葬送の歹義場(そうそうのぎじょう)10
向こう側の騒ぎは1週間続いているどころか既に10日目で、すごく不吉な言葉を送られました。ぎじょうの義の字はわざわざ存在しない、がつへん・かばねへんを使用していました。
義のために人が犠牲になる何かが整っているということを伝えたいのか、不明です。
第三のヒロシマ前夜というのは私の理性というか主に推測で書いていたのですが、今回はフィオラ側です。続くにしても続かないにしてもまた書きます。n



葬送の歹義場(そうそうのぎじょう)Fiora


韓国の女優さんのお辞儀
事あるごとにお辞儀をする役柄の女優さんを見たのですが、丁寧で顔までキレイなのに所作が美しくないのです。間の取り方も美しくない。全体の印象としては独り善がりな平均台を見せられているかのようです。ルールという棒の上をふらふら進んではいるけれどなにかがちがう。
その所作が周囲に溶け込んでないのですね。パッと見て、美しいかどうか。大事だと思いました。n


神を信じるか、プログラム(トレーニングメニュー)を信じるか
神と表現すべきか、大本の存在と言えばいいのか、我らも存在なので、大本から不可分です。ですが、霊の成長という「現実」において、直近で意味を持つのは偉大な神そのものではなく、目の前のことに対する「素直さ」だと思います。素直な人ではなく、単に素直さです。
逆に言うと、「素直さ」そのものが神の望みかもしれません。
何に対して素直なのかと言うと、自分を擁護したくなったり、揶揄したくなったりする「生起する自分という現象」に素直、かつ同一化しないということです。
もし同一化すると、大本の神から分離した、という幻想に支配されるため、行動の基準が傷跡を覆うことのみになります。傷は回復しません。ファントムペインだから。できることは覆い隠そうとすることだけ。その状態はやたらと遠回りです。傷の痛みから目を背けるつもりが、余計に痛みます。
着の身着のままで、避難所となっている学校の体育館に来たとします。財布も携帯も置いてきてしまった。肉体もガタガタかもしれない。そこでも「変わらずに在る」ものは、人生の全局面の基本かもしれません。特別なことなど何もないのに、特別でなさすぎて、逆に特別になってしまっている空気や水のような「存在」です。
「ただ在る」とはすごい表現方法なんです。津波が迫ってきたとき、みんなが必死に行動します。培った経験と知識、最新のテクノロジー、流行り廃りもあります。でも「ただ在る」に浸り、それらと連携することもできます。n


マハルシ 心を神に明け渡しなさい。神の化身が神から独立して存在することはできないのです。神のものは神に明け渡して、幸せでありなさい。


質問者 どうすればよいのでしょうか?


マハルシ 私たちはどのようにして心を知るでしょうか? その活動、つまり想念によってです。想念が起こるたびに、すべての想念は神の化身(神の現れ)なのだということを想い起こしなさい。これで十分です。
神から独立して存在できるものなどあるでしょうか?


ただ神の化身だけが存在し、神の化身がすべてを通して行為しているのです。なぜ私たち自身のことを心配するのでしょうか?

(対話600)



あらゆる経験は、たったひとつの目的のために起きています。その目的とは、あなたの気づきを拡大することです。意識的には、これこれが起きるだろうと確信していなかったかもしれませんが、起きてしまえば、ほとんどの場合、あなたはその事件を自分の信念にしたがって、「やっぱり」と解釈します。


他人の考えや行動を批判することによっては、生の喜びは経験できません。自分のハートの中の真実に従いつづけることによってのみ、喜びは経験できるのです。そしてこの真実は、けっして他人を拒絶せず、中に迎えいれます。


真実は、開かれたままの扉です。この扉を閉めることはできません。入らないことを選択できるだけです。別の方向から入ることもできます。でもこう言うことはできません。「入ろうとしたけれど、扉が閉まっていた」と。扉はあなたにも、ほかのだれに対しても、けっして閉ざされたことはありません。


恐怖心に満ちた思考に気づくことで、べつの道がひらけます。しかしどうか、ネガティブなもの、恐怖心に満ちた思考を、ポジティブなもの、愛の思考でおきかえようとがんばらないでください。それは葛藤をもたらすだけです。ただ、気づきだけをはたらかせます。自分の恐怖心に気づき、それを感じてみます。


