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要点をつかみなさい。世界と自分はひとつであり、完全なのだということを。


お互いの要求に屈服しないでください。操られることは拒否してください。侵害されていると感じたら「ノー」と言い、それからその侵害を宥します。「ノー」に固執しないでください。その人のふるまいへの「ノー」を、愛と助けを求める呼び声への「ノー」にしないでください。侵害を宥して、進んで愛と助けを与えるようにします。


これを実践し、いま現在の瞬間にいてください。操られることへの「ノー」を、愛と助けへの「イエス」にしてください。自分自身と相手を同じように尊重してください。


あらゆる悲しみ、苦しみを愛でおきかえてください。あなたが攻撃されていると感じたら、その攻撃には「ノー」と言い、でも攻撃しかえさないことです。自分がだれかを攻撃していたら、それに気づいて、償ってください。罪悪感から次の攻撃をしないことです。いまこの瞬間に、問題点を修正します。


愛と助けを求める人の声に「イエス」と言うことを、学んでください。


あなたが暴力を解消したいのでしたら、すでに恐怖心に満ちている相手を、さらに不安に駆り立てないでください。あなたの愛とサポートを与えるようにします。愛は修復します。憎悪は告発します。


だれでも、あるがままの自分を愛されたい、受けいれられたいと望んでいます。愛を与えられれば、その人はもう不安になりません。


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「未知なる神」とは誰だったのか? それは私自身であり、夜の巣の中の鳥たちであり、葦に降った霜、夜明け、たそがれ時の空だった。それは太陽であり、月であり、子どもたちとその笑い声、なめらかな脚、流れる水、そしてニンニクと革と真鍮の香りだった。それはいつも私の目の前にあったのだが、私がこの理解にいたるまでには長い時間がかかった。「未知なる神」は月や太陽を超えたところにいるのではなかった。それは私のまわりにあるすべてのものだったのだ。この新しい考え方が生まれてからは、私は人生を抱き容れ始め、人生を大切なものだとみなし始めた。そして生きる理由にも気づき始めた。流血や死や戦争の悪臭よりもすばらしいもの、すなわち生命というものがあったのだ。それは、われわれがこれまでに考えていたよりも遥かに偉大なものだったのだ。


その後の長い年月の中で、私はまさにこの気づきを通して、人間はあらゆるものの中で最も偉大な存在であるということを理解するようになる。





生命とその絶え間ない継続性を観察し、それらについて熟考してはじめて、私には「未知なる神」が本当は誰なのかがわかった。「未知なる神」は人間の歪んだ考え方から創り出された神々ではない、という結論に私はいたった。人間のマインドの中に存在する神々は、単に彼らが最も恐れ、敬っているものが人格化したものにすぎないと気づいたのだ。つまり、本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許しているのだ、ということに気づいたのだ。そして春がめぐり、人間がふたたびこの場所に戻ってきて別の人生を送るときにも、それは依然としてここに存在し続けているのだということに気づいた。生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在するのだと私は気づいたのだ。


…本当の神とは、絶え間なく続く本質の部分であり、それこそが人間に、自分の選んだ通りの幻を何でも創造することを許し、その幻を最後まで演じきることを許している…


…生命の力と、その絶え間ない継続性の中にこそ、まさに「未知なる神」が存在する…


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質問者 真我を実現するには時間がかかるのでしょうか? それとも時間は実現を助けることができないのでしょうか? 真我の実現はただ時間の問題なのでしょうか? それとも時間以外の要因に依存するのでしょうか?


マハラジ 待つことは無駄なことだ。問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞だ。未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。


質問者 何が変化をもたらすのでしょうか?


マハラジ 澄みきった明晰性で変化の必要性を見なさい。それだけだ。


質問者 真我の実現は物質のなかで、あるいはその彼方で起こるのでしょうか? それは身体とマインドに依存する体験なのでしょうか?


