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質問者 どうすれば真我を達成できるのでしょうか?


マハルシ 真我は達成されるものではありません。なぜなら、あなたが真我だからです。


質問者 そうです。不変の自己と変化する自己が私の中に存在しているのです。そこには二人の自己があるということです。


マハルシ 変化するのは単なる想念にすぎません。すべての想念は「私」という想念が現れた後にのみ現れます。想念が誰にとって現れたのかを見いだしなさい。そうすればそれは超越され、そして静まるでしょう。すなわち、「私」という想念の源をたどることで、あなたは完全な「私─私」を実現するのです。「私」とは真我の名前なのです。


質問者 「私はブラフマンである」(アハン・ブラフマースミ)に瞑想すべきでしょうか?


マハルシ その確言は「私はブラフマンである」と考えるためのものではありません。アハム(「私」)は誰もが知っています。ブラフマンはアハムとしてすべての人の中に宿っています。「私」を見いだしなさい。「私」はすでにブラフマンなのです。そう考える必要などありません。ただ「私」を見いだしなさい。


質問者 鞘(コーシャ)を棄て去っていく方法が聖典に述べられているのではありませんか?


マハルシ 「私」という想念が現れた後、「私」と身体、感覚、心などとの偽りの自己同一化が起こります。「私」が誤ってそれらと結びついたため、真の「私」は見失われてしまったのです。汚れた「私」から純粋な「私」へと変容させるために、鞘を棄て去るということが聖典に述べられています。しかしそれは、正確には真我ではないものを棄て去ることではなく、真我を見いだすことにあるのです。
真我は無限の「私─私」です。その「私」は完全です。それは永遠なるもの、始まりも終わりもないものであり、もう一つの「私」は生まれ、そして死んでいく、はかない一時的なものです。変化する想念が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。それらは「私」という想念が現れた後に現れることがわかるでしょう。その「私」という想念をとらえなさい。そうすれば、それは静まります。「私」という想念の源をたどりなさい。そうすれば、真我のみが残るのです。

(対話266)

 
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学ぶことに対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。叡智に対して、絶対に罪悪感を感じてはいけない。それは「覚醒」と呼ばれている。これまで自分は自分がする必要があったことをしてきたのだ、ということを理解しなければならない。すべては必要だったのだ。そして、あなたはすべてにおいて正しい選択をしてきたのである。すべてにおいて、である。あなたは明日も生き、神によって祝福されたその次の日も生きていく。その次の日も、その次の日も、ずっと生き続けていくのだ。そのとき、この今日という日に知っていたよりも多くのことを自分は知っていることに気づくことだろう。だが、この今日という日は間違いではないのだ。それはあなたを永遠の中へと導いてくれるのである。


人生において失敗した、あるいは何か間違ったことをしてしまった、というふうにあなたが思っているとすれば、あなたは自分自身の内面と外面の偉大さ、そして人生全体の重要性に気づく能力を衰えさせていることになる。自分の過去のどの部分であろうと、それをなくしたいなどと絶対に思ってはならない。過去のどんな部分でもだ。なぜなら、あなたのすべての崇高な体験と卑しい体験から生まれた葛藤が、あなたの魂の中に偉大なる美しい叡智の真珠を生み出したからだ。それは、もう二度とそれらの夢を見る必要はないし、それらのゲームを創造したり、それらを体験したりする必要はないことを意味している。というのも、あなたはすでにそれらを体験し、それらがどんなふうに感じるかを知っており、自分の魂の中にそれらに関する記録、すなわち人生において何にも勝る本当の宝物である「フィーリング」と呼ばれるものを持っているからだ。


私がここにいるのは、愛についてのあなたの理解を超えるほど、あなたが愛されているということを伝えるためだ。というのも、あなたはこれまで、自分自身を理解しようと奮闘しているひとりの神として以外、見られたことがないからだ。そして、自分のすべての生におけるあらゆる体験から、あなたは知識と叡智を獲得してきた。あなたはそれらを世界に与えてきた。広がりつつある生の美徳をさらに豊かなものにしてきたのである。


