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どうすれば心を正しく保てるでしょうか?


マハルシ 気性の荒い牛は飼い葉でおびき寄せて牛舎へと誘います。同じように、心も良い想念によって誘わなければなりません。


質問者 それでも、心は落ち着かないのです。


マハルシ 群れからはぐれがちな牛は、さ迷い出ることが好きなのです。たとえそうだとしても、おいしい飼い葉でおびき寄せて、なんとか牛舎に誘い入れなければなりません。それでも、牛は隣の牧場に入り込もうとするでしょう。ですから、良質の飼い葉が自分のところでも食べられるということを、徐々に牛に悟らせるようにしなければなりません。時がたてば、牛もさ迷い出すことをやめて、自分の牛舎にとどまるようになるでしょう。さらに後には、牛舎から追い出したとしても、隣の牧場に行かずに戻って来るようになるのです。このように、心も正しい道を歩むように訓練しなければなりません。そうすれば徐々に正しい道を進むようになり、誤った道に戻ることはなくなるでしょう。


質問者 心に示すべき正しい道とは何でしょうか?


マハルシ 神を想うことです。

(対話563)


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援助と権威


もし誰かがあなたを助けてきて、それゆえあなたが彼をあなたの権威にしてしまうなら、そのときにはあなたは、それ以上のすべての助け──単に彼からのだけでなく、あなたのまわりのすべてのものからの──を妨げてしまうのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


われわれは特定の方向からの助けにのみ心を開く


なぜわれわれは、ある特定の方向からの助けにのみ心を開き、他のすべての方向には閉ざしているのだろう? 意識的または無意識的に、あなたは私にあなたの愛、あなたの同情を与えるかもしれない。あなたは私のさまざまな問題を理解するのを助けてくれるかもしれない。しかしなぜ私は、あなたこそは私の唯一の助けの拠所、唯一の救い主だと主張するのだろうか? なぜ私は、あなたを私の権威に築き上げてしまうのだろう? 私はあなたに傾聴する。私はあなたの言うすべてのことには注意を払うが、しかし私はほかの人の発言には無関心であるか、または耳を貸さない。なぜだろうか? これが問題点ではあるまいか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


人は権威者にのみ耳を傾ける


われわれは、自分たちが助けられているのかどうかの証拠を求めているのだろうか? 医者、子供や通行人の笑顔、関係、風に吹き払われる一枚の葉、気候の変化、教師やグルすらも──これらすべてのものは、助けになりうる。機敏な人間にとっては、至る所に助けがある。しかしわれわれの多くは、ある特定の教師や書物以外のあらゆるものに対して眠っており、そしてそれがわれわれの問題なのである。あなたは、私が何かを言うと注意を払うのではないだろうか? しかしほかの誰かが同じことを、たぶん異なった言葉で言うとき、あなたはつんぼになる。あなたは、あなたが権威だとみなす者にのみ耳を傾け、それ以外の人間が語るときには機敏でない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


祈りが真理をもたらすことはない


真理、あるいは呼び方はどうであれ、は、精神によって見出すことはできない。思考はそれを追い求めることはできない。それに至る道はない。それは、崇拝、祈り、または犠牲によってもたらすことはできないのだ。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


慰められようとする衝動が教会をつくり上げる


神は、教会の中に、それともわれわれの心の中に見出されるべきものだろうか? 慰められようとする衝動は幻想を生むもとになる。教会、寺院、そしてモスクを創り上げるのは、この衝動なのだ。われわれは、それらのものに、あるいは全能の国家に我を忘れ、その間に真実なる物は通り過ぎてしまう。重要でないものが、すべてを食い尽くすものになる。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


経験は常に過去を強化する


思考は、これまであったものの反応、記憶の反応である、違うだろうか? 記憶は、伝統、経験であり、そして新しい体験へのその反応は、過去の結果である。それゆえ、経験は常に、過去の強化なのだ。精神は、過去の、時間の結果である。思考は、多くの昨日の産物なのだ。思考がそれ自身を変えようとし、これ、またはそれになろう、またはなるまいと努めるとき、それは単に、異なった名前の下でそれ自身を永続させるだけである。既知なるものの産物なので、思考は決して未知なるものを体験することはできない。時間の結果なので、それは決して時間を超越したもの、永遠なるもの、を理解することはできない。真なるものがあるためには、思考はやまねばならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


