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マハルシ 





心を内側に向けるには、





心を直接「私」の中に落ち着かせなければなりません。そうしたとき外的な活動はやみ、完全な平和が支配するのです。

(対話519)


(要点が描写されています。主体と対象の関係性を築いてから答えを探してしまうのがマインドなので、主体が発生する前に、直接「何か」に浸っていなければならないのですね。人間というのは不思議なもので、穏やかな気持ちでいたいのなら、地上に降りるのはある意味ばかげた選択です。ウォーキング・デッドが流行るような地上です。単に穏やかな気持ちでいることが大切なのではなくて、拡大顕微鏡のような視野で、分離意識を体現し、愛を理解するために反対方向の「裁く心」を統合してから穏やかな気持ちに戻ることが大切なのかもです。マインドの表層の荒波と、深海の静寂、平和は別世界です。生きながらにして、表層と深海を統合すること、上の写真は色々象徴しているようで好きになりました)



美しい身のこなしのためには、決して一人で歩むことがないと知ること。


わたしにとって最高の勝利は、
ありのままで生きられるようになったこと、
自分と他人の欠点を
受け入れられるようになったことです。


どんな日であれ、
その日をとことん楽しむこと。
ありのままの一日。ありのままの人々。
過去は、現在に感謝すべきだということを
わたしに教えてくれたような気がします。
未来を心配してばかりいたら、
現在を思うさま楽しむゆとりが奪われてしまうわ。


一個の道具のように自分を分析しなさい。
自分自身に対して100パーセント率直でなければなりません。
欠点を隠そうとせずに、正面から向かい合うのです。


母から一つの人生観を与えられました。
他者を優先しないのは、恥ずべきことでした。
自制心を保てないのも、 恥ずべきことでした。
母の声がいまでも聞こえるようよ。
「時間を守りなさい」
「どんなときも、自分よりも周囲を優先すること」
「自分のことばかり話してはいけません。あなたはけっしておもしろい話題ではありませんからね。大切なのは、周りの人たちです」


人は、物以上に、回復して、新しくなり、生き返り、再生し、報われることが必要なの。
決して、誰も見捨ててはいけません。

オードリー・ヘップバーン


ソウル・グループには、深い愛情に根ざした思いやりの心があります。深い愛情というのは肉体どうしの関わり合いではなく、魂どうしの関わり合いです。あなたの魂は何百というエネルギー源、つまり、存在と非常に深い関係を持つことができます。ですから、自分は無力で孤独だと感じる必要は全くありません。ほとんどの人が、自分と深い愛情関係を持てるのは物質界の人間だけだ、という狭い考えにこり固まっていて、自分で自分を殻に閉じこめています。


もちろん、肉体の愛情関係もすばらしいものですが、人間が求めているのはそれ以上のものだということを私は知っています。深い愛情関係というのは、肉体を持つ人間どうしのあいだにもありますが、肉体があることによって愛情が生まれるわけではないのです。人々が求める心の安らぎや知恵やユーモアなどは、いつでも手を伸ばして自分のところに引き寄せることができるのだ、ということをわかってください。ソウル・グループのエネルギーは、人々があるがままの自分として生き、自分を愛し、自分を十分に楽しむようにと励ましてくれます。誰もがその人生において望むものをすべて手に入れるに値するのです。このことに早く気がつけばつくほど、その実現も早くなります。



万人が善である、ということを理解するまでは、自分自身の中にも、他人の中にも、善を見つけるのはむずかしいでしょう。あなたは善を見つけたかと思うと、悪も見つけます。「これは良い。これは悪い」これが、あなたが自分と兄弟をはかるものさしです。これでは平和な気持ちにはなれません。


あなたの兄弟は善人でも悪人でもなく、あなたもまたそうです。そして、だれもみな善人でしかありえません。自分の中には悪いところがある──そして良いところはほとんどないか、皆無だ──と信じているかもしれませんが、それはまちがった信念です。その信念にしがみついているかぎり、自分をむち打ちつづけるか、他人をむち打ちつづけるかです。


あなたがたみなは善人でしかありえない、とわたしが言うとき、それはどういう意味でしょうか。ネガティブな考えやふるまいをすることが不可能ということでしょうか。もしそうであれば、あなたはいまいるところにはいないでしょうね。あなたがたの世界はネガティブな思考やふるまいと、ポジティブなそれとの混合物です。その世界はうすぐらくて闇と光がまじりあっています。