マハラジ すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。体験からは何も期待してはならない。それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自体はひとつの体験ではないのだ。新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわけではない。真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。それは体験を可能にする気づきなのだ。すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験のなかには気づきが存在している。それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。


質問者 もし気づきが体験ではないとするなら、それはどのようにして認識されるのでしょうか?


マハラジ 気づきは常にそこにある。それが認識される必要はないのだ。マインドの扉を開きなさい。そうすればそれは光で満ちあふれるだろう。


質問者 物質とは何でしょうか?


マハラジ  あなたは物質を何だと理解しているだろう?


質問者 科学は物質を理解しています。


マハラジ  科学は、単に私たちの無知の境界線を押し戻しているだけだ。


質問者 それでは自然とは何でしょうか?


マハラジ  意識的な体験の総体性が自然だ。意識的自己としてのあなたは自然の一部なのだ。気づきとしてのあなたはその彼方にある。自然を単なる意識として見ることが気づきなのだ。


質問者 気づきの段階というものはあるのでしょうか?


マハラジ 意識のなかに段階はあるが、気づきのなかにはない。それは均質なひと塊なのだ。マインドのなかでのその反映が愛と理解だ。理解における明晰性の段階や、愛の強烈さに度合いはあっても、その源に段階はないのだ。源は単一であり、シンプルだ。だがその贈り物は無限のものだ。ただ、贈り物を源と取り違えてはならない。あなた自身が川ではなく源であることを自覚しなさい。それだけだ。


質問者 私は川でもあるのです。


マハラジ もちろんだ。「私は在る」としてのあなたは、身体の岸の間を流れる川だ。だが、あなたはまた源でもあり、海でもあり、空の雲でもあるのだ。どこであれ、そこに生命と意識があるとき、あなたは在る。極小よりも小さく、極大よりも大きい。あなたは在る。ほかのすべては現れにすぎない。


質問者 存在の感覚と生命の感覚──それらは同一のものでしょうか、それとも異なるものでしょうか?


マハラジ 空間のなかのアイデンティティがそのひとつをつくり出し、時間のなかの継続性がもうひとつをつくり出すのだ。


質問者 あなたはかつて、見る者、見ること、見られるものは、三つではなくひとつの単一体だと言われました。私にとって、その三つは分離しています。あなたの言葉を疑うわけではありません。ただ、私には理解できないのです。


マハラジ 注意深く見てみなさい。すると、見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れることが理解できるだろう。それらは見ることの属性なのだ。あなたが、「私はこれを見ている」と言うとき、「私」と「これ」は見ることとともに現れ、それ以前にはないことがわかる。あなたは目に見えない「これ」や見ていない「私」をもつことはできないのだ。


質問者 私は、「私は見ない」と言うことができます。


マハラジ 「私はこれを見ている」が「私は私が見ていないことを見ている」、あるいは「私は暗闇を見ている」になるのだ。見ることは残る。知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事実だ。「私」と「これ」は疑わしいものだ。誰が知ろう? 何が知られるというのだろう? 知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。


質問者 どうして私は知る者ではなく、知ることに確信があるのでしょうか?


マハラジ 知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なのだ。知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。実際は何もないところに、主体─客体の二元性をつくり出すのがマインドの本質なのだ。


質問者 欲望と恐れの原因とは何でしょうか?


マハラジ 明らかに、過去の苦痛と快楽の記憶だ。そこには何も偉大な神秘があるわけではない。同じ対象物に恐れと欲望が関係したときにだけ葛藤が起こるのだ。


質問者 どのようにして記憶を終わらせることができるのでしょうか?


