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人生に大きな悩みが生まれるのは、一番になりたい、誰よりも愛されたい、誰からも求められる人になりたい、最も知的でありたいなどと願い、それらの欲求がたえずあなたをさいなむからです。そうした欲求は、あなたに自分の本質を見失わせ、あなたを記憶喪失へと導きます。この記憶喪失の結果、あなたは自分がいかにまったくふつうであるか、そして、それがいかにすばらしいことなのかということを忘れてしまいます。


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


あなたの意識が集中するものが、あなたの現実となります。こうしてつねに自分の内面に向かうことをしないと、あなたは外側の世界のたえず変化する揺れ動きに、くり返しとらわれてしまうことでしょう。そして、自分とは目に見えるもの、つまり、肉体であり、苦しみや悲しみや老化や死をまぬがれないのだと信じつづけることでしょう。けれども、このどれも真実ではありません。肉体は確かにありますが、あなたは肉体ではないのです。あなたは肉体のなかにある意識の”光”なのです。これが真理かどうか、自分で探究してください。


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人間の苦境は、自らの起源や運命についての忘却、記憶喪失、無知という言葉で表現されます。旅人であるミラー意識(ヴォイドの熟考という行為の中で、ゼロポイントが生み出した自らの鏡としての役割を果たすもうひとつの意識の点)は、最も濃密で、最も時間が遅い存在の天界にあまりにも同化してしまったので、自分が不死であることや自分の神性を忘れ去ってしまいました。人間は本当の自分を忘れてしまい、自分の中に宿る神(それは私たち自身でもあるわけですが)のことも忘れてしまいました。私たちは自分たちの創造的な本性を忘れてしまい、自分の外に助けや意味をさがし求め、救済を得るために自分の外にいる神に祈ってきました。このようなことを行っているとき、人間は自分自身の神性を否定していることになり、現在の苦境から解放される可能性を完全に排除していることになります。


マスターよ、あなたがここにいるのは、神になるためだ。そして、神になるためには、自分の存在からあらゆる法、あらゆる教義上の信念、あらゆる儀式的な習慣を取り去り、自らの思考プロセスにおいて限りないものにならなければならない。もしあなたが限りない表現の自由を望むならば、つまりけっして死ぬことのない体と、ただ在ることの平安と喜びを望むならば、今あなたが生きている人生は完全に無限であることを知りなさい。あなたがそれを知ったとき、人生は無限になる。なぜなら、あなたが自分の存在の中で、どんなことを真実として望もうと、どんなことを真実として知ろうと、それはそのとおりになるからだ。これこそが、あなたが自分の王国の中で受け容れる必要があるただひとつの法である。


この人生やほかの人生で、あなたがこれまでに思ったことや、実際にやったことに対して、あなたが代償を支払う必要などまったくないということを知ってほしい。もちろんそれは、あなたが自分自身を許す限りは、ということだ。自分を許すということは、神聖なる行為であり、それは、あなたである神が何かを表現することを制限してしまうような罪悪感や自己審判をあなたの魂から取り去ってくれるのである。ひとたびあなたが自分自身を許してからは、この人生やこれからやってくる数々の人生は、ただ単に、あらゆるものの未来である「今」という瞬間の一部になることを体験するためにあるのだと知ってほしい。


生きなさい。そして、幸せであれ。「父」があなたに求めているのはそれだけだ。


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マハラジ あなたは床に座っても大丈夫かね? クッションは必要ないかね? 何か尋ねたいことはないだろうか? 尋ねる必要があるというわけではない。静かにしているだけでもいいのだ。在るためには、ただ在ることが重要だ。何を尋ねる必要も、する必要もない。そのような、一見怠惰な時間の過ごし方はインドでは高く評価されているのだ。つまりしばらくの間、あなたは「つぎは何か?」という考えに取りつかれることから解放されるのだ。あなたが急がず不安から自由なとき、マインドは静かになり、沈黙のなかでふだん認識するには微妙で繊細すぎるほどの何かが聞こえてくるかもしれない。マインドは見るために開いていて静かでなければならない。私たちがここで試みていることは、何が実在なのかを理解するために、マインドに正しい状態をもたらすことなのだ。


質問者 どのようにして心配を断ち切ればいいのでしょうか?