しかしあなたの経験するこの世界を形づくっているのは、思考のみです。心(マインド)からネガティブな考えを追い出すことができれば、まったくちがった世界に住むことになるでしょう。


善である考えしかないような世界では、比較は不可能です。比較がなければ、解釈もなく、失敗も、処罰も、犠牲も、苦悩もありえません。そんなかがやかしい、無垢な世界が想像できますか。そんな世界の存在はおかしいと思うかもしれませんが、いま住んでいる世界よりも、創造するのがむずかしいわけではないのです。


あなたの中にも兄弟の中にも悪はない、善のみである、と理解することで、こうした新しい世界を作り出すことができます。「悪」を現実らしく見せているのは、悪に対する恐怖心なのです。あらゆるネガティブなものは、恐怖心から起こってきます。「悪」という概念自体が恐怖に満ちた考えです。


ですから、あなたが生まれもっている善性以外に、いったい何が存在しているのでしょう。それは「自分が善ではないのではないか」という疑いです。恐怖心です。


あなたがたの人生は、疑いと恐怖心にたえずおびやかされつづける善性から成り立っています。一日のあいだにいったい何度、疑いと恐怖心が自分の善性の自覚をおびやかすでしょうか。あなたの兄弟の善性を信じる気持ちを、それらが何度おびやかすでしょう。


経験の中にはつねに疑いと恐怖心が働いていることを知れば、それらの存在を意識できるようになるでしょう。そうすれば、それらは意識というダンスの一部分にすぎなくなります。「ああ、そうだ、わたしは自分が善であることを知っている。だが、もしそうでなかったとしたら?」このダンスは心の中で起きています。問答はふりこのように、行ったり来たりします。しかし、しだいにその非難の調子は薄れてゆきます。恐怖心は受けいれられるにつれて、徐々に消えてゆくのです。


自分の善性を自覚した心からは、葛藤が消し去られます。心はみずからの善性を自覚した以上、それを他人にもおよぼして考えずにはいられなくなります。他人を悪いとみなすとき、あなたはまた疑いと恐怖心を心に呼びもどしています。


聖なるものは、二極対立から自由であり、あらゆる葛藤からも自由です。自分と兄弟の善はひとつであり同じものであると悟るとき、あなたは聖なるものに対して開かれます。聖なるものは、つねに共有されます。それは特定のあるものにだけ属するというものではありません。


そういう特権的独占物はすべて、恐怖心が生み出したものです。あらゆる判断評価は、恐怖心が生み出したものです。


あなたが悪の存在を拒絶し、善を受けいれたときにのみ、あなたは恐怖心をハートの外に追い出すことができます。神の子の中に、悪でありえるようなものはいません。せいぜいが傷ついているという状態です。そういうときには、自分の苦しみを他人のせいにして攻撃し、非難します。でも、それは悪とはちがうのです。


そうです、あなたがたの慈悲心は、ここまで深まるべきです。あなたの宥しに値しないような人間はひとりもいません。あなたの愛に値しないような人間はひとりもいません。


あなたは条件をつけたり、言い訳を考えたりはできますが、わたしの目からはお見通しです。わたしは真実を告げました。それを踏みつけにしないほうが、あなたのためです。


だれかを宥し、愛することがむずかしいようでしたら、むずかしいのです、と言ってください。自分の弱さを正当化するために相手を非難しないでください。あなたが恐怖心をもっているのであれば、そう言ってください。真実はつねに事態を正常化します。


恐怖心につかまっている人だけが、他人を判断し、批判します。あなたは恐怖心を超越していますか。そうでないなら、自分の恐怖心を自覚してください。自覚すれば、他人を批判したりしません。恐怖心はつねに知覚をゆがめるものであることが、やがてわかるからです。


恐怖心を自覚し、自分自身に対しても他人に対しても、正直であってください。告白すればよいのです。「わたしはいま怖いのです。ですから、ものごとをはっきり見ることができません」と。


相手を批判しようとする意図を捨ててください。それは相手の善性が自分に見えないからといって、その相手を無意味に攻撃することだからです。それらの判断を、わたしにゆだね、あずけてください。真実を言ってください。「イエスよ、わたしはこの兄弟の姿を正しく見ることができません。相手を判断しようとしているからです。どうか、わたしがこの判断を捨てられますよう。そして、彼のふるまいがわたしにいかなる恐怖心を起こさせたのかが、理解できますように」


