あなたがこの地球に生きている理由は、あらゆる瞬間は本質的に変えられるものであり、自己変容の力がそなわっているということを知るためです。


怖れおののく心が創り上げたひどい悪夢のような状況にあっても、まさにその恐怖のなかで、この変容の力を呼び起こすことができることに気づきます。


無意味に苦しむ必要はありません。無意味に苦しむことは死と同じです。けれども、苦しみのなかにあっても、愛や思いやり、美やユーモアをもたらし増やすことができるのだ、と知りながら苦しむのは、いのちを体験することです。あらゆる瞬間にいのちのさまざまな側面をすべて体験するために自分は地球界にやってきたのだ、ということを深いレベルで理解できると、それぞれの瞬間が何にも替えがたい大切な瞬間となります。


そして、何も変えたり避けたり押さえつけたりする必要がない、ということがわかります。


大地を一歩踏みしめるたびに、人は地球に何かを与えているのです。愛や思いやり、ユーモアや理解を持ってそれを与えているのか、または無力感や苦しみや悲しみを持ってそれを与えているかのどちらかです。


忘れないでください。世界は一つであり、人々は一つであり、意識は一つです。



私の愛する兄弟たちよ、あなた方の多くは、神と呼ばれる存在は、陰気で恐ろしく、怒りっぽい、審判を下す人格を持つと教えられてきた。だが、神はけっしてそのような存在ではない。長々と説教し、審判を下し、弾圧する神は、人間の心の中にしか存在したことはないのだ。ある人々を裁き、別の人々をほめるような神を創造したのは、人間にほかならない。それは人間の神であり、人間とその意志による創造物なのだ。


私の知る神、私の愛する神、そして私自身と私である王国から流れ出す力である神は、完全なる愛の神であり、裁きとは無縁の愛の神だ。神は愛以外の何ものでもないが、同時にそれ以外のすべてでもある。神は、あなたがこれまで推測してきたよりも遥かに大きな愛で、あなたのことを愛している。なぜならそれは、あなたである人生そのものであり、あなたが歩く大地であり、あなたが吸い込む空気であるからだ。それはあなたの皮膚の色であり、すばらしい眼の輝きであり、そっと触れる手のやさしさなのだ。それは、あなた自身であるあらゆる瞬間の中のあなたであり、あなたが考えるあらゆる思考の中のあなたであり、あなたが行うあらゆる行為の中のあなたであり、あなたの魂の暗い陰の部分でさえある。


神はすべてを包含する力であり、それはあらゆるものである。それは水面の上を吹く風であり、色づく木の葉であり、深い色合いのバラの単純さである。神は、抱き合う恋人たちであり、笑っている子どもたちであり、蜂蜜色をした髪の光沢だ。それは朝に昇る太陽であり、夜にまたたく星であり、真夜中の空に昇っては沈んでいく月である。神は、美しい昆虫であり、謙虚に空を飛ぶ鳥であり、嫌悪感を引き起こすような醜い蠕虫でもある。神は、動きや色、音や光だ。神は情熱である。神は愛である。神は喜びである。神は悲しみである。存在するもの、つまり在るものすべては、あなたが「父なる神」と呼ぶものである。それは生きとし生けるものすべてであり、自分自身であるすべてを愛する存在なのだ。


神は、玉座に座りながら、生きることすべてに関して審判を下すひとりの人格ではない。神とは、生きることすべてであり、躍動するあらゆる瞬間だ。それは、存在するあらゆるものの絶え間ない継続性であり、永遠性である。


神は、無限で至高の存在性、つまり分割できない「在ること」の総体のことである。そしてその「在ること」は、あなたをとても深く愛しており、だからこそ、「完全─不完全」、「よい─悪い」、「ポジティブ─ネガティブ」といった幻をあなたが創造するのを許してきたのだ。そしてそれは、あなたの知覚を通して、あなたが知覚したものになってきた。つまり、神は在るものすべての総体なのだから、正しいことだけでなく、間違ったことでもあり、美しいものだけでなく、醜いものでもあるのだ。それは神聖なものだけでなく、卑しいものでもあるのだ。


私の知る神は、あなたがこれまで想像してきたよりも遥かに大きくて深い愛であなたを愛している。なぜなら、あなたが望むどんな生であろうと、神はあなたがそれを創造することを許してきたからだ。「父」は、つねにあなたを愛してきた。神はこれ以外の見方であなたを見る方法を知らない。なぜなら、「あなたであるもの」は彼そのものでもあるからだ。


