あなたの人生に起こるすべての出来事は、明確な深い意味と目的を持っています。


自分が行うこと、経験することのすべてが、自己に対する理解を深めるプロセスの一部となります。


あなたのなかにある「神を見つけたい、”大いなる故郷”へ帰りたい」と切望する気持ちは、神から切り離された自分というものがあって、神を見つけるためには、どこかへ行ったり、何かをしたりしなければならないとまだ信じている、そういう部分の自分なのです。


人生のいいものすべてが欲しいと人は言います。欲しがらないで、すべてになってください。あなたは、自分が求めるものそのものなのです。そこに達するために越えなくてはならない障害は何もありません。ただしその境地に達するには、自分は神から分離した存在であるという考えを捨てなければなりません。


体験そのもののなかに”神の本質”が含まれています。悟りとか、神を見つけるということの神秘は、まさにこの点にあります。


何も私は、むずかしくてつらいことをしなさいと言っているのではありません。





体験のなかに含まれているものに気づいてほしいのです。





人がそれに気づくのを邪魔する些細なことが山ほど存在するので、注意してください。人を堂々めぐりさせるのは、じつにこうしたつまらない事柄です。


「あれが欲しかったのに」
「もっと私に関心を払って」
「気持ちを傷つけられたわ」


こうした無意味なことが無数にあります。けれどもそれらの背後に隠れているのは、値段のつけようもないほどみごとな真珠であり、永遠に光り輝く”大いなる光”であり、尽きることのない慈悲であり、自分の”存在”のすばらしい神秘の実感なのです。



マハルシ それには、「私は心や現象を超越した真我である」という強烈な確信が必要とされます。


マハルシ たとえ心が活動的であろうと、それが何だと言うのでしょう? それはただ根底に在る真我の上でさ迷っているだけです。心が活動している間でさえ、真我をとらえなさい。


マハルシ ただ「私は真我である」という断固たる確信が必要なだけです。他の活動は、むしろあなたにヴェールを覆っているのです。


マハルシ つまり、確信が弱かったのです。

(対話406)


今よりも深く祈ったり、自分をもっと浄化したり、より敬虔な生活をしたりすることができる、という考えは誤っています。あなたはすでに浄化されており、敬虔であり、祈りに満ちています。
あなたという”存在”の持つ、純粋ですばらしい基本要素を取り出して、それをちがう形にねじ曲げてしまうのは、あなたの思考する頭なのです。ときにはねじ曲げられた形は不快な形です。


朝起きて、「今日一日、夫(妻)に対してやさしく接するように努力しよう。心を大きく開き、ものごとの本質をはっきり見るように努力しよう。平和と愛と喜びと美で自分を満たすように努力するのだ」と心に決めます。じつはそのあいだ、エゴは嘲笑しているのです。なぜならこの<努力する>ということこそが、エゴが望んでいる態度だからです。エゴは、あなたがこのねじ曲げられた形から目をそらさず、それを元どおりにする努力を続けることを望んでいます。


あなた方がここで理解するようになるのは、どんな感情もどんな考えもどんな行動も<それ>である、ということです。<それ>というのは神のことです。あなたの一部が新しい体験を求めているあいだ、別の部分はすでにそれを体験しているのです。自分の”存在”のうちで<ただ体験している>部分とつながることができると、あらゆることに喜びを感じるようになります。たとえ死ぬほどの恐怖や煮えたぎる怒りのまっただなかにあっても、それを喜んで体験している部分が自分のなかにあることを感じるようになります。あなたのなかの最も深い部分は、善と悪、快と苦とを区別しません。ただ体験していることを感じているだけです。


これまで人は、自分の体験に名前をつけるように教え込まれてきました。その結果、自分の体験について考えるという作業に一生を費やします。
「あの感情は嫉妬であり、嫉妬はいけないことだ」
エゴは、あなたが何かを体験するのではなく、体験について考えることを望みます。


エゴはあなたが問題を定義づけることを喜びます。
「私の悪い点は、やさしさに欠けていることだ」


問題を定義づけるやいなや、エゴはそれを念頭から追い払ってしまいます。定義してしまったらそれでおしまい、というわけです。さもなくばエゴは、その問題を際限なく頭で分析するという作業にあなたを従事させます。どちらにしろ、あなたはもうそれを体験していないわけですから、失敗です。


それぞれの人生の瞬間を味わいつくすということこそが、神であるということなのです。人生のそれぞれの瞬間を実感するには、どんな意識状態になくてはならないか、に気づく必要があります。


それに達するための第一歩は、思考がいかにその邪魔をしているか、ということに気づくことです。頭はさまざまの手を使ってきますが、どの策略もじつはおなじです。これらの策略が、固定化した考えのパターンを形成していて、それが人をみじめにするのです。


こうしたパターン化した考えが、あなたの関心を引いては、日々の生活に緊張を生み出します。これらの考えが集まって、群れを形成します。そして人は、できごとをあるがままに体験するのではなく、異なった考えや行動を取るように習慣づけられます。



質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょうか?