思考は存続の過程


存続するために、われわれは考えることを強いられる。思考は存続の過程なのだ。それが個人のであれ、あるいは国家のであれ、思考すること、すなわちその最も低い、あるいは最も高い形での願望は、常に自己閉鎖的で、条件づけるものでなければならない。われわれが宇宙について考えようと、われわれの隣人たちのこと、われわれ自身のこと、あるいは神について考えようと、われわれのすべての思考は、限られており、条件づけられているのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


積極的な教えが恐怖に連続性を与える


人は既知なるものの中に飛び去るのだが、既知なるものとは信念、儀式、愛国心、宗教的教師たちの慰藉的な決まり文句、司祭たちの確信、等々である。これらは順次、人と人との間に葛藤を引き起こし、それゆえ問題は、ある世代から別のそれへと引き継がれていく。もし人が問題を解決しようとするなら、人はその根源を究明し、そして理解しなければならない。この、いわゆる積極的教え、共産主義を含む諸宗教の、「これこれを考えるべきこと」式の教えは、恐怖に連続性を与える。それゆえ、積極的教えは破壊的なのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


指導を求めるのは恐怖のはずみである


「しかし、自分自身、または他人を権威、救世主にすることなく、指導し、または指導されることは可能ではないでしょうか?」
われわれは、指導されようとする衝動を理解しようとしているところである、違うだろうか? この衝動は何なのだろうか? それは恐怖の結果ではないだろうか? 不確かなので、自分のまわりの一時性を見るので、何か確かなもの、永続的なものを見出そうとする衝動がある。しかしこの衝動は、恐怖のはずみなのだ。恐怖とは何かを理解する代りに、われわれはそれから逃避する、そしてまさに逃避すること自体が恐怖なのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


安全への願望が戦争の原因


われわれは権威と教導とに慣れている。教導されようとする衝動は、安全でいたい、保護されようとする願望から湧き出る。これはわれわれのより深い衝動の一つではないだろうか?
「そうだと思いますが、しかし保護と安全なしには、人は……」
どうかその問題を調べることにし、早合点しないようにしよう。安全であろう――単に個人としてだけでなく、集団として、国家として、さらには民族として──とするわれわれの衝動のゆえに、われわれは、ある特定の社会の内部および外部で、戦争が大きな関心事になるに至った、そういう世界を築き上げてしまったのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


凡庸な精神


凡庸さの要因の一つは達成しよう、結果を持とう、成功しようとする衝動ではないだろうか? そしてわれわれが創造的になることを欲するとき、われわれは依然としてものごとを浅薄に扱っているのではないだろうか? 私は【これ】だ、そしてそれを私は【それ】に変えようと欲する、それゆえ私はいかにしてと尋ねる。しかし創造性が、何か追求されるべきもの、達成されるべき結果であるとき、精神はそれをそれ自身の状態へと引き下げてしまったのだ。われわれはこの過程を理解しなければならないのであって、凡庸さを何かほかのものに変えようと試みてはならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


両方に気づくこと


単に部分的に鋭敏であることは、麻痺していることである。美を受け入れて、醜に逆らうことは、何の感受性も持たないことである。沈黙を歓迎して、騒音を拒むことは、全的ではないことだ。鋭敏であることは、沈黙と騒音のうちの一方を追い求めて他方に逆らうことなく、両方に気づくことである。それは、自己矛盾なしにあること、全的であることなのである。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


探求は幻想である


「では、探求は幻想なのでしょうか?」
多くの幻想のうちの一つである。精神が動機を持っていないとき、それが自由であって、いかなる切望によっても駆り立てられていないとき、それが完全に静謐であるとき、そのとき真理は、【それ自体としてある】。あなたは、それを追及する必要はない。【あなた】がそれを追求したり、招き寄せることはできないのだ。それは、向うからやってこなければならない。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


真理を見出すためには信仰も不信仰もあってはならない


真理、または神を見出すためには、信仰も、不信仰もあってはならない。信者は、不信仰者と変わらない。どちらも真理を見出すことはないであろう。なぜならかれらの思考は、かれらの教育によって、かれらの環境によって、かれらの文化によって、そしてかれら自身の希望や恐怖、喜怒哀楽によって形作られているからだ。これらすべての条件づける影響から自由ではない精神は、どうあがこうと決して真理を見出すことはできない。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


