けれどもそこにいたるには


マハルシ 「それ」として在りながら、何を知りたいと言うのでしょう? 知る者と知られる者という二人の自己があるのですか?


必要とされるのは、真我を無知から解き放つことだけです。ここで言う無知とは、真我と真我ではないものを同一視することです。

(対話125)


けれどもそこにいたるには、あなたは、自分の意識を内部の”大いなる光”に向けなければなりません。そして、それを何度もくり返すのです。ここで意思の力が役に立ちます。自分の意識を「外界」からはずす努力をつねにして、”大いなる光”が存在する内部に焦点を当て、それが姿を現わすのを待たなければなりません。


あなたはすでに


あなたにはいつも意識があります。朝起きて、「私は生きているのだろうか。私はここにいるのだろうか」と問う人はいません。意識はつねに存在しています──つねに。狂気を目の前にしても、すぐれたセラピストは一つの絶対的真実を知っています。それは、患者の意識がどんなに混乱し、もうろうとしていても、人格の中心の核となるものは、依然として存在しているという事実です。意識が完全に存在しているところが、どこかにあるはずです。患者の内面の統合がなされている場所があり、セラピストは患者をその部分にくり返し連れ戻します。「私」というものを感じる部分がかならずあるのです。「私は気が狂っている。私は絶望している。私はもう何が何だかわからない」というときの「私」が、つねに存在します。



あなたが今何を体験しているとしても、あなたは神に満たされており、神のなかに存在しているのです。人はつねに何かを体験しているわけで、問題は、至福と幸福と喜びに満たされた体験をしたいのか、それとも分離意識と苦しみと苦痛に満たされた体験をしたいのか、ということです。それだけが問題なのです。なぜなら神はどちらの状態にも完全に豊かに存在しているからです。こちらの状態にいると神から離れるが、あちらの状態にいると神に近いということはありません。ここで私たちがやろうとしていることはつまり、今まで幾世にもわたって苦痛を志向してきた人々の意識が、別の方向に行けるように、それまでの方向からそっとはずしてやることなのです。



質問者 私は具合が良くありません。むしろ弱っている感じがします。どうすればいいでしょうか?


マハラジ 誰の調子が悪いのかね? あなたか、それとも身体だろうか?


質問者 もちろん、私の身体です。


マハラジ 昨日、あなたは具合が良かった。何が良いと感じたのだろうか?


質問者 身体です。


マハラジ 身体の具合が良いとき、あなたは喜び、身体の具合が悪いとき、あなたは悲しむ。ある日喜び、つぎの日悲しむのは誰だろうか?


質問者 マインドです。


マハラジ マインドがそれを知る者だ。知る者を知るのは誰だろうか?


質問者 知る者がそれ自身を知っているのではないでしょうか?


マハラジ マインドは断続的なものだ。眠りや気絶や精神錯乱したとき、何度もそれは空白状態となる。そこにはその断続性を継続的に記録する何かがあるはずだ。


質問者 マインドが覚えています。これが継続性を意味します。


マハラジ 記憶はつねに部分的であてにならず、つかの間のものだ。それは「私は在る」という感覚である、意識に浸透した強力なアイデンティティの感覚を説明はしない。その根底にあるものが何なのかを見いだしなさい。


質問者 どんなに深く見入っても、私にはマインドしか見いだせません。あなたの「マインドの彼方」という言葉は手がかりにならないのです。


マハラジ マインドでもって見ているかぎり、それを超えていくことはできない。彼方へと超えていくには、マインドとその内容から目を離さなければならないのだ。


質問者 どの方向を見ろといわれるのでしょうか?


マハラジ すべての方向はマインドのなかにあるのだ! 私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。「私は在る」は方向ではない。それはすべての方向を否定したものだ。最後には「私は在る」さえも去らなければならない。なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてからそむけることなのだ。


質問者 それは私をどこへ導くのでしょうか?


マハラジ マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静かになる。もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たこともない光と愛にあふれていることを知るだろう。しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろう。気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもしれない。だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それはかならず戻ってくる。そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。


質問者 それがどんな違いをもたらすというのでしょうか?


マハラジ 思考はなくなり、そこには愛の行為だけがあるのだ。


質問者 私がそれに到達したとき、どうやって認識するのでしょうか?


マハラジ そこにはもはや恐れがないのだ。


質問者 神秘と危険に満ちた世界に囲まれて、どうやって恐れなしでいることができるでしょう?


マハラジ あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。それでも、あなたはそれを恐れはしない。あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる必要はないということだ。あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。個人的身体は来ては去っていく。宇宙的身体はいつもあなたとともにある。創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。あなたは個人的身体的に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。この盲目がひとりでに終わることはない。それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。


質問者 私は個人であり、それゆえ空間と時間に限定されています。私はわずかばかりの空間を占め、ほんの瞬間存在するだけです。


マハラジ それにもかかわらず、あなたは在るのだ。あなたが真の本性の探求へと深く入って行くにしたがって、小さいのはあなたの身体であり、短いのはあなたの記憶であって、広大な生命の大海があなたのものであることを発見するだろう。


質問者 「私」と「宇宙」という言葉自体が相容れないものです。


マハラジ そうではない。同一であるという感覚は普遍的に浸透しているのだ。探求しなさい。そうすれば、あなたはあなた自身であり、かぎりなくそれ以上である宇宙的個人を発見することだろう。とにかく、まず世界はあなたのなかにあり、あなたが世界のなかにいるのではないということを自覚することからはじめなさい。


質問者 どうしてそうありうるのでしょうか? 私は世界のなかの一部分でしかありえません。鏡のような反映による以外に、どうして部分のなかに世界全体が含まれるというのでしょうか?


