葬送の歹義場(そうそうのぎじょう)12


続いています。12日連続で「契約」についてざわざわ言っています。もちろん私がこういうこと(声)を気にするようになってから人生で初めてです。
歹義場(ぎじょう)というのは、(天の)父の前で義の証しを立てるための場ということです。父が歹(かばねへん)になるようです。
天の父の恩寵により、すべての死は訪れる。それは父に義を証し立てる場であり、父の御許へ御霊を送る葬送の歹義場である。
そういうニュアンスであるのかもしれません。何を考えているのかも含めて、一切不明です。私にわかるのは、このざわざわが続いていて、フィオラが自分の生命(いのち)もここで出会った自分以外の人の生命も大切にすることを強調しているということです。生命を大切にするということは、その人の存在を大切にするということでもあり、生命の価値に深い「私」から触れ、直視しているということでもあります。n


あちらの世界が大切なのではなく、正確な見方が大事ではないでしょうか。
人は顕在意識で日常をつくっていると思いがちですが、顕在意識と見えない意識の両方でつくっています。見えない意識は自分からも見えないので、その(見えない意識の)価値観も、顕在意識とは驚くほどの差異があります。
尋常ではない差異は、「神(界)がいないと人は生きていられない=神(界)がいるから人は生きていられる=さらにはっきり言って、人が今やっていることもすべてが、神(界)のためにのみある」という本当の現実を思い出すことです。強制的な意味合いではなく、最も喜ばしい意味での本当の現実です。神がいる以上「絶望」はありません。絶望ランド、絶望遊園地のような体験コースはあります。北朝鮮は誰も行きたくない絶望ランドです。
現実というのは鉄筋コンクリートより硬くて、何十年も寄る辺になるものです。
つまり死後も自動的にこの現実に巻き込まれる可能性があります。
フィオラとの今までの話し合いの結果、人は人生の中で、
寿(ことぶき)=神(界)の方向を向き直し、以後死亡する瞬間まで神(界)とともに生きていることに自覚的になる
寿と呼ばれる転換点を迎えることがあります。今の時代は必要性からもそういう人が多いかもしれません。
何も特別なことや不思議体験ではなく、「なんか…やっぱり…神様とか愛と叡智の塊みたいな偉大な存在はいるらしい」サムシンググレートは存在する、そういう類の感覚の切り替わりです。
この寿を迎える前の人が人間様が一番、科学合理思考一番、と安易に考えてしまっている人が多いように思います。そういう人の方が魂の本性が出るので、本来のこちら側の目的(試験期間・体験学習期間)に合致しているとの主張もあるようです。
正確な見方というのは、見えない意識、サムシンググレートを包含する見方が日常の細々とした範囲にまで浸透してくることだと思っています。n


結果のために手段を選ばず
という考え方がありますが、手段を選ばなくなったその時点で負けていると思うのは私だけではないでしょう。その線は勘でしか見えません。だから鈍かったり鋭かったり、線を越えることをニオイで嫌がる人や、線があることにすら気づかなかった人もいます。人と人の関わりはそういうことばかりだと思います。最優先する価値が何なのかは目線と似ていて、その目線の先にあるものによって、行動はもちろん、情報や、確認や、日々の態度が変わるように思います。n


子曰く、歳(とし)寒く然(しか)るのち松柏(しょうはく)の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。


松の緑も春になれば、ひとしお色鮮やかとなる。春夏と気候が温暖になるにつれて、草木はみな同じように枝葉が茂るが、秋冷の候からしだいに黄ばみ始め、厳寒ともなれば、ほとんどの木は落葉して、生気がなくなってしまう。
その中で松と柏だけは緑の色を変えず、蒼然として風雪に耐えている。ほとんどの木が脆弱なのに、周囲の変化に負けない堅忍さを松や柏は示している。
天下無事のときは人々はみな同じように見えるけれども、いったん利害がからみ事変に遭えば、小人はみな萎縮して利に走り身を守るが、道を学んだ君子は節義を守って、生死禍福のために心を動かすことなく、あたかも松や柏が極寒に耐えているようだとたとえたものである。
荀子の詩に有名な句がある。「歳寒うしてのち松柏を知り、事難うしてのち智者を知る」まさに真理である。

渋沢 栄一



マハルシ あなたはどのように「私は在る」と言うでしょう? あなた自身を探すのに明かりが必要でしょうか? それとも、あなたはそれを本の中に見いだしたのですか?


