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毎日の出来事を自分の思い通りに操作することはできません。外の世界を黙らせることはできません。赤ん坊は泣きますし、まわりの人は話しつづけますし、犬は吠えます。そうした出来事はあなたに関係なく起きます。大事なのは、お坊さんのお経と赤ん坊の泣き声のどちらをとるかではありません。大事なのは<すべてが起こるにまかせる>という態度を学ぶことです。この点を理解してください。


これが実行できるようになると、非常に役に立ちます。行為は生まれては消えます。出来事も生まれては消えます。音も生まれては消え、感情も生まれては消えます。わたしたちだって、笑顔のときもあれば仏頂面をするときもあります。あらゆるものは膨大な<何か>の中で生まれては消えます。意識をとぎすましてください。


「しーっ、静かに!」
と言っても何も変化は起きません。けれども子供も騒音も不快感も、自分を褒めてくれる人も非難する人も何でもすべて受け入れたとき、変化が起きます。
すると突然、物事が生まれては消えるあのすばらしい広大な空間をあなたは感じます。そして、すべてを自分の思い通りにしようと緊張していた心と体がゆるみます。


愛情を邪魔するもののひとつが、この<期待>です。まわりの人間がもっと思いやりがあって賢ければわたしの欲しいものや必要なものがわかるはずだ、と期待します。でもまわりの人がそんなに思いやり深くなるのは本当に可能でしょうか。人はこの落とし穴に何度も何度も落ちます。さらに悪いことに、自分自身に対しても人は期待を抱いていて、自分がもっとやさしく思いやりのある人間だったら、あんなことで怒ったりしないはずなのに、と自分を責めます。
けれども実際のところ、あなた方はやさしいときもあれば、やさしくないときもあるのです。限られた自我のままで常に愛情深くしていられると思うのは、傲慢以外の何物でもありません。そんな考えは捨ててください。


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あなたの脳は、神のマインドの中にあるすべての思考の振動数を、完全なる「知っている状態」で受け取るようにデザインされたものだが、あなたが受け取ることを許す振動数だけを受け取るように機能するのだ。そして、あなたをひとつにまとめている神のところには、すばらしい思考が大量にやって来ているにもかかわらず、ほとんどの者が「知っている状態」になることを自分に許している思考は、社会意識という振動数の低い思考だけである。それは、あなたも十分に体験してきたように、きわめて制限され、閉ざされたものだ。そして、あなたが社会意識にしたがって生き、その制限された考え方を占めている振動数だけで考えているとき、あなたの脳の中で活動状態にあるのは、大脳の左上と右上の部分、それに背骨の上にある小脳の一部分だけになる。脳の大部分は眠ったままなのだ。つまり、何もしていないのである。それはあなたが、自分の家族や仲間や社会や宗教の教義といったものが持つ制限された思考に合わない考えは、どんなものでも論破してしまうからだ。あなたはそれを排除してしまう。つまり、何かを熟考したり、論理的に考えたりするためにあなたが使っている思考は、ほかの人々によって受容されたものだけである。


あなた方の言葉の中に、「閉ざされたマインド」というものがある。それはまさにありのままの描写である。あなたが社会意識の境界を越えた思考へと入っていくのを拒んでいるとき、あなたの脳のある部分が、高い振動数を持つ思考に対して、文字どおり閉ざされてしまうのだ。これは、これまであなたの脳下垂体が、その口状部をほんの少ししか開かないような状態で使われてきたからだ。つまり、脳下垂体はこれまで、社会意識という低い振動数を受け容れる部分だけを活動させてきたのである。


ある者が天才で、あなたの知らないことを知っているただひとつの理由は、その人間が自分のマインドを開き、「もしこうだったらどうだろうか」といった、アウトレイジャスな思考、人間の制限された考え方を超越したすばらしい思考について、熟考したということである。あなたはそういった思考を拒絶してきたが、その人間は、そのような思考を抱き、それを使って考えることを自分自身に許したのだ。あなたがそういった思考を受け取れないのは、それらを使って考えるのを可能にしてくれる脳の部分をまだ活動状態にしていないからだ。では、あなたの光の構造に絶え間なくやってきている大量の偉大な思考、無限の理解はいったいどうなってしまうのだろうか?それはあなたの受信装置ではね返されて、あなたの存在のスピリットを通して思考の河へと送り返されているのだ。


「マインドが閉ざされている」ということは、体の五感を通して体験できるもののほかにも何かが存在するという可能性に対して、マインドを閉ざしてしまっているということだ。しかし、神と呼ばれる領域においては、不可能なことは何もない。思いつくことができるもの、思索できるものは、すべて存在するのだ。なぜなら、夢見るもの、想像するものは、何であろうとすでに存在の領域の中にあるからだ。すべての創造物は、そうやって存在するようになったのである。あなたが誰かに対して、「それはただの想像にすぎない」と言っているとき、あなたはその人間に、愚かさと制限された創造性を教え込んでいることになる。そして、まさにこれこそが、この天界のすべての子どもたちに対して行われていることである。つまり、これはあなた方全員になされていることなのだ。