マハラジ あなたの言うとおりだ。あなたの個人的身体は一部分であり、その中に全体が不思議にも反映されているのだ。しかし、あなたは宇宙的身体もまたもっている。それを知らないとさえ言えないのだ。なぜなら、あなたはつねにそれを見て、体験しているからだ。ただ、それを「世界」と呼び、恐れているだけなのだ。


質問者 私は、私の小さい身体は知っていると感じますが、もうひとつの身体は科学を通してしか知りません。


マハラジ あなたの小さな身体は、あなたの知らない神秘と不思議で満ちている。そこでもまた、科学があなたの唯一のガイドだ。解剖学と天文学がそれらを説明するだろう。


質問者 たとえ、私があなたの基本的な論理としての宇宙的身体の教義を受け入れたとしても、いったいどのようにそれを考査することができ、また、それが私にとって何の役に立つと言うのでしょうか?


マハラジ あなたが両方の身体に宿ることを知ることで、あなたはすべてを所有することになるのだ。宇宙のすべてがあなたの関心事となり、すべての生きるものたちをあなたはもっとも優しく賢明に愛するようになるだろう。あなたと他者との間には利益の衝突がなくなるだろう。すべての搾取は絶対的に消えるだろう。あなたのあらゆる行動は恩恵となり、あらゆる瞬間は祝福となるだろう。


質問者 それはとても私の関心を引きますが、しかし、宇宙的存在を実現するためには、どのようにはじめればいいのでしょうか?


マハラジ あなたには二つの道がある。真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのどちらかだ。「完全に」という言葉、それが重要なのだ。至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。


質問者 小さく限定された私に、どうしてそのような高遠なるものへの大望を抱くことができるでしょう?


マハラジ あなた自身が、そのなかですべてが起こる意識の大洋なのだと認識しなさい。それは難しいことではない。わずかな注意力と自己への緊密な観察で、あなたはどのような出来事も意識の外側で起こっているのではないことを知るだろう。


質問者 世界は私の意識のなかに現れない出来事でいっぱいです。


マハラジ あなたの身体でさえあなたの意識内に現れることのない出来事でいっぱいなのだ。これが、あなたの身体をあなたのものだと宣言することを妨げはしないだろう。あなたはあなたの感覚を通して自分の身体を知るように、世界を正確に知っているのだ。あなたの皮膚から外側の世界と内側の世界を分割し対立させたのは、あなたのマインドだ。これが恐れと、憎しみと、生きることすべての惨めさを生み出したのだ。


質問者 私に理解できないのは、あなたが言われる意識を超えていくということです。言葉は理解できますが、その体験を視覚化できないのです。結局、あなた自身が言われたように、すべての体験は意識のなかにあるのです。


マハラジ あなたの言うとおりだ。意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。それでも、そこにはただ在るという体験がある。そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。


質問者 私は神智学を学んできました。そして、あなたの言われることは何ひとつ聞き慣れないことばかりだと気づきました。神智学が顕現のみを扱うことは私も認めます。それは宇宙とそこに住む生きものについて、たいへん詳細に描写します。多くの物質の階層と、それに相応する体験の層があることを、それは認めています。しかし、どうやらそれを超えていくことはないようです。あなたの言われることはすべての体験を超えていきます。もしそれが体験不可能ならば、いったいどうしてそれについて話しあうのでしょうか?


マハラジ 意識は隙間だらけの断続的なものだ。それにもかかわらず、そこには継続するアイデンティティがある。もしこのアイデンティティの感覚が意識を超えた何かでなければ、いったい何によるというのだろう。


質問者 もし私がマインドを超えているならば、どのようにして私を変えていくのでしょうか?


マハラジ 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。あなたのマインドを冷静に見てみなさい。マインドを平静にするにはこれで充分だ。静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。それをやめ、ただ在りなさい。もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと力強さを回復するだろう。絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。


質問者 もし私の真実の存在がつねに私とともに在るなら、どうして私はそれを知らないのでしょうか?


マハラジ なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なものだからだ。あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。


質問者 わたし自身を知るためにマインドが必要なのでしょうか?


マハラジ あなたはマインドを超えている。だが、あなたはマインドで知るのだ。知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存するということは明らかだ。あなたの手段を改善しなさい。そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。


質問者 完全に知るためには、完全なマインドが必要です。


マハラジ あなたに必要なのは、静かなマインドだ。ひとたびあなたのマインドが静かになれば、ほかのすべてはしかるべく起こるだろう。日の出が世界を活動的にするように、自己覚醒はマインドのなかに変化を与えるのだ。平静で安定した自己覚醒の光のなかで、内なるエネルギーは目覚め、あなたの努力なしに奇跡をもたらすのだ。


質問者 つまり、もっとも偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされると言うのでしょうか?


マハラジ まさにそのとおりだ。あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさい。あなたの運命に協力しなさい。それに抗ってはいけない。それを妨げてはいけない。それが運命を全うするのを許しなさい。愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのするべきすべてなのだ。


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