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マハルシ 探求者の目的は、ハートからヴァーサナーという水を完全に捨て去って、永遠なる意識の光がいかなる反映にも妨げられないようにすることにあるのです。

(対話616)


マハルシ 誰にとっての汚れでしょうか?


質問者 真我にとってです。


マハルシ いいえ。真我は純粋で影響を受けません。不純性は自我にのみ影響を与えるのです。

(対話283)


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マハルシ ほとんどの人が、「多数の個人が存在する」という論点に立っています。
人は自分を自我と同一視し、「自分のような存在が他にも数多く存在するに違いない」と議論します。


ある人が夢の中で大勢の個人を見たとします。目を覚ました後でも、その人は夢の中で見た大勢の個人が実際に存在すると信じて、彼らについて尋ねたりするでしょうか?


ここに水の入った容器がいくつかあり、その中に月が映っていると想像してください。それぞれの容器に映った月のイメージはみな違ったものですし、本物の月のイメージもまた違ったものです。もし容器の一つが床に落ちてこなごなになれば、その中の月の反映も消え去るでしょう。しかしその反映の消滅が本物の月に影響を与えることはありませんし、他の容器の中の反映も影響を受けません。これは個人が解脱に達するのと似ています。ただその人だけが解脱するのです。


多様性を支持する二元論の学派(ドヴァイタ)は、このことについて非二元論の学派(アドヴァイタ)に反論します。「真我が単一なら、一人が解脱すればすべての魂が解脱するはずなのに、実際はそうではない。それゆえ、アドヴァイタ学派は間違っている」と。


この議論の欠点は、「真我本来の光」と「真我の光の反映」とが取り違えられているところにあります。自我、世界、個人は、すべて個人のヴァーサナー(心の潜在的傾向)ゆえに現れ、ヴァーサナーが消え去れば、個人が見ていた幻影も消え去ります。つまり一つの容器が壊れたとき、その反映も消え去るのです。


実際のところ、真我が束縛されたことなど一度もなく、それゆえ解放もありません。
あらゆる問題は自我にとってのみ存在するのです。

(対話571)


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質問者 先日、私はあなたに二通りの成長の方法、放棄と悦楽(ヨーガとボーガ)について尋ねました。その違いはさほどのものではありませんでした。ヨーギは楽しむために放棄し、ボーギは放棄するために楽しむのです。ヨーギはまず放棄をし、ボーギはまず楽しみます。


マハラジ それが何だというのだね? ヨーガのことはヨーギにボーガのことはボーギにまかせておくがいい。


質問者 私にはボーガの道のほうがより良いように見えます。ヨーギは熟しきらないマンゴーのように、未熟なまま木から切り離され、かごのなかに熟すまで保たれます。風通し悪く、加熱されて、熟しはしますが本当の味と香りは失われてしまうのです。木に残ったマンゴーは完全なサイズで、色、甘さなど、あらゆる喜びをともなって成長します。それでも、どういうわけかヨーギはあらゆる称賛を受け、ボーギは非難を受けます。私の目にはボーギのほうがよりよく映るのです。


マハラジ 何があなたにそう言わせるのだろうか?


質問者 私は多くのヨーギたちと、彼らの途方もない努力を見てきました。たとえ彼らが真我を実現したときでも、何かそこには苦く、厳しいものがあります。彼らは一見、多くの時を三昧(ざんまい)状態のなかで過ごしているようですが、いざ話をすると聖典の引用をするばかりです。そのようなジニャーニ(知者)たちは、もっとも良いところで、完成されていても周囲にわずかな芳香を放つ小さな花のようです。森林のように豊かで、多彩であり、巨大な、動きにあふれる世界をもった何人かの人たちがいます。その違いには何らかの理由があるはずです。


マハラジ あなたはすでに言ったではないか。あなたによればヨーガにおいて人は発育を妨げられ、ボーガにおいて育成するのだと。


質問者 そうではありませんか? ヨーギは人生を恐れ、平和を探し求めます。一方、ボーギは冒険的精神いっぱいに前進するのです。ヨーギは理想に束縛され、一方、ボーギはつねに探検する用意があります。


