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ローキャテー・イティ・ローカハ。
目に見られる「それ」、それがローカである。
※ローカ(領域、世界、空間)と※アーローカ(完全な視野)は同義語です。アンダミラッカン(無限の眼、無限の意識)と同じです。


質問者 世界は実在なのでしょうか、非実在なのでしょうか?


マハルシ 世界が真我から分離していると見なされたとき、それは非実在であり、世界が真我として見なされたとき、それは実在なのです。

(対話516)


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質問者 では、私とはいったい何なのでしょうか?


マハラジ あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。あなたが何なのかを知る必要はない。なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは観念としてしか表せないため、自己知識といったものはありえないからだ。それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せない。あなたに言えることは、「私はこれではなく、あれでもない」ということだけだ。意図をもって「これこそが私だ」ということはできない。それはまったく意味をなさない。あれやこれ、と指し示すことができるものは、あなたではありえない。何か他のものだとさえ言えない。あなたは知覚や想像を超えた何かだ。それにも関わらず、あなたなしでは想像も知覚もありえない。あなたはハートの感じること、マインドの考えること、身体の為すことを観察する。そのこと自体が、あなたはあなたが観察するものではないということを示唆しているのだ。あなたなしで知覚や体験が可能だろうか? 体験とは必ず何かに帰属するものだ。誰かが、これは私の体験だと言明するのだ。体験者なくして体験はありえない。体験者が体験にその実在性を与えるのだ。あなたが体験できないもの、それに何の価値があるというのだろう?


質問者 体験者としての存在の感覚、「私は在る」という感覚もまた体験ではないでしょうか?


マハラジ 明らかに、体験された全てのことは体験だ。そして、全ての体験の中に体験者が現れる。記憶が連続するという幻想を与えるのだ。実際には、各体験にそれぞれの体験者がいる。そして、同一であるという感覚は、全ての体験者と体験との関係の根底において共通の要因があるためだ。同一性と連続性は同じものではない。ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、その全ての色は同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々でありながら、本質においては同一の分割不可能な気づきの中に現れる。この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えた全ての体験の「可能性」なのだ。


質問者 どのようにしてそれを得るのでしょう?


マハラジ それを得る必要はない。なぜなら、あなたがそれなのだ。あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。非実在のものへの執着を解き放ちなさい。そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入りこんでいくだろう。自分自身の存在をあれやこれや想像するのをやめることだ。そうすれば、あなたが全てのハートであり、源泉であるという認識は明らかとなるだろう。それとともに選択でも、偏愛でも、執着でもない、全てのものを愛すべき、そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。


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愛というのは単なる想念ではありません。愛とは肉体感覚です。それは肉体のなかにある動きであり、外で何が起きていようとも、すばらしい温かさと安心感を生み出すものです。それぞれの肉体に独自の感覚があり、独自の調和があり、独自の本質が備わっています。地球界で肉体を使って実験しようとあなた方が最初に決めたとき、神の愛の存在を感じるという深い喜びも、ともに肉体で感じようと決めたのです。それには、まず自分の肉体のなかにいなくてはなりません。体のなかにある<いのち>を感じることがいかに大切であるかが理解できるようになると、人はそれを感じる方法を見つけようとします。そのひとつは音楽を利用する方法です。大好きな音楽にしばらく耳を傾けてください。その音楽を体のなかで感じましょう。音楽を聴きながら、どんな感情が沸き起こってくるかに注意を払ってください。誰か他の人のことや、他の出来事が心に浮かんできたら、ただその事実を認めるだけにして、そこに心をとどめないでください。心に何が浮かんできても、とにかく、ただそこに<いて>ください。


だまされないでください。道程を複雑なものにすればするほど、すでに存在する愛を感じられるようになるまでに、長い時間がかかります。深い愛を体験した瞬間は誰でも持っています。相手や自分を批判したり、おたがいのあいだに相違があると思い込んだり、優越感や劣等感を感じたりしはじめると、こうした瞬間はたちまち砕け散ってしまいます。分離意識が現れたときに、愛の感覚は消滅するようです。愛の感覚に何が起きたのでしょうか。


二人のあいだにある、深いレベルでの相似性に気づくわけです。あらゆる魂は一つのものです。あなたはこの瞬間、分離というものが存在しない状態を体験したわけです。人と人との出会いは、可能性に気づく機会をもたらすものです。つまり、<自分のなかに価値を見いだしてくれて、これからの人生をともに過ごそうと思ってくれる、その結果、自分がほんとうに誰なのかを見つけるチャンスを与えてくれる、そんな人がこの世に一人ぐらいいるかもしれない>その可能性が生まれたことに気づく機会なのです。これが最高の恋愛に対する的確な定義です。


ところがある日、いつのまにか自分の心に批判の目が芽生えます。この時点では、まだ何も言葉に出しては言っていません。けれどもこの最初の小さな批判が生まれた瞬間から、一つのパターンが始まり、それ以後ずっと続くのです。もちろん、相手も同じことをしています。こういうわけで、非常に初期の段階に、こうした分離意識が生じます。そしてそのパターンを壊すものが現れないかぎり、それは持続していきます。けれども、新しい恋愛の強烈なエネルギーがあふれ出ているときには、この執拗に批判しつづける小さなエゴの声が途絶えてしまうようです。この点を忘れないでください。なぜなら、そこに希望があるからです。つまり、自分の心に愛がはじめて芽生えたときにどう感じたか、を思い出すことによって、エゴの声を黙らせることができるということです。ところがほとんどの人は、昔の気持ちをふたたび見つけようとするかわりに、そうした気持ちを起こさせてくれる別の相手を探そうとします。


最初の段階で自然にあふれ出てきた情熱というのは、自分のなかに”大いなる光”があるという感覚なのです。その”大いなる光”はつねに存在しています。歴史的にも文化的にも、”大いなる光”に点火する力はほかの人間にあると人々は思ってきました。<恋に落ち>たときに人がするのは、自分のなかにいつもあった愛の炎をともすことにすぎません。人々は、点火するには相手の人間が必要だと思い込んでしまいました。自分の恋愛や結婚をよく検討してみると、相手の人間を愛しているというよりも、愛し愛されるという感覚を自分は愛しているのだということに気づくでしょう。


まず、真理を思い出すことから始めます。
その真理とは”大いなる光”に点火するのは自分だ、ということです。


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