自分自身の考え方によって、そして他人の考え方を受け容れることによって自分自身に審判を下してきたのは、あなた自身だけである。自分はできそこないだと自分に感じさせてきたのは、あなただけである。「父」を使って、自分が望むどんな真実でも現実でも創造する能力を持っているあなたは、自分の人生に対して審判を下せるただひとりの審判者なのだ。何がよくて何が悪いのか、何が正しくて何が間違っているのか、それらを決めてきたのはあなたにほかならない。だが、生命と呼ばれる「在ること」においては、そのようなものはまったく存在しない。あらゆるものは単に、「全能の神」と呼ばれる「在ること」の一部であるにすぎないのだ。あなたの審判は、さまざまな創造的な現実にあふれるこの天界で、あなたが創造した幻にすぎないのである。



質問者 私とは三つの相のもとに考えられる、とあなたは言いました。個人(ヴィヤクティ)、超個人(ヴィヤクタ)、非個人(アヴィヤクタ)です。アヴィヤクタは普遍的で純粋な真の「私」です。ヴィヤクタは「私は在る」としての意識の反映です。ヴィヤクティは身体の、そして生命の過程の全体性です。狭く制限された現在、超個人は時間と空間の両方において個人に気づいています。ひとりの個人だけではなく、カルマ(因果関係)の糸に通された長い一連の個人たちです。超個人は本質的には観照者であり、同時に蓄積された経験の残留、記憶の所在地、連結する輪(スートラアートマ)でもあります。それは人生が構築し、誕生から誕生へと形づくっていく人格です。普遍的なる非個人はすべての名前と形を超え、意識と人格を超えた、純粋な自己意識の存在なのです。私はあなたの見解を正しく表したでしょうか?


マハラジ マインドのレベルでは、そのとおりだ。知的レベルを超えた彼方では、言葉は適用しない。


質問者 個人が精神的構成観念、一式の記憶と習慣のための集合名詞だということは私にも理解できます。しかし、それに対して個人が現れる、観照の中心も精神的なものでしょうか?


マハラジ 色彩にはそれを現すひとつの面が必要なように、個人には自分自身と同一化するための基盤である身体が必要だ。それがどのような色であっても、色を見るという行為が色に依存することはない。色を見るためには目が必要だ。色はたくさんあるが、目はひとつだ。個人とは色のなかの光、また目のなかの光のようなものだ。それにもかかわらず、単一で、分割不可能であり、その顕現のなか以外では知覚不可能なものだ。不可知ではないが、知覚不可能であり、非客観的で、分離不可能なものだ。物質的でも精神的でもなく、客観的でも主観的でもない。それは物質の根本であり、意識の源だ。単なる生と死を超えて、それはすべてを含み、すべてを除いた生命だ。そのなかでは誕生が死であり、死が誕生なのだ。


質問者 あなたが話す絶対なるものとは実在のものでしょうか、それとも私たちの無知を包み込むための単なる理論なのでしょうか?


マハラジ その両方だ。マインドにとってはひとつの理論であり、それ自体においてはひとつの実在だ。それは自発的で全面的な偽りの拒絶において実在なのだ。光がその存在自体によって暗闇を破壊するように、絶対なるものは想像を破壊する。すべての知識を無知の一形態として見ることが、それ自体実在の動きなのだ。観照者は個人ではない。そこにそのためのひとつの基盤、ひとつの身体、ひとつの有機的組織があるときに個人は立ち現れる。そのなかで、絶対なるものは気づきとして反映され、純粋な気づきは自己覚醒となる。そこに自己が存在するとき、自己覚醒が観照者だ。そこに観照する自己がいないとき、観照もない。それはすべてまったくシンプルだ。個人の存在がことを複雑にしてしまうのだ。永久に分離した個人というものはないことを理解しなさい。そうすればすべては明白になる。気づき─精神─物質、それらは動と不動という二つの相と、不活発性、エネルギー、調和という三つの属性をもったひとつの実在なのだ。


質問者 意識と気づき、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ 気づきがそこにひとつの対象物をもったとき意識となる。対象はつねに変わっていく。意識のなかには運動がある。気づき自体は、運動も時間もない今ここにあるのだ。


質問者 現在、東パキスタンに苦難と流血が起こっています。あなたはそれをどのように見ますか? それはあなたにとってどのように現れ、あなたはどう反応するのでしょうか?


マハラジ 純粋な意識のなかでは、けっして何も起こらない。


質問者 どうか、その形而上学的高みから降りてきてください! 苦しんでいる人びとにとって、彼自身以外、誰も彼の苦難に気づく人はいないと言われることが何の役に立つというのでしょう? すべてを幻想として退けることは、傷ついた人に屈辱を加えるようなものです。東パキスタンのベンガル人は事実であり、彼らの苦難も事実です。どうか、それを存在しないかのように扱わないでください!あなたは新聞を読んでいるのです。人びとがそれについて話しているのを聞いているはずです。知らなかったとは言えません。さあ、この出来事に対してあなたはどのような態度を取るのでしょうか?