マハラジ それは多くを望むか、わずかで満足するかという問題だ。ヨーギは野心的だが、ボーギは単に冒険的だ。あなたのボーギはより豊かで、もっと興味深いように見える。だが、実際はそうではないのだ。ヨーギは鋭いナイフの刃先のように、狭く局限される。深く、ためらいなく、数多くの偽りの層を誤ることなく貫くために、彼はそうあらねばならないのだ。ボーギはたくさんの祭壇を崇拝する。ヨーギはただひとつ、彼の真我のみに仕えるのだ。
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)に先行するものだ。判定を下したり、採点したりすることはばかげている。すべてが究極の完成に貢献しているのだ。ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。真理、智慧、至福だ。真理を求める者はヨーギとなる。智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。


質問者 私たちは非二元性の至福についての話を聞きました。


マハラジ 非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。


質問者 何がその違いを生みだすのでしょうか?


マハラジ 違いは与えることと、つかみ取ることにある。どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。


質問者 もしゴールに違いがないのなら、なぜ多様な道に区別をもうけるのでしょうか?


マハラジ 各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。あなたの識別や分類はまったく正しい。だが私にとって、それらは存在しない。何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。


質問者 あなたはどのようにものごとを見るのでしょうか?


マハラジ 私にとっては、ひとつとすべては同じだ。同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。


質問者 それでも、あなたは動と不動の区別をつけています。


マハラジ 無区別は沈黙のなかで語る。言葉は区別をともなうからだ。非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)でもある。不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。すべてはひとつだ。
すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに分割はない。運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。それ自体では、何も動かず、何も休息しない。絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。


質問者 あなたは休息を至高の状態と同一化しているようですが。


マハラジ マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラム)としての休息がある。前者は来ては去っていく。一方、真の休息は行為の本質そのものだ。あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができない。


質問者 観照者としてのあなたは働いているのでしょうか、休息しているのでしょうか?


マハラジ 観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。


質問者 大海のなかで、波のざわめきが深海の静けさと共存するように、それらは共存できないのでしょうか?


マハラジ マインドを超えたところに体験はない。体験とは二元的状態だ。実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だからだ。そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在る」という感覚のなかに立ち現れる。これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことになる。


質問者 存在の感覚は体験によってのみ生じるのでしょうか?偉大な真言(マハー・ヴァーキャー)、「タット・サット」(我はそれなり)は単なる思考の様式なのでしょうか?


マハラジ 何であれ、語られたことは言葉にすぎない。何であれ、考えられたことは思考にすぎない。真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。


質問者 「我はそれなり」という信念も偽りなのでしょうか?


マハラジ もちろんだ。信念とは精神的状態だからだ。「それ」のなかに「私は在る」はない。「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、「それ」は光を奪われる。しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダーナンダ)が訪れる。そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛がはじまるのだ。


質問者 日々の生活のなかで、あなたはつねに実在の状態を意識しているのでしょうか?


マハラジ 意識もしなければ、無意識でもない。私に信念は必要ない。私は勇気を生きる。生命の愛である勇気が私の本質だ。私には記憶や不安がない。私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。自己描写にふけったりもしない。「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なるものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。私には無として在る勇気がある。そして世界をあるがままに、無として見るのだ。シンプルに聞こえるだろう? 試してみなさい!


質問者 しかし、何があなたに勇気を与えたのでしょうか?


