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質問者 私の年齢でもハタ・ヨーガを遂げることはできるでしょうか?


マハルシ なぜそのようなことを考えなければならないのですか? あなたは真我があなたの外側に存在すると考えるため、それを求めて努力するのです。しかしあなたは常に存在しているのではないでしょうか? なぜ自分自身を離れて、外側にある何かを追い求めるのでしょうか?

(対話619)


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あなたに一番つらくあたっているのは、あなた自身です。あなたの兄弟姉妹も同じなのですが、あなたもまた自分がどこか欠けていて価値がない、という基本的な感覚に悩まされています。自分がおそろしい失敗をおかしていて、遅かれ早かれ、権威ある人間、または抽象的なスピリチュアルな存在──たとえば神とかカルマの法則とかいったもの──によって罰せられるだろうと感じています。


自己の価値に関するこのような未解決の問題が、具体的にあなたの状況となって現れているわけです。つまり、それらを実現化させるために、ここにいるということになります。あなたは、自分の罪悪感を増幅させるような両親を選び、自分でその罪悪感に気づくことができるようにしました。ですから両親を責めてみても、あなたがたがじつは愛にもとづいて設定したこの状況を変えることはできません。唯一の脱出口は、自身の罪悪感や恐怖心に根ざした信念や人間関係のパターンに気づき、その気づきを広げてゆくことです。


だれか特別な人を探して、両親からは得られなかった愛をもらおうとしても、うまくいきません。ただ圧力釜の温度をあげるだけです。選んだ異性が、じつは関係を修復すべき親とそっくりだったと気づいても、驚くにはあたりません。あなたは自分の傷と、しっかり向き合うしかありません。両親、伴侶、子どもは、あなた自身の癒されるべき場所を示してくれています。あなたもまた、かれらの人生において、そういう役割をはたしています。


これは良いとか悪いとか、こうであるべきだといったさまざまの条件・制約によって成立しているこの世界の中で、だれかに無条件の愛を求めても、失敗は目に見えています。なぜなら、兄弟姉妹のほうも自己の無価値感から行動しますから、あなたの期待するような愛は与えられませんし、あなたもまたそうです。一番よい道はおたがいが自分の必要とする愛への気づきを高めていくこと、自分の責任で、自分にその愛を与えはじめることでしょう。


自身の傷に対して自分で愛を与えるという責任をとらないうちは、攻撃──防御、罪悪──非難という悪循環から抜け出ることはできません。怒り、傷つけられたという思い、裏切られた感じ、それらはあたかも正当なように見えますが、おたがいのいさかいの火に油を注ぐだけでなく、自分は愛されないし、愛する能力もない、という無意識の信念をたえず強めていきます。


自分自身がどれほど自己を憎悪しているかに気づく必要があります。鏡をのぞいて、そこに自分の信じていることがそっくり映っているのがわかるまでは、まずは日々出会うすべての兄弟姉妹を鏡として、自分が自分をどう見ているのかを知ることができます。この実践は特にむずかしくはありませんが、天国への最短距離というわけではありません。自分の見ているものは、よその人への教訓なのだと考えがちだからです。


この世界のいまわしい心理戦争からのがれるには、投影というゲームをやめることです。このゲームは自分の無意識の中の死への衝動を、それは悪いというせまい道徳倫理で、自分の目からもおおい隠してしまいます。皮肉に聞こえるかもしれませんが、自分は正しくて悪いのは兄弟なのだと主張しているその瞬間に、あなたは自分自身の罪悪感と劣等感を拡大しているのです。


非難の悪循環から抜け出るには、非難をやめるしかありません。ただし、覚悟してください。苦しみの円環から抜け出ようとすると、世間からはよく言われないでしょう。まず最初に攻撃の矢面に立たされるのは、この世界の投影ゲームに参加しない人たちです。あなたがたがわたしの生涯から教訓を受けとるとしたら、まずはそのことです。


自分自身の恐怖心をだれかに投影せず、自分のものとして自覚する人は、この世界のゲームをおびやかすのです。自分自身の殺人衝動を認め、その根を自分の意識の中に探そうとする人は、社会をとりまとめている道徳倫理をおびやかします。