そうして、それを十全に感じたら、ただこう言ってください。「わたしはいま、自分の恐怖心から抜け出す準備ができました。父よ、どうぞ力を貸したまえ」そして、自分の求めた助けがやってくるのをよろこんで受けいれてください。あなたの願いがしりぞけられることは決してないと、わたしは保証します。


もうひとつ提案しておきましょう。助けを求めるときには、自分の思考を変えてください、と願いなさい。ですから、こう確言します。「父よ、この状況に対する自分の心を変えたいと思います。どうか、この状況を恐怖心の目を通じてではなく、あなたがごらんになるように見させてください。自分自身とひとしく他の人に対する愛をもって、この状況を見させてください」


兄弟よ、これはめざましい効果のある祈りです。祈りの中にとどまりなさい。その力と平和の中にいなさい。すべての言葉、すべての動き、すべての行為の中に、神の答えを受けとりなさい。奇蹟は、よろこんで受けいれる準備ができて初めて体験できます。


奇蹟が目に入らなければ、なんにもなりません。奇蹟をハートに受けいれようと思うなら、それは自分の期待とはちがう形かもしれないということを理解しておいてください。あなたの人生における奇蹟の存在に心を開き、それがみずからをあらわすのを許してください。


そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。


あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。


あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。


でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。



質問者 私はシュリー・ラマナ・アシュラムから来て、今着いたばかりです。そこで七ヵ月間過ごしました。


マハラジ アーシュラムでは、何の修練をしていたのかね?


質問者 できるかぎり、「私は誰か?」に集中していました。


マハラジ どのようにしていたのだろうか? 言葉を使ってかね?


質問者 一日のうちで私が自由にできる時間に、ときには「私は誰か?」「私だ。しかし、私は誰なのか?」と自分自身につぶやきながら、あるいはそれをマインドのなかで行っていました。ときには何か良い感じがしたり、まったく幸せな気分になったりしました。概して、体験を得ようと骨を折るよりも、静かに受容的であろうとしていました。


マハラジ あなたが正しい心もちでいたとき、実際には何を体験したのだろうか?


質問者 内なる静けさ、平和、沈黙です。


マハラジ 自分が無意識になったことに気づいたことがあったろうか?


質問者 はい。ときには、とても短い間ですが。そうでなければ、私はただ内側でも外側でも静かにしていただけです。


マハラジ それはどのような静かさだったのだろうか? 何か深い眠りに似た、それでもやはり意識のある、目覚めた眠りの類だろうか?


質問者 はい。油断なく気づきながら眠っている状態(ジャーグラット─スシュプティ)です。


マハラジ 重要なのは欲望、恐れといったマインドの「六つの敵 *」である否定的感情から自由になることだ。ひとたび、マインドがそれらから自由になれば、あとはたやすい。洗剤に浸けおいた布がきれいになるように、純粋な感情の流れのなかでマインドは浄化されるのだ。
あなたが静かに座り自己を見つめるとき、あらゆることが表層に現れてくるかもしれない。それらに対して何もしてはいけない。それらに反応してはならない。それらはやってきたように、それら自身で去っていくだろう。重要なことは注意、自分自身へというより、むしろ自分のマインドへの完全な気づきだけだ。


質問者 「自分自身」とは日常の自分ということでしょうか?


マハラジ そうだ。個人のことだ。それだけが客観的に観察可能なのだ。観察者は観察の彼方にいる。観察可能なものは本来の自己ではない。


質問者 私は観察者の背後へと果てしなく退くことにより、つねに観察者を観察することができます。


マハラジ 観察を観察することはできる。だが、観察者をではない。あなたは観察を基盤とした論理的過程によってではなく、直接的洞察によって、あなたが究極の観察者だということを知っている。あなたはあなたであるものだ。だが、あなたが知っているのはあなたではないものだ。自己は存在として知られ、非自己は一時的なものとして知られる。しかし実際は、すべてはマインドのなかにあるのだ。観察されるもの、観察、そして観察者は精神的構成概念にすぎない。真我だけが在るのだ。


質問者 なぜマインドはこれらの区別をつくり出すのでしょうか?


マハラジ 区別することはマインドの本性そのものなのだ。区別すること自体に害はない。しかし分離は事実に反している。ものごとや人びとはさまざまだ。しかし、それらは分離していない。自然はひとつ、実在はひとつだ。反対のものはあっても、対立はないのだ。


質問者 私は自分がたいへん活動的な性質だと気づきました。ここにいる間、私は活動を避けるように勧められました。不活発になろうとすればするほど、何かをしようという衝動は大きくなっていきます。これが私を外面的に活動的にするばかりではなく、本質的にそうではない私になろうとする内面の葛藤ももたらします。仕事への切望に対する治療法はあるのでしょうか?