マハラジ それは必要でもなければ、可能でもない。すべては意識のなかで起こり、あなたがその根本、源、意識の根底なのだということを認識しなさい。世界は体験の連続にすぎず、あなたはそれらに意識を与えるものだ。しかも、あなたはすべての体験を超えた彼方にとどまるのだ。それは熱、炎、燃える木材のようなものだ。熱は炎を維持し、炎は木材を焼き尽くす。熱がなければ炎も燃料もなかっただろう。同じように、気づきなしには意識も、物質を意識の媒体に変容する生命もなかっただろう。


質問者 あなたは、私がいなければ世界はなく、また世界と世界に関する私の知識は同一のものだと主張しています。科学はまったくこれとは異なった結論に至っています。世界とは何か具体的な、継続的なものであり、一方、私とは神経系統の生物学的進化の副産物なのです。それは根本的には意識の中枢であるよりも、個人的、種族的存続の機構なのです。あなたの話はまったく主観的な見解です。一方、科学は客観的言語で描写しようと試みています。この矛盾は避けることができないのでしょうか?


マハラジ その混乱は明白であり、純粋に言葉によるものだ。在るものは在る。それは主観的でも客観的でもない。物質とマインドは分離したものではない。それらはひとつのエネルギーの二つの相なのだ。マインドを物質の機能として見てみなさい。そうすればあなたは科学を手にする。物質をマインドの産物として見てみなさい。そうするとあなたは宗教を手にするだろう。


質問者 しかし、何が真実なのでしょうか? マインドと物質、どちらが先に現れるのでしょうか?


マハラジ どちらも先に現れはしないし、どちらか一方が現れるのでもない。物質は形であり、マインドは名前なのだ。それらはともに世界をつくる。浸透し、超越するのが実在、純粋な存在─意識─至福、あなたの本質そのものなのだ。


質問者 私が知っているのは意識の流れ、出来事の果てしない連鎖だけです。時間の川は容赦なく流れ、運び去ります。つねに未来は過去へと変容していきます。


マハラジ あなたは自分の言葉の犠牲になっていないだろうか? あなたは時間の流れについて語る。あたかもあなたが不動でいるかのように。だが、あなたが昨日目撃した出来事を、誰かほかの人が明日見るかもしれない。動きのなかにいるのはあなたであって、時間ではないのだ。動きを止めなさい。すると時間は止まる。


質問者 時間が止まる? それはどういう意味でしょうか?


マハラジ 過去と未来が、永遠の今のなかで溶けあうのだ。


質問者 しかし、実際の体験のなかで、それはどういう意味をもつのでしょうか? あなたにとって時間が止まったと、どうやって知るのでしょうか?


マハラジ それは過去と未来がもはや重要ではなくなるという意味でもありうる。それはまた、かつて起こったすべて、これから起こるだろうすべてが、思いのままに開かれた本として読むことができるという意味でもある。


質問者 訓練によってアクセスできる宇宙的記憶というものを想像することはできます。しかし、どのようにして未来が知られるというのでしょうか? 予期しない出来事は不可避です。


マハラジ あるレベルで予期しなかったことは、高次のレベルから見れば確実に起こることかもしれない。結局、私たちはマインドの限界内に在る。実際には、何も起こってはいないのだ。過去もなければ、未来もない。すべては現れであり、何も存在しないのだ。


質問者 何も存在しないとはどういう意味でしょうか? あなたは虚空になるのでしょうか、それとも眠りにつくということでしょうか? あるいは、あなたは世界を消し去り、あなたのつぎの思考のひらめきで私たちが生命に連れ戻されるまで、私たちを停止の状態にとどめるということでしょうか?


マハラジ いいや。そんなひどい話ではない。マインドと物質の、そして名前と形の世界は続いていく。だが、それは私にとってまったく重要ではない。それは影のようなものだ。それはそこにある。どこへ行こうともついてくる。だが、どのような意味でも私を邪魔することはない。体験の世界はそのまま残る。だが、欲望と恐れで私に関わる名前と形は残さないのだ。体験とは、いわば属性をもたない純粋な体験だ。ほかによりよい言葉がないために、私はそれを体験と呼ぶのだ。それは大海の波のようなものだ。つねに存在しながら、その平和な力に影響を与えることはない。


質問者 体験は無名無形の定義できないものだということでしょうか?