人間社会においては、正義があり、悪事があります。正義をおこなう人は報われ、悪事をはたらく人は罰せられます。つねにそのようになっていました。


わたしの教えは、この基本的前提をゆるがします。まず、ごく表面的なレベルでは、悪人は罰せられるべきだという考えに抵触します。処罰せよという大合唱にわたしは立ち向かい、宥しを主張しつづけるでしょう。


より深いレベルでは、わたしの教えは、これこれの行いをしたらその人は非難されるべきだ、という考えそのものにも抵触します。だれかが誤った行いをしたら、それは当人が誤った考えを抱いたからです。その考えが誤りであることに気づけば、行いを変えられます。ですから、その人をそちらの方向に導くことは社会の利益になります。しかし、もしそこに処罰が持ちこまれたら、その人の誤った考えにはさらに拍車がかかり、さらに罪悪感が増し加わるでしょう。


「悪事をふたつ重ねても、ひとつの善事にはならぬ」という言い回しを聞いたことがありますか。これこそ、わたしの教えの中心にあるものです。あらゆる悪事は、正しいやりかたで修正されなければなりません。それ以外の修正方法は、攻撃となります。


相手の議論をねじ伏せようとしたり、まちがいだぞと言い負かそうとしても、相手はいこじになるだけです。それは暴力的なやりかたです。これに対して、わたしのやりかたは非暴力的です。わたしの場合は、こうすれば問題は解決するという解答を実際に行動で見せてあげます。それは苦しんでいるものに対し、攻撃ではなく、愛をもたらします。このやりかたは、本来の目的にかなっています。


よくないこととは、罪悪感を教え、苦痛や苦しみが必要なのだという信念を確立することです。正しいこととは、愛を教え、それにあらゆる苦しみを乗りこえる力があるのを示すことです。かんたんに言えば、正しくあればよくないことはできないし、よくない場合には正しいことはできません。正しくあるために、正しいことを行いなさい。


愛の感じられないやりかたでは、真に愛することはできません。ほんとうに正しい人間なら、誤りを攻撃する態度はとれません。誤りはもちろんなくすべきです。しかし、すべての誤りの根源は恐怖心ですから、恐怖心の撲滅が誤りの修正につながります。


愛という反応だけが、恐怖心を無力にできます。信じられないのでしたら、ためしてごらんなさい。あなたが、恐怖心を起こさせるだれか、あるいはそういう状況を愛してみれば、恐怖心は消えてしまうでしょう。これはほんとうです。それは愛が恐怖心の解毒剤であるからというよりも、むしろ恐怖心は「愛の不在」だからです。ですから、愛があらわれたところに、恐怖心はいすわることはできません。


あなたがたのほとんどは、恐怖心についてはかなり理解していますが、愛についてはほとんど知りません。あなたは神を恐怖し、わたしを恐怖し、おたがいを恐怖しています。


なぜ恐怖を抱くのですか。それは、自分に愛される値打ちがなく、おたがいを愛する能力もないと信じているからです。


たったひとつ、この信念を変えさえすればよいのです。人生のすべてのネガティブなものは、自分についてのこの誤った信念をぬぎすてたとたんに、はがれ落ちます。


友よ、あなたは自分で考えているようなものではありません。ネガティブな信念や行動の単なる集合体ではありません。自分ではそう信じているでしょうが、そうではありません。


あなたはわたしと同じように、神の子です。神の真実と善は、あなたの真実と善です。この事実を一瞬でも受けいれるならば、あなたの人生は変容します。この事実を一瞬でも兄弟についても受けいれるなら、あなたがたのあいだの葛藤は終わります。


あなたが目にしているのは、自分の信念の直接の結果です。自分が罪深いと信じていれば、罪深い世界があらわれます。罪深い世界は罰せられることになるでしょうし、あなたも同じ運命をこうむるでしょう。


「神はあなたを打ち倒される。神は世界を滅ぼされる。神が復讐をなされる」これらの言葉こそ、友よ、あなたの考えていることなのです。これらは──冒瀆的に聞こえるかもしれませんが──あなたがたのほうがわたしに押しつけた、ばかげた考えです!幸い、わたしにはわかっています。これが、あなたがたが自分を痛めつけるための粗雑なやりかただということが。


こんな小手先の操作は問題を先送りにするだけです。そのうち、あなたも飽きてくるでしょう。罪悪という考えかたぜんたいを、個人としてのあなた──そして集団としてのあなたがた──はやがて拒絶するようになり、故郷へ帰りたくなるでしょう。


