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質問者 どうすれば眠りを打ち破ることができるでしょうか?


マハルシ その活動や結果を意識せずにいなさい。

(対話356)


「どうかアハム・スプラナ(「私─私」の光)についてご説明ください」


マハルシ 眠りの中では「私」は知られていません。目覚めるとともに、「私」は身体、世界、非真我と結びついた形で知覚されます。そのような結びつきを持った「私」がアハム・ヴリッティ(「私」という想念)と呼ばれ、そのアハムが真我だけを表すとき、アハム・スプラナと呼ばれるのです。これはジニャーニ(真我を実現した人)にとって自然なものです。ジニャーニはそれをジニャーナと呼び、バクタはバクティと呼びます。アハム・スプラナは(眠りの状態も含めて)常に存在しているにもかかわらず、知覚されずにいます。それを眠りの中で知ることはできません。それはまず目覚めの状態において認識されなければならないのです。なぜなら、それは三つの状態すべての根底にある自己の本性だからです。
努力は目覚めの状態でのみ為されるべきものです。努力することで、真我は今ここで実現されるのです。実現された後には、真我が目覚め(ジャーグラト)、夢見(スワプナ)、眠り(スシュプティ)に妨げられることなく、常に、絶えず存在していることがわかるでしょう。それゆえ、真我はアカンダーカーラ・ヴリッティ(途切れることのない体験)なのです。
本来のヴリッティは(眠りでは不在なため)短期間のものです。それは(目覚めと夢見のときだけに)限定され、ある方向に向けられた意識なのです。あるいは、それは想念や感覚などを認識することによって分割された絶対意識とも言えるでしょう。
ヴリッティは心の働きですが、途切れることのない意識は心を超越しています。これが解脱した人(ジニャーニ)の自然な、原初の状態です。それは途切れることのない体験です。相対的意識が静まったとき、それはそれ自体を顕わにします。アハム・ヴリッティ(「私」という想念)は途切れるものですが、アハム・スプラナ(「私─私」の光)は途切れることなく永続的なものです。その光は思考が静まったときに輝き出すのです。

(対話307)


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 なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。


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質問者 私は遠い国からやって来ました。ある内的体験をしたのですが、あなたの言葉をうかがいたいのです。


マハラジ もちろん。あなたはあなた自身を知っているだろうか?


質問者 私はこの身体ではなく、マインドでもありません。


マハラジ 何をもってあなたはそう言うのだろうか?


質問者 私が身体だとは感じないのです。私はあらゆるところに在るように感じられるのです。マインドに関しては、私はマインドのスイッチを入れたり切ったりすることができ、それが私をマインドではないと感じさせるのです。


マハラジ あなたが自分自身を世界のあらゆるところに感じるとき、あなたは世界から分離しているのだろうか、それともあなたが世界なのだろうか?


質問者 その両方です。ときどき、私はマインドでも身体でもなく、すべてを見るひとつの目だと感じます。私がより深くそのなかに入っていくと、私自身が見るものすべてとなり、世界と私はひとつになります。


マハラジ よろしい。欲望はどうだろう? あなたには欲望があるだろうか?


質問者 はい。それは短い間訪れ、表面的なものです。


マハラジ では、それをどうするのかね?


質問者 私に何ができるというのでしょう? それは来ては去っていくものです。私はそれを見るだけです。ときおり、私は身体とマインドが携わって、それを満たすのを見ます。


マハラジ 誰の欲望が満たされるのだろう?


質問者 それは私の住む世界の一部です。樹や雲がそこにあるように。


マハラジ それは何か不完全さの証拠ではないだろうか?


質問者 いいえ。欲望はただ欲望なのです。そして私はただ私のままです。どうして欲望の出現と消滅が私に影響を与えられるでしょう? もちろん、それはマインドの形態と内容に影響しますが。


マハラジ よろしい。あなたの仕事は何かね?


質問者 保護観察官です。


マハラジ それはどういったものだね?


質問者 少年犯罪者が保護観察期間を終えると、ある特別監察官が彼らの行動を見守り、職業訓練や仕事の世話をするのです。


マハラジ あなたは働かなければならないのかね?


質問者 誰が働くのでしょうか? 仕事はただ起こるのです。


マハラジ 仕事をする必要があるのかね?


質問者 彼らは私を必要としているのかもしれません。彼らの運命が、私にこの仕事をさせるのです。生はひとつです。


マハラジ あなたはどうやって現在の状態に行き着いたのだろうか?


質問者 シュリー・ラマナ・マハルシの教えが私を導いてくれたのです。そして、ダグラス・ハーディング * という人が、どのように「私は誰か?」に働きかけるかを教え、助けてくれたのです。


マハラジ それは突然だったのだろうか、あるいは段階的だったのだろうか?


質問者 それはまったく突然でした。何かまったく忘れ去ってしまったことが、記憶に戻ってきたように。あるいは突然のひらめきの理解のようでした。「何とシンプルだろう」と私は言ったのです。「何とシンプルだろう。私は、私が考えていたものではなかった! 私は知覚されるものでも、知覚する者でもない。私はただ知覚することなのだ」と。


マハラジ 知覚することでさえない。だが、それらすべてを可能にするものだ。


質問者 愛とは何でしょうか?


