糞尿社会


上水道と下水道は分離しています。これが混じると、うnのつくものを飲むことになります。いつだったか排水管の工事に手違いがあり、その近辺の住民から「水道の水が臭い!」「下水の臭いがする!」「飲んじゃった!」と苦情があがりました。その排水管工事で、下水に流すパイプと上水のそれを繋いでしまったことがわかりました。ふだん水道の水が飲めるのは、下水は下水で段階を踏んで処理しているからです。ですが、極端に言えば、すべてのパイプは繋がっています。糞尿はなくなったりせず、どこかで誰かが処理してくれているから上水が飲めています。社会のどの段階でも、糞尿を撒き散らすことのないように処理していなければ、秋葉原のあの事件や相模原のあの事件のような突発的な下水の臭いが表社会に突然現れます。それは誰かのほんの思いやりのある一言で防げたかもしれない、ほんの小さな行動の連鎖で未然に対処できたかもしれません。一人一人の糞尿が、次の糞尿につながり、目を詰まらせ、パイプから溢れ出します。社会は、そういう意味ですべて糞尿社会です。上水の極地には、山の深奥があるのではなく、みえない深奥である神がいます。ですが、下水の極地には、口に出すのもおぞましいこの世の地獄があります。もうそこの住人は「人間」であるとも思えないような輩です。上水の極地も、下水の極地も一般人の日常にはほぼ関わりがないように「見えます」。ですが、自分が出した糞尿に関わっていない者など一人もいません。n


爪や髪が伸び、心臓が鼓動し、腸が消化活動を続けるのは


思考の力ではありません。何も考えずとも、「起こっていること」です。それなのに、思考の主はこう言います。「私が」やった。「私の」手柄だ。ここで「現実」と「主張」に世界は分割されます。現実からフワフワ浮かんだ「主張」がすべては私が起こしていると食い気味に主張し続けます。思考がなくとも、世の中は進んでいます。勝手に動いています。その現実を見失うのは、主張に重きを置きすぎるからです。受容と遊離、これらへの傾き方が違うだけな気がします。n


あなたは普段意識をとぎすましていないので、ひとつの<わたし>と次の<わたし>とのあいだにある空間を見過ごしています。連続した個としてのアイデンティティが存在しない、大きく拡がる無の空間である隙間の瞬間に気がつきません。ということは、あなたは<過去>の瞬間に創造されたもののイメージの片鱗を現在の瞬間に持ち込んでいるということになりませんか。


過去は罪悪感を含み、未来は不安を呼び、あなたはその両極にはさまれて動けないでいるということを忘れないでください。そこから抜け出す方法は、過去か未来のどちらかに移動することでもなければ、思考が過去か未来のどちらかに習慣的に流れるのに対して抵抗することでもありません。解決法は、手短に言うと、やはり現在の瞬間に意識を置くことです。そうすると、いまこの瞬間に実際に起きていることが姿を現します。その方法を学ぶ必要はありません。意志さえあれば充分です。具体的に言うと、呼吸や聞くことや見ることに意識を向けるのです。


どこかに行く必要もなければ、何かをする必要もありません。ただ、いまこの瞬間起きていることの中で目覚めていればいいのです。


今日の話の中の女性は病気を治そうと努力したのではありませんでした。この点がふつうの癒しの物語と違っている点で、おもしろいと思います。彼女は現時点では治らない病気にかかってしまいました。彼女は自分が治る可能性を信じていなかったので、自分が治るところをイメージできませんでした。それでも彼女は治りました。


雨乞いの祈りはせずとも、干ばつと調和したからです。


病気に関していうと、病気と闘わなければよくなれないと信じている人がたくさんいます。これは抵抗です。病気と闘うイメージを使うと負けます。戦争と同じで、敵と戦えば、どちらかが勝ってどちらかが負けます。こうしたイメージは強い恐怖を呼び起こします。そして恐怖が前面に出れば、調和ははるか後ろに引き下がります。ですから考え方を変える必要があります。