あなたが兄弟に対してくだす判断はすべて、自分の嫌いな部分、受けいれられない部分がどこかを正確に語っています。自分自身の痛いところをつかれるのでなかったら、けっして相手を憎むことはありません。


だからこそ、怒り、恐怖心、判断を正当化しようとする試みはことごとく、みじめに失敗するのです。それはただ自分の過ちを、だれかの名前で非難するのにすぎないからです。それは正直な態度ではありません。責任転嫁です。


あなたは完全に判断をやめる手だてをもっていますが、それでもその判断を正当化したく思います。なぜでしょう。それは、自分で自分の過ちを認められないからです。自分が過ちをおかしたということを認めるよりは、苦しむほうがまだましと思っているからです。自分が学びの途上だということを認めるよりは、完全であるふりをするほうが好ましいのです。なんたる不可解な自尊心でしょうね。苦しんでいるくせ、自分は完全だと主張する人の手を、どうしてわたしがとることができるでしょうか。あなたがやらせてくれなければ、わたしはあなたを助けられません。


過ちをおかすということは、べつだんおそろしいことではありません。愛や受容をとりあげられるわけではありません。きっとそうなる、と思っているのでしょうが、それは架空の話です。あなたから愛をとりあげるのは、自分が正しくないのに正しいと固執することです。それは過ちの修正を妨げてしまいます。


どうか次のことを理解してください。あやまったことをすれば「悪人」なのではなく、正しいことをすれば「善人」なのでもありません。もしそうなら、あなたがたみなは一日のうちで何百回もその両方になることでしょう。ここへ来る旅において、正しいことをしたり、あやまったことをしたりした回数を数えることは意味がないのです。


この世界は学校であり、あなたがたは学びにきました。学びとは、過ちをおかし、修正するということです。学びとは、いつでも正しいということではありません。いつでも正しいとしたら、なぜ学校にくる必要があったのですか。


もっと謙虚に考えてください、友よ。あなたは学生としてここにきたのであり、課程を学びたいのなら、そのことを受けいれてください。あなたが過ちをおかしたことを認めなければ、わたしが手を貸して修正することはできません。


過ちを認め、修正することは、宥しとともに起こります。それはわたしがあなたのために用意した小径です。


友よ、完全であろうとはしないでください。それはゴールとしてふさわしくありません。長くつらい苦しみを選ぶ人だけが、完全であろうと願うのです。そんなことを願わずに、過ちをおかしたときにそれから学べるよう、その過ちに気づくことができるよう願ってください。


完全さは、あなたが真実を話すとき、人を感心させようという願いを捨てるとき、いつわりの自尊心を放棄するときに、ひとりでに、また楽に達成されるものなのです。


自分を修正し、正しくしてくださいと願うものはそれを受けとるでしょう。それはその人が他人より良い人間であったからではなく、ただそれを願い求めたからです。


自分の過ちを認める準備のできていない人たちを、悪いと判断しないでください。ただ自分の過ちを認め、あとは神におまかせします。


あなたの経験を人と分かちあってください。でも、押しつけてはいけません。あなたには、ほかの人が何を必要としているかわからないのですし、それはあなたが知らなくてよいことです。


兄弟の中にある善を思い出してください。あなた自身の中の善を思い出してください。どんな恐怖心や判断の気持ちがわきおこっても、その場で溶かし去ってください。自分の過ちを認め、他人の過ちに寛大になりなさい。それがわたしの言いたいことです。


シンプルではないですか。あまりにシンプルなので、しゅっちゅう忘れてしまうことと思います。しかし、気を落とすことはありません。心の平和を求める気持ちが強ければ、さいごにはその平和のためにすべてを放棄するつもりになれます。心の平和こそ望みなのだと決めれば、かならず故郷に帰ってこられます。



質問者 先日、私たちは個人─観照者─絶対なるもの(ヴィヤクティ─ヴィヤクタ─アヴィヤクタ)について討論していました。私が覚えているかぎり絶対のみが実在であり、観照者は時間と空間のなかの与えられた点においてのみ絶対だとあなたは言われました。個人とは観照者の存在によって照らしだされた粗雑、あるいは繊細な有機体です。私はどうやら明確に把握できなかったようです。もう一度それについて討論できるでしょうか?あなたはまた、マハーダーカーシュ、チダーカーシュ、パラマーカーシュという言葉を用いていました。それらは個人、観照者、絶対なるものとどのように関連しているのでしょうか?


