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質問者 真我は常に実現されていると言うなら、私たちはただ静かにしているべきだということです。そうなのでしょうか?


マハルシ もしあなたが他の物事を追及せずに静かにしていられるなら、それはとてもよいことです。もしそれができないなら、実現に関するかぎり、ただ静かにしていることが何の役に立つと言うのでしょう? 活動する義務があるかぎりは、その義務を果たしながらも、真我実現への試みをあきらめてはならないのです。

(対話255)


ある男性が自分の罪を許してもらうべく師に祈りを捧げた。


マハルシ もし心があなたを悩ませてはいないということを見るようにするなら、それで十分です。

(対話94)


質問者 どのように心を制御すればよいのでしょうか?


マハルシ 心をとらえなさい。


質問者 どうすればよいのでしょう?


マハルシ 心には実体がありません。事実、それは存在しないのです。心を制御する最も確かな方法は、それを探し出すことです。そうすれば、その活動は止むでしょう。

(対話194)


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「未知なる神」とは誰だったのか? それは私自身であり、夜の巣の中の鳥たちであり、葦に降った霜、夜明け、たそがれ時の空だった。それは太陽であり、月であり、子どもたちとその笑い声、なめらかな脚、流れる水、そしてニンニクと革と真鍮の香りだった。それはいつも私の目の前にあったのだが、私がこの理解にいたるまでには長い時間がかかった。「未知なる神」は月や太陽を超えたところにいるのではなかった。それは私のまわりにあるすべてのものだったのだ。この新しい考え方が生まれてからは、私は人生を抱き容れ始め、人生を大切なものだとみなし始めた。そして生きる理由にも気づき始めた。流血や死や戦争の悪臭よりもすばらしいもの、すなわち生命というものがあったのだ。それは、われわれがこれまでに考えていたよりも遥かに偉大なものだったのだ。


その後の長い年月の中で、私はまさにこの気づきを通して、人間はあらゆるものの中で最も偉大な存在であるということを理解するようになる。





生命とその絶え間ない継続性を観察し、それらについて熟考してはじめて、私には「未知なる神」が本当は誰なのかがわかった。「未知なる神」は人間の歪んだ考え方から創り出された神々ではない、という結論に私はいたった。人間のマインドの中に存在する神々は、単に彼らが最も恐れ、敬っているものが人格化したものにすぎないと気づいたのだ。つまり、本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許しているのだ、ということに気づいたのだ。そして春がめぐり、人間がふたたびこの場所に戻ってきて別の人生を送るときにも、それは依然としてここに存在し続けているのだということに気づいた。生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在するのだと私は気づいたのだ。


…本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許している…


…生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在する…


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質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか? 彼はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むのでしょうか? 彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何でしょうか? いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?


マハラジ あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。すべてはあなたの観察の能力にかかっている。しかしながら、客観的な違いがもっとも重要なものではない。問題は彼らの見地と彼らの態度にある。それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。


質問者 ジニャーニの子供が死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょうか? 彼は苦しまないのでしょうか?


マハラジ 彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。出来事自体が重要なのではない。だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なのだ。


質問者 人びとは死をとても恐れています。


マハラジ ジニャーニに恐れるものは何もない。だが彼は恐れている人を憐れむ。つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。恐れることは自然ではない。もちろん、起きていることに注意は払われる。


質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?


マハラジ 無反応だ。線香の火に燃えつきるときが来ることが自然なように、身体が死ぬのは自然なことだ。それはまったく重要な問題ではない。重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。私は在る。


質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?


マハラジ よく言われることだ。恐れてはならない。人生は続いていく。神があなたたちを守るだろう。私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。私はけっして生まれなかった。私に死ぬことはできないのだ。私には覚えることも忘れることもない。


質問者 死者への祈りはどうなるのですか?


マハラジ もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。それはとても彼らの意にかなうだろう。彼らは嬉しく思う。ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。彼自身があなたがたの祈りへの応えなのだ。


質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?


マハラジ ジニャーニはすでに死んでいる。あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?


質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違いありません。


マハラジ ジニャーニに重要な出来事というものはない。誰かが最高の目的を成就したときを除いては。そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。それ以外のすべてに対して彼は関心がない。宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。都会でひとつの電球が切れたとき、それがネットワーク全体に影響を与えることはない。同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。


質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の存在は具体的なものであり、現実です。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ。私にとってはその反対だ。全体が現実で、部分は来ては去るものだ。特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。ジニャーニは、その変化を可能にする不変の実在なのだ。しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。


質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?


マハラジ それらはみな人間のつくり出した価値だ。それらが私にどんな意味をもつというのだろう? 結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。結果的に不幸をもたらすものは罪だ。どちらもマインドの状態だ。私の境地はマインドの状態ではないのだ。


質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。


マハラジ あなたの好きなように言うがいい。


質問者 沈黙の修練は、サーダナとして効果的なものでしょうか?


マハラジ 何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠ざける。だが、なぜそう事を複雑にするのかね? ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えておきなさい。あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。ただ、それを心にとどめておきなさい。


質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。


マハラジ 私もまた同じ立場にいたのだ。だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。もしできるならば、私を信頼しなさい。私の言うことを心にとどめておきなさい。何も望んではならない。なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。


質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!


マハラジ 私は無関心なのではない。公平なのだ。私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。生と死はどちらも同じことだ。


質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。


マハラジ その反対に、慈悲と愛が私の核だ。すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。


質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんどの人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えることのない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の比丘(ビク)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。


マハラジ 「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。あなたの言うとおりだ。悟りは最上の贈り物だ。ひとたび、それを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。


質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう。


マハラジ もちろん、彼らはそう思うだろう! 無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう? 彼らは彼らのままであればいい。私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。果てしない数の名前と形がある。同じ海のなかにすべては立ち現れ、すべては溶けあう。すべての源はひとつだ。原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。存在するもの、それは愛すべきものだ。愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?


質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万人もの命を奪うことがあっても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によって死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるものです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。


マハラジ すべては起こるように起こるのだ。自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。怖がる必要はないのだ。


質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?


マハラジ すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。原因のない存在の出現を想像することはできない。しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。


質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。しかし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどまで邪悪なのでしょうか?


マハラジ 邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。あなたは性急に非難しすぎる。他者について思い煩うことはやめなさい。あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は消え去る。


質問者 私には計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自然の一部分でありうるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、自然はマインドのなかにあるからだ。マインドなしで自然がどこにあるだろうか?


質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。


マハラジ 観照の姿勢を発達させなさい。そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をもって見いだすだろう。観照している状態は完全な力をもっている。そこには何も受動的なことはないのだ。


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