病気とは、体の細胞の中にひっかかって出られなくなったエネルギーだということをまず思い出してください。この出られなくなったエネルギーは、過去の感情や考えや体験の集合体ですので、それを出してやるには別の種類のエネルギーが必要です。一番いいのは、愛と感謝と光、それに清らかなパワーのイメージで細胞を満たしてやることです。別のエネルギーが入ってきてそれが体内を流れている様子に意識を向けるだけでいいのです。いまあるエネルギーを快く受け入れ、それが別の種類のエネルギーに変わるようにそっと導いてあげるわけです。


何物もいっさい無視することなく、あらゆるものに意識を向けるとき、喜びが生まれます。


人間が、自分は卑しい罪人であり、「父」は自分の外にいるのだという教えを受け容れたとき、人間は自分を神から完全に切り離してしまった。そしてこの理解、この信念の受容こそが、人間を繰り返し化身に戻らせている原因なのだ。


ふたたびこのことを言うが、神はあなたの中にいるのだ。あなたのあらゆる生において、神はずっとそこに存在していたのであり、あなたはすでに神なのだ。なぜなら、神とは、あなたの存在の内奥に宿る神聖なる創造的知性のことであり、その愛によってあなたに制限を体験させ、そしてその同じ愛によって、あなたをふたたび無限の状態へと戻してくれる本質だからである。


自分の存在の内面において、自分は卑しい存在なのだと「知っている状態」になったのとまったく同じように、あなたが今、自分は神なのだと自分の存在の内面で知れば、あなたは自分のすべてにおいて神になる。純粋な思考である「第七のレベルの理解」と呼ばれるもの、すなわち「ただ在る」という究極の状態(これはあなた自身があらゆるものの究極の力である状態だが)に戻るためには、「父」が自分の内面に宿っていることをただ知るだけでいいのだ。なぜなら、あなたの存在の魂の中には、自分が神であるという記憶が宿っているからだ。その記憶はあなたの魂の中で眠っている状態にあり、あなたによって認められ、あなたによって実際に現実として体験されるように、待機しているのである。そうなるのは、知ることによってだ。自分は神なのだとあなたが知るとき、その「確信」のフィーリングが、自分の「知っている状態」が真実であることをあなたに教えてくれる体験と理解を創り出す。その「知っている状態」をあなたに与えることのできる者は、誰もいない。あなただけが、自分自身の思考プロセスと感情的な在り方を通して、その理解を達成することができるのだ。


もう一度言うが、自分の本来の姿でいること以外、この天界であなたが成しとげなければならないことは何もない。なぜなら、自分が神であることを「知っている状態」は、ただ在る状態において達成されるからだ。というのも、神とは「存在性」、つまり「存在すること」であるからだ。それはすべての生命の「在ること」である。ただ在る状態でいる、つまりあなたがどんな表現をしていようと、単純に自分本来の姿でいることを自分に許している状態でいるということは、「父」とまったく同じようになるということである。そして、それを達成するには、ほんの一瞬しかかからない。ほんの一瞬の間に実現するのである。


神とは、この「今」という瞬間のことだ。無限とは、この「今」という瞬間のことである。「永遠なる神」になるということは、この「今」という永遠の中にのみ生きるということだ。というのも、神はそのようにして生きているからだ。ただ在る状態でいなさい。そうすれば、あなたはすべての生命の「在ること」、その絶え間ない継続性とひとつになり、あなたの体も自らを上昇させてその継続性そのものになっていく。