マハラジ 仕事と単なる活動の間には違いがある。すべての自然は働いている。働くことは自然だ。自然は働くのだ。一方、活動は欲望と恐れ、所有し楽しむことへの切望、苦痛と消滅への恐怖を根底にしている。仕事は全体による全体のためのものだ。活動は自分による自分のためのものだ。


* 訳注 「六つの敵」 性欲、怒り、強欲、妄想、慢心、羨望。


質問者 活動に対する治療法はあるのでしょうか?


マハラジ それを見なさい。そうすれば、それは止むだろう。あなたが束縛のなかにいること、何であれ、あなたに起こることは身体的存在という事実によることを、あらゆる機会を使って自分に思い起こさせなさい。欲望、恐怖、困難、喜び、それらは現れる対象であるあなたがいないかぎり、現れることはできない。それにもかかわらず、何であれ起こることは知覚する中心としてのあなたの存在を指し示す。指し示すものは無視し、それらが何を示しているのかに気づきなさい。それはとても簡単だが、実行されなければならない。重要なことは、あなた自身に戻りつづけるという持続性なのだ。


質問者 私は自分のなかに深く没頭してしまう奇妙な状態に陥ります。それは、しかし予期できない、一時的なものなのです。そのような状態を自分でコントロールできるとは思いません。


マハラジ 身体は物質的なものであり、変えるには時間がかかる。マインドは考え方と感じ方という精神的習慣の集合だ。変えるためには、それらは表層に引き出され、調べられなければならない。これもまた時間がかかる。ただ決心し、たゆまずやり通すことだ。あとはそれ自身が面倒を見るだろう。


質問者 どうやら私は何をすべきか、という明確な計画をもったようです。しかし私は疲れ、ふさぎこんで友人たちを求め、そうして孤独と瞑想に与えられるべき時間を浪費してしまうのです。


マハラジ あなたの感じるようにするがいい。自分を責めるのはやめなさい。暴力はあなたを固く、厳しくしてしまう。道の上の障害と闘ってはならない。ただそれらに関心をもちなさい。それらを見て、観察し、調べなさい。良いこと悪いこと、何であれあるがままに起こらせるがいい。だが、あなた自身を起こることのなかに沈みこませてはならない。


質問者 自分が観照者だとつねに思い起こさせる目的は何なのでしょうか?


マハラジ 動きまわるマインドの彼方には、不変なる気づきという背景が存在する。マインドは本来の自己を知り、それを敬い、月食で月が太陽を隠すように、それを覆い隠すことをやめなければならない。ただ観察可能なもの、体験可能なものは何ひとつあなたではなく、またあなたを束縛することはできないということを自覚しなさい。あなた自身ではないものに注意を払いなさい。


質問者 あなたが言ったことをするには、私は絶え間なく気づいていなければなりません。


マハラジ 気づくことは目覚めることだ。気づかないことは眠っていることだ。いずれにせよ、あなたは気づいている。そうあろうと試みる必要はない。あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。意図的に、そして意識的に気づいていなさい。気づきの領域を広げ、そして深めなさい。あなたはつねにマインドを意識している。だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。


質問者 私が理解するには、あなたは「マインド」「意識」「気づき」という言葉に、明確に区別された意味を与えています。


マハラジ こういうふうに見てみなさい。マインドは、たとえあなたが見ていないときでも、想いを絶え間なく生みだしている。マインドのなかで何が起こっているかを知っているとき、あなたはそれを意識と呼ぶ。あなたの意識は感覚から感覚へ、知覚から知覚へ、観念から観念へと果てしない連続のなかで移行している。これがあなたの目覚めの状態だ。そしてマインドの全体性、意識全体への直接的洞察である気づきが現れる。マインドは川のように、身体の川床のなかを絶えず流れている。あなたはあなた自身を一瞬ある特定の波と同一化し、それを「私の想い」と呼ぶのだ。あなたが意識するすべてはあなたのマインドであり、気づきとは意識の全体性の認識だ。


質問者 誰もが意識しています。しかし、誰もが気づいているわけではありません。


マハラジ 「誰もが意識している」と言ってはならない。「意識がそこに在る」と言いなさい。そのなかですべては現れ消えていく。私たちのマインドは意識の大海の波にすぎない。波としてのそれは、来ては去っていく。海としてのそれは、無限で永遠だ。あなた自身を生命の大海、すべての存在の子宮として知りなさい。もちろん、これらはすべて隠喩だ。実在は描写を超えている。あなたはそれで在ることによってのみ、それを知ることができるのだ。


質問者 それを探求することに苦労するだけの価値があるのでしょうか?


