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要点をつかみなさい。世界と自分はひとつであり、完全なのだということを。


マハルシ もしも明け渡しが完全であれば、個人としての感覚はすべて失われ、不幸の原因はなくなります。永遠の存在こそが唯一の幸福であり、それが顕わになるのです。

(対話350)


人間の勝手な思い込み


人間の意識を百万倍も拡大したものが慈愛に満ちた神の姿だ、などと本当に思いますか。人間は他人を罰するし、残酷な仕打ちをします。その論理でいくと、人間と似た性質の神は、あなたに対して同じように残酷な仕打ちや罰を与えるだろう、ということになります。けれどもこれはすべて、「人間の勝手な思い込み」です。


最も深い意味では、現在起こっていることは何もまちがってはいません。あなたの人生は完璧であり、それはあなたが選んだものです。この言葉の真実性を、来る日も来る日も実感するようになったら、あなたは自分の本質を理解するようになります。あなたの人生は完璧であり、それはあなたが選んだものです。


前にも言いましたが、何世紀にもわたって、あなたの細胞は何かにしがみついているときが、最も安全なのだと思い込んできました。あなた方は、自分の世界が崩れないようにとしがみついています。少しでも油断すると、すべてが壊れてしまうのではないかと怖れているのです。


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あなたの未来はどのように創造されるのだろうか? 思考を通してだ。すべての明日は、今日というこの日のあなたの思考によって設計される。なぜなら、あなたが抱くあらゆる思考は(それがいかなる感情を得るための空想であろうと)、体の内部にあるフィーリングを生じさせ、それは魂の中に記憶されるからだ。そのフィーリングが、今度はあなたの人生のさまざまな状況についての「前例」となるのである。というのも、魂に記録されているそのフィーリングが、それと同じフィーリングをもたらす状況、そのフィーリングにぴったり合うような状況をあなたに引き寄せるからだ。また、あなたが口にするあらゆる言葉は、あなたがこれから体験する日々を創造しているということを知りなさい。なぜなら、言葉とは単に、魂の内にあるフィーリングを表現する音にすぎず、そのフィーリングは思考によって生み出されたものだからだ。


自分の身に起きることは、単なる偶然にすぎないとあなたは考えているのだろうか? それは、すでに知られている真実とは違う。この王国には、事故や偶然といったものはない。そして、ほかの人間の意志やたくらみの犠牲者など誰もいないのだ。あなたに起きることはすべて、考えて、感じることによって、あなたが自分で人生にもたらしたのだ。それは、「もしこうなったら」という仮定の中で、あるいは恐れの中で空想されたか、「あれはこうなるだろう」と誰かが言うのを、あなたが真実として受け容れたものだ。あらゆる出来事は、思考と感情を通して運命づけられた意図的な行為として起きるのだ。あらゆる出来事がそうなのである。


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質問者 私のなかで、古い自己から独立した新しい自己が出現したことに気づきました。それらはともかく共存しています。古い自己はその習慣的在り方を続け、新しい自己は古い自己をそのままにさせ、しかもそれ自体はそれと同一化しません。


マハラジ 古い自己と新しい自己の間にある主な違いとは何だろうか?


質問者 古い自己はすべてを定義し、説明したがります。それはものごとが言葉の上で互いにつじつまの合うことを求めています。新しい自己は記憶されたことがらとの関係性を求めず、ものごとをありのままに受け入れ、言葉上の説明を気にかけません。


マハラジ あなたは習慣的なものと霊的なものの違いに、完全に変わることなく気づいているだろうか? 新しい自己と古い自己の態度はどのようなものだろう?


質問者 新しい自己は古い自己をただ見るだけです。それは親しくもなく、敵対もしていません。それはただ古い自己をほかのすべてとともに受け入れるだけです。古い自己の存在を否定しませんが、その価値と効力は受け入れません。


マハラジ 新しい自己とは古い自己の完全な否定だ。許容された新しさは本当の新しさではない。それは古い自己が取った新たな態度にすぎないのだ。真に新しい自己は古い自己を完全に抹殺する。二つが一緒に在ることはできない。そこには自己を露わにする過程、古い概念や価値の受け入れを変わらず否定しつづける過程があるだろうか? あるいはそこには相互の黙認があるのだろうか? 何がそれらの関係だろうか?