明晰さの始まり


しかしもしあなたが、あなたがそのために尽くしてきたすべてのものが愚劣で、無駄であり、それはよりいっそうの不幸に行き着くにすぎないということに本当に気づけば、そのときにはすでに明晰さの始まりがある。自分が北に行くつもりのときに、実際には南に向かっていたことをあなたが発見なされば、その発見それ自体が、まさに北への転換なのではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


真の革命


このパターン内では、変化は、それがいかに革命的に見えようと、少しも変化ではない。患者が大手術を必要とするとき、単に徴候を和らげるのは馬鹿げたことである。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


あなたは休みない活動の只中で腐敗してゆく


「しかし私は、ただじっと坐ったまま、腐っていくわけにはいきません!」  あなたは今、あなたの休みない活動の只中で腐敗しつつある。そしてもしも、自己修養に余念のない隠者のように、あなたがただじっと坐りながら、内面的には欲望で、あるいは野心と羨望のあらゆる恐怖で燃えていれば、あなたは衰弱し続けることだろう。腐敗は体面とともに生まれる、というのが真相なのではあるまいか?


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


成功の梯子


「人は、責任ある地位を占め、刻苦勉励して頂上に登るかもしれませんが、しかし内面的には人は死んでいるのです。もしあなたが、われわれの間のいわゆる偉人──その言動や演説についての報道を載せた新聞に、毎日名前の出る人物──たちに、かれらは本質的に鈍感で愚劣だと告げたら、かれらはぎょっとすることでしょう。しかしわれわれ他の人間と同様、かれらもまた萎れ、内面的に堕落していくのです。なぜでしょうか? われわれは道徳的で、大層立派な生活を送るのですが、しかし目の奥には何の炎もありません。われわれの中には、何一つ自分自身のために得ようとしていない人間もいます──少なくとも私は、彼らはそうしていないと思うのです──が、にもかかわらず、われわれの内面生活は、潮が引くように衰弱しています。知る知らぬにかかわらず、また大臣専用室にいようが、献身的奉仕家のがらんとした部屋にいようが、精神的(スピリチュアリー)には、われわれは、片足を墓場に入れているのです。なぜなのでしょうか?」
それは、われわれがうぬぼれによって、成功と達成のプライドによって、精神にとって大きな価値を持っているものごとによって詰まっているからではないだろうか? 精神が、それが蓄積したものによって押しひしがれているとき、心は衰弱する。誰もかれもが成功と認知の梯子を登ろうとしているというのは、非常に不思議ではないだろうか?


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


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質問者 私はフランスで生まれ育ち、この十年間ヨーガの修練を続けてきました。


マハラジ 十年もの修練の後、あなたは目的に近づいただろうか?


質問者 少しは近づいたのかもしれません。ご存じのように、修練は厳しいものです。


マハラジ 真我は近くにあり、それへの道は易しいものだ。あなたがすべきことは、ただ何もしないということだけだ。


質問者 それでも、私はサーダナ(修練)がたいへん難しいものだと知りました。


マハラジ あなたのサーダナは在るということだ。するということは起こるのだ。ただ注意深くありなさい。あなたは在る、と覚えていることに何の困難があるだろう? あなたはつねに在るのだ。


質問者 存在の感覚は疑いなく、つねにそこにあります。しかし注意の範囲は感情、イメージ、観念といった心理的な出来事にしばしば侵略されてしまいます。純粋な存在の感覚は、たいてい締めだされてしまうのです。


マハラジ マインドから不必要なものを取り除くためのあなたの手段はどのようなものだろう? マインドを浄化するためのあなたの方法と道具は何だろうか?


質問者 基本的に、人は恐れています。彼は彼自身をもっとも恐れているのです。私は、自分が今にも爆発しそうな爆弾を抱えこんでいる人のように感じています。彼はそれを取り除くことも、棄て去ることもできません。恐怖におののき、狂乱のなかで解決法を探しまわり、それを見いだせずにいるのです。私にとって解放とは、この爆弾から自由になることです。私はこの爆弾について多くを知りません。私の知っていることと言えば、それが私の幼年期からのものだということです。あたかも、私は愛されずにいることを激しく抗議している、怯えた子供のように感じます。子供は愛を切望し、それを得ることができないために恐れ、怒っているのです。ときどき、私は誰かを、あるいは私自身を傷つけたくなります。この欲望があまりにも強いため、つねに恐れているのです。しかも、どうやって恐怖から自由になれるのか、私は知らないのです。
ヒンドゥー教の精神とヨーロッパの精神に違いがあることはご存じだと思います。ヒンドゥー教の精神は比較的シンプルなものです。ヨーロッパ人はもっと複雑な存在なのです。ヒンドゥー教徒は基本的にサートヴィック(純質)で、ヨーロッパ人の落ち着きのなさ、より多くの一般的知識や、絶えず必要に駆りたてられた活動の追及といったことを、彼らは理解しないのです。