あなたのこれまでの人生は、あなたの内に宿る炎が生み出したすばらしい壮観だった。それは、敬意を払うべきもの、聖なるもの、神なるものとして再評価されるべきである。なぜなら、あなたが何をしようと、あなたはつねに神であるからだ。どのような仮面を身につけようと、あなたは神なのだ。どのような人間関係を体験していようと、あなたはそれでも神なのである。


あなたはこの人生の冒険に値する。あらゆる冒険に値する。そして、それよりも遥かにすばらしいことは、これから先あなたを待っている輝かしい冒険にも値するということである。だが、これまで自分がしてきたすべてのことは、単に自分自身である神についての理解を得るためだったということに気づくまでは、あなたはけっして「私は在る」という状態になることはないし、永遠への扉を通過することもない。あなた自身である神とは、人生という舞台でのあなたのあらゆる体験がもたらした美徳を通して、今ここで実演されているものである。


自分の背中にのしかかる重荷を抱えている者は、もしそうすることが自分を幸せにするのであれば、そうしなさい。だが、もしそれらから学ぶべきものをすべて学び、いいかげんうんざりしているのなら、そんなものは捨ててしまいなさい。どうやって? それらを愛し、抱き容れ、自分の存在の中にそれらがあることを許すことによってである。ひとたびあなたがそうしてしまえば、それらがふたたびあなたを押さえつけることはなくなる。そしてそのあとは、生きることのすばらしさを透明な視界を通して見ることができ、愛を価値判断なしに感じることができ、存在することの喜びが、無限の「知っている状態」の力となることができるのである。


自分の人生を抱き容れなさい。自分が神聖なる存在であることを知り、これまで自分がしてきたことすべてがあったからこそ、自分の存在の強さがあるのだということを知りなさい。罪悪感を持つのをやめなさい。悲しみにひたるなどという、馬鹿げた演技はやめなさい。自分に重荷を背負わせるのをやめるのだ。自分以外の誰かを責めるのをやめなさい。自分自身でその責任を負うのだ。それはあなたの責任なのである。

 
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質問者 賢者の日々のマインドの状態とはどのようなものでしょうか? 彼はどのように見、聞き、食べ、飲み、目覚め、働き、そして休むのでしょうか? 彼の境地が私たちのものと異なるという証拠は何でしょうか? いわゆる実現したと言われる人びとの証言以外に、客観的に彼らの状態を証明する方法はありません。何か観察可能な違いが彼らの生理学的な、そして神経反応、物質代謝、または脳波、あるいは心身相関の構造のなかにあるのでしょうか?


マハラジ あなたは違いを見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。すべてはあなたの観察の能力にかかっている。しかしながら、客観的な違いがもっとも重要なものではない。問題は彼らの見地と彼らの態度にある。それは超然として、冷静で、完全に無執着で在ることだ。


質問者 ジニャーニの子供が死んだとき、彼は悲しみを感じるのでしょうか? 彼は苦しまないのでしょうか?


マハラジ 彼は苦しむ人たちとともに苦しむ。出来事自体が重要なのではない。だが、生きていようと死んでいようと、身体のなかにいようと外にいようと、彼は苦しむ人たちに対して慈悲に満ちている。やはり、彼の本性は愛と慈悲なのだ。彼はすべての生命とひとつであり、行為のなかでひとつであることが愛なのだ。


質問者 人びとは死をとても恐れています。


マハラジ ジニャーニに恐れるものは何もない。だが彼は恐れている人を憐れむ。つまるところ、生まれること、生きること、そして死ぬことは自然なことだ。恐れることは自然ではない。もちろん、起きていることに注意は払われる。


質問者 あなたが病気だと想像してください。医師が、あなたの病状は深刻なもので、あと二、三日しかもたないだろうと言ったとします。あなたの最初の反応は何でしょうか?