質問者 そこに特定の関係はありません。それらは共存しているのです。


マハラジ あなたが古い自己と新しい自己を語るとき、誰を思っているのかね? 二つの間に記憶の継続性があるということは、互いが相手を覚えているということだ。どうして二つの自己を語ることができようか?


質問者 一方は習慣の奴隷であり、もう一方はそうではありません。一方は観念化し、もう一方はすべての観念から自由です。


マハラジ なぜ二つの自己なのかね? 束縛と自由の間には何の関係性もありえない。共存という事実自体がそれらの基本的な統合を証明している。ひとつの自己だけが存在する。そしてそれはいつも今、在るのだ。新旧はともかく、あなたの言うほかの自己とはひとつの形態、自己の別の相なのだ。自己は単一のものだ。あなたがその自己なのだ。あなたはこうであった自分と、こうなるだろう自分という観念をもっている。しかし、観念は自己ではない。たった今、私の前に座るあなたはどちらの自己だろうか? 古い自己か、新しい自己か?


質問者 二つは衝突しています。


マハラジ どうして存在するものとしないものの間に衝突がありうるだろう? 衝突は古い自己の特質なのだ。新しい自己が現れるとき、古い自己は消え去る。新しい自己と衝突を同時に語ることはできない。新しい自己への努力についてでさえ、古い自己が語っているのだ。衝突、努力、闘い、奮闘、変化への熱望が語られるところに新しい自己はいない。衝突をつくり出し永続させる習慣的傾向から、どの程度あなたは自由なのだろうか?


質問者 私が今、別の人になったとは言えません。しかし、以前私が知っていた状態とは異なる私についての新しいことがらを発見し、それらを新しい自己と呼ぶにふさわしいと感じるのです。


マハラジ 古い自己があなた自身なのだ。原因なく、自我の汚れもなく突然出現する状態を、「神」と呼ぶがいい。種子もなく、根もなく、芽を出さず、生長せず、花も果実もない、存在のなかに突然栄光に満ちて、神秘的で驚異的に現れる、それを「神」と呼ぶがいい。それはまったく予期できず、しかも必然的なもの、かぎりなく親しく、しかももっとも驚嘆すべきもの、すべての期待を超え、しかも絶対に確実なものだ。なぜなら、それには原因がないため、障害がないからだ。それはひとつの法のみにしたがう。自由の法だ。何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくものは実在ではありえない。実在に発展ということはない。実在は最終的な、完全なもので、関係性をもたないものだ。


質問者 どうすればそれを成しとげることができるのでしょうか?


マハラジ それについてできることは何もない。だが、あなたは障害をつくり出すのを避けることができる。あなたのマインドがどのように存在のなかに現れたか、どのように作用するかを見守りなさい。マインドを見守るにつれて、あなたは見守る人としてのあなた自身を発見する。あなたが動じることなく、ただ見守っているとき、あなたは見守る人の背後にある光としてのあなた自身を見いだすだろう。その光の源は暗く、未知なるもの、それが知識の源泉だ。その源のみが存在するのだ。その源に帰りなさい。そしてそこに永続的に在りなさい。それは空にも、すべてに遍在するエーテルのなかにもない。神は偉大で素晴らしきすべてだ。私は無だ。何ももたず、何もできない。だが、すべては私から立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。
実在があなたのなかで爆発するとき、あなたはそれを神の体験と呼ぶかもしれない。あるいは、むしろ神があなたを体験していると言えよう。あなたが自己を知るとき、神があなたを知るのだ。実在はひとつの過程の結果ではない。それは爆発なのだ。それは明らかにマインドを超えたものだ。しかし、あなたにできることは、あなたのマインドをよく知ることだけだ。マインドがあなたを助けるのではない。だが、マインドを知ることで、マインドがあなたを無能にしてしまうのを避けることができる。あなたはとても注意深くならなければならない。さもなければ、マインドはあなたを裏切るだろう。それは泥棒を見守るようなものだ。泥棒から何かを期待しているわけではない。だが、あなたは盗まれたくはない。同じように、マインドに対してあなたは何も期待することなく、多大な注意を払うのだ。
別の例をとってみよう。私たちは目覚め、そして眠る。一日の仕事の後に眠りはやってくる。さて、私が眠りにいくのだろうか、それともその特質であるように、眠りが私に侵入するのだろうか? 言い換えれば、私たちが目覚めるのは私たちが眠っているからだ。私たちは本当の目覚めの状態に目覚めるのではない。目覚めの状態のなかに、無知によって世界は出現し、人を目覚めた夢の世界に連れだす。眠りも目覚めも、ともに正しい名称ではない。私たちは夢を見ているだけなのだ。真実の目覚め、真実の眠りはジニャーニだけが知っている。私たちは目覚めているという夢を見ている。私たちは眠っているという夢を見ている。三つの状態は、ただの異なった種類の夢の状態だ。すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとして在ることの奴隷になってしまう。あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像することは奴隷状態の本質なのだ。実際には、私たちに物語はない。私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。すべてを夢と見て、動じずにいなさい。


