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私が言っているのは、あなたの人生で起きることは、あなた自身の内面の必要性にきちんとしたがって起きているのであり、それが何であれ、今起きていることは重要で、大きな可能性を含んでおり、あなたが必要としていることだということです。


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人にでも状況にでも注意を向けるためには、自分自身が自分のそばに、そして人のそばに、状況のすぐそばにいなければなりません。そばにいる、つまりその場に存在すると、自分の予定表をもつことができなくなります。自分がこうするだろうとか、人がこうするだろうとか、状況がたぶんこうなっていくだろうとか仮定していれば、その瞬間に十二分な注意をはらうということができません。注意をはらうためには、心(マインド)がオープンであることが必要です。オープンな心、つまり判断もせず期待もしない心をもつことです。


もうひとつ重要なのは、ハートのほうもオープンにすることで、そのためには自分自身と他人とに対するあたたかい共感、そして過去のできごとへの寛大な宥しが必要です。オープンなハートをもつということは、相手に対等に接すること、共通の地盤を探すこと、そこでみつけられるかぎりの親密さと交流に対して自分を開いている、ということです。


愛への扉は、心とハートの開閉にしたがって開閉します。閉まっているときは、辛抱強くそして寛大であってください。さもないと二度と開かなくなるでしょう。


愛の存在にだけでなく、不在にも敏感であってほしいものです。不在を感じたら、耳を澄ませ、ハートをやわらげましょう。他人と分離している、と感じたら、微妙な判断や評価をしていないか探してみましょう。


分離や判断の経験は、すべて愛の存在に対して自分を開くための機会となります。知的な作業としては、固定観念や正当化から自分を遠ざけてください。感情面では、分離の結果、つまり自分の苦痛、他人の苦痛を感じてみてください。


判断から受容への移行、分離から同調への移行こそ、ヒーリングの真髄です。この移行ができないときには、「マインド・身体」領域において、「不快感=病気」への条件がととのっています。


あなたがたはみんな、この不快感から快感、閉鎖からオープン、不信から信頼への移行を学ぶ必要があります。”防御的”姿勢を”受容的”姿勢に変えることで、平和を実現することができ、また”排除的”な考えを”包含的”考えに変えることで、人間関係に調和をつくりだすことができます。


ヒーラーあるいは奇蹟を行う人になるということは、葛藤や争いから、また罪悪感から、判断や非難から、本来自由であれるはずの自分の能力を受けいれることです。この自分の中の能力を受けいれれば、わたしと同じように人生に奇蹟を起こすことができるでしょう。


何度もくりかえすように、あなたがたにはできるのです。ヒーリングは可能なだけでなく、必要なものです。だれでも自分の感じた傷や不公正さを癒し、奇蹟の力の証人になれます。ヒーリングということが、ここでのあなたの唯一の目的です。そのことに早く気づけば気づくほどよいでしょう。


どうか、あらゆる正統的なスピリチュアルな修行は、自分自身への愛と受容を養うことから始まるのを思い起こしてください。自分自身を愛することができないうちは、他人を愛そうとしないでください。それはできない相談です。


あなたのカンにさわることばかりしでかす人が人生に入ってきたら、その人を無理に愛そうとはしないでください。でも、衝突もしないでください。非難したり、あげつらったりして、敵視しないでください。ただ相手が自分のカンにさわっていることを認め、自分のフィーリングとともにいる時間をとってください。


あなたがひとりのとき、感じていることは、あなたの中だけの問題だということを改めて言っておきましょう。他人は、あなたの感情と関係ありません。自分の感じていることの責任を他人に押しつけるようなあらゆる考えを、切り離してください。


そして自分の感情とともにいて、自分自身に言うのです。「わたしのこの感情は、自分の中にあって自分が非難している面を示している。自分のあらゆる面を受けいれることを学びたい。わたしの中のすべての傷ついた部分に、愛をもたらすことを学びたい」


そうすると、あなたはほんものの変容の地点にきます。愛を自分のハートにもたらす準備ができました。


これを何度も何度も練習し、自分自身に対して辛抱強くあってください。兄弟姉妹やまわりの世界を愛そうとするのは、自分のハートに愛を持ちこめるようになってからにしてください。むりに外部を愛そうとしても、失敗し、自分をもっと責めるようになるでしょう。