マハラジ  マハーダーカーシュは自然、存在の大洋、感覚を通して知覚されるすべてを含む物理的空間だ。チダーカーシュは気づきの拡張、時間の精神的空間、知覚と認識だ。パラマーカーシュは時間と空間を超えた実在、無心であり、未分化の無限の可能性、源であり根源、実質であり本質であるもの、物質と意識の両方であり、しかもその両方を超えているものだ。それを知覚することはできない。だが、つねに観照者を観照する者、知覚者を知覚する者、すべての権限の根源と終焉、時間と空間の根底、あらゆる因果関係の連鎖における起源的な原因としてそれを体験することはできるのだ。


質問者 ヴィヤクタ(観照者)とアヴィヤクタ(絶対なるもの)の違いは何でしょうか?


マハラジ  違いはない。それは光と日光のようなものだ。宇宙はあなたに見えない光に満ちている。しかし、その同じ光をあなたは日光として見ているのだ。そして日光が顕わにするものがヴィヤクティ(個人)だ。個人はつねに対象として、観照者は主体として在る。そしてそれらの相互依存の関係は、それらの絶対的な同一性の反映なのだ。あなたはそれらが区別された、分離状態だと想像している。そうではないのだ。それらは同じ意識の静と動であり、それぞれの状態が他方を意識しているのだ。普遍なる意識(チット)のなかで、人は神を知り、神は人を知っている。普遍なる意識のなかで、人は世界を形づくり、世界は人を形づくる。普遍なる意識は連結部、両極端を結ぶ橋、あらゆる経験に均衡と統合をもたらす要因だ。知覚されたものの全体性が物質と呼ばれ、すべての知覚者の全体性が宇宙のマインドと呼ばれる。その二つの同一性は、知覚力と知覚、調和と知性、愛らしさと愛することとしてそれ自体を永遠に再主張していくのだ。


質問者 三つの性質(グナ)であるサットヴァ、ラジャス、タマスは物質のなかにだけあるのでしょうか、それともマインドのなかにもあるのでしょうか?


マハラジ  もちろん、両方にある。なぜなら、その二つは別々ではないからだ。グナを超えているのは絶対なるものだけだ。実際、それらは単なる見解、ただの見方にすぎない。それらはマインドのなかにのみ存在するのだ。マインドを超えれば、すべての区別は止まる。


質問者 宇宙とは感覚がつくり出したものなのでしょうか?


マハラジ  目覚めとともに、あなたが世界を新たに創造するように、宇宙は繰り広げられていく。マインドとその五つの知覚器官、五つの行動器官、五つの意識の伝達手段は記憶、思考、理性、自我として現れるのだ。


* 訳注
五つの知覚器官-聴覚、触覚、味覚、嗅覚、視覚。
五つの行動器官-話すこと、理解すること、動くこと、排泄すること、楽しむこと。
五つの意識の伝達手段-言語器官、運動器官、理解器官、排泄器官、生殖器官。


質問者 科学は大変な進歩を遂げました。私たちの身体やマインドは、祖先のそれよりもはるかにすぐれています。マインドや物質を描写し分析するあなたの伝統的な方法は、もはや有効ではありません。


マハラジ  だが、あなたの科学者たちや科学はどこにあるのかね?それらはあなた自身のマインドのなかに存在するイメージではないだろうか?


質問者 ここに基本的な違いがあるのです!それらは私自身の投影ではありません。それらは私が生まれる以前から存在し、私が死んだ後も存在するでしょう。


マハラジ  もちろん、ひとたび時間と空間を実在として受け入れたならば、あなたは自分自身を短くはかない命を生きるものとして考えるだろう。しかし、それは真実なのだろうか?時間と空間があなたに依存するのだろうか、それともあなたがそれらに依存するのだろうか?身体として在るならば、あなたは空間のなかにいる。マインドとしては、あなたは時間のなかにいるのだ。だが、あなたは単なる身体とマインドなのだろうか?今まで調べたことがあっただろうか?


質問者 私にはその動機も方法もありませんでした。


マハラジ  私はその両方を差しだしているのだ。だが、洞察と識別という実際の仕事はあなたのものだ。


質問者 唯一私が自覚できる動機といえば、私自身の、原因のない永遠の幸福です。では、方法とは何でしょうか?