人間のオーラに関して私が知ったもっとも画期的な研究は、UCLAのバロリー・ハント博士のグループが行った。ロルフィングによる肉体および精神への影響の研究(構造的神経筋的エネルギーフィールドおよび感情的アプローチの研究)で、彼女は一連のロルフィング実験の間に肉体からの低ミリボルテージ信号の周波を記録した。この記録には、皮膚に取り付けた銀/銀塩化物製の基本電極を用いた。この電子信号の記録と並行して、カリフォルニア・グレンデールのヒーリング・ライト・センターのロザリン・ブライヤーがロルフィングを行う者とロルフィングを受ける者の両者のオーラを観察した。ロザリンのコメントは、電子データと同じテープレコーダーに記録された。彼女は、実験に関わるチャクラおよびオーラの色・サイズ・エネルギー運動を逐次レポートした。
その後、科学者が、記録された波動パターンをフーリエ解析法とソノグラム周波分析法で数学的に分析した。どちらの分析法でも驚くべき結果が明らかになった。一貫した波動形と周波がロザリンのレポートした色と一致していたのだ。ロザリンがオーラ内のある特定の場所に青色を観測すると、電子測定は同じ場所に青い波動形と周波を示したのである。ハント博士はさらに七人のオーラ観察者と同じ実験を繰り返した。そして、彼らも同じ周波/波動パターンと相関するオーラの色を観測した。研究を進めた1988年2月の結果は、次のような色、周波相関関係を示している。(Hz=ヘルツまたはサイクル/秒)



250-275Hz  プラス1200Hz

250-475Hz

500-700Hz
オレンジ
950-1050Hz

1000-1200Hz
青紫
1000-2000Hz  プラス300-400Hz
600-800Hz

1100-2000Hz


これらの周波数は、青と青紫の追加周波を除くと虹の色の逆の順序になる。測定された周波は、測定されたエネルギーと同様に機械のサインでもある。
ハント博士は、「超感覚知覚能力者がオーラの放射を見、描写してきた何世紀もの間、彼らの主観的な色放出の観察を証明する、これが最初の客観的な周波・振幅・時間の電子的証拠である」と語っている。
ここで発見された色周波が光または色素周波に相当しないという事実は、実験結果を否定することにはならない。私たちが色として見ているものは、肉体の目がとらえた周波であり、色を識別するために便宜上与えられた言葉だと気づけば、目と脳のプロセスセンターが色を高周波だけで判断すると示すものは何もなくなる。色の体験の最終的な判断基準は視覚的解釈である。だが、より精密な機械や進歩した記録データ処理技術を持っていれば、現在の1500ヘルツまでのこれらのデータがさらに高い周波まで捉えられるかもしれないのだ。
ハント博士は、次のように語っている。「超自然学の文献の中には、色のあるチャクラがたびたび登場する。例をあげるとクンダリニーチャクラは赤、下腹部はオレンジ、脾臓は黄色、心臓は緑、喉は青、第三の目は青紫、頭頂部は白などである。特定のチャクラの活動は、他のチャクラを活発化させるらしい。心臓のチャクラがもっとも活発である。被験者はロルフィングを施されたさまざまな体の部位に関係のある、感情、イメージ、過去の記憶などをいくつも体験した。その実験結果は、過去の記憶は肉体組織に保存されるという考え方に信頼性を与えたのである」
例えば、誰かが足をロルフィングされると、幼児期のおまるを使った体験を鮮明に思い出すことがある。その人は、体験を単に思い出すだけでなく、感情的にその体験に直面する。排泄を司る括約筋を脳がまだコントロールできないでいる時期に、子どものおまるトレーニングをしようとする親が多い。その子どもはまだ生理的に括約筋をコントロールできないために、腿の筋肉を圧縮することで補おうとする。これは肉体に多大なストレスと圧力をかける。多くの場合、この圧力ストレスは生涯を通して、あるいはロルフィングや生物エネルギー学的な深い整体が行われるまで、習慣的に保持される。それが、ロルフィングで筋肉の緊張や圧力が解きほぐされると、記憶も解放されるのである。記憶-緊張を保持している身近な例は、肩こりである。これは、恐怖や心配を抱えていることから肩に起こる。自分は何をやり遂げられないと恐れているのか。また、もしそれが成功しなかったらどうなると考えているのか?と自問自答してみるといいだろう。


