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本質


目標は、人生が展開するままに人生を生きながら、それぞれの瞬間にそれを体験している自分の部分を意識し、そこに意識を移行することができるということです。
本当を言えば、人はつねにこれを実行しているのです。





<人生を生きる>ということをしている<自分>というものがある、と人は思っています。





でも、そうではありません。
”大いなる源”がすべてをつかさどっているのです。そして”大いなる源”がすべてをつかさどっているのであれば、





自分が何かをしているときに、同時に、”大いなる源”の存在を感じて当然ではありませんか。





”大いなる源”が片方にあり、自分と自分の人生がもう一方にあって、この二つは別のものだという考えは、消し去るべき固定観念です。


いわゆる<神を求める>努力をしつづけるには、自分と神とのあいだにはどんな分離も存在しないのだと確信したい、という飽くなき願いと強い意志と固い決心が必要です。なかでも、神または覚醒、または悟りというものが実在するのだということを確信するためには、実践が必要です。人は自分が”大いなる源”から出て、”大いなる源”をあとにし、今の人生に入ってきたと信じています。私がここで示そうとしているのは、人は一度も”大いなる源”を離れたことがないということです。それは人というものの”本質”なのです。けっして離れたことはないのです。


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あなたは一番になりたいですか。
それとも”大いなる一”でありたいですか。


自分の権利を何としてでも主張したいと思ったなら、こう自問してください。「自分は一番になりたいのか。それとも”大いなる一”でありたいのか」。一番になるか、すべてとひとつになるか、というのが選択肢です。”大いなる自己”の”本質”を感じることができると、何も失うことなく”大いなる一”を選び取ることができます。代わりに<自己正当化>を選んだりしないでください。賢く見られることや、美しくなることや、金持ちになるほうを選んだりしないでください。”大いなる一”を手放して、他のものを選んだりしないでください。現在たとえどんな経験をしているとしても、それが<それ>そのものなのです。


愛と希望と喜びを内にはらんだあなた方の大切な魂が、叡智と思いやりの荘厳な花へと開いていく中で、そして見える見えないにかかわらずあらゆる生命を抱き容れる愛の荘厳な花へと開いていく中で、この天界でのあなた方の人生の日々を通して、私はつねにあなた方全員とともにあるだろう。だが、そのような瞬間よりも、あなたが自分の内面に神を見て、神を理解し、神を知る瞬間のほうが、遥かに、遥かに偉大な瞬間なのである。


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質問者 眠りの間、あなたはどうしていますか?


マハラジ 眠っている状態に気づいている。


質問者 眠りは無意識の状態ではないでしょうか?


マハラジ そうだ。私は無意識の状態に気づいている。


質問者 それでは目覚めのとき、あるいは夢見のときは?


マハラジ 私は目覚めあるいは夢見の状態に気づいている。


質問者 理解できません。正確にはどういう意味でしょうか? 質問を明確にさせてください。眠りの状態とは無意識を意味しています。目覚めの状態とは意識を、夢見とは周囲の状況ではなくマインドを意識している、ということを意味しています。


マハラジ 私にとっても同じことだ。しかし、そこには違いがあるように見える。各々の状態のなかで、あなたはほかの二つの状態を忘れているが、私にとっては目覚め、夢見、眠りの三つの精神状態を含み、しかも超越したひとつの存在状態があるだけだ。


質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?


マハラジ 世界とは私の想像の反映にすぎない。何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか? 私にはそれらは必要ない。世界は私のなかにあり、世界は私自身なのだ。私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に閉じこめたいなどという望みもない。


質問者 眠りに戻りますが、あなたは夢を見ますか?


マハラジ もちろん。


質問者 あなたの夢とは何でしょうか?


マハラジ 目覚めの状態の反映だ。


質問者 では、あなたの深い眠りは?


マハラジ 脳意識が一時停止した状態だ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私を取り巻く環境への無意識ということでは、そうだ。


質問者 まったくの無意識ではないということでしょうか?


マハラジ 私は無意識だということに気づいている。


質問者 あなたは「気づく」という言葉と「意識する」という言葉を使っていますが、それらは同じものではないのですか?


マハラジ 気づきは根本的なものだ。それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。気づきなしに意識は在りえない。しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。気づきは絶対的だ。意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。意識は部分的であり、変化するもの。気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。


質問者 人はどのように意識を超え、気づきのなかに入っていくのでしょうか?


マハラジ そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根元的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。


質問者 実在がつねに私たちとともに在るのなら、真我の実現は何によって成立するのでしょうか?


マハラジ 真我の実現は無知の反対にほかならない。この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。


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