マハラジ 幸福は主要なものではない。真の、そして有効な動機とは愛なのだ。あなたは人々が苦しむのを見て、最善の援助方法を探す。その答えは明白だ──まず、あなた自身を援助の必要性を超えた地点におきなさい。あなたの態度は純粋な善意、いかなる期待からも自由なものであることを確かめなさい。
単に幸福のみを求める者は、極度の無関心に陥る場合がある。一方、愛はけっして放っておけないのだ。
方法については、ただひとつだけある。あなたがあなた自身──あなたのように現れて見えるあなたと、あるがままであるあなたの両方──を知らなければならないということだ。明晰性と慈愛がともに必要になる。どちらも互いを必要とし、強めあうのだ。


質問者 慈悲は、避けるべき悲しみに満ちた客観的世界の存在を意味しています。


マハラジ  世界は客観的なものではない。そしてその悲しみは避けることのできないものだ。慈悲とは、想像上の原因によって苦しむことの拒否を意味する言葉でもあるのだ。


質問者 もし原因が想像上のものならば、なぜ苦しみは避けられないのでしょうか?


マハラジ  あなたを苦しめるのは、つねに偽物だ。偽りの欲望と恐れ、偽りの価値と観念、偽りの人間関係だ。偽物を放棄しなさい。そうすれば、苦痛から自由になれる。真実は幸せをもたらす。真実は解放するのだ。


質問者 真実は、私は身体のなかに監禁されたマインドだということです。そして、それはとても不幸な真実なのです。


マハラジ  あなたは身体でもなければ、身体のなかにいるのでもない。身体などというものは存在しないのだ。あなたはあなた自身について、ひどい誤解をしてきた。正しく理解するために、調べてみるがいい。


質問者 しかし、私は身体として、身体のなかに生まれてきたのです。そして、身体とともに、身体として死ぬでしょう。


マハラジ  これがあなたの思い違いなのだ。調べなさい。探求し、あなた自身を、そして他者をも疑ってみなさい。真実を見いだすには、あなたの確信に固執してはならないのだ。もしあなたが現下にあるものを疑わなければ、けっして究極に到達することはできないだろう。あなたが生まれ、そして死ぬという概念は不条理だ。論理的にも体験的にも矛盾しているのだ。


質問者 わかりました。私が身体だと主張するのはもうやめましょう。あなたの要点はここにあるのです。しかし今ここであなたと話しているように、私は身体のなかにいます──明らかに。身体は私ではないかもしれません。しかし、それは私のものです。


マハラジ  宇宙全体が絶え間なくあなたの存在に貢献している。それゆえ、宇宙があなたの身体なのだ。その意味では、私も同意しよう。


質問者 身体は私に深く影響を与えます。多くの意味において、身体は私の運命なのです。私の反応、運命や恐れ──生来のものであれ、後天的なものであれ、それらはすべて身体を根底としています。わずかな量の酒や薬物や何かで、すべてが変わってしまいます。薬物が抜けきるまでは、私は別人となってしまうのです。


マハラジ  これらすべては、あなたが身体だと考えることによって起こるのだ。真我を見いだしなさい。そうすれば、薬物さえあなたに影響を与えることはできないだろう。


質問者 あなたは喫煙しますか?


マハラジ  私の身体はいくつかの習慣を保っている。それは死に至るまで続いていくかもしれない。それらには何の害もないのだ。


質問者 あなたは肉を食べますか?


マハラジ  私は肉を食べる人たちのなかで生まれた。そして私の子供たちは肉を食べている。私もほんの少し食べるが、気にするほどのことではない。


質問者 肉食は、殺すことを意味します。


マハラジ  いかにも。私は終始一貫していることを主張したことはない。あなたは絶対的な一貫性が可能だと思っている。例えを示して証明してみなさい。自分自身で実践していないことを説いてはいけない。
生まれてきたという観念についての話に戻るが、あなたは、両親があなたに語ってきた懐妊や妊娠、そして誕生、幼児、子供、十代の若者と続いていく話に固執しているのだ。「私は身体ではない」という観念の助けを借りて、「私は身体だ」という考えを取り去りなさい。確かにそれもまた一つの観念ではある。それに疑いはない。仕事がすんだら捨て去られるもののように扱うがいい。実際には、身体というものは存在しないのに、「私は身体だ」という観念は身体に実在性を与えてしまう。それはただマインドの状態にすぎないのだ。あなたは好きなだけ多くの、多種多様な身体をもつことができる。ただ、あなたが何を求めているのかを絶えず覚えておきなさい。そして、それと一致しないものは受け入れてはならない。


質問者 私はまるで、箱のなかの箱のなかの箱のようです。外側の箱は身体としてあり、その内側の箱には、内在する魂がいるのです。その外側の箱を取り去ると、つぎの箱は身体で、そのつぎは魂です。それは無限の連続なのです。かぎりなく箱を開けていくと、最後に残るものが究極の魂なのでしょうか?