マハラジ 心配について心配する必要はない。ただ在りなさい。静かにしようとしなくてもいいのだ。「静かに在る」ということを成し遂げるべき仕事にしてはいけない。「静かに在る」ことについて落ち着きを失ってはいけない。「幸福である」ことについて惨めになってはいけない。ただ、あなたが在るということに気づいていなさい。そして気づきつづけなさい。「はい。私は気づいています。つぎは何でしょうか?」と言ってはならない。「私は在る」のなかに「つぎ」はない。それは時間を超えた状態なのだ。


質問者 それが時間を超えた状態なら、いずれにせよ、それは自らを明らかにするでしょう。


マハラジ あなたは永遠に、あなたであるものだ。だがそれを知り、それにしたがって行為しないかぎり、あなたにとって何の役に立つだろう? あなたの乞食の鉢は純金でできているかもしれない。それでも、それを知らないかぎりあなたは貧者なのだ。あなたは自分の内なる価値を知り、信頼し、欲望と恐れを日々捨て去っていくことで、それを表現していかなければならないのだ。


質問者 もし私が私自身を知れば、欲望や恐れはなくなるのでしょうか?


マハラジ 新たな視野にもかかわらず、しばらくの間は既知なる過去への切望と未知なる未来への恐れという精神的習慣が続くことだろう。それらがただのマインドにすぎないと知ったとき、あなたはそれらを超えていくことができる。あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた自身をそれらの観念を通して知るのだ。あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。純粋な水の味を想像することはできない。すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにのみ、出口は見いだされるのだ。


質問者 今こそ私には、インドの永遠なる生命の秘密がこの存在の次元にあると理解できます。インドはつねにその保管者であったのです。


マハラジ それは開かれた秘密であり、そこにはつねにそれを分かちあう用意のある人びとがいたのだ。教師は数多くいるが、恐れのない弟子はまれだ。


質問者 私には学ぶ用意があります。


マハラジ 言葉を学ぶだけでは充分ではない。あなたは理論を知っているかもしれない。だが非個人として、存在の無条件の中心、愛と至福としてのあなた自身による実際の体験なしには、単なる言語上の知識は不毛なのだ。


質問者 それでは、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ 在ることを試みなさい。ただ在りなさい。重要な言葉は「試みること」だ。一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。どのようにするかを尋ねてはならない。それは説明できないのだ。ただ、成功するまで試みなさい。もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざりしていなければならないのだ。そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の必要性を見なさい。この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。
結局、人生のあらゆる瞬間においてあなたはあるがままのあなたなのだ。だが、けっしてそれを意識したことがなかった。おそらく眠りから目覚める瞬間を除いては。あなたに必要なことは存在に気づくことだけなのだ。言葉としての表明ではなく、ひとつの常在の事実として。本来のあなたである気づきが、あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。それはとてもシンプルなことだ。最初にあなた自身との絶え間ない接触を確立しなさい。すべての祝福は自己覚醒のなかへと注がれる。観察の中心として在ることからはじめなさい。あなたの認識範囲を熟考し、そして行為における愛の中心へと成長していきなさい。「私は在る」はまったく自然に、努力の跡もなく偉大な樹へと生長する小さな種子なのだ。


質問者 私は自分のなかに多くの悪があることがわかります。それを変えるべきではないでしょうか?


