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神は幸福感を通して見つかるものです。だから、幸福への欲求をいつも心に抱きながら生きてください。不幸な人が、自分のなかに神を感じているのを見たことがありますか。みじめな自分のところに神が来て、奇跡的に自分をたちまち幸せにしてくれるだろうといった期待はしないでください。これは「求める人」が考える神のイメージで、それが成就するには、とても長い時間がかかるでしょう。ここであなた方に真剣に考えてほしい概念は、


いまこの瞬間に”神なるもの”は存在し、自分はその一部である、というものです。

 
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なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。


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質問者 私はアメリカで生まれました。この一年間は、マディア・プラデーシュにあるアーシュラムに滞在し、ヨーガとそのさまざまな相を研究していました。偉大なシヴァーナンダ・サラスヴァティの弟子をグル(師)とする私たちの師は、モンギュルに滞在しています。私はシュリー・ラマナアシュラムにも滞在していました。ボンベイではゴエンカによって主催されているビルマ式の集中瞑想コースに参加しました。それにもかかわらず、私はいまだ平和を見いだしてはいません。自己制御と日々の規律には改善が見られますが、ただそれだけです。私には何が何によってひき起こされたのか正確には言えません。多くの聖地も訪れてきました。それらはどのように私に影響を与えてきたのかは、私には言えません。


マハラジ 遅かれ早かれ、良い結果が現れるだろう。シュリー・ラマナアシュラムでは何か指導を受けたのだろうか?


質問者 ええ。あるイギリス人が教えてくれました。それから、そこに定住しているジニャーナ・ヨーガを修めるインド人もまたレッスンをしてくれました。


マハラジ あなたの予定は?


質問者 ビザの関係で、アメリカに戻らなければなりません。理学士の学位を取得して自然治癒法を研究し、それを職業にしようと思っています。


マハラジ 間違いなく良い職業だ。


質問者 たとえいかに犠牲を払っても、ヨーガの道を追求していこうとすることに、何らかの危険があるでしょうか?


マハラジ 家が火事で燃えているとき、マッチ棒が危険だろうか? 実在を探求することは、すべての仕事のなかでもっとも危険なものだ。なぜなら、それはあなたの住んでいる世界を破壊するからだ。しかし、もしあなたの動機が真理と生命への愛であるならば、恐れる必要はない。


質問者 私は自分自身のマインドを恐れています。それはとても不安定なのです!


マハラジ あなたのマインドの鏡のなかで、イメージが現れては消えていく。鏡はそのままだ。すべての相違は現れのなかにだけあり、実際はひとつなのだと悟るまで、可動のものから不動のものを、変化するもののなかから不変のものを識別することを学びなさい。神、ブラフマン、母体(プラクリティ)、名前はともかく、この基本的なアイデンティティだけが、すべてはひとつだという真我の実現なのだ。ひとたびあなたが直接体験から生まれた確信とともに「私は世界であり、世界は私自身だ」と言うことができたとき、一方であなたは欲望と恐れから自由であり、もう一方では世界に対する完全な責任があるのだ。人類の愚かな悲しみはあなたの唯一の関心事となるのだ。


質問者 それでは、ジニャーニ(賢者)にさえも問題はあるのですね!


マハラジ そうだ。だが、それはもはや彼の創造したものではない。彼の悲しみは罪の感覚によって毒されたものではないのだ。ほかの人たちのために苦しむことは何も間違ったことではない。あなたがたのキリスト教はこのことを根底に置いているのだ。


質問者 すべての苦しみは自己による創造物なのではありませんか?


マハラジ そのとおりだ。苦しみをつくり出す分離した自己がそこにあるかぎりは。究極的に、そこには罪も、犯罪も、報復もなく、ただ生命の果てしない変容があるだけだとあなたは知るのだ。個人的な「私」が消え去るとき、個人的苦しみも消え去る。大いなる慈悲の悲哀と不必要な苦痛は残るのだ。


質問者 ものごとの成り立ちのなかに何か不必要なものがあるのでしょうか?


マハラジ 必要なものは何もない。不可避なものも何もない。習慣と情熱は盲目にし、惑わせる。慈悲心による気づきが癒し、救いをもたらすのだ。私たちにできることは何もない。私たちにできることは、その本性にしたがってものごとが起こるにまかせるだけだ。


質問者 あなたは完全な受動性を指示されるのでしょうか?