結論


私たちがヒューマンエネルギーフィールドを肉体のすべてのフィールドまたは放射物と定義するなら、多くのヒューマンエネルギーフィールドの成分が実験室で測定されたことになる。それは、ヒューマンエネルギーフィールドの静電気、磁気、電磁気、音波、熱性と目に見える成分である。すべての測定は、一般的な肉体の生理学的プロセスと一致している。さらにその先を行く精神身体機能の媒体を供給している。
ハント博士の測定は、オーラの限定された色に対する限定された周波を示している。その周波は、使用された実験装置の限界のために記録されなかっただけで、より高い周波を持っているかもしれない。
上記にあげた測定は、ヒューマンエネルギーフィールドが自然界では粒子であり、気流や水流のような流体運動をしていることを表している。粒子は非常に小さく、何人かの研究者によれば原子よりも小さいという。電荷された微小な粒子が大群で移動すると、物理学者は通常それをプラズマと呼ぶ。プラズマは、物理学者にエネルギーと物体の中間状態であると考えさせるようになった物理的法則に従う。実験室で測定されたヒューマンエネルギーフィールドの特性の多くが、ある科学者たちが「バイオプラズマ」と呼ぶ、物体の第五の状態を示唆している。
これらの研究は、システム(消化器官のような)からなる肉体の通常モデルで説明するのは不充分であることを示している。生命体としてのエネルギーフィールドの概念に基づいた追加モデルが開発される必要がある。複雑な電磁界(EMF)のモデルも完全には目的を果たせない。予知や過去の生命を知る能力のようなヒューマンエネルギーフィールドに関わる多くの心霊現象は、電磁界のモデルでは説明できないのだ。
バロリー・ハント博士によると、肉体は「すべての組織とシステムに行き渡っている、肉体の原子細胞質の特性から生まれるエネルギーの量子概念から観察できる」と言う。彼女は、ヒューマンエネルギーフィールドのホログラフィック的見地がよい方法の一つかもしれないと提案する。「物理学と脳の研究で浮上しつつあるホログラムの概念は、別の段階で得たすべての生物学的発見を解釈し直すための真に統一された現実の宇宙観を供給しているように思える」
また、マリリン・ファーガソンが『ブレイン・マインド・バルタン』の中で、「ホリスティックモデルは、「イマージング・パラダイム」として、科学と精神のすばらしい未知の世界を理解するために不可欠の理論であると考えられてきた。そしてついにオープンシステムで、生物学と物理学を結合させる理論が登場したのである」と語っている。
(「光の手」上 バーバラ・アン・ブレナン 河出書房新社 5章 ヒューマンエネルギーフィールドに関する科学的発見の歴史を探る p77-p81)



質問者 人びとはあなたに助言を求めてやってきます。何と答えるかをどのようにして知るのでしょうか?


マハラジ 質問を聞くように、私は答えを聞くのだ。


質問者 では、どのようにしてあなたの答えが正しいと知るのでしょうか?


マハラジ ひとたび答えの真の源を知れば、疑う必要はない。純粋な源からは純粋な水だけがあふれ出る。私は人びとの欲望や恐れには関わらない。私は意見とではなく、事実と同調するのだ。人は名前と形を自分自身と見なすが、私は何も私自身とは見なさない。私が名前によって知られるひとつの身体を私自身として見なしていたなら、あなたの質問に答えることはできなかっただろう。私があなたを単なる身体だと見なしていたら、あなたは私の答えによって、何の恩寵も得なかっただろう。真の師は意見に満足したりはしない。彼はものごとをあるがままに見、そしてそれをあるがままに見せる。もしあなたが人びとを、これが彼ら自身だと信じているものとして見なすならば、ただ彼らを傷つけるだけだ。そうやって彼らが自分自身をいつもひどく苦しめているように。しかし、もしあなたが実在としての彼らを見るならば、彼らにとってたいへんな助けとなるだろう。もし彼らが何をし、どのような修練をし、どのような生き方にしたがうべきかをあなたに尋ねたならば、こう答えるがいい。「何もせず、ただ在りなさい。在ることのなかで、すべては自然に起こる」と。


質問者 話のなかで、あなたは「自然に」と「偶然に」という言葉を無差別に使っているように見えます。二つの言葉の意味には深い違いがあると私には感じられます。自然は秩序をもち、法則にしたがいます。人は自然を信頼できます。偶然は混沌とし、予期予想の不可能なものです。すべてが自然であり、自然の法則に支配されていると主張することはできますが、すべてが偶然であり、何の原因ももたないと主張することは間違いなく誇張です。


マハラジ もし私が「偶然の」の代わりに「自発的に」という言葉を使うなら、あなたには好ましいだろうか?


