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誰が正しくて誰がまちがっているのか、という反応のし方はきわめて人間的で、あたり前の反応といえますが、そうした議論に参加することは状況をどれほども改善しません。


質問者 ハートは右側に、あるいは左側に、あるいは中心にある、と言われています。そのような意見の食い違いがありながら、いったいどうやってフリダヤ(ハート)に瞑想できると言うのでしょう?





マハルシ あなたは存在します。それは事実です。ディヤーナはあなたによって、あなたに対して、あなたの内で為されます。それはあなたの在る場で続いていかなければならないのです。それはあなたの外側ではできません。それゆえ、あなたがディヤーナの中心なのです。それがハートです。





しかし身体に即したハートの位置が示されています。あなたはあなたが存在していることを知っています。あなたはどこに在るのでしょうか? あなたは身体の中に在り、その外ではありません。しかし身体全体でもありません。あなたは身体全体を占めていますが、それでもあなたは想念がそこから生まれ、そこへと消え去る中心があることを認めるはずです。たとえ手足が切断されたとしても、身体の一部が欠けているという感覚とともに、あなたはそこに存在しているのです。
それゆえ、そこに中心が在るということは認められるはずです。それがハートと呼ばれるものです。ハートとは単なる中心ではなく、真我です。ハートとは真我の別の名前なのです。





疑いが生じるのは、あなたがそれを触れることのできる身体的なものと同一視するときです。





ハートとは概念でもなければ瞑想のための対象でもありません。それは瞑想の座なのです。

(対話403)


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神を見よ


これまでになされた最も偉大な説法は、山頂に立ったある偉大なマスターによってなされたものだ。彼はそこに立って、自分の話を聞きにきた群衆を見ながら、こう言った。


「神を見よ」


たったそれだけしか言う必要はなかった。神を見よ。なぜなら、一人ひとりが、自分の限界、自分の望みや病、自分の富や貧しさ、自分の喜びや悲しみ、自分の生、自分の死といったものを、すべて自分で創造していたからだ。


神を見よ。それを憶えておきなさい。なぜならあなたは、あらゆるものに宿る神そのものなのだから。


(中略)


自分に対して、自分自身の真実を与えられるのは、あなただけである。なぜなら真実とは、自分で定め、自分で確立するものだからだ。そして真実は、科学的、知的な理解によって得られるものではなく、むしろ、感情的な理解を通して得られるものである。なぜなら真実は、ある種のフィーリングであり、「知っている状態」であるからだ。つまり、それは知的なものではない。自分にとって「何が真実か」を知ることは、「何が真実と感じるか」を知ることなのだ。


…自分にとって「何が真実か」を知ることは、「何が真実と感じるか」を知ること…


最も偉大な現実、最も偉大な真実とは何だろうか?
それは事実ではない。事実を現実として受け容れたとき、つまり事実を思考の中で真実として受け容れたときに、あなたが感じるフィーリングのほうなのだ。


最も偉大な現実
→事実を思考の中で真実として受け容れたときに、あなたが感じるフィーリング


感謝とは、神の愛をあらゆるものに見るという選択です。この選択をしたら、どうしたってみじめにはなりようがありません。


ふたつの世界があるように見えるでしょうが、実際はひとつだけです。恐怖心は愛の不在にすぎません。欠乏は豊かさの不在にすぎません。不平不満は感謝の不在にすぎません。


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質問者 すべての霊的教師たちが瞑想をするよう勧めます。瞑想の目的とは何なのでしょうか?


マハラジ 私たちは感覚や行為といった外側の世界は知っているが、思考や感情といった内なる世界のことはほとんど知らない。瞑想の初歩的な目的は、私たちの内なる生をより身近に自覚することだ。そして究極の目的は、生の源である意識にたどり着くことだ。
付随的にだが、瞑想の修行は私たちの人格に深く影響を及ぼす。私たちは私たちが知らないものの奴隷だ。知るものに対しては私たちが主人だ。何であれ、私たちの欠点や弱点を発見し、その原因や働きを理解する、知るということ自体がそれを克服するのだ。無意識は意識層にもちこまれることによって溶解する。無意識の溶解はエネルギーを解き放つ。マインドはそれを適切だと感じ、そして静かになるのだ。


質問者 静かなマインドが何の役に立つのでしょうか?


マハラジ マインドが静かになったとき、私たちは自分自身が純粋な観照者であることを知る。私たちは経験と経験者のどちらからも身を引き、その間であり、またその二つを超えた純粋な気づきとして離れて立つのだ。自分自身を、「私はあれやこれだ」と想像し、自己同一化をもととする人格は続いていく。しかし、ただ客観的世界の一部としてだけだ。観照者としての自己同一化は終焉する。


質問者 私が理解するには、私は多くの異なったレベルに生き、そして生の各々のレベルはエネルギーを必要とします。自己はその本性としてあらゆることを楽しみ、そのためエネルギーは外側へと流れていきます。このエネルギーをより高いレベルに蓄え、向上させ、豊かにすること、それが瞑想の目的ではありませんか?


マハラジ それはグナ(性質)のレベルの問題ではない。瞑想は純粋な行為であり、その目的はタマス(不活発性)とラジャス(活動性)を完全に除去することだ。純粋なサットヴァ(調和)は、怠惰と落ち着きのなさからの完全な自由だ。


質問者 どうやってサットヴァを強く清らかにするのでしょうか?


マハラジ サットヴァはつねに強く純粋だ。それは太陽のようなものだ。雲やほこりに見え隠れすることはあっても、それはただ見る者の視点によるのだ。太陽にではなく、太陽を隠す原因となるものに対処しなさい。


質問者 サットヴァは何の役に立つのでしょうか?


マハラジ 真理、善、調和、美、これらがいったい何の役に立つというのか? それらがそれら自身の目的なのだ。ものごとがそのまま干渉されず、避けられず、求められず、概念化されず、ただあるがままに完全な気づきのなかで体験されるとき、それらは自然に努力することなく現れる。そのような気づきそのものがサットヴァなのだ。それは人やものを利用するのではなく、それらを満たすのだ。


質問者 サットヴァを高めることができないのなら、タマスとラジャスのみに対処するのでしょうか? それらをどう扱えばいいのでしょうか?


マハラジ あなたのなかで、それらがどう影響を与えているかを見守ることによってだ。それらがどう作用するか気づいていなさい。あなたの思考、言葉、行為を見守りなさい。そうすればそれらのあなたへの支配は徐々に減っていき、サットヴァの澄んだ光が輝きだすだろう。それは困難でも長い過程でもない。真剣さ、それが唯一の成功への条件だ。


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