マハラジ あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。


質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、そして至高なるもの(ヴィアクティ、ヴィアクタ、アヴィアクタ)に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者(ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱してしまうのです。


マハラジ 個人はけっして主体ではありえない。あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた時間と空間において観照者として現れたのだ。その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡すのだ。


質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。


マハラジ それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。


質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?


マハラジ いいや。彼らはまったく反駁しあっているのだ。彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。


質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。


マハラジ なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」たちと彼らの要求から自由になる。「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。それを手放すことはできない。しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分け与えることができる。ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。


質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それに存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるものについてはどうでしょう? どのようにして私自身を至高なるものとして知るのでしょうか?


マハラジ 意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。源を知るということは、源として在るということだ。あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。それが源であり、無尽蔵の可能性だ。


質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのためにあるのでしょうか?


マハラジ それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにとって低次のものは多数として現れる。


質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?


マハラジ これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。


質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?


マハラジ それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではない。それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在しているのだ。


質問者 もしそれが源なら、なぜ、そしてどのようにしてそれ自身を現すのでしょうか?


マハラジ それは意識に誕生を与えるのだ。それ以外のすべては意識のなかにある。


質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?


マハラジ 客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影しては溶解している。いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づきの反映によって意識(チェタナ)が現れる。


質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?


マハラジ 何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう? 水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか? 至高なるものはすべてを可能にする。それだけだ。


質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?


マハラジ 原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。原因と結果という二元性は存在しない。すべてはそれ自身の原因なのだ。


質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?


マハラジ 私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。意識のなかではすべてが可能だ。もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。


質問者 自己(ヴィヤクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何でしょうか?


マハラジ 自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高なるものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。


質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?


マハラジ いいや。至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。


質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?


マハラジ それでは、あなたは死んだも同然だ。あるいはあなたが至高なるものなのだ。


質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。欲しているものとは誰なのでしょうか? 個人でしょうか、あるいは真我なのでしょうか?


マハラジ 真我だ。神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。それらはすべて「私は在る」という感覚に依存しているのだ。


質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在─意識─至福)の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなのでしょうか?


マハラジ すべての欲望は幸福を目指している。欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)があるところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸福になってほしいという衝動が見られる。だが、至高なるものはすべてを超えている。さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。


質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?


マハラジ 主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益であり、充分満たされるのだ。


質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないます。


マハラジ それらは同じではない。苦痛もまた同じものではない。熱情は苦痛だ。慈悲に苦痛はありえない。全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。


質問者 至高なるものはそれ自身を知っているのでしょうか?非個人性は意識をもっているのでしょうか?


マハラジ すべての源はすべてをもっている。源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在しているのだ。そしてひとつの種子は無数の究極的なものであり、それが経験を含み、数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうありえたこと、そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含んでいる。何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、過去と未来が永遠の現在の中で共存しているのだ。


質問者 あなたは至高なる未知のなかに生きているのでしょうか?


マハラジ それ以外、どこに住むことができるだろうか?


質問者 何があなたにそう言わせるのでしょうか?


マハラジ どんな欲望もわたしのマインドのなかに湧いてはこないのだ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ もちろんそうではない。わたしは完全に意識している。だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静寂が在る。


質問者 誰がその静寂を知っているのでしょうか?


マハラジ 静寂がそれ自身を知っている。それは熱情や欲望が静まったときの、沈黙したマインドの静寂なのだ。


質問者 あなたはときどき欲望を経験しますか?


マハラジ 欲望とはマインドのなかの波にすぎない。それを見たとき、あなたは波だと知る。欲望は数あるもののなかのひとつにすぎない。私にそれを満たそうという衝動は起きない。それに対して何もする必要はない。欲望からの自由とは、それを満たさなければという強迫観念が不在だということだ。


質問者 そもそも、なぜ欲望は湧いてくるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、あなたは生まれてきて、もしあなたが身体の面倒を見なければ死んでしまうだろうと想像するからだ。身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。


質問者 しかし、こんなにもたくさんの生命(ジーヴァ)が身体を得ているのです。間違いなく、それは判断の誤りではありえないでしょう。そこには目的があるはずです。いったい何でしょうか?


マハラジ  自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければならない。欲望は体験へと導く。体験は識別、無執着、自己知識──解放へと導く。そして解放とはいったい何だろうか? それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に負わせてきた。
探求もまた、あなたの目を覚ます。苦しみを待つまでもない。幸福への探求のほうがずっといい。なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。


質問者 究極の体験者とは誰なのでしょうか? 真我、あるいは未知なるものでしょうか?


マハラジ もちろん、真我だ。


質問者 それでは、なぜ至高の未知なるものという概念をもちこんだのですか?


マハラジ 真我を説明するためだ。


質問者 しかし、至高なるものを超える何かが存在するのでしょうか?


マハラジ 真我以外に存在するものはない。すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。トゥリーヤの醒めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧のなかでは「見ること」になる。
だが、なぜ至高なるものにこだわるのか? 知る者を知りなさい。そうすればすべては知られるだろう。


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Fiora & nobody