質問者 あなたに耳を傾けることで何の得があるのでしょう?


マハラジ 私は、あなたをあなた自身に呼び戻している。私があなたに求めることは、あなた自身を見ることだけだ。あなた自身に向かい、あなた自身のなかへと見入ることだ。


質問者 目的は何なのでしょうか?


マハラジ あなたは生き、あなたは感じ、あなたは考える。あなたの生きること、感じること、考えることに注意を払うことで、あなたはそれらから自由になり、それらを超えていく。あなたの人格は消え去り、観照者だけが残る。それから、あなたは観照者をも超える。どのようにそれが起こるのかを尋ねてはならない。ただ、あなた自身の内面を探りなさい。


質問者 個人と観照者の違いは何によるのでしょうか?


マハラジ どちらも意識の様式だ。一方で、あなたは欲望し恐れる。他方で、あなたは快楽と苦痛によって影響されず、出来事に動揺しない。あなたはそれらが来ては去るにまかせる。


質問者 どのようにして高次の純粋な観照状態のなかに確立するのでしょうか?


マハラジ 意識はそれ自体では輝かない。それは背後にある光によって輝くのだ。意識の夢のような性質を見た上で、意識がそのなかに現れ、存在を与えるその光を見いだしなさい。そこには意識の内容とその気づきがある。


質問者 私は知っています。そして知っているということを知っています。


マハラジ 二つ目の知識が無条件で永遠のものならば、そのとおりだ。知られるものは忘れてしまいなさい。しかし、あなたが知る者だということは覚えていなさい。いつまでも体験に浸っていてはいけない。あなたはつねに不死不生であり、体験者を超えているということを覚えておきなさい。それを覚えていることで、純粋な知識の質である、無条件の気づきの光が出現するだろう。


質問者 人はどの時点で実在を体験するのでしょうか?


マハラジ 体験とは変化するものだ。それは来ては去っていく。実在は出来事ではなく、それを体験することもできない。それは出来事を知覚するようには知覚できないのだ。もし実在が出現するのを待っているなら、あなたは永遠に待たなければならないだろう。なぜなら、実在は来ることも去ることもないからだ。それは期待されることではなく、気づくことだ。予想して準備することではない。だが、熱望そのものと実在の探求が、実在の動き、行為、作用なのだ。あなたにできることは、核心を理解することだ。実在は出来事ではなく、起こることでもない。何であれ起こること、何であれ去来するものは実在ではない。出来事はただ出来事として、一時的なものは一時的なものとして、体験は体験として見なさい。そうすれば、あなたにできることはすべて為し終えたのだ。そのとき、あなたは実在に対して傷つきやすくなっている。出来事や体験に実在性を与えていたときのような、よろいはもはやつけていない。しかし、好きや嫌いといった選り好みが入りこんだとたん、あなたは仕切りを下ろしたことになるのだ。


質問者 実在はそれ自身を、知識よりもむしろ行為によって表現するのでしょうか? あるいはそれは感情の類なのでしょうか?