自分自身にたっぷりの同情をもってください。小さな一歩から進みます。自分自身の思考と感情を癒すことから始めます。あなたが自分の批判的な考えや分離の感情を癒すたびに、宇宙の中のすべての心とハートがそれを感じます。あなたのヒーリングはあなただけではなく、全存在に及ぶのです。


あなたが平和になれば、世界の平和はすでに内在するものとなります。あなたに他人に対する責任があるとしたら、このことだけです。つまりあなたが自分のハートと心に平和をもたらすことです。


そんなアドバイスは利己的で無責任だと考える人がいるかもしれません。そういう人は、幸福を見いだすためには世界を救わねばならぬ、と信じています。その受けとめ方はまちがっています。自分がまず幸福感を見いださないかぎり、世界は救われません。


理解しがたいかもしれませんが、これが真実です。いまあなたが幸福でないなら、あなたはけっして幸福を見いだせません。ですから、もしいま自分が幸福でないとしたら、未来に幸福を探そうとするのをやめ、自分の注意を現在の瞬間に向けてください。そこにこそ、あなたの幸福があるのですから。


オープンなハート、オープンな心は、愛の存在へと扉を開きます。扉が閉まっていても、扉はあなたにむかって、開けてくれ、と呼びかけます。批判的な気分で他人と分離しているように感じるときも、愛が内部からあなたに呼びかけます。


わたしがすでに説いたように、あなたがたが何度聖域に入ることを拒んだとしても、扉はたたきさえすれば開かれるのです。わたしはまた、こうも言いました。「求めよ、さらば与えられん」でも、あなたがたは信じようとしませんでした。あなたがたは、だれかがあなたの罪や、優柔不断な態度や、しぶとい反抗の回数を数えあげていると思いこんでいるようですが、それは真実ではありません。数えあげているのは、あなたがただけです。


兄弟よ、あなたに言います。「数えあげるのをやめよ。言い訳をするのをやめよ。扉が閉ざされているふりをするのをやめよ。わたしは戸口に立っている。手をのばし、わたしの手をとりなさい。そうすれば、わたしとあなたとで扉を開け、ともに通りぬけることができるだろう」


わたしは無条件の愛への扉です。あなたがそこを通りぬければ、あなたもまた扉になるのです。


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質問者 私の友人はドイツ人です。そして私はイギリス生まれで、両親はフランス人です。私はアーシュラムからアーシュラムを巡りながら、一年以上もインドにいます。


マハラジ 何かサーダナ(修練)をしているのかね?


質問者 研究し、瞑想しています。


マハラジ 何に瞑想しているのだろうか?


質問者 私が読んだことに瞑想しています。


マハラジ よろしい。


質問者 あなたは何をされているのでしょうか?


マハラジ 座っているのだ。


質問者 ほかには?


マハラジ 話している。


質問者 あなたは何について話をされるのでしょうか?


マハラジ あなたは講義が聞きたいのかね? あなたが深く感じられるように、本当に心に触れるような何かを尋ねるほうがいい。感情的に関わらないかぎり、私と議論をしたとしても、本当の理解は私たちの間に生まれないだろう。もしあなたが「何も私を悩ますことはない、問題はない」というのなら、それはそれでいい。私たちは静かに黙っていよう。だが、本当にあなたの心に触れる何かがあるのならば、話す目的もあるというものだ。
私があなたに尋ねようか? あなたがひとつところから別のところへと、移動しつづける目的は何だろうか?


質問者 人びとに出会い、彼らを理解することです。


マハラジ 人びとの何をあなたは理解しようとしているのだろう? 正確には、あなたは何を求めているのだろうか?


質問者 統合です。


マハラジ もしあなたが統合を望むのなら、誰を統合するのか知らなければならないだろう。


質問者 人びとに出会い、彼らを見守ることで、人は自分自身をもまた知ることになるのです。それはともに進むのです。


マハラジ それはかならずしもともに進むとはかぎらない。


質問者 一方が他方を改善していきます。


マハラジ それはそのように働かないのだ。鏡はイメージを映しだすが、イメージが鏡を改善することはない。あなたは鏡ではなく、鏡のなかのイメージでもない。鏡を完全なものにし、それが正確に、真実に投影するようにしてから鏡の向きを自分自身の方向に変え、鏡が反映できるかぎりの、真実のあなたの投影を見なさい。しかし、投影はあなた自身ではないのだ。あなたは投影を見る者だ。それを明確に理解しなさい。あなたが何を知覚しようとも、あなたはあなたが知覚するものではないのだ。


質問者 私が鏡で、世界は投影なのでしょうか?