マハラジ 区別と分離の感覚が不在なときを愛と呼ぶがいい。


質問者 なぜ男と女の間の愛がそれほど強調されるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、幸福の要素がそのなかに顕著だからだ。


質問者 すべての愛がそうではないのでしょうか?


マハラジ かならずしもそうではない。愛は苦痛の原因となる。そのとき、あなたはそれを慈悲と呼ぶのだ。


質問者 幸福とは何でしょうか?


マハラジ 内側と外側の調和が幸福だ。一方、外側との自己同一化が不幸の原因となる。


質問者 自己同一化はどのようにして起こるのでしょうか?


マハラジ 自我はその本性として、それ自身だけを知っている。それは経験に欠けるために、何であれ知覚したものを自己だと受け取ってしまうのだ。痛めつけられて、それは注意すること(ヴィヴェーカ)を学び、独りで生きるようになる(ヴァイラーギャ)。正しい行為(ウパラーティ)が自然なものとなったとき、内なる強烈な衝動(ムムクシュトヴァ)がその源を探し求めるように駆りたてる。身体のロウソクに火がともされたとき、すべては明らかに輝きだす(アートマプラカーシュ)。


質問者 苦しみの真の原因とは何でしょうか?


マハラジ かぎりあるもの(ヴィヤクティ─トヴァ)との自己同一化だ。感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考えることにふけるようになる。それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。


質問者 私の友人は、毎晩毎晩恐ろしい夢を見たものでした。眠りにつくことが彼を恐れさせたのです。何ひとつ、彼を助けることはできませんでした。


マハラジ サットサン、真理との交わりが彼の助けとなる。


質問者 人生そのものが悪夢なのです。


マハラジ サットサンは身体的であれ、精神的であれ、すべての病気にとって至上の治癒法だ。


質問者 たいてい、そのような交友を見いだすことはできません。


マハラジ 内面を探しなさい。あなたの自己があなたの最良の友だ。


質問者 なぜ人生はこうも矛盾ばかりなのでしょうか?


マハラジ それが精神的な自尊心を打ち破るのを助けるからだ。私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、私たちは悲しくも苦境にいるのだ。ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがある。


質問者 なぜそれほどまで自己否定が強調されるのでしょうか?


マハラジ 真我の実現におけるかぎり、真我が見いだされる前に、偽りの自己は捨て去らなければならない。


質問者 あなたが偽りと呼ぶ自己こそ、私にとっては痛ましいほど本物なのです。それが私の知る唯一の自己です。あなたのいわゆる真我は単なる概念、言葉の言いまわし、マインドの産物、魅力的な幻にすぎません。私の自己は美しいものではありません。それは認めます。しかし、それは私自身のものであり、唯一の自己です。あなたは、私はもうひとつの自己だ、あるいは自己をもっていると言います。あなたにはそれが見えますか? それはあなたにとって現実のものでしょうか? それともあなた自身が見ないものを私に信じろと言うのでしょうか?


マハラジ 急いで結論に飛びついてはならない。具体的なものが本物であり、想像されたことが偽物である必要はない。感覚をもとにし、記憶によって形づくられた知覚は、知覚する人を暗に示唆している。あなたはその知覚する人の本性をけっして調べようとしてこなかった。充分な注意をもって、愛情ある心づかいとともにそれを調べてみるがいい。あなた自身のちっぽけな自己イメージに没頭するばかりに、夢にも見なかったような存在の高みと深遠さを発見することだろう。


質問者 私自身を調べるには正しい心もちでなければならないでしょう。


マハラジ 真剣に、集中し、誠実に関心をもたなければならない。あなたはあなた自身に対する善意に満ちていなければならない。


質問者 私はまったく利己的です。


マハラジ いいや、あなたは違う。あなたはずっと奇妙な、有害で偽物の神々に仕えてきたために、あなた自身を破壊してきたのだ。まったく利己的になるがいい。あなた自身によかれと願いなさい。あなたにとって良いことをしなさい。あなたと幸福の間に立ちはだかるものすべてを破壊しなさい。すべてで在りなさい。幸福でありなさい。楽しくありなさい。幸福よりも偉大なものはない。


質問者 なぜそれほど愛の中に苦しみがあるのでしょうか?


マハラジ すべての苦しみは欲望から生まれる。真の愛はけっして挫折しない。どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか? 表現のための欲望は挫折しうる。そのような欲望はマインドのものだ。精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。


質問者 愛のなかでセックスはどう位置づけられるのでしょうか?


マハラジ 愛は存在の状態だ。セックスはエネルギーだ。愛は賢く、セックスは盲目だ。ひとたび愛とセックスの本質が理解されたならば、混乱や葛藤はなくなるだろう。


質問者 愛のないセックスがあまりにも多いのです。


マハラジ 愛なしにはすべてが悪だ。生命自体、愛がなければ有害となる。


質問者 何が私を愛させるのでしょうか?


マハラジ 恐れがないとき、あなたは愛そのものなのだ。


* 訳注 ダグラス・E・ハーディング Douglas E. Harding(1909-2007)
英国東部サフォーク州生まれ。霊的教師、哲学者。主な訳書に『心眼を得る』(図書出版)、『今ここに、死と不死を見る』『顔があるもの顔がないもの』(以上、マホロバアート)などがある。


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