質問者 経験によってです。


マハルシ そうです。経験がそれにふさわしい言葉です。知識は主体と対象を含んでいます。しかし経験は終わりのない永遠なるものなのです。

(対話128)


心の本質は気づき、あるいは意識です。しかし自我に支配されると、それは理性、思考、感覚器官として機能します。自我によって限定されない普遍的な心は、それ自体から分離したものが何もないため、ただ気づいています。これが、聖書が「私は私で在るものである」という言葉で意味したことなのです。

(対話188)



質問者 私たちはサティヤ・サイババ* のアーシュラムにある期間滞在していました。また、ティルヴァンナーマライのラマナシュラマムでも2カ月ほど過ごしました。今、私たちはアメリカへ帰国の途上なのです。


* 訳注 サティヤ・サイババ Satya Sai Baba
(1926-2011)アーンドラ・プラディーシュ州の村プッターパルティに生まれる。マハーラーシュトラ州の偉大な聖者シルディ・サイババの化身であると自ら名乗る。砂糖菓子や花、聖灰を物質化し、遠く離れた弟子の想念を読みとるといった奇跡を行なう世界的に有名なグル。


マハラジ  インドがあなたに何らかの変化をもたらしただろうか?


質問者 私たちは重荷を降ろしたかのように感じています。シュリー・サティヤ・サイババは、すべてを彼に明け渡し、ただ日々をできるかぎり公正に生きるようにと言われました。「正しく在りなさい。あとは私にまかせなさい」と彼は言いました。


マハラジ  シュリー・ラマナアシュラムでは何をしていたのかね?


質問者 私たちは師から授かったマントラを復唱しつづていました。また瞑想もしました。考えることや勉強することはほとんどなく、ただ、静かにしているよう心がけていただけです。私たちはバクティ(帰依)の道を行く者で、哲学はむしろ知らないのです。私たちには考えなければならないことはさほどなく、ただグルを信頼し、人生を生きていくだけです。


マハラジ  バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。


質問者 そうです。その危険性については警告されました。私たちは厳しい状況もやさしい状況とともに受け入れていこうと思っています。「すべては恩寵だ」という感情が非常に強くなければなりません。ひとりのサードゥ(修行僧)が東に向かって歩いていると、その方向から強風が吹いてきました。サードゥはただくるりと向きを変えて、西に歩き出したのです。私たちもグルによって与えられた環境に私たち自身を合わせながら、そのように生きたいと願っています。


マハラジ  ただ生命だけがある。生命を生きる人は誰もいないのだ。


質問者 それは私たちも理解します。それでもなお、私たちは、ただ生きるのではなく、自分たちの人生を生きようとしてしまうのです。未来のために計画を立ててしまうことは、私たちにとって根深い習慣なのです。


マハラジ  あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想像するのだ。
生命そのものは無欲だ。だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。生命は恐れず、自由だ。あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放はあなたのものではない。行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。


質問者 どうすれば、私たちは為す者と為されることという二元性を克服できるのでしょうか?


マハラジ  生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙想しなさい。あなたがそれとひとつであると悟るまで。それは難しくなどない。なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。
すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているのではなく、あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終焉するのだ。この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由になるのだ。


質問者 どうして私は自分自身をそんなにも不幸だと想像してしまうのでしょうか?


マハラジ  ただの習慣からなのだ。あなたの考え方や感じ方を変えなさい。それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。あなたは不注意によって束縛される。注意が解放するのだ。あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。疑いはじめなさい。もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。あなた自身にこのように問いかけてみるといい。「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだろうか?」「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろうか?」「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないのだろうか?」「私とは誰なのか?」と。あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。事実、破壊することはたやすい。なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。すべては「私は在る」という想念にかかっている。それを徹底的に調べるがいい。それはあらゆる困難の根底に存在している。それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。実在は皮の内側にも外側にもある。しかし、皮そのものは実在ではないのだ。この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。


質問者 どうすれば「私」という感覚から自由になれるのでしょうか?


マハラジ  もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わなければならない。あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、落ち着いているときを見守りなさい。それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのようにそれを得るのかを見なさい。結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
「私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。実在は存続する必要がない──それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをするが──すべては無駄に終わってしまう。なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。それは絶え間ない仕事なのだ。そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分離した感覚を永遠に消し去ることだ。存在は残る。だが、自己存在ではない。


質問者 私には明確な霊的野心があります。それを満たすために努力しなければならないのではありませんか?


マハラジ  いかなる野心も霊的なものではありえない。すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考えは、あきらめなければならない。いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば純真なものだ。マインドとは詐欺師なのだ。より敬虔に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。


質問者 ひっきりなしに、人びとは世間の悩みごとをかかえてあなたのもとへやってきます。あなたはいったいどのようにして、彼らに何を言うかを知るのでしょうか?


マハラジ  ただその瞬間、私のマインドに現れたことを告げるだけだ。私には人びとに対応するための企画化された手順といったものはない。


質問者 あなたはあなた自身に確信をもっています。しかし、私のもとに人びとが来るとき、どのようにして私の助言が正しいものだと確信できるのでしょうか?


マハラジ  あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさい。もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているのならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完全に気づいていることだ。もしあなたの気づきが明晰で完全ならば、間違いはありえない。


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