マハラジ あなたは鏡と投影の両方を見ることができるのだ。あなたはそのどちらでもない。あなたは誰なのか? 決まり文句で答えてはならない。答えは言葉のなかにないからだ。言葉で表せるもっとも近い表現は、「私は知覚を可能にし、体験者とその体験を超えた生命だ」と言えよう。
さて、あなたは鏡と鏡のなかのイメージから自分を引き離し、完全にひとりで、まったくあなただけで立つことができるだろうか?


質問者 いいえ、できません。


マハラジ どうしてできないと知っているのかね? どのようにやっているのかも知らずに、あなたはたくさんのことをしているのだ。消化し、血液やリンパ液を循環させ、筋肉を動かしている。すべて、どのようにしているのかさえ知らずに。同じように、あなたはなぜ、どのようにしてるのかも知らないまま、知覚し、感じ、考えている。同じように、あなたは知らなくてもあなた自身なのだ。真我としてのあなたに何も間違ったところはない。それはそれとして完全だ。正しく澄んでいないのは鏡なのだ。それゆえ、それがあなたに偽りのイメージを与えるのだ。あなた自身を正す必要はない。ただあなた自身に関するあなたの考えを正しなさい。あなた自身を鏡と鏡のなかのイメージから引き離すことを学びなさい。つねに、「私はマインドでも、その考えでもない」ということを覚えておきなさい。信念とともに、忍耐強くそれをしなさい。そうすればあなたは、すべてを抱擁し、すべてに遍在する永遠の存在─知識─愛の源としての、あなた自身の直接の姿を知るときがかならず来るだろう。あなたは身体のなかに焦点を合わせた、無限なるものだ。今、あなたは身体しか見ていない。真剣に試みてみなさい。そうすれば、無限なるものだけを見るようになるだろう。


質問者 実在の体験、それはいつやってくるのでしょう、それは続くものなのでしょうか?


マハラジ すべての体験は、かならず一時的なものだ。だが、すべての体験の根底にあるものは不動なのだ。出来事と呼ばれるものは何ひとつ永続しない。だが、ある出来事はマインドを浄化し、ある出来事はそれを汚してしまう。深い洞察とすべてを抱擁する愛の瞬間はマインドを浄化する。だが、欲望と恐れ、妬みと怒り、盲目と知的慢心は精神を汚し、鈍くしてしまうのだ。


質問者 真我の実現はそれほどまでに重要なのでしょうか?


マハラジ それなしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや葛藤を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。あなたは自由になれることを知っている。そして今、それはあなたにかかっているのだ。永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り去ることもない永遠の完成の状態を探求しにでかけるか、どちらかだ。そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなのだ。


質問者 ここまでは、あなたの言われることを理解しました。さて、私は何をすべきなのでしょうか?


マハラジ 何もすることはないのだ。ただ在りなさい。何もしてはいけない。在りなさい。山に登って洞窟のなかに座ることはない。私は「あなた自身で在りなさい」とさえ言わない。なぜなら、あなたはあなた自身を知らないからだ。ただ在りなさい。あなたは知覚可能な「外側」の世界でもなければ、思考可能な「内側」の世界でもない。あなたは身体でもマインドでもないことを見極めたのだ。ただ在りなさい。


質問者 真我の実現には、確かに段階があるはずです。


マハラジ 真我の実現に段階などない。何も漸進的なところはないのだ。それは突然起こり、後戻りできないものだ。あなたは新しい次元のなかに入り、そこから以前の次元が単なる抽象的観念でしかなかったことを見る。日の出とともに、ものごとをあるがままに見るように、あなたは真我を実現することですべてをあるがままに見るのだ。幻想の世界は後に残されたままだ。


質問者 真我の実現の状態のなかでは、ものごとは変わるのでしょうか? それらは色彩豊かになり、深い意味をもつようになるのでしょうか?


マハラジ その体験はまったく正しい。しかし、それは実在(サダーヌバーヴァ)の体験ではなく、宇宙との調和(サットヴァヌバーヴァ)の体験だ。


質問者 それでも、そこには進歩があるのでしょうか?


マハラジ 準備(サーダナ)のなかに進歩はありうる。実現は突然のものだ。果実はゆっくり熟していく。しかし、落ちるのは突然であり、しかも、もとに戻ることはないのだ。


質問者 私は身体的にも精神的にも安らかです。これ以上何が必要なのでしょうか?