マハラジ それがなければ、すべてが苦労だ。もしあなたが正気で、創造的に、幸福に、そして分かちあえる無限の豊かさをもって生きたいと願うならば、あなたであるものを探求しなさい。マインドは身体の中心にあり、意識はマインドの中心にあるが、気づきは自由だ。身体はその衝動をもち、マインドはその苦痛と喜びをもっている。気づきは無執着で、不動だ。それは透明で、静かで、穏やかで、油断なく、恐れがなく、欲望も恐怖もない。あなたの真の存在として、それに瞑想しなさい。そして日々の生活のなかでそれで在ろうと試みなさい。そうすれば、あなたはその豊かさを実現するだろう。
マインドは起こっていることに関心をもつが、気づきはマインド自体に関心をもつのだ。子供はおもちゃを追い求めるが、母親はおもちゃではなく子供を見ている。
たゆまず見つづけることで、私は完全な虚空となったのだ。そしてその虚空とともに、すべては私に戻ってきた、ただマインドを除いて。私はマインドを失い、取り戻すことができないことに気づいたのだ。


質問者 今、あなたは私たちに話しかけていますが、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ 私は意識でも無意識でもない。私はマインドと、その多様な状態と条件を超えているのだ。区別はマインドによってつくられ、マインドにのみ適用される。私は純粋な意識そのものだ。存在するものすべての完全な気づきだ。私は真正な状態にいる。個人を構成する区分や分離に惑わされることはない。身体が続くかぎり、それにはその要求がある。しかし、私の精神的過程は終焉したのだ。


質問者 あなたは考える人のようにふるまっていますが。


マハラジ いけないかね? だが私の思考は消化作用のように無意識であり、意味のあるものだ。


質問者 もしあなたの思考が無意識ならば、どうやってそれが正しいと知るのでしょうか?


マハラジ それを妨げる何の欲望も恐れもないからだ。どうして間違いを犯すことができるだろうか? ひとたび自分自身と、自分が何を意味するのかを知れば、自分自身をつねに確かめる必要はない。あなたの時計が正確な時を告げていると知れば、それを見るたびためらう必要はないのだ。


質問者 もしマインドではないのなら、今、この瞬間誰が話しているのでしょうか?


マハラジ 質問を聞いているそれが答えるのだ。


質問者 しかし、それとは誰でしょうか?


マハラジ 誰ではなく、何がだ。あなたにとって、私は個人として見えるかもしれないが、あなたの言葉の意味でいう個人ではない。私はそのなかですべてが起こる無限の意識の大海なのだ。そしてすべての実存と認識を超えた存在の純粋な至福だ。私から分離したと感じられるものは何もない。それゆえ、私はすべてだ。私はいかなるものでもない、それゆえ、私は無なのだ。
火は燃え、水は流れ、種子は発芽し、樹木は生長する。その同じ力が私をしてあなたの質問に答えさせるのだ。言葉や話しぶりは個人的に見えるかもしれないが、私に関しては何も個人的なことはない。個人とは、欲望や思考や行動の一様式だ。私の場合、そのようなものは何もない。私には望むものも恐れるものもない。どうして様式がそこにありえようか?


質問者 間違いなく、あなたも死ぬでしょう。


マハラジ 生命は離れ、身体は死を迎えるだろう。だが、それが私に影響を与えることはまったくない。私は時間と空間を超えた彼方に在る。原因なく、原因を与えることなく、しかも存在の母体そのものなのだ。


質問者 あなたがどうやって現在の状態に至ったのか、尋ねてもかまいませんか?


マハラジ 私の師が、「私は在る」という感覚をしっかりつかまえ、一瞬でさえ離してはならない、と私に言ったのだ。私は彼の助言にしたがって最善を尽くし、比較的短期間で彼の教えの正しさを実現した。私がしたことといえば、彼の教え、彼の顔、彼の言葉を絶えず思い起こしていたことだ。これがマインドに終焉をもたらした。マインドの静寂のなかで、私は束縛から解放された、あるがままの私を見たのだ。


質問者 あなたの真我の実現は突然のものでしょうか、それとも段階的なものだったのでしょうか?