マハラジ 明晰性と慈愛が行為なのだ。愛がたゆむことはない、明晰性が導いていく。あなたが行為について心配する必要はない。マインドとハートの面倒を見るがいい。愚かさと利己主義が唯一の悪なのだ。


質問者 神の名の復唱と瞑想、どちらがより良いのでしょうか?


マハラジ 復唱はあなたの呼吸を安定させる。深く静かな呼吸によって、生命力が改善される。それが脳に影響を与え、マインドの浄化を助け、瞑想にふさわしくするのだ。生命力なしには何もなされない。それゆえ、生命力の維持と増強が重要となるのだ。姿勢と呼吸はヨーガの一部だ。なぜなら、身体は良い健康状態で制御されていなければならないからだ。だが、身体への過度な集中も本来の目的にそむいてしまう。なぜなら、はじめのうちはマインドが第一とされるからだ。マインドがやすらぎ、内なる空間(チダカーシュ)を乱さないとき、身体は新たな意味を得、変容は必要となり、また可能ともなるのだ。


質問者 私はインド中を巡り、多くのグルと出会い、いくつかのヨーガを少しずつ学んできました。このようにすべてからすこしずつ味わうことはいいことでしょうか?


マハラジ いいや。これはただの前置きにすぎない。あなたはあなたの道を見いだす助けをさし出す人に出会うだろう。


質問者 私は自分で選んだグルは真のグルではありえないのではないのかと感じています。真の師であるなら、彼は予期できず、抵抗できない形で現れるはずです。


マハラジ 期待しないことが最善だ。あなたの反応の仕方が決定するのだ。


質問者 私は自分の反応のマスターなのでしょうか?


マハラジ 今、識別し無執着であれば、適切な時期にその実を結ぶだろう。もし根元が健康で水のやり具合も良ければ、果実はかならず甘いものとなるだろう。純粋で、目覚め、準備を整えておきなさい。


質問者 苦行や禁欲主義は役に立つのでしょうか?


マハラジ 人生のあらゆる浮き沈みにであうことは充分な苦行だ。苦難を発明する必要などない。何であれ、人生がもたらすものを明るく受け入れていくことが、あなたに必要な苦行のすべてだ。


質問者 犠牲に関してはどうでしょうか?


マハラジ 誰であれ必要とする人に、進んで喜んで分け与えなさい。自分自身に残酷な試練を与えたりしてはならない。


質問者 明け渡しとは何でしょうか?


マハラジ 来るものを受け入れなさい。


質問者 私は自分の足で立つには弱すぎると感じています。私にはグルと善き人びととの聖なる交友が必要だと感じるのです。マインドの平静は私にとって手の届かないものです。ものごとを起こるがままに受け入れることは私をおびえさせます。アメリカに帰ることを考えるとぞっとするのです。


マハラジ 帰りなさい。そしてあなたに与えられた機会に最善を尽くしなさい。理学士の学位をまず取得しなさい。あなたは自然療法の研究のためにいつでもインドに戻ることができる。


質問者 アメリカでのチャンスについてはよくわかっています。私をおびえさせるのは孤独なのです。


マハラジ あなたには、いつもあなた自身の自己という仲間がいる。孤独を感じる必要はない。それから離れれば、インドにいたとしても孤独を感じるだろう。すべての幸福は自己を喜ばすことから来るのだ。自己を満足させなさい。アメリカに戻ったら、あなたのハートのなかの荘厳なる実在に値しないようなことは何もしてはならない。そうすれば、あなたは幸せだろう。そして幸せでありつづけるだろう。だが、自己を見いださなければならない。そして見いだした後、それとともにとどまるのだ。


質問者 完全に独りであることは何かの助けになるでしょうか?


マハラジ それはあなたの気質にかかっている。あなたはほかの者たちとともに、そしてほかの者たちのために、注意深く友好的に働くかもしれない。そしてあなたを愚鈍にし、マインドの果てしないおしゃべりに翻弄させてしまう孤独のなかよりもより完全に成長するかもしれない。努力によって変化をもたらすことができるなどと想像してはいけない。暴力は、たとえ自分自身に向けられたものでも、苦行や禁欲主義のように実を結ばないものなのだ。


質問者 誰が実現し、誰がしていないのかを見分ける方法はないのでしょうか?