マハラジ 無反応だ。線香の火に燃えつきるときが来ることが自然なように、身体が死ぬのは自然なことだ。それはまったく重要な問題ではない。重要なことは、私は身体でもマインドでもないということだ。私は在る。


質問者 あなたの家族は絶望するでしょう。彼らに何と伝えるのでしょうか?


マハラジ よく言われることだ。恐れてはならない。人生は続いていく。神があなたたちを守るだろう。私たちはすぐにまた一緒になるだろう、といったことだ。だが、私にとってこの動揺全体は無意味なものだ。なぜなら、私は生きるとか死ぬといった想像をする実体ではないからだ。私はけっして生まれなかった。私に死ぬことはできないのだ。私には覚えることも忘れることもない。


質問者 死者への祈りはどうなるのですか?


マハラジ もちろん、死者への祈りを捧げるがいい。それはとても彼らの意にかなうだろう。彼らは嬉しく思う。ジニャーニはあなたがたの祈りを必要としていない。彼自身があなたがたの祈りへの応えなのだ。


質問者 死の後、ジニャーニはどのように旅立っていくのでしょう?


マハラジ ジニャーニはすでに死んでいる。あなたは彼にもう一度死ぬことを期待するのかね?


質問者 もちろん、身体の崩壊はジニャーニにとっても重要な出来事に違いありません。


マハラジ ジニャーニに重要な出来事というものはない。誰かが最高の目的を成就したときを除いては。そのときだけは、彼のハートも喜ぶ。それ以外のすべてに対して彼は関心がない。宇宙全体が彼の身体であり、すべての生命は彼の生命なのだ。都会でひとつの電球が切れたとき、それがネットワーク全体に影響を与えることはない。同じようにひとつの身体の死が全体に影響を与えることはないのだ。


質問者 特定の存在は、全体にとって問題ではないかもしれませんが、特定の存在にとっては問題です。全体とは抽象的なものですが、特定の存在は具体的なものであり、現実です。


マハラジ それはあなたがそう言うだけだ。私にとってはその反対だ。全体が現実で、部分は来ては去るものだ。特定の存在は誕生、再誕生し、名前と形を変えていく。ジニャーニは、その変化を可能にする不変の実在なのだ。しかし、彼はあなたに確信を与えることはできない。それはあなた自身の体験とともにやってこなければならないのだ。私にとってはすべてがひとつであり、すべてが同等だ。


質問者 罪と徳はひとつであり、同じものなのでしょうか?


マハラジ それらはみな人間のつくり出した価値だ。それらが私にどんな意味をもつというのだろう? 結果的に幸福をもたらすなら、それは徳だ。結果的に不幸をもたらすものは罪だ。どちらもマインドの状態だ。私の境地はマインドの状態ではないのだ。


質問者 私たちは見るということの意味を理解できずにいる盲人のようです。


マハラジ あなたの好きなように言うがいい。


質問者 沈黙の修練は、サーダナとして効果的なものでしょうか?


マハラジ 何であれあなたが悟りを得るためにすることは、あなたを悟りへと近づける。何であれあなたが悟りを覚えることなしにする行為は、あなたを悟りから遠ざける。だが、なぜそう事を複雑にするのかね? ただ、あなたはすべてのものごとや思考を超えているということを覚えておきなさい。あなたが成りたいもの、あなたはすでにそれなのだ。ただ、それを心にとどめておきなさい。


質問者 あなたの言うことは聞いていますが、私には信じられないのです。


マハラジ 私もまた同じ立場にいたのだ。だが、私はグルを信頼し、彼はそれが正しいことを証明した。もしできるならば、私を信頼しなさい。私の言うことを心にとどめておきなさい。何も望んではならない。なぜなら、あなたは何ひとつ欠いてはいないからだ。探すということ自体が見つけるということを妨げるのだ。


質問者 あなたは本当にすべてのことに無関心なようですね!