友よ、あなたがたが完全に正直になり、責任を引き受けることになるその瞬間がくることを、わたしは確信し、喜びをもって待ちのぞんでいます。あなたが自分の兄弟の善をひとつのものとして見る日には、神からあなたをへだてるすべてのものがはがれ落ちて、あなたは輝かしい姿でわたしのわきに立つことになるでしょう。


そのとき、あなたは一点の疑いもなく、あなたを愛している神の愛を知るのです。そのとき、あなたは”彼女”がただの一度もあなたを見捨てたことがなかったのがわかるでしょう。たとえあなたが”彼女”の罰が自分にくだり、世界は破壊されるだろうという血迷った考えにとらわれていたさなかにもです。そのとき、あなたは自分の心の創造の力を知り、そして神と別個にではなく、神とともに創造することを選ぶでしょう。


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質問者 私たちは神あるいは完全な人として人格化された実在を礼拝するよう勧められてきました。絶対なるものの礼拝を試みることは、脳に中心を置く意識にはあまりにも困難だと言われたのです。


マハラジ 真理はシンプルであり、誰にでも開かれている。なぜそれを複雑にしてしまうのだろう? 真理は愛しく、愛すべきものだ。それはすべてを含み、すべてを受け入れ、すべてを浄める。偽りこそが困難で、苦難の源なのだ。それはつねに欲し、期待し、要求する。偽りであるために空虚で、つねに確認と再確認を探している。それは探求を恐れ、そして避けている。それはたとえ弱くはかないものでも、何であれ、支えとなるものと自己同一化する。何であれ得ると失い、さらに求める。それゆえ、意識を信頼してはならない。何ひとつあなたが見、感じ、考えられることはそのとおりではないのだ。罪や徳、長所や欠点でさえ、現れたとおりではない。通常、善と悪は社会の慣例と習慣の問題であって、どう言葉で表されるかにしたがって、避けられたり、歓迎されたりするものだ。


質問者 悪い欲望や良い欲望、高次や低次の欲望といったものはないのでしょうか?


マハラジ すべての欲望は悪い。だが、あるものはほかのものよりさらに悪い。欲望を追求してみなさい、かならず災難にであうだろう。


質問者 欲望から自由になりたいという欲望もそうでしょうか?


マハラジ なぜ望むのだろうか? 欲望から自由な状態を望んでも、自由にはなれないだろう。何もあなたを自由にすることはできない。なぜなら、あなたはすでに自由だからだ。欲望のない明晰性であなた自身を見なさい。それだけだ。


質問者 自己を知るには時間がかかります。


マハラジ どうして時間があなたを助けられるだろう? 時間とは瞬間の連続だ。それぞれの瞬間は無から現れ、無へと消えていき、ふたたび現れることはない。そんなはかないものの上に、どうして何かを築くことができるだろう?


質問者 不変なるものとは何でしょうか?


マハラジ 自分のなかの不変なるものを見てみなさい。内面へと深く潜り、あなたのなかの真実を見いだしなさい。


質問者 どのように自分自身を探しだせばよいのでしょうか?


マハラジ 何であれ起こることはあなたに起こる。あなたが何をしようと、それを為す人はあなたのなかにいる。個人としてのあなたの主体を見いだしなさい。


質問者 私は個人以外の何でありうるのでしょうか?


マハラジ 見つけだしなさい。たとえ私があなたに、あなたは観照者、静かに見守る人だと言ったところで、あなた自身が自己の存在への道を見いださないかぎり、それは何の意味ももたないだろう。


質問者 どのようにして自己の存在への道を見いだしたらよいか、というのが私の質問です。


マハラジ 「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。最終的にあなたが確信できる唯一の事実とは、あなたは在るということだけだ。「私は在る」は確かだ。「私はこれだ」は確かでない。真実のあなたとは何なのか。それを見いだすために努めなさい。


質問者 ほかでもないそれだけを、私はこの六十年やってきたのです。


マハラジ 努力することに何の誤りがあるだろう? なぜ結果を追い求めるのだろうか? 努力することそのものがあなたの本性だ。


質問者 努力は苦痛です。


マハラジ 結果を求めることで、あなたがそうしたのだ。結果を求めずに努力しなさい。強欲にならずに努力しなさい。


質問者 なぜ神は私をこのように造られたのでしょうか?