マハラジ 彼の論証能力は実に大したものだ。彼はすべての論拠から彼自身を論証してしまうだろう! 彼の自己主張は、論理を頼りにしているからなのだ。


質問者 考えることと論証することは、マインドの正常な状態です。マインドはただその働きを止めることができないのです。


マハラジ それが習慣的な状態ではあっても、通常の状態である必要はない。正常な状態に苦痛はない。誤った習慣は、しばしば慢性の苦痛へと導くのだ。


質問者 もしそれが自然な、あるいは正常な状態ではないとしたら、どうやってそれを止めればいいのでしょうか? マインドを静める方法があるに違いありません。私はどんなによく、自分に向かって言うことでしょう。「もう充分だ。どうか止まってくれ。この何度も何度も果てしなく繰り返すおしゃべりに疲れ果てた」と。しかし、私のマインドは止まらないのです。ほんの少しの間、それを止めることはできると感じはしますが、長くは続かないでしょう。いわゆる「霊的」な人びとでさえ、マインドを静めるために策略を使うのです。彼らはマントラを復唱し、歌い、祈り、呼吸を強いたり、静めたり、揺さぶり、集中し、瞑想し、三昧状態を追い求め、美徳を積んだりすることで、働きかけることや、追いかけること、動きまわることをやめるために、つねに働きつづけているのです。


マハラジ マインドは二つの状態で存在している。ひとつは水として、もうひとつは蜜として。水はほんのわずかな乱れでも波立ってしまう。一方、蜜はどんなに乱されても、すばやく不動の状態に戻るのだ。


質問者 マインドはその本性からして落ち着きのないものです。それを静かにさせることはおそらくできるでしょうが、それ自身は、静かではないのです。


マハラジ あなたには慢性の高熱と身震いがあるのだろう。マインドを落ち着かなくさせるのは、欲望と恐れなのだ。すべての否定的な感情から自由になれば、それは静かになるだろう。


質問者 子供を否定的な感情から守ることはできません。誕生してすぐに、それは苦痛と恐れを学ぶのです。空腹は残酷な主人であり、それは依存と憎悪を教えます。子供が母親を愛するのは、彼女が食事を与えるからで、彼女を憎むのは、食事を与えるのが遅れるからです。私たちの無意識は葛藤で満ちていて、それが意識のなかへとあふれ出るのです。私たちはいつも火山の上に暮らしていて、つねに危険にさらされています。マインドの平和な人びととの交わりが、たいへんマインドを落ち着かせる効果があることは私も認めます。しかし、彼らから離れたとたん、古い問題がまたはじまるのです。私がグルとともに在ることを求めてインドを定期的に訪れるのも、この理由からなのです。


マハラジ あなたは来ては去り、また多様な気分や状態を通り抜けていくと考えている。私はものごとをあるがままに見ている。つかの間の出来事が急速な連続性のなかで私に呈示されていく。それらは私からその存在を引き出していながら、しかも確実に、私でも私のものでもないのだ。私は数ある現象のなかのひとつではなく、いかなる支配も受けない。私はまったく純粋に、完全に独立しているため、あなたの対立と否定になれ親しんだマインドで理解することはできないのだ。私には文字通り、何の対立も否定も必要ない。なぜなら、私が何かに反対や否定をすることができないのは明白なことだからだ。私はただ彼方の、まったく異なった次元のなかに在る。私と同一化する、あるいは対抗する何かを見つけだそうとしてはならない。私は欲望も恐れもないところにいるのだ。さて、あなたの体験はどうだろうか? あなたもまた、はかないものごとすべてから超然と離れて在るように感じているだろうか?