マハラジ 行為も、感情も、思考も実在を表現することはない。実在の表現といったものはない。あなたは二元性のないところに二元性を持ちこんだのだ。実在だけが在る。ほかには何もない。目覚め、夢見、眠りという三つの状態は私ではなく、私はそれらのなかにはいない。私が死ぬとき、世界は「ああ、マハラジが亡くなった!」と言うだろう。しかし私にとって、それらは内容のない言葉であり、無意味なのだ。グルの写真の前で礼拝が行われるとき、あたかもグルが目覚め、沐浴をし、食事をし、休息し、散歩に出かけ、そして戻り、皆に祝福を与え、眠りにつくように、すべては起こる。すべてにおいて、きわめて詳細に注意が払われながら。それにもかかわらず、それらすべてには非現実的な感覚がある。それは私の場合も同様だ。すべては必要にしたがって起こる。しかも、何も起こってはいないのだ。私は必要なことをするように見えるが、同時に何ひとつ必要ではなく、人生自体は架空のものだと知っているのだ。


質問者 それでは、なぜ生きるのですか? なぜこれらすべての不必要な、来ては去り、目覚めては眠り、食べては消化するといったことを続けるのでしょう?


マハラジ 何ひとつ私によっては為されない。すべてはただ起こるのだ。私は期待しないし、計画も立てない。ただ出来事が起こるのを見るだけだ。それらが非現実だと知りながら──。


質問者 真我を実現した最初の瞬間から、あなたはつねにこのようだったのでしょうか?


マハラジ いつものように三つの状態は交替する。そこには目覚め、眠り、そしてまた目覚めがあるが、私には起こらない。それらはただ起こる。私には何も起こらないのだ。そこには不変不動、難攻不落の岩のように動じない何か、ひと塊の純粋な存在─意識─至福がある。私はつねにそのなかに在る。いかなる苦痛も、いかなる災難も、何も私をそこから引き出すことはできないのだ。


質問者 それでも、あなたは意識しています!


マハラジ そうとも言えるし、またそうでないとも言える。そこには深く、広大無辺な、揺るぎない平和がある。出来事は記憶のなかに記録されるが、それらには何の重要性もない。私はほとんど気がつかないほどだ。


質問者 もし私があなたを正しく理解したとすると、修練によって培うことではこの状態はやってきません。


マハラジ やってくるということはない。それはつねにそうだったのだ。発見はあった。そして、それは突然のものだった。誕生とともに、あなたが世界を突然発見したように、私は突然、真我の存在を発見したのだ。


質問者 それは雲がかかっていて、あなたのサーダナ(修練)が霧を晴らしたのでしょうか? あなたの本来の状態が明らかになったとき、それは明らかなままだったのでしょうか、それとも、ふたたび隠れてしまったのでしょうか? あなたの状態は永久なものでしょうか、断続的なものでしょうか?


マハラジ 絶対的に揺るぎないものだ。私が何をするにせよ、それは岩のように不動なのだ。ひとたび実在に目覚めたならば、あなたは実在のなかにとどまる。子供は子宮のなかに戻りはしない! それはシンプルな状態だ。極小よりもさらに小さく、極大よりもさらに大きい。それは自明であるにもかかわらず、描写を超えた彼方に在る。


質問者 それへの道はあるのでしょうか?


マハラジ もしあなたが関心をもつなら、すべてが道となりうる。ただ私の言葉に頭を悩ませ、その完全な意味をつかみ取ろうと試みてみることは、壁を打ち破るのに充分有効なサーダナだ。何も私を煩わさない。問題が起こっても私は抵抗しない。それゆえ、それは私のもとにとどまらないのだ。あなたの側には、とても多くの問題がある。私の側にはまったく問題がない。私の側に来なさい。あなたには問題をつくり出す傾向があり、私には免疫がある。何であれ起こることは起こるだろう。必要なのは、誠実な関心をもつことだ。誠実さが要なのだ。


質問者 私にできるでしょうか?


マハラジ もちろんだ。あなたには彼岸に渡る充分な能力がある。ただ、誠実でありなさい。


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