マハラジ どの神についてあなたは話しているのだろうか? 神とは何なのか? 質問することを可能にしているその光そのものが神ではないだろうか? 「私は在る」そのものが神なのだ。探求そのものが神だ。探求を通して、あなたは身体でもマインドでもなく、あなたのなかの自己への愛が生きるものすべての自己への愛だということを発見する。その二つはひとつなのだ。あなたのなかの意識と私のなかの意識は二つのように見えるが、実際はひとつだ。統合を見いだしなさい。それが愛なのだ。


質問者 どうすればその愛を見いだせるのでしょう?


マハラジ 今、あなたが愛するものは何だろうか? 「私は在る」だ。あなたのハートとマインドをそれに捧げなさい。ほかに何も考えずに。これが努力なく自然になったとき、最高の状態となる。そのなかでは、愛そのものが愛する者であり、また愛される者なのだ。


質問者 誰もが生きること、存在することを望んでいます。それは、自己愛ではないでしょうか?


マハラジ すべての欲望は、自我のなかにその源をもっている。問題は、正しい欲望を選択することにある。


質問者 何が正しく、何が間違っているかは習慣としきたりによって変化します。基準は社会によって異なります。


マハラジ すべての伝統的基準を捨て去りなさい。それらは偽善者たちに任せておくがいい。欲望と恐れと誤った概念からあなたを解き放つものだけが正しいのだ。あなたが罪や徳に煩わされている間は、安心が訪れることはないだろう。


質問者 罪や徳が社会的基準に基づくことは認めますが、霊的な罪や徳もあるかもしれません。私の言う霊的とは絶対性の意味です。絶対的罪や絶対的徳といったものがあるのでしょうか?


マハラジ 罪や徳は個人にしかあてはまらない。罪深き人や徳高き人なしに、罪や徳があるだろうか? 絶対の次元に個人の存在はない。純粋な覚醒の大洋は、徳高くも罪深くもない。徳や罪はつねに相対的なものだ。


質問者 このような不必要な概念を、私はぬぐい去ることができるでしょうか?


マハラジ あなたが自分を個人と考えているかぎりは無理だ。


質問者 私が罪や徳を超えたことを何によって知るのでしょうか?


マハラジ すべての欲望と恐れから、そして自分が個人であるという考えそのものから自由になることによってだ。「私は罪人だ」、「私は罪人ではない」といった考えをいだくこと自体が罪なのだ。自分自身をある特定のものと自己同一化することが罪のすべてだ。非人格が真実であり、人格は現れては消えていくものだ。「私は在る」は非個人の存在だ。「私はこれだ」が個人だ。個人は相対的なものであり、純粋な存在は根本的なものだ。


質問者 純粋な存在が無意識であるはずも、識別力のないはずもありません。どうしてそれが罪と徳を超えられるのでしょうか? どうか教えてください。純粋な存在には知性があるのでしょうか?


マハラジ これらすべての質問は、あなたが自分を個人だと信じるために起こるのだ。個人であることを超えて見なさい。


質問者 個人で在ることをやめなさいと言うとき、あなたは正確には何を意味しているのでしょうか?


マハラジ 私は在ることをやめなさいとは言ってはいない。それは不可能だ。私は、あなたが生まれ、両親をもち、この身体であり、いつか死が訪れ……といった想像をするのはやめなさいと言っているだけだ。試してみなさい。はじめて見なさい。それはあなたの思うほど困難ではないのだ。


質問者 自分を個人だと考えるのは非個人性の罪です。


マハラジ これもまた個人的見解だ! なぜあなたは非個人性をあなたの罪と徳という概念で汚すのだろうか? それはまったく当てはまらない。非個人性は善や悪といった言語では描写できないものなのだ。それは存在、智慧、愛、絶対なるものだ。どこに罪の余地があるだろう?そして徳とは単に罪の反対でしかない。


質問者 私たちは神聖な徳について話しているのです。


マハラジ 真の徳は神の本性(スワルーパ)だ。真のあなたがあなたの徳なのだ。だが、罪の反対である、あなたの言う徳は恐れから生まれた服従でしかない。


質問者 それでは、善であろうとするすべての努力はどうしてあるのでしょうか?


マハラジ それはあなたを動かしつづけるのだ。神を見いだすまであなたはつき進む。そして神はあなたを神自身のなかに引き入れ、あなたを彼のごとくにするのだ。


質問者 同じ行為がある時点では自然な行為と見なされ、ほかの時点では罪と見なされます。何がそれを罪なものとするのでしょうか?