マハラジ 唯一の証明はあなたのなかにある。もしあなたが黄金に変身すれば、それは賢者の石に触れたことのしるしなのだ。その人と一緒にいて、何が起こるかを見てみることだ。ほかの者たちに尋ねてはならない。彼らの師があなたのグルであるとはかぎらない。グルは本質において普遍的かもしれないが、表現においては異なるのだ。彼は自分のアーシュラムのことを心配していたり、貪欲だったり、怒っていたりするように見えるかもしれない。一方、ほかの教師たちは違うかもしれない。


質問者 内面と外面の両方での完璧さを期待するべきではないのでしょうか?


マハラジ 内面においては、そのとおりだ。しかし、外面の完璧さは環境、体の状態、個人的、社会的状態など、無数の要因によるのだ。


質問者 私はジニャーニを探しだすように、そうすれば自己知識を達成する技を彼から学べるだろうと言われました。そして今、その取り組み方自体が間違ったものであり、ジニャーニを認めることはできず、ジニャーナ(自己知識)を適切な方法で獲得することもできないと言われたのです。まったく訳がわかりません!


マハラジ それは実在に関するまったくの誤解によるものだ。あなたのマインドは価値評価することや獲得することに没頭している。そして獲得不可能なものがあなたの認識を永遠に待っていることを認めることはないだろう。あなたが為すべきことは、すべての記憶と期待を放棄することだけだ。ただ、完全に無防備な無の状態のなかで待つがいい。


質問者 誰が放棄をするのでしょうか?


マハラジ 神がするだろう。ただ、放棄される必要があることを見なさい。抵抗してはいけない。あなた自身だと思いこんでいる個人にしがみついてはいけない。あなたがあなた自身を個人だと想像するために、賢者もまたより知識があり、より能力があり、どこか普通とは違う個人だろうと思ってしまうのだ。彼は永遠に意識的で幸福だとあなたは言うかもしれない。だが、それも全体としての真理からは遠くかけ離れたものなのだ。定義や描写を信頼してはいけない。それらはひどく誤った印象を与えてしまうのだ。


質問者 どうすればいいのか、どのようにするのかを言ってもらわないかぎり、迷ってしまいます。


マハラジ ならば迷うがいい。あなたが有能で自信があると感じているかぎり、実在はあなたの手の届かないところにあるのだ。あなたが内なる冒険をひとつの生き方として受け入れないかぎり、発見はあなたに訪れないだろう。


質問者 何の発見でしょうか?


マハラジ あなたの存在の中心の発見だ。それはすべての方向、すべての手段と結果から自由なものだ。


質問者 「すべてに成れ、すべてを知れ、すべてを持て」でしょうか?


マハラジ 「何にもなるな、何も知るな、何も持つな」だ。これが唯一生きる価値のある生き方、唯一手にする価値のある幸福なのだ。


質問者 目的が私の理解を超えたものだということは認めましょう。少なくとも道を示してもらえませんか。


マハラジ あなた自身で道を見いださなければならないのだ。あなた自身で見いださないかぎり、それはあなた自身の道ではないだろう。そして、それはどこへもあなたを導きはしないだろう。誠実にあなたの見いだした真理を生きなさい。理解したわずかなことにしたがって行動しなさい。あなたを導くのはほかの誰かの賢さではなく、あなた自身の誠実さなのだ。


質問者 私は過ちを犯すことを恐れるのです。とても多くのことを試みてきましたが、何にもなりませんでした。


マハラジ あなたはほんのわずかしかあなた自身を捧げていない。単に興味があるだけで、誠実ではないのだ。


質問者 それ以上良い在り方を知らないのです。


マハラジ 少なくともそれくらいは、あなたも知っている。それが表面的であることを知り、あなたの体験に価値を与えることはやめなさい。体験が過ぎしだい忘れなさい。清らかな無我の人生を生きなさい。ただ、それだけだ。


質問者 倫理がそんなに重要でしょうか?


マハラジ 騙してはいけない。傷つけてはいけない──それは重要なことではないかね。何よりも、あなたには内面と外面の調和を要する内なる平和が必要なのだ。あなたの信じることをしなさい。そしてあなたのすることを信じなさい。それ以外のすべては時間とエネルギーの浪費なのだ。


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