マハラジ 態度はない。何も起こってはいないのだ。


質問者 あなたの目の前で、暴動がある日起こるかもしれません。おそらく、人びとは殺しあっているでしょう。明らかに、何も起こってはいないと言って、距離をおいて超然としているわけにはいきません。


マハラジ 私は距離をおくなどと、一度も言っていない。あなたは私が争いのなかに飛びこんでいって誰かを助け、殺されてしまうのを見るかもしれない。それでも、私にとっては何も起こらなかったのだ。
巨大な建物が崩壊するところを想像してみなさい。いくつかの部屋は破壊され、いくつかはそのままだ。だが空間について、破壊された、破壊されないといったことが言えるだろうか? 被害に遭ったのは、そこに住んでいた人びとと建築物だけだ。空間自体には何も起こらなかった。同様に、形態が崩れ去り、名称がぬぐい去られても、生命には何も起こらないのだ。金細工師は新しい装飾品をつくるために古いものを溶解する。ときおり、良質の金は質の悪いものと一緒になる。彼はそれを巧みに処理する。なぜなら、金自体は失われていないことを、彼は知っているからだ。


質問者 私が反感を感じるのは死ではなく、死に方です。


マハラジ 死は自然なものだ。死に方とは人のつくり出したものだ。分離が恐怖と攻撃を生じさせ、それがまた暴力を生みだす原因となる。人のつくり出した分離を取り除きなさい。そうすれば、人びとが互いに殺しあうというすべての憎悪はかならず終わる。しかし実際には、殺すことも死ぬこともない。真実は死なない。偽りはけっして生きたことがない。あなたのマインドを正しなさい。そうすれば、すべては正される。世界はひとつであり、人類はひとつだと知るとき、あなたはそれにしたがって行動するだろう。しかし、まずあなたが感じ、考え、生きる道に留意しなければならない。あなた自身のなかに秩序がなければ、世界に秩序はありえない。
実際には、何も起こらない。マインドのスクリーン上に、運命はかつて投影された記憶の画像を永遠に映しだす。そのようにして幻想はそれ自体を絶え間なく再生していくのだ。無知によって遮られた光である画像は来ては去っていく。光を見なさい。そして画像は無視するのだ。


質問者 何と無感覚なものの見方でしょう! 人びとが殺しあっているというのに、あなたはここで画像について話しているのですよ。


マハラジ ではあなた自身、行って殺されるがいい。もしそれがあなたのするべきことだと考えるならば。あるいは行って殺すがいい。もしそれがあなたの義務だと感じるならば。だが、それは悪を消滅させる道ではない。悪とはマインドの病の悪臭だ。あなたのマインドを癒しなさい。そうすれば、マインドは歪んだ醜い画像を投影するのをやめるだろう。


質問者 あなたの言われることは理解できます。しかし、私には感情的に受け入れることができません。この単なる人生の観念論的見解は、私に深い不快感を与えます。私には永久に夢の状態にいる自分を考えることができないのです。


マハラジ どうやってはかない身体によって生じた状態のなかに永久にいることができるだろうか? 誤解はあなたが身体だという観念に基づいているのだ。その観念を調べてみなさい。その生来の矛盾を見てみなさい。あなたの現存在は火花のシャワーのようなものだ。それぞれの火花は一秒ももたず、シャワー自体は一、二分しかもたないものだと認識しなさい。もちろん、はじまりが終わりであるものが、その中間をもつことはありえない。実在は一時的ではありえない。それは永遠だ。しかし、永遠は期間ではないのだ。


質問者 私の住む世界が現実の世界ではないということは認めます。しかし、そこには私が歪んだ絵として見ている現実の世界があるはずです。歪みは私の身体、あるいはマインドの傷によるものかもしれません。しかし、あなたが現実の世界は存在せず、ただマインドのなかの夢の世界があるだけだと言うとき、私にはそれを受け入れられないのです。すべての存在の恐怖は、私が身体をもつためだと信じることができたなら、と願います。自殺することがその出口なのです。


マハラジ 自分のものであれ他人のものであれ、観念に注意を払っているかぎり、あなたは困難に陥るだろう。しかし、もしあなたがすべての教え、すべての本、すべての言葉で表されたものを無視し、あなた自身のなかに深く潜りこみ、あなた自身を見いだしたならば、これのみがあなたのすべての問題を解決するだろう。そして、それはあなたがあらゆる状況を完全に統御できるようにするだろう。なぜなら、あなたは状況についての自分の観念に支配されないからだ。例えば、あなたが魅力的な女性とともにいるとしよう。彼女のことを想い、それが性的な状況をつくり出す。問題は生じて、あなたは禁欲の、あるいは快楽の本を探しだす。もしあなたが赤ん坊だったら、ふたりとも裸でいても何の問題も起こらない。ただ、あなたが身体だという考えをやめてみるがいい。そうすれば愛とセックスという問題は意味を失うだろう。すべての制限の感覚が去るとともに、恐れ、苦痛、快楽の探求、すべてがやむ。ただ気づきだけが残るのだ。


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