質問者 はい。ときどきはそう感じます。しかし、ひとたび危険を感じると、私は他者との全関係性の外に孤立してしまうのです。わかりますか? ここに私たちの精神状態の違いがあるのです。ヒンドゥー教徒は感情が思考にしたがいます。ヒンドゥー教徒にひとつの考えを与えると、彼の感情は湧きあがってくるのです。西洋人の場合は反対です。彼に感情を与えると、彼はひとつの観念を生みだすのです。あなたがたの観念は、私にとって知的には非常に魅力的なのですが、感情的には感応しないのです。


マハラジ あなたの知性を脇にのけておきなさい。これらのことがらに知性を用いてはならないのだ。


質問者 私に実行することのできないアドバイスが、何の役に立つというのでしょうか? それらはみな観念なのです。あなたは観念に対して感情で応えるよう求めているのです。なぜなら、感情なしに行為はありえないからです。


マハラジ どうして行為について話すのかね? あなたが行為をしているというのだろうか? ある未知なる力が行為をし、あなたはあなたが行為をしていると想像するのだ。いかなる形であっても、影響を与えることのできないまま、あなたは単に起こることを見ているだけなのだ。


質問者 どうして私には何もできないということを受け入れるのに、これほど途方もない抵抗が私のなかにあるのでしょう?


マハラジ だが、あなたに何ができるというのかね? あなたは手術を行う外科医の手にかかり、麻酔薬の影響下にある患者と同じだ。目覚めたとき、あなたは手術が終わったことを知るのだ。それでもあなたが何かをしたと言えるだろうか?


質問者 しかし、手術を受けることを選択したのは私なのです。


マハラジ もちろんそうではない。あなたに決定をさせたのは、一方ではあなたの病気であり、もう一方では医師と家族からの強要なのだ。あなたに選択はない。ただ選択権があるという幻想だけだ。


質問者 それでもなお、私はあなたが言われるほど無力ではないと感じています。私は考えることすべてを実行することができると感じています。ただ、どうすればよいのか知らないだけなのです。私が力を欠いているのではありません。知識がないのです。


マハラジ 明らかに、知らないということは力がないのと同じだけ悪いという意味だ! だが、しばらくこの問題は置いておこう。結局、さし当たり私たちが無力だということをはっきり知っているかぎり、なぜ無力に感じるかはそれほど重要ではないのだ。
現在、私は七十四歳だ。それにもかかわらず、私は子供のように感じる。通り抜けてきたあらゆる変化にもかかわらず、私は子供であるとはっきり感じるのだ。グルは私に言ったものだ。「今でさえあなたであるその子供が、あなたの本来の自己なのだ」と。「私は在る」が、まだ「これが私だ」「あれが私だ」に汚される前の純粋な状態に戻りなさい。偽りの自己同一化があなたの重荷なのだ。それらをすべて落としなさい。グルは私に言った。「私を信頼しなさい。あなたに言おう。あなたは神聖なのだ。それを絶対の真実として受け取りなさい。あなたの喜びは神聖だ。あなたの苦しみもまた神聖だ。すべては神からやって来るのだ。それをいつも憶えていなさい。あなたは神だ。あなたの思いのみが為されるのだ」。私は彼を信じ、すぐに彼の言葉が的確であり、驚くほど真実だということを悟ったのだ。私は、「私は神だ。私は素晴らしい。私は超越している」と考えることでマインドに条件づけをしたわけではない。ただ「私は在る」という純粋な存在にマインドの焦点を合わせ、そのなかにとどまるという彼の教えにしたがっただけなのだ。私は、「私は在る」以外何もマインドのなかに置かず、何時間も坐ったものだった。そしてすぐに平安と喜びすべてを深く抱擁する愛が私の正常な状態となった。そのなかにすべては消え去っていった──私自身、私のグル、私の生きた人生、そして私の周辺の世界が。ただ、平和と計り知れない沈黙だけを残して。


質問者 それは一見、たやすく単純に見えます。しかしそうではありません。ときどき素晴らしい、喜びにあふれた平安が私の上に降り立ちます。そして私はそれを見て思うのです。「なんとたやすくそれはやってきて、なんと親密なのだろう。なんと完全に私自身のものなのだろうか。こんなに間近に在る状態のために、こんなにも努力する必要がどこにあったのだろう? 今回こそ、間違いなくそれはとどまるだろう。それにもかかわらず、なんと早くそれは消え去り、驚きのなかに私を取り残したのか──あれは実在の一瞥だったのだろうか、それとも何か異常な状態だったのだろうか? もしそれが実在ならば、どうして去ったのだろう? おそらく私を新たな状態に確立するために、何か特別な体験が必要だったのかもしれない。そして、決定的な経験が起こるまでは、このかくれんぼのゲームは続かなければならないのだ」と。