マハラジ もしあなたが身体をもつならば、魂ももたねばならないだろう。そうだとすれば、あなたの一組の箱の直喩もあてはまるだろう。しかし、今ここで、あなたの身体と魂を通して純粋な普遍なる意識(チット)の光、覚醒が輝いているのだ。それを確固としてつかみなさい。覚醒なしには、身体は一秒さえも生きることができない。身体のなかには、エネルギー、愛情、知性の流れが存在する。それが身体を導き、維持し、活力を与えるのだ。その流れを発見し、それとともに在りなさい。
もちろん、これらすべては言葉の例えにすぎない。言葉は橋を架けることもできれば、障害にもなりうる。あなたの身体の繊維を織り成す生命の気を見いだし、それとともに在りなさい。それが身体のもつ唯一の本質なのだ。


質問者 死後、生命の気には何が起こるのでしょうか?


マハラジ  それは時間を超えている。誕生と死は時間のなかの点にすぎない。生命はその無数の綾を永遠に織り成していく。織り込んでいくことは時間のなかにあるが、生命そのものは永遠だ。あなたがその表現にどんな名前と形を与えようとも、それは大海のように、けっして変化せず、つねに変化しつづけていくのだ。


質問者 あなたの言われることはすべて、美しく、得心がいくものです。それでもなお、この奇妙で異質な、しばしば敵意に満ちた危険な世界のなかに、個人として在るという感覚は消えません。個人として時間と空間のなかに限定されながら、どのようにして私はその反対である、何も特定化されていない、非個人化され、普遍化された気づきとしての真我を実現できるというのでしょうか?


マハラジ  あなたはあなたではないものをあなただと主張し、本来のあなたであるものを否定している。あなたはすべての個人的な歪曲から自由である気づきの純粋な認識の原理を忘れているのだ。あなたが普遍なる意識(チット)の実在を認めないかぎり、あなた自身を知ることはけっしてないだろう。


質問者 私はどうすればよいのでしょうか?私にはあなたが見ているように、私自身を見ることはできません。おそらく、私が間違っていて、あなたが正しいのかもしれません。しかし、どのようにして私の感じている私自身として在ることをやめることができるというのでしょうか?


マハラジ  自分自身を乞食だと信じきっている王子を、決定的に確信させる方法はただひとつしかない。彼に王子としてふるまうようにさせるのだ。そうして何が起こるかを見てみなさい。私の言ったことが、あたかも真実であるようにふるまってみなさい。そして実際に何が起こるか判断するがいい。私が求めるのは、第一歩を踏みだすために必要なわずかな信頼だけだ。体験とともに、確信がやってくる。そうすれば、あなたは私をもう必要としないだろう。私はあなたが何なのか知っている。だから、私はあなたに伝えているのだ。しばらくの間、私を信頼してほしい。


質問者 今ここに在るため、私には身体とその感覚が必要です。理解するためには、マインドが必要なのです。


マハラジ  身体とマインドは単なる無知、誤解の兆候にすぎないのだ。あなたが身体もマインドも超え、時間と空間も超え、「どこで」、「いつ」、「どのように」をも超えた、純粋な気づきとしてあるかのごとくふるまいなさい。それに思いをめぐらしなさい。その真実性を受け入れることを学びなさい。いつまでも反対したり、拒否したりしてはならない。少なくとも、心を開きなさい。ヨーガ(探求)とは外面が内面に従うことなのだ。あなたのマインドと身体に、すべてでありすべてを超えた実在を表現させなさい。議論することによってではなく、為すことによってあなたは達成するのだ。


質問者 どうか私の最初の質問に戻らせてください。個人として在るという過ちの原因はどこにあるのでしょうか?


マハラジ  絶対なるものは時間よりも優位を占める。まず、気づきが最初に現れる。一組の記憶と精神的習慣が注意を引きつけ、気づきがそこに焦点を集中させると、突然個人が出現するのだ。気づきの輝きを取り去ってみなさい。眠りにつくか、気絶すると、個人は消滅してしまう。ヴィヤクティ(個人)はかすかにゆらめき、ヴィヤクタ(気づき)はすべての時間と空間を内包する。アヴィヤクタ(絶対なるもの)は──在るのだ。


02 2024/03 04
S M T W T F S
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HN:
Fiora & nobody