マハラジ  あなたの状態は究極の状態ではないかもしれない。あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によって自覚するだろう。結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという感覚があるのだ。関節がはずれているかぎり、脱臼したところが痛むように、そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。


質問者 そのとおりです。しかし、自然な状態に達するためのサーダナとは何なのでしょうか?


マハラジ 「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新しい知識とともに振動するのだ。すべては自発的にやってくる。ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがするようになったのか説明ができない。真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽─苦痛から自由であると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのかを説明できないのだ。あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。「私には、もはや何も間違ったところがない」と。ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。ほかの人たちに伝えようとしてはならない。もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。沈黙しなさい。そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。


質問者 もし私が何に成るのかを言うことがあなたにできるのなら、それは私の成長を見守る助けになるかもしれません。


マハラジ 何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるのか言うことができるだろうか? あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。過去も未来も考えず、ただ在りなさい。


質問者 どうしてただ在ることができるでしょうか? 変化は不可避なのです。


マハラジ 変化の絶えないなかにあっては、変化は不可避だ。だが、あなたがそれに支配されることはない。あなたはそれに対して変化が知覚される、不変の背景なのだ。


質問者 すべては変化します。背景もまた変化するのです。変化に気づくための不変の背景など、必要ありません。自己は一時的なものです。それは単なる過去と未来の遭遇点でしかないのです。


マハラジ もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろう。何がそれを蘇らせるのだろうか? 朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか? 意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れるひらめきのようなものでしかないと知るだろう。その隙間のなかには何があるのだろうか? ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。


質問者 霊的な成就のためにあなたが勧める、私が行くべき特定の場所がありますか?


マハラジ 唯一、正しい場所は内側だ。外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れていきはしない。未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。完全に、今に集中するのだ。起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさい。


質問者 放浪しようとする衝動は何が原因なのでしょうか?


マハラジ 原因はない。あなたはただ、放浪しているという夢を見ているだけだ。数年後には、あなたのインドでの滞在も夢として現れることだろう。そのころ、あなたは何かほかの夢を見ていることだろう。夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。これが絶対的な真理なのだ。


質問者 物理的には動きまわりながら、内面においては動じずにいることはできないでしょうか?


マハラジ それはできる。しかし、それが何の役に立つというのだろう? もしあなたが真剣なら、最後にはうろつき回ることに飽きて、今まで時間とエネルギーを浪費してきたことを後悔するだろう。あなた自身を見いだすためには、一歩を踏みだすことさえ必要ないのだ。


質問者 真我(アートマン)の体験と絶対なるもの(ブラフマン)の体験の間には、何か違いがあるのでしょうか?


マハラジ 絶対なるものの体験などありえない。それはすべての体験を超えているからだ。その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。だが、誰も買う人がいなければ、それらに価値はない。絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。それを現実のものにするのが真我なのだ。


質問者 私たちは段階的な体験を通して絶対なるものに到達するのではないでしょうか? もっとも粗雑な体験からはじまり、もっとも崇高な体験で終わるように。


マハラジ それを熱望しないかぎり体験はありえない。欲望の間に段階はありうる。しかし、もっとも崇高な欲望とすべての欲望から自由になることの間には、渡らなければならない深遠がある。実在ではないものが実在に見えることはあるかもしれない。しかし、それは一時的なことだ。実在は時間を恐れてはいないのだ。


質問者 非実在は実在の表現ではないのでしょうか?


マハラジ  どうしてそうありえよう? それは、あたかも真理は夢のなかでそれ自体を表現すると言うようなものだ。実在にとって、非実在は存在しない。あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。疑ってみなさい。そうすればそれは消え去る。誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思っていたが、そうではなかった」と。一時性は非実在の最高の証拠なのだ。時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在ではない。実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。
ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだろう。在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。


質問者 非実在のなかにさえ、そこには実在の感触があります。


マハラジ そうだ。それを実在と見なすことで、あなたがそれに実在性を分け与えるのだ。あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されてしまうのだ。日が照るとき、色彩が現れる。日が沈むとそれらは消え去る。光なしにどこに色彩があるだろうか?


質問者 これは二元性のなかでの考えです。


マハラジ 考えることはすべて二元性のなかにある。本質のなかではいかなる思考も生き残らないのだ。


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