マハラジ あなたの見方は何と倒錯しているのだろう。勇気は与えられる必要のあるものだろうか? あなたの質問は不安が正常で、勇気は異常だということを暗示している。それは反対なのだ。不安と期待は想像から生まれる。私はその両方から自由だ。私はシンプルな存在だ。何に寄りかかる必要もないのだ。
あなたがあなた自身を知らないかぎり、存在があなたにとって何になるというのだろう? あなたのままで幸福であるには、あなた自身を知らなければならないのだ。
在ることは、知ることとして輝く。愛のなかの暖かさ、それを知ることだ。それはみなひとつだ。あなたの分離を想像しておいて、疑問に頭を悩ませている。公式に関わりすぎてはならない。純粋な存在は描写できないものなのだ。


質問者 それを知ることができ、楽しむことができないかぎり、私にとっては何の意味もありません。それはまず、私の体験の一部となるべきです。


マハラジ あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。どうして実在が体験に依存できるというのだろう? 実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。体験は、つまりマインドの状態なのだ。一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。


質問者 またもや私は混乱しています! 在ることは知ることから分離しているのでしょうか?


マハラジ 分離は見かけだけだ。夢が夢見る人から離れてはいないように、知ることも在ることから離れてはいない。夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。区別は単に言葉の上にあるだけだ。


質問者 私には今、サット(存在)とチット(意識)がひとつだとわかります。しかし、アーナンダ(至福)はどうでしょうか? 存在と意識はつねに一緒です。しかし、至福はごくまれに、瞬間ひらめくだけです。


マハラジ 存在の静かな状態が至福なのだ。乱された状態が世界として現れる。非二元性のなかには至福がある。二元性のなかには体験がある。来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。至福とは知られるものではない。人はつねに至福なのだ。しかし、けっして至福に満ちているのではない。至福とはひとつの属性ではないのだ。


質問者 もうひとつ質問があります。あるヨーギたちは目標を達成しますが、ほかの人たちの役には立ってはいません。彼らは知らないのか、あるいは分かちあうことができないのです。もっているものを分かちあうことのできる人たちは、ほかの人びとに教えを授けます。違いはどこにあるのでしょうか?


マハラジ 何の違いもない。あなたのアプローチが間違っているのだ。助けるべきほかの人びとはいない。ある裕福な人は全財産を彼の家族に投げ出し、乞食に与える一枚の貨幣さえもない。賢者(ジニャーニ)も彼のすべての力と所有物を捨て去り、何も、文字どおり何も彼について言えることはないのだ。彼は誰も助けることはできない。なぜなら、彼がすべての人だからだ。彼がその貧しい人であり、その貧困なのだ。彼が泥棒であり、また盗みなのだ。彼はそれらと分かたれてはいない。どうして彼に助けることができるだろうか? 世界から分離していると考えている人に世界を助けさせればいい。


質問者 それでも二元性はあり、悲しみはあり、助けの必要はあります。それを夢として放棄することでは何も達成されません。


マハラジ ただひとつ助けとなること、それは夢から目覚めることだ。


質問者 それには目覚めた人が必要とされます。


マハラジ その人もまた夢のなかにいる。目覚めた人が終焉のはじまりを意味している。永遠の夢などないのだ。


質問者 たとえ、それにはじまりがないとしてもでしょうか?


マハラジ すべてはあなたとともにはじまるのだ。何かほかにはじまりのないものがあるだろうか?


質問者 私は誕生とともにはじまりました。


マハラジ それはあなたが聞いた話だ。そうではないかね? あなたははじまりを見たのかね?


質問者 私はたった今、はじまりました。それ以外はすべて記憶です。


マハラジ まったくそのとおりだ。はじまりなきものは永遠にはじまる。同じように私は永遠に与え続ける。なぜなら私は何ももっていないからだ。無として在り、何ももたず、自分自身のために何も蓄えないことは、最高の寛容さなのだ。


質問者 自己への関心は残っていないのでしょうか?


マハラジ もちろん、私は自己への関心をもっている。しかし、すべてが自己なのだ。実際それは、尽きることのない普遍的な善意の形をとっている。あなたはそれをすべてに行きわたり、すべてを救済する愛と呼ぶかもしれない。そのような愛は、行動しているという感覚をもたないにもかかわらず、最高に活動的なのだ。


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