マハラジ ある特別で劇的な、何か素晴らしい爆発が起こることへの期待は、ただ単にあなたの真我の実現を妨害し、遅れさせるだけだ。爆発を期待すべきではない。なぜなら、あなたの誕生の瞬間、あなた自身を在ること─知ること─感じることとして自覚したときに、爆発はすでに起こったからだ。たったひとつ、あなたには誤りがある。あなたは内面を外面に見て取り、外面を内面として見ているのだ。あなたの内側にあるものをあなたの外側にあると見なし、外側にあるものをあなたの内側にあると見なしているのだ。マインドと感情は外側にあるのだ。だが、あなたはそれらを最も内部にあると見なしている。あなたは世界が外界のものだと信じている。だが、それは完全にあなたの精神の投影なのだ。これが混乱の根本であり、新たな爆発がその混乱を正すわけではない。あなた自身で考え抜かなければならないのだ。ほかに道はない。


質問者 思考が好き勝手に去来していくなかで、どのようにして考えぬけというのでしょうか? この果てしないおしゃべりが私をかき乱し、疲れ果てさせるのです。


マハラジ 通りの往来を見るように、あなたの思考を見守りなさい。人々は来ては去っていき、あなたはそれに反応することなく印象をとどめていく。はじめのうちは楽ではないかもしれないが、いくらかの修練で、マインドがいくつもの層で機能し、あなたはそれらすべてに気づくことができると知るだろう。ただ、あなたがある特定の層で、あることに関心を持つとき、それに注意を捕らわれて他の層が忘却されるのだ。そのときでさえ、意識界の外側では忘却された層への働きかけが続いている。あなたの記憶や思考と闘ってはならない。「私は誰か?」「どのようにして私は誕生したのか?」「私を取り巻くこの宇宙はどこからやってきたのか?」「何が実在であり、何が一時的なものなのか?」といった、より重要な質問をあなたの注意の領域に取り入れなさい。
もしあなたが興味を失えばいかなる記憶も持続はしない。束縛を永続させるのは感情的なつながりなのだ。あなたはつねに快楽を求め、苦痛を避けている。いつも幸福と平和を追い続けているのだ。あなたの幸福への探求自体が、あなたを惨めに感じさせているのがわからないだろうか? ほかの方法を試してみなさい。苦痛と快楽に無関心でありなさい。求めず、拒まず、永遠に存在する「私は在る」のレベルに、あなたのすべての注意を払いなさい。すぐにあなたは平和と幸福があなたの本性そのものであることを悟るだろう。何か特定の経路を通してそれを探しだそうとすることがあなたをかき乱すのだ。障害を避けなさい。ただそれだけだ。探す必要はないのだ。すでにもっているものを探すことはない。
あなた自身が神、至高の実在なのだ。まず私を信頼しなさい。師を信頼することだ。それがあなたに第一歩を踏ませる。そうすれば、自らの体験によってあなたの信頼が正しかったことを認めるだろう。人生を歩んでいくには最初の信頼は欠かせないものなのだ。それなしでは何もできない。いかなる仕事も信頼の行為だ。日々の食事さえ、あなたは信頼をもとに食べている。
私の言うことを覚えていることで、あなたはすべてを達成するだろう。今一度あなたに言おう。あなたはすべてに遍在し、すべてを超越する実在なのだ。それにしたがってふるまいなさい。全体との調和のなかで考え、感じ、行為しなさい。そうすれば、私が言ったことの実際の体験はすぐにあなたに現れるだろう。努力は必要ない。信頼をもってそのとおりに行動しなさい。
どうかわかってほしい。私はあなたから何も欲してはいないのだ。私が話すのは、あなた自身のためなのだ。なぜなら、あなたは何よりもあなた自身を愛しているからだ。あなたは自分が安全で幸福でありたい。それを恥ずかしがることはない。それを否定することはない。それは自然なことで、自分自身を愛することは良いことだ。ただ、正確にあなたが何を愛しているのかを知るべきだ。あなたの愛しているのは身体ではない。それは生命──知覚し、感じ、考え、行為し、愛し、努力し、創造する生命なのだ。あなたが愛しているのはあなた自身であり、すべてである生命なのだ。それをその全体性において認識しなさい。すべての区別と限界を超えて。そうすれば、あなたのすべての欲望はそのなかに解け去るだろう。なぜなら、大いなるものは小さなものを包含するからだ。それゆえ、あなた自身を見いだしなさい。なぜなら、それを見いだすことであなたはすべてを見いだすからだ。
誰でも存在することが嬉しい。だが、その完全な意味を知るものはいない。「私は在る」「私は知る」「私は愛する」という言葉の意味の核心を知ろうとする意志とともに、それらに心をとどめることによって、あなたは知るようになるのだ。


質問者 「私は神である」と考えることはできるでしょうか?