マハラジ はじめは、すべての体験がそのようなものだ。記憶から生まれた欲望と恐れが名前と形を与え、ほかの体験と分けてしまうのだ。それは意識的な体験ではない。なぜなら、それはほかの体験と対立しているわけではないからだ。それでもそれは同じ体験なのだ。


質問者 もし体験が意識的ではないなら、どうしてそれについて話すのでしょうか?


マハラジ ほとんどのあなたの体験は無意識のものだ。意識的なものは非常に少ない。あなたは事実に気づいていないのだ。なぜなら、あなたにとっては意識的なものしか数に入らないからだ。無意識に気づくようになりなさい。


質問者 無意識に気づくことができるのでしょうか? どのようにするのでしょう?


マハラジ 欲望と恐れが覆い隠し、歪ませてしまう要因なのだ。マインドがそれらから解放されたとき、無意識は容易に手に入るようになる。


質問者 無意識が意識的になるという意味でしょうか?


マハラジ むしろ反対だ。意識が無意識とひとつになるのだ。それをどちらから見ても区別がなくなるのだ。


質問者 困惑してしまいます。どうして気づいていながら、しかも無意識であることができるのでしょうか?


マハラジ 気づきは意識に対して限定されてはいない。それは存在するすべてに対するものだ。意識は二元性のものだ。気づきのなかに二元性はない。それは純粋な知覚のひと塊なのだ。純粋な存在と純粋な創造についても同じように、無名、無形、静寂であり、しかも絶対的実在だと言うことができる。言葉では言い表せないということが、それらに影響を与えることはまったくない。それらは無意識でありながら、本質的なものなのだ。意識を根本的に変えることはできない。それは修正することができるだけだ。いかなるものも、変化するためには朦朧とした状態と消滅を、死を通らなければならないのだ。金の宝飾品は、ほかの形に鋳造される前に溶解されなければならない。死ぬことを拒むものは再誕生できないのだ。


質問者 身体の死なしに、どのように死ぬというのでしょう?


マハラジ 内側に向かうこと、超然と離れてあること、手放すことが死だ。生を全うするには、死は欠くことのできないものだ。すべての終焉がすべてのはじまりをもたらす。
その一方、よく理解しなさい、生きる者ではなく、ただ死者だけが死ぬことができる。あなたのなかで生きているもの、それは不死なのだ。


質問者 欲望はどこからそのエネルギーを引き出すのでしょうか?


マハラジ 記憶から引き出した名前と形からだ。エネルギーは源から流れだすのだ。


質問者 ある欲望は完全に間違ったものです。間違った欲望が、どうして崇高な源から流れだすことができるのでしょうか?


マハラジ 源は正しくも間違いでもない。欲望そのものも、正しくも間違いでもないのだ。それは幸福を求める努力にほかならない。自分自身を一片の身体と同一化して途方にくれ、あなたは幸福と呼ぶ充足と完全性の感覚を絶望的に探しまわるのだ。


質問者 いつそれを失ったのでしょうか? 私はけっしてもってはいなかったのです。


マハラジ 今朝、目覚める前にあなたはもっていたのだ。意識を超えていきなさい。そうすれば見いだすだろう。


質問者 どうすれば彼方へと超えていけるのでしょうか?


マハラジ あなたはすでに知っているのだ。そうしなさい。


質問者 あなたはそう言われますが、私は何も知らないのです。


マハラジ それでも、私は繰り返そう。あなたはそれを知っているのだ。そうするがいい。超えていきなさい。あなたの正常な、自然な、根本的な状態に戻りなさい。


質問者 私はとまどうばかりです。


マハラジ 目のなかのほこりが、あなたを盲目だと思わせるのだ。ほこりを洗い落として見てみなさい。


質問者 私は見ています! ただ暗闇が見えるだけなのです。


マハラジ ほこりを取り除きなさい。そうすれば、あなたの目は光にあふれることだろう。光はそこにあり、待っているのだ。目はそこにあり、用意ができている。あなたが見ている暗闇は、ほこりの影にすぎないのだ。それを取り除きなさい。そしてあなたの本性に戻るのだ。


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