マハラジ 悪とは不注意の影なのだ。自己覚醒の光のなかで悪は枯れ果て、落ちていくだろう。
他者への依存はすべて不毛なことだ。なぜなら、他者が与えるものは、他者によって取り去られるからだ。初めからあなた自身のものだけが、最後まであなた自身のものとして残るのだ。内なる導き手だけを受け入れなさい。そしてすべての記憶を捨て去りなさい。なぜなら、それらはあなたを惑わせるからだ。たとえ、あなたがまったく方法や手段について無知であったとしても、静かにしていなさい。そして内側を見なさい。導きはかならずやってくる。つぎの一歩がどうあるべきかを知らないまま、取り残されることはけっしてないだろう。問題は、あなたがそれを避けるかも知れないことだ。グルは、彼の体験と成功からあなたに勇気を与えるためにそこにいる。だが、あなた自身の気づきと努力を通して発見したことだけが、あなたにとって永久に役立つだろう。
何であれあなたが知覚するものは、あなたのものではないということを覚えていなさい。外側から来るものには何の価値もないのだ。あなた自身の感覚と理解だけが有意義であり、ものごとを明らかにするのだ。聞いたり読んだりした言葉はマインドのなかにイメージをつくり出すだけだ。だが、あなたは精神的イメージではない。あなたはイメージの背後とその彼方にある行為と知覚を可能にする力なのだ。


質問者 どうやら、あなたは私にエゴイズムといっていいほど利己主義になれと助言しているようです。私はほかの人びとに興味をもつことさえ許されないのでしょうか?


マハラジ あなたの他者への興味が利己的、自己中心的、自分思考なのだ。あなたは個人としての他者に興味があるのではない。ただ彼らがあなた自身のイメージを豊かに高めるかぎり興味をもつのだ。そして究極的な利己主義とは、自己の身体の保護、維持、そして繁殖だけを気にすることだ。身体ということで、私はあなたの名前と形に関するすべて──あなたの家族、部族、国、人種などを意味している。自己の名前と形に執着することは利己主義なのだ。自分が身体でもマインドでもないと知っている人は、利己的ではありえない。なぜなら、彼は利己的になるための何ものももってはいないからだ。あるいは、彼は出会うすべての人のために、等しく「利己的」であるとも言えるだろう。すべての人の幸福が彼自身のものなのだ。「私は世界だ。世界は私自身だ」という感覚はまったく自然になり、ひとたびそれが確立されたら、けっして利己的であることはない。利己的であることとは、部分が全体に対して欲望し、獲得し、蓄積することを意味しているのだ。


質問者 人は多くの所有物、遺産相続、結婚、あるいは単に幸運から裕福であるかもしれません。


マハラジ もしあなたがそれにしがみつかなければ、それらは取り去られてしまうだろう。


質問者 現在の状態においてあなたはほかの人を個人として愛することができますか?


マハラジ 私がほかの人だ。ほかの人が私なのだ。名前と形において私たちは異なっている。だが、そこに分離はない。存在の根本において、私たちはひとつなのだ。


質問者 人びとの間に愛があるときはいつでもそうなのではありませんか?


マハラジ そうだ。だが、彼らはそれを意識してはいない。彼らは魅力を感じるが、その理由を知らないのだ。


質問者 どうして愛は選択するのでしょうか?


マハラジ 愛は選択しない。欲望が選択するのだ。愛のなかに他者はいない。利己主義の中心がもはやないとき、すべての快楽への欲望と苦痛への恐れはやむ。人はもはや幸福であることに興味を持たなくなる。幸福を超えたところに、純粋で強烈な、無尽蔵のエネルギー、永久に枯渇することのない源から与えることの歓喜があるのだ。


質問者 私は善と悪の問題をまず解決するべきではないでしょうか?


マハラジ 人びとは快いことを善とみなし、苦しいことを悪と見なすのだ。


質問者 ええ、私たち普通の人びとにとってはそのとおりです。しかし、あなたが統合されたレベルから見たときはどうでしょう?あなたにとっては何が善で何が悪なのでしょうか?


マハラジ 苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことは善だ。


質問者 では、苦しみそのものは善ではないと言われるのですね?苦しみを正しく、高尚なものとして考えている宗教がありますが。


マハラジ カルマ、あるいは運命は有益な法則の表現だ。普遍的なものは均衡、調和、統一に向かう傾向がある。あらゆる瞬間において、何であれ起こっていることは最善のためのものだ。それは苦しいもの、あるいは醜いもの、苦渋に満ち、無意味なものかもしれない。それでも、過去と未来のことを考えれば、それは破滅的な状況からの出口として最善のものなのだ。


質問者 人は自分自身の罪だけのために苦しむのでしょうか?


