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マハルシ あなたは純粋意識なのです。グリハスタ・ダルマも世界も純粋意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。


疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。疑う者とは誰でしょうか? 考える者とは誰でしょうか? それは自我です。それをとらえなさい。
自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。それが純粋意識なのです。


「私は実現できるだろうか?」という疑いや、「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。

(対話251)


マハルシ ヨーギーは脳の中枢、あるいは千の花弁の蓮と呼ばれるサハスラーラに達することを最重要視しています。
事実は、身体は心の中に存在し、心は脳をその座としています。
その源に直接向かいなさい。借り物の源泉に依存してはならないのです。


集中とは一つのことを考えることではありません。その反対に、それは私たちの真の本性のヴィジョンを妨げるすべての想念を取り除くことなのです。

(対話398)


質問者 どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?


マハルシ アートマンの探究ということはありえません。真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。

(対話78)


あなたはそれがどんなものであっても、自分が選んだものに意識を集中する能力を持っています。どんなものにでも──無にでさえもです。とにかく、あなたはあらゆる瞬間に、何らかのものに意識を集中することを選んでいるわけです。光を望むのでしたら、自分の純粋な目覚めた意識を内側の光のあるところに向けてください。たえず変化しつづける外側にあるものに意識を集中しようとするのではなく、内側にある絶対的に安全なところ、現象界のエゴの波の満ち引きに引っ張られたりすることのない場所を見つけてください。


(理解、というのは最初から「方向性をもった」理解であり、「方向性をもった」動きです。この方向性を可能足らしめているもの、座標に対する「非-座標」の背景は、「存在そのもの」が普段気づかれていません。それは自分自身を「方向性をもった」何かだと誤解しているからです。それしか目に見て、耳に聞き、匂いを嗅いだことがない、だから想像の範疇にないわけです。「方向性をもった」動きによって「存在そのもの」を理解していこうとするのは、矛盾です。方向性に気づきたい、方向性をありのまま方向性足らしめたい。二の想像は、荷の創造です)


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愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


さて、これまで私は、考えられる限りのあらゆる言い方で、何度も何度も繰り返し、あなたが知り得る最も偉大な真実を語ってきた。その真実とは、「あなたは神である」ということだ。


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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