マハラジ 何であれ、あなたがよりよい知識に反してするならばそれは罪だ。


質問者 知識は記憶に依存しています。


マハラジ 自己を覚えていることが徳であり、自己を忘れることが罪だ。つまり、それは魂と物質の心理的な連結部だ。この連結部を精神(アンタカラナ)と呼んでもいいだろう。この精神が未熟で、未発達であり、まったく原始的ならば、それは粗雑な幻想に支配される。それが広さと繊細さにおいて成長すれば、純粋な物質と純粋な魂との完璧な連結部となり、物質に意味を与え、魂に表現を与える。物質的世界(マハーダカーシュ)と霊的世界(パラマカーシュ)がある。その間に宇宙的マインド(チダカーシュ)と宇宙のハート(プレマカーシュ)と呼ばれるものがある。その二つをひとつにするのは愛の智慧なのだ。


質問者 ある人は愚かで、ある人は知性的です。この違いは精神のなかにあります。成熟した人は、その背景により多くの経験をもっています。子供が食べ、飲み、眠り、遊んで成長するように、人の精神も考え、感じ、為すすべてによって、魂と身体のかけ橋として、充分な役目を果たすようになるまで形成されていきます。橋が両岸の間の通行をもたらすように、精神は源とその表現をひとつに結びつけるのです。


マハラジ それを愛と呼ぶがいい。その橋が愛なのだ。


質問者 究極的に、すべては体験なのです。何であれ、私たちが考え、感じることは体験です。その背後には体験者がいます。私たちの知るすべてはその二つ、体験と体験者で成り立っています。しかしその二つは、実際にはひとつです。体験者のみが体験なのです。それにも関わらず体験者は体験を外側にあると見ます。同じように、魂と身体はひとつであり、二つに現れて見えるだけです。


マハラジ 魂にとっては、一者だけが存在する。


質問者 他者は誰にとって現れるのでしょうか? 私には、二元性は精神の不完全性によって導かれた幻想と見えます。精神が完全になったとき、二元性は消え去るのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。


質問者 それでも、私のとても単純な質問を繰り返さなければなりません。誰が罪と徳の区別をつけるのでしょうか?


マハラジ 身体をもつ者が、身体とともに罪を犯し、マインドをもつ者がマインドとともに罪を犯すのだ。


質問者 まさか、ただマインドと身体を所有することが罪を犯すよう強要するとは言えないはずです。その根本に第三の要因があるはずです。私は繰り返し、この罪と徳の質問に戻ってきます。なぜなら、最近の若い人たちは、罪といったものはなく、その瞬間の欲望に安易にしたがい、罪に対して神経過敏になる必要はないと言いつづけているからです。彼らは伝統も権威も受け入れず、強固で正直な思考にのみ影響されるのです。もし彼らがある特定の行為を慎むとしたら、それは罪の自覚からではなく、むしろ警察への恐怖からなのです。疑いなく彼らの言うことには一理あります。なぜなら価値観は、時や場所の変化とともに変わるということが、私たちにも理解できるからです。たとえて言えば、戦争で殺すことはこの世紀では偉大な徳ですが、つぎの世紀では恐ろしい犯罪と見なされるかもしれないからです。


マハラジ 地球とともに動いている人にとって、昼と夜を体験することはまぬがれようがない。太陽とともにとどまる人は暗闇を知らない。私の世界はあなたの世界とは異なるのだ。私が見るには、あなたがたすべては舞台の上で演じているのだ。あなたが行ったり来たりしていることには何の実在性もない。そしてあなたの問題はまったくの空想だ!


質問者 私たちは夢遊病者なのかもしれません。あるいは、悪夢を見ているのかもしれません。あなたはどうすることもできないのでしょうか?


マハラジ 私はしている。私はあなたの夢のような状態に入り込んで、あなたに言っている。「あなた自身や他者を傷つけるのはやめなさい。苦しむのはやめなさい。目覚めなさい!」と。


質問者 それでは、なぜ私たちは目覚めないのでしょうか?


マハラジ あなたは目覚めるだろう。私は挫けさせられない。時間はかかるだろうが。あなたが自分の夢に疑問をもちはじめたとき、覚醒は間近なのだ。


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