もう一度言うが、考えることができるものは、それがどんなものであろうと存在する。そして、あなたが自分に考えることを許したものは、必ず体験される。なぜなら、あなたの電磁場がそれをあなたに引き寄せるからだ。


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質問者 毎朝、目覚めとともに世界が突然現れるのは、日々体験することです。それはいったいどこからやってくるのでしょうか。


マハラジ 何かが現れる前に、それに対する誰かがそこにいなければならない。すべての出現と消滅は、何か変わることのない背景に対する変化を前提としている。


質問者 目覚める前、私は無意識でした。


マハラジ どういう意味だろう?忘れてしまったのか、それとも体験しなかったのだろうか?たとえ無意識のときでも、あなたは体験しないと言えるだろうか?記憶の忘却、それが存在していないことの証明になるだろうか?あなたが存在していなかったと、実際の体験として語ることができるだろうか?マインドが存在しなかったと言うことさえできない。呼びかけられて、あなたは目を覚ましたのではなかったか?そして、目覚めて最初に起こった感覚は、「私は在る」(I AM)ではなかっただろうか?眠り、または気絶の間にも、意識の種子は存在していたはずだ。目覚めのときの体験は、「私は在る─身体─世界」とつながっていく。それは連続して起こるように見えるが、実際には、世界のなかで身体をもつというひとつの観念として、すべて同時に起こるものだ。誰かとして在ることなく、「私は在る」という感覚がありうるだろうか?


質問者 私はつねに記憶と習慣をもった「誰か」です。それ以外の「私は在る」を私は知りません。


マハラジ 何かがあなたを知ることから妨げているのだろうか?ほかの人が知っていることを知りたいと思ったとき、あなたはどうするだろう?


質問者 彼らの指導のもとに、その知識の源泉を探るでしょう。


マハラジ あなたにとって、あなたが単なる身体にすぎないのか、あるいは何かそれ以外のものなのかを知ることは、重要ではないだろうか?あるいはまったく何ものでもないかもしれないということを?あなたが抱えているすべての問題は、あなたの身体の問題──食事、衣服、家、友人、名前、名声、安全、生存だということがわからないだろうか?これらの問題すべては、あなたが単なる身体ではないと悟った瞬間に消え去るのだ。


質問者 私がこの身体ではないと知ることが何の役に立つというのでしょうか?


マハラジ あなたが身体ではないと言うことでさえ、まったくの真実とは言えない。ある意味では、あなたはあらゆる身体、ハート、マインドのすべて、またそれ以上なのだ。「私は在る」という感覚のなかに深く入っていきなさい。そうすればあなたは見いだすだろう。忘れ去ってしまったものを見つけだすにはどうするだろう?思い起こすまでマインドにとどめておくのだ。「私は在る」という存在の感覚が最初に現れる。それがどこからやってくるのか、自分に尋ねなさい。あるいは、それをただ静かに見守りなさい。「私は在る」という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。何度も何度も試みることだ。そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねにあなたとともにある。あなたが身体、感情、思考、観念、所有物などをそれに付随させてきただけだ。こういった自己同一化は、あらゆる誤解を招く。そのため、あなたは本当の自分ではないものを自分自身と見誤ってきたのだ。


質問者 では、私とはいったい何なのでしょうか?


マハラジ あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。あなたが何なのかを知る必要はない。なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは観念としてしか表せないため、自己知識といったものはありえないからだ。それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せない。あなたに言えることは、「私はこれではなく、あれでもない」ということだけだ。意図をもって、「これこそが私だ」と言うことはできない。それはまったく意味をなさない。あれやこれ、と指し示すことができるものは、あなたではありえない。何かほかのものだとさえ言えない。あなたは知覚や想像を超えた何かだ。それにもかかわらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観察する。そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆しているのだ。あなたなしで知覚や体験が可能だろうか?体験とはかならず何かに帰属するものだ。誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。体験者なくして体験はありえない。体験者が体験にその実在性を与えるのだ。あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?


質問者 体験者としての存在の感覚、「私は在る」という感覚もまた体験ではないでしょうか?


マハラジ 明らかに、体験されたすべてのことは体験だ。そして、すべての体験のなかに体験者が現れる。記憶が連続するという幻想を与えるのだ。実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。そして、同一であるという感覚は、すべての体験者と体験との関係の根底において共通の要因があるためだ。同一性と連続性は同じものではない。ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々でありながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」なのだ。


質問者 どのようにしてそれを得るのでしょう?


マハラジ それを得る必要はない。なぜなら、あなたがそれなのだ。あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。非実在のものへの執着を解き放ちなさい。そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入りこんでいくだろう。自分自身の存在をあれやこれや想像するのをやめることだ。そうすれば、あなたがすべてのハートであり、源泉であるという認識は明らかになるだろう。それとともに選択でも、偏愛でも、執着でもない、すべてのものを愛すべき、そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。


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