マハラジ どちらでもない。それは永遠にそれなのだ。欲望と恐れがぬぐい去られたとき、それを実現するのはマインドなのだ。


質問者 真我の実現のための欲望もぬぐい去られたのでしょうか?


マハラジ 恐れることへの恐怖がもっとも奇妙な恐れであるように、すべての欲望に終止符を打とうと望むことは、もっとも奇妙な欲望だ。ひとつは、あなたにつかみ取ることをやめさせ、もうひとつは、あなたに逃げだすことをやめさせる。あなたは同じ言葉を使うかもしれないが、その状態は、同じではない。真我の実現を探し求める人は欲望に溺れない。探求者は欲望に沿うことなく逆らっていく。自由への一般的な切望はただの初歩段階だ。適切な手段を見つけ、それらを適用することが、つぎなる段階だ。探求者には、彼の真我を見いだすというたったひとつのゴールしか視野にない。すべての欲望のなかで、それはもっとも野心的なものだ。なぜなら、何も、そして誰もそれを満たすことはできないからだ。探求者と探求されるものはひとつだ。そして探求のみが重要なのだ。


質問者 探求は終焉するときが来ます。探求者は残るでしょう。


マハラジ いいや。探求者は消え去るが、探求は続く。探求は究極であり、永遠の実在だ。


質問者 探求とは、欠けていること、欲していること、未完成、そして不完全を意味します。


マハラジ いいや。それは不完全と未完成の拒絶と拒否を意味する。実在の探求自体が実在の動きなのだ。ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我の探求を意味している。この探求が終わることはけっしてない。それと同時に、それ以外のすべてへの落ち着きのない切望が終わらなければならないのだ。
実在、神、あるいはグルの探求は、真我の探求と同じだということを理解しなければならない。ひとつが発見されると、すべては発見されるのだ。「私は在る」と「神は在る」があなたのマインドのなかで区別不可能となったとき、何かが起こる。そのとき疑いの余地なく、神が存在するのはあなたが在るからであり、あなたが存在するのは神が在るからだと知るだろう。


質問者 すべてが運命によってすでに定まっているのなら、真我の実現もまた定まっているのでしょうか? あるいは、少なくともそれに関して私たちは自由なのでしょうか?


マハラジ 運命は名前と形にのみ関係する。あなたは身体でもマインドでもないのだから、運命があなたをコントロールすることはできない。あなたは完全に自由だ。コップは形、材質、利用法などに条件づけられている。だが、コップのなかの空間は解放されている。それはコップに関連して見られたときにだけ、コップのなかにあると見なされる。そうでなければ、それはただの空間だ。身体があるかぎり、あなたは肉体化されたかのように見える。身体がなくなっても、あなたは肉体から分離されたのではない。あなたはただ在る。
運命さえもただの概念にすぎない。言葉はあらゆる方法で組み立てられる。表現は異なるだろうが、それらが現実において変化をもたらすだろうか? 数多くの説がものごとを説明するために発明されてきた。それらすべてはもっともらしいものであり、どれも本物ではない。車を運転するとき、あなたは科学と力学の法則の支配下にある。車を降りたら、生理学と生化学の支配下にある。


質問者 瞑想とは何でしょうか? 何がその効用なのでしょうか?


マハラジ あなたが初心者であるかぎり、ある形式的な瞑想、あるいは祈りが向いているだろう。しかし、実在の探求者にはただひとつの瞑想があるだけだ。それは思考を潜ませることへの厳格な拒絶だ。思考から自由になること、それ自体が瞑想だ。


質問者 それはどのようになされるのでしょうか?


マハラジ 思考が起こるにまかせ、それらを見ることだ。その観察自体がマインドをゆっくりさせ、完全に止まらせる。ひとたび、マインドが静まったなら、それを静かに保ちなさい。平安に退屈になってはならない。そのなかに在りなさい。そのなかにより深く入っていきなさい。


質問者 ほかの思考を避けるため、ひとつの想いをもちつづけるということについて聞きました。しかしどのようにして、すべての思考を追い払いつづけるのでしょうか? その考え自体が思考なのです。


マハラジ 新しい実験をしてみなさい。過去の体験にしたがってはならない。あなたの思考を見なさい。そして思考を見ているあなた自身を見なさい。すべての思考から自由になった状態が突然起こるだろう。そしてその至福によって、それを認識するだろう。


質問者 あなたは世界の状態にまったく関心がないのでしょうか? 東パキスタンの惨劇(注)を見てください。それらはまったくあなたに触れないのですか?