マハラジ 人は自分自身が何であると考えるかにしたがって苦しむ。あなたが人類とひとつであると感じるならば、あなたは人類とともに苦しむのだ。


質問者 では、宇宙とひとつだと主張しているあなたにとって、時間的にも空間的にも苦しみはかぎりないものなのです!


マハラジ 在ることとは苦しむことなのだ。自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しいものとなるのだ。


質問者 キリスト教は苦しみを、浄化し気高くするものとして受け入れています。一方、ヒンドゥー教はそれを毛嫌いしているようです。


マハラジ キリスト教は言葉を構成するひとつの方式であり、ヒンドゥー教はまた別の方式なのだ。実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。それは伝達不可能でありながら直接体験され、マインドに爆発的影響を及ぼすものなのだ。他に何も望むものがないとき、実在は容易に手に入る。非実在は想像によって創造され、欲望によって永続されるのだ。


質問者 必要とされ、善である苦しみというものはないのでしょうか?


マハラジ 偶然に、あるいは不意に起こる苦痛は一時的であり、避けることができない。たとえ最善を考慮した上であっても、意図的に加えられた苦痛は、無意味であり残酷なものだ。


質問者 あなたなら犯罪を罰することはないのでしょうか?


マハラジ 罰は合法化された犯罪でしかない。報復よりも防止をもとに築かれた社会では、犯罪は非常にまれなのだ。不健全なマインドと身体によって起こったようないくつかの例外は、医学的に扱われることだろう。


質問者 どうやら、あなたは宗教を無用だと考えているようですね。


マハラジ 宗教とは何だろうか? 空に浮かぶひとつの雲だ。私は無数の言葉で織りなされた雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる。無用な言葉を取り去りなさい。すると何が残るだろうか? 真理が残る。私の家は不変なるもののなかにある。それは対極同士がつねに調和され、統合された状態にある。人びとはそのような状態の実際の体験や、その障害について、そしてひとたび知覚されればそれを意識内に確立する技について学ぶためにここへやってくるのだ。そうすることによって、生きることと理解との間に衝突が起こらないように。その状態自体はマインドを超えており、習う必要はない。マインドは障害に焦点を合わせることができるだけだ。障害を障害として見ることは効果のあることだ。なぜなら、マインドがマインドに働きかけているからだ。
ことの起源からはじめなさい。「あなたは在る」という事実に注意を払いなさい。「私はいない」と言えるときはないのだ。あなたに言えることは、「私は覚えていない」ということだけだ。記憶がいかに頼りにならないものか、あなたも知っているだろう。些細な個人的関心事に没頭して、あなたはあなたが何なのかを忘れてしまったのだ。既知なるものを消し去ることで、失われた記憶を取り戻すように試みなさい。何が起こるのかをあなたに伝えることはできない。またそれは望ましいことではない。期待が幻想を生みだすからだ。内なる探求においては、予期せぬことが起こることは不可避だ。発見は、かならずすべての想像を超えたものなのだ。生まれたばかりの子どもに、誕生した後の人生を知ることができないようなものだ。なぜなら、マインドのなかにそれを形づくるための確かな画像が何もないからだ。同じようにマインドは、「これではない、あれでもない」という否定の言語による以外に、非実在の言語をもって実在について考えることは不可能なのだ。非実在を実在と受け入れることが障害であり、偽りを偽りとして見て、それを放棄することが実在を存在のなかにもたらすのだ。明晰性とかぎりない愛、完全に恐れのない状態。今、これらは単なる言葉、色彩のないただの輪郭、こうありうるというヒントでしかない。あなたは手術の結果、目の見えるようになることを期待している盲目の人のようなものだ。もしあなたが手術を避けさえしなければ! 私が在る状態では、言葉はまったく重要なものではない。また、そこには言葉への耽溺などない。ただ、事実だけが重要なのだ。