マハラジ 私は無関心なのではない。公平なのだ。私には、私と私のものへの選り好みがないのだ。かごいっぱいの土とかごいっぱいの宝石はどちらも不要なものだ。生と死はどちらも同じことだ。


質問者 公平さがあなたを無関心にするのです。


マハラジ その反対に、慈悲と愛が私の核だ。すべての偏愛を離れ、愛することに自由なのだ。


質問者 仏陀は、悟りの概念は非常に重要なものだと言いました。ほとんどの人たちは、悟りのために努力している人たちがいることはもちろん、そのようなものがあるということさえ知らずに生きています。ひとたび、彼らがそれについて耳にしたなら、けっして絶えることのない種子がまかれたのです。それゆえ、彼は毎年八カ月間、彼の比丘(ビク)たちに絶え間なく教えを説くように送りだしたのです。


マハラジ 「人は食物、衣服、住居、知識、愛情を与えることができるが、最上の贈り物は悟りの福音だ」と私のグルはよく言ったものだった。あなたの言うとおりだ。悟りは最上の贈り物だ。ひとたび、それを得たら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。


質問者 もし西洋であなたがこのように話したら、人びとはあなたを狂人だと思うでしょう。


マハラジ もちろん、彼らはそう思うだろう! 無知なる人びとにとって、彼らに理解できないことはすべて狂気なのだ。それが何だというのだろう? 彼らは彼らのままであればいい。私が私であることに何の益もなく、彼らが彼らであることに何の過ちもない。至高の実在は無数の方法でそれ自身を顕現する。果てしない数の名前と形がある。同じ海のなかにすべては立ち現れ、すべては溶けあう。すべての源はひとつだ。原因と結果を探し求めることはマインドの娯楽にすぎない。存在するもの、それは愛すべきものだ。愛は結果ではなく、存在の基盤そのものだ。どこへ行こうと、あなたは存在と意識と愛を見いだすだろう。いったいどうして、何のために選り好みをするのだろうか?


質問者 洪水や地震のような自然災害が、何千何百万人もの命を奪うことがあっても、私を悩ましはしません。しかし、ひとりの人間が人の手によって死ぬとき、私は途方もなく悲しみます。不可避のものにはそれ自体の威厳があります。しかし、殺すことは避けることができるものです。そしてそれゆえ、醜く恐ろしいものなのです。


マハラジ すべては起こるように起こるのだ。自然なものであれ、人為的なものであれ、災難は起こる。怖がる必要はないのだ。


質問者 原因なしに何かがありうるのでしょうか?


マハラジ すべての出来事のなかに宇宙全体が反映されている。究極的な原因の由来を調べることは不可能だ。因果律の概念自体はただの考え方にすぎない。原因のない存在の出現を想像することはできない。しかしながら、それが因果関係の存在を証明するわけではないのだ。


質問者 自然にはマインドがありません。それゆえ、責任はありません。しかし、人にはマインドがあります。なぜ人のマインドはそれほどまで邪悪なのでしょうか?


マハラジ 邪悪さの原因もまた遺伝や環境などの自然なものだ。あなたは性急に非難しすぎる。他者について思い煩うことはやめなさい。あなた自身のマインドを最初に扱いなさい。あなたのマインドもまた、自然の一部分であることを自覚すれば、二元性は消え去る。


質問者 私には計り知れない不思議としか言えません。マインドがどうして自然の一部分でありうるのでしょうか?


マハラジ なぜなら、自然はマインドのなかにあるからだ。マインドなしで自然がどこにあるだろうか?


質問者 もし自然がマインドのなかに在り、マインドが私自身のものならば、私は自然を制御できるはずですが、それは事実ではありません。私の制御を超えた力が、私の行動を決定するのです。


マハラジ 観照の姿勢を発達させなさい。そうすれば、あなたは無執着が制御をもたらすということを自らの体験をもって見いだすだろう。観照している状態は完全な力をもっている。そこには何も受動的なことはないのだ。


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