(注)この会話は、現在バングラデシュとして知られる東パキスタンでの戦争が起こった一九七一年に行なわれた。


マハラジ 私は新聞を読んでいる。何が起こっているかも知っている! だが、私の反応はあなたのようなものではない。あなたは救済を探し求めているが、私は防止に関わっている。原因があるかぎり、結果がなければならない。人びとが分割し分離することにしたがうかぎり、彼らが利己的で攻撃的であるかぎり、そのような事は起こるだろう。もし世界に平和と調和を望むならば、あなたのハートとマインドのなかに平和と調和をもたなければならない。そのような変化を強いることはできない。それは内側から現れなければならないのだ。戦争を嫌悪する者たちは、彼らの人格から戦争を追いださなければならない。平和な人びとなしに、どうやって平和な世界をもたらすことができるだろう? 人びとがこのままであるかぎり、世界はこのままでなければならない。私は彼らの不幸の原因である、彼ら自身を知ることを助けようとしているのだ。その意味においては、私は有益な人間だろう。しかし、私自身のなかの私、私の本来の状態は、社会的意識や有益性といった言葉で表現することはできないのだ。
私はそれについて隠喩や寓話を用いて話すかもしれない。だが、それはただそうではないということを強く知っている。それを経験できないということではない。それがそれ自体を経験しているのだ。しかし、理解するために、分離や対立が不可避なマインドの言語を用いたのでは、私の本来の状態を表現することはできないのだ。
世界は、何か活字をタイプされた、一枚の紙切れのようなものだ。読み方や意味は読者たちによって異なるだろう。だが、紙は共通の要因だ。つねに存在しながら、それが気づかれるのはまれだ。インクリボンが取り除かれたとき、紙の上にタイプの痕跡は残らない。私のマインドも同様だ。印象は現れつづける。だが、何の痕跡も残さないのだ。


質問者 なぜあなたはここに座って人びとに話しかけているのでしょうか? 何が動機なのでしょうか?


マハラジ 動機はない。私は動機をもっているに違いないとあなたは言う。私はここに座ってはいない。また話してもいない。私を身体と混同してはいけない。私には何の仕事もないし、為し遂げる義務もない。あなたが神と呼ぶ、あの部分の私が世界の面倒を見るだろう。多くの世話が必要なあなたのこの世界は、あなたのマインドのなかで生き、そして動いているのだ。マインドのなかを探求しなさい。あなたの答えはそこに、そこにのみ見いだされる。ほかのどこからそれらがやってくるというのかね? あなたの意識の外側に何か存在するものがあるだろうか?


質問者 私が知ることなしに存在するかもしれません。


マハラジ いったいどんな類の存在だというのだろう? 在ることが知ることから分離できるだろうか? すべての知識のように、すべての存在はあなたと関係している。あるものが存在するのは、あなたが体験か存在のどちらかにおいて知るからだ。あなたがそう信じるかぎり、あなたの身体とマインドは存在する。それらがあなたのものだと考えるのをやめなさい。そうすれば、それらはただ消え去る。あなたの身体とマインドを機能させるがいい。だが、それらにあなたを限定させてはならない。もしあなたが不完全さを見つけたなら、ただ気づいていなさい。それらに注意を払うこと自体が、あなたのハートとマインドと身体を正すだろう。


質問者 単に認識することだけで、深刻な病気を治すことができるでしょうか?


マハラジ 外面の症候だけでなく、その全体を認識しなさい。すべての病気はマインドからはじまる。まず、マインドの世話をしなさい。すべての間違った観念や感情の由来を調べ、除去しなさい。そして、病のことは気にせずに生活し仕事をしなさい。そのことはもはや考えずに。原因を取り除くことによって、その影響は消えていくものだ。
人は、これが自分自身だと信じるものになるのだ。あなた自身に関するすべての考えを放棄しなさい。そうすれば、あなたは身体とマインドに起こりうるすべてを超えた、純粋な観照者としてのあなた自身を見いだすだろう。


質問者 もし私が、何であれ、これが私自身だと考えるものになるとすれば、そして、私は至高の実在だと考えつづけたとすれば、私の至高の実在は単なる理念で終わってしまうのではないでしょうか?


マハラジ まず、その状態に到達しなさい。それから質問をするがいい。


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