マハラジ 自分自身を観念と同一化してはならない。もし神が未知なるものという意味ならば、あなたは単に、「私は私が何であるか知らない」と言うだけだろう。もしあなたがあなた自身を知るように神を知っているならば、言う必要もない。もっとも正しいのは「私は在る」という純粋な感覚だ。忍耐強くそのなかにとどまりなさい。ここにおいては忍耐が智慧なのだ。失敗を思ってはならない。この仕事に失敗はありえないのだ。


質問者 私の思考がそうさせないでしょう。


マハラジ 放っておきなさい。闘ってはいけない。それについて何もしないことだ。それが何であれ、あるがままにしておきなさい。抗うこと自体がそれに生命を与えるのだ。ただ無視しなさい。見過ごすのだ。「何であれ、私が在るゆえに起こるのだ」ということを思い出すことを覚えていなさい。すべてはあなたが在るということを思い起こさせる。体験するにはあなたがいなければならないということを充分利用するがいい。関心をもたないことが自由をもたらすのだ。しがみつかないこと、それだけだ。世界は無数の輪(リング)でできている。それに引っかける鉤(フック)はみなあなたのものだ。あなたの鉤をまっすぐにしなさい。そうすれば何もあなたを捕らえることはできないだろう。あなたの耽溺を放棄しなさい。ほかに何も放棄するものはない。常習的な利欲心、結果を探し求める習慣を止めなさい。そうすれば自由の世界はあなたのものだ。努力せずに在りなさい。


質問者 人生は努力です。そこにはするべき多くのことがあるのです。


マハラジ する必要があることはしなさい。抵抗してはならない。あなたのマインドのバランスは、的確に正しいことをすることを基本に、瞬間から瞬間へと活動的でなければならない。成長することに反抗する子供のようであってはならない。型にはまった身振りや態度は助けにならないだろう。完全にあなたの思考の明晰性、動機の純粋さ、行為の高潔さのみを頼りにしなさい。あなたが道を誤ることは、けっしてありえない。超えていきなさい。そしてすべてを置き去りにしなさい。


質問者 しかし、永遠に残されるような何かがありうるのでしょうか?


マハラジ あなたは二十四時間休みなしのエクスタシーのような何かが欲しいのだ。エクスタシーは来ては去っていく。人間の脳は、必然的に長期の緊張に耐えられないからだ。長引くエクスタシーは、非常に純粋で微妙なものでないかぎり、脳を焼き切ってしまうだろう。自然のなかでは何ひとつ停止しているものはない。あらゆるものが脈打ち、現れては消えていく。心臓、呼吸、消化。睡眠と目覚め──誕生、そして死、すべては波のように来ては去っていく。循環反復運動、周期性、両極の調和のとれた交替が法則なのだ。生命のパターンに対抗しても無益なだけだ。
もしあなたが不変なるものを求めるならば、体験を超えていきなさい。私が「私は在る」をつねに覚えていなさいと言うとき、それは「繰り返しそれに戻ってきなさい」という意味なのだ。いかなる特定の思考もマインドの自然な状態ではない。ただ、沈黙だけが自然な状態だ。沈黙という概念ではなく、沈黙そのものだ。マインドが自然な状態にあるとき、すべての体験の後に、自発的にそれは沈黙へと立ち返る。あるいはむしろ、沈黙の背景に反してすべての体験が起こるのだ。
さあ、あなたがここで学んだことが種子となる。表面上は、あなたは忘れてしまうかもしれない。しかし、それは生き、芽吹きの季節は訪れ、生長し、花を咲かせ、実を結ぶだろう。すべてはひとりでに起こるだろう。あなたは何もしなくてもいいのだ。ただ、それを妨げてはならない。


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Fiora & nobody