質問者 言葉なくして宗教はありえません。


マハラジ 記録された宗教は単なる無用な言葉の山にすぎない。宗教はその真実の顔を行為のなかで、沈黙の行為のなかで示すのだ。人が何を信じているかを知るには、彼の行為を見守るがいい。大半の人びとにとっては、身体とマインドに仕えることが彼らの宗教なのだ。彼らは宗教的理念をもっているかもしれない。だが、それにしたがって行為することはない。彼らはその理念をもてあそぶかもしれない。そして、しばしば非常にその理念を好んでいるかもしれない。それでも、それにしたがって行為することはないだろう。


質問者 言葉は意思伝達のために必要とされます。


マハラジ 確かに、情報の伝達のためには必要だ。だが、人びとの間の真の伝達は言語によるものではない。関係性を確立し維持していくには、直接行動によって表された感情豊かな気づきが要求されるからだ。あなたが何を言うかではなく、何をするかが重要なのだ。言葉はマインドによって作られ、マインドのレベルにおいてのみ意味を持つ。あなたには「パン」という言葉を食べることも、それによって生きることもできない。それは単に概念を伝えるだけなのだ。それは実際に食べることによって意味を獲得する。それと同じ感覚で私はあなたに「普通の状態とは言語上のものではない」と言っているのだ。それは賢明なる愛が行為のなかで表現されたものだとも言えよう。だが、あなたがその豊かさと美を自ら体験しないかぎり、言葉では言い表せないのだ。
言葉にはそれ自体のかぎられた有益性がある。だが、言葉に制限を与えてこなかったことが、私たちを崩壊の淵へと追いやったのだ。私たちの高尚な考えは、不名誉な行為によって絶妙に相殺されてきた。私たちは神、真理、愛について語る。だが、直接の体験の代わりに定義を蓄えてきた。行為を広め、そして深めていく代わりに、定義づけに忙しかったのだ。そして定義できることを、私たちは知っていると想像してきたのだ。


質問者 どのようにして言葉を通さずに体験を伝えることができるのでしょう?


マハラジ 体験は言葉で伝えることができない。それは行為とともに表されるのだ。体験のなかに強烈に在る人は、確信と勇気をまわりに放っている。ほかの人たちも行為し、行為から生まれた体験を得ていくのだ。言語上の教えは、マインドがマインド自体とその蓄積してきたものを取り除き、空にするのを助けるのだ。
一切の外的なものに価値がなくなり、ハートにそのすべてを放棄する用意があるとき、ひとつの霊的な成熟のレベルに到達されたのだ。そのときこそ実在はチャンスを得、それをしっかりとつかむ。もし遅れがあるとしたら、マインドが見ること、あるいは捨て去ることを望まないことが原因なのだ。


質問者 私たちはそれほどまでに孤独なのでしょうか?


マハラジ いいや、そうではない。もっている者たちは与えることができる。そして、そのような与える者たちは多くいる。世界自体が、誠実な犠牲的行為によって支えられている最高の贈り物なのだ。だが賢明で、謙虚な、受け取るにふさわしい人たちはまれだ。「求めよ。さらば与えられん」は永遠の法則なのだ。
あなたはとても多くの言葉を学び、とても多くの言葉を話してきた。あなたはすべてを知っている。だが、あなた自身を知らないのだ。なぜなら、自己が言葉を通して知られることはないからだ。ただ直接の洞察だけが自己を露わにする。内側を見なさい。内側を探求するのだ。


質問者 言葉を放棄するのは本当に難しいことです。私たちの精神的人生は、ひとつの絶え間ない言葉の流れなのです。


マハラジ それはやさしいとか難しいという問題ではない。あなたに選択権はない。試みるか、試みないか。それはあなたにかかっているのだ。


質問者 私は何度も試み、そして失敗してきたのです。


マハラジ もう一度、試みなさい。あなたが試み続けるなら、何かが起こるだろう。試みなければ、あなたは立ち往生するだけだ。あなたはすべての正しい言葉を知り、聖典を引用し、討論において優秀であるかもしれない。しかしそれでも、ただの薄っぺらな人間のままだ。あるいはあなたは目立たない、謙虚な、取るに足りない人かもしれない。それでも愛に満ちた優しさと、深い知恵に輝いているかもしれないのだ。


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