違いない。それが内面なのだ。
身体もマインドも、あなたが探し求めているものを与えてくれはしない。あなたの探求はあなた自身を知り、あなた自身であること。そして、それとともにやってくる大いなる平安だ。


質問者 すべてのアプローチには、かならず何らかの有益な効力があるはずです。


マハラジ どの場合にもその価値は、あなたを内面の探求の必要性へと導くことにある。さまざまなアプローチに遊び興じるのは、誰か特別な存在として在るという幻想を放棄することを恐れた、内側に入ることへの抵抗かもしれない。水を探すために小さな穴を至るところに掘ったりはしない。ただ、一カ所を深く掘りつづけるだけだ。同様に、あなた自身を見いだすためには自己を探求しなければならない。あなたが世界の光だと悟ったとき、あなたはその愛だということも悟るだろう。知ることが愛すること、愛することが知ることなのだ。
すべての愛情のなかで、自己への愛が最初に来るものだ。世界へのあなたの愛は、あなた自身へのあなたの愛の反映なのだ。世界はあなた自身の創造なのだから。光と愛は非個人的なものだ。しかし、それらはあなたのマインドのなかで、知ることと自己の幸せを想うこととして映る。私たちはいつも私たち自身に対して親しく在る。だが、いつも賢明だとは言えない。ヨーギとは智慧と善意が手を取りあっている人だ。


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