質問者 あなたは「偶然の」という言葉に対して「自発的な」または「自然の」という言葉を使うかもしれません。しかし、偶然のなかには混沌や無秩序の要素があります。偶然はつねに規則の破棄、例外、驚きです。


マハラジ 人生それ自体が一連の驚きではないだろうか?


質問者 自然には調和があります。偶然には妨害があるのです。


マハラジ あなたは時間と空間に限定され、身体とマインドの内容に引き下げられた個人として語っている。あなたが好むこと、それをあなたは「自然の」と呼び、あなたが嫌いなこと、それを「偶然の」と呼ぶのだ。


質問者 私は自然のままの法則を守ること、予期したことが好きで、法則を破り、無秩序で、予期できず、無意味なことを恐れるのです。偶然はつねに怪物のようなものです。いわゆる「幸運な偶然」と呼ばれるものはあるかもしれません。ですが、それらはただ偶然なことが起こりやすい宇宙では、生活はありえないという法則を証明するだけです。


マハラジ どうやら、誤解があるようだ。「偶然の」とは既知の法則にあてはまらない何かを意味している。私が、すべては偶然で原因がないと言うとき、ただそれによって作用する法則や原因は、私たちの知識や想像を超えているという意味なのだ。もしあなたが秩序と調和ある予測可能なものを自然と呼ぶならば、高次の法則にしたがい、高次の力によって動かされるものは「自然発生的」と呼べるかもしれない。このように、私たちは二つの自然の秩序をもっている。個人的で予測可能なもの、そして非個人的、あるいは超個人的な予測不可能なものだ。それを低次の自然と高次の自然と呼んでもいい。そして偶然という言葉は忘れてしまいなさい。あなたが知識と洞察において成長するにつれ、低次と高次の間の境界線の印象は薄らいでいく。だが、それらがひとつとして見られるまでは、二つのままとどまる。なぜなら、事実、すべては実に驚くほど不可解だからだ!


質問者 科学は多くを説明してきました。


マハラジ 科学は名称と形態、質と量、パターンと法則を扱っている。それはそれ自身の場においてはまったく良いだろう。だが、生とは生きられるものであり、分析のための時間はない。反応は即座でなければならず、それゆえ時間を超えた自発性が重要だ。私たちは未知のなかで生き、動いているのだ。既知とは過去のものだ。


質問者 私には、これが私だと感じる立場を取ることができます。私は個人であり、人びとのなかのひとりの人物です。ある人たちは完成され、調和のとれた人格であり、ある人たちはそうではありません。ある人たちは努力を要することなく生き、あらゆる状況に適切に、自発的に反応します。その時点で必要な、完全に正当なことを為すのです。一方、ほかの人たちは手探りをし、過ちを犯し、たいがい彼ら自身に害を与えてしまうのです。調和の取れた人たちは、自然で、法則に支配されている人と呼べるかもしれません。未完成な人たちは混沌とし、偶然に支配されているのです。


マハラジ 混沌という概念自体が、秩序、有機的といった相互関係の意義を前提としている。混沌と秩序。これらは同じ状態の二つの相ではないだろうか?


質問者 しかし、あなたはすべてが混沌、偶然、予期不可能だと言っているようです。


マハラジ そうだ。その意味では、すべての存在の法則が知られているわけではなく、すべての出来事が予測可能なわけではない。あなたが理解できるようになればなるほど、宇宙は精神的にも感情的にも満足すべきものとなる。実在は善と美だ。混沌をつくり出すのは私たちなのだ。


質問者 もし偶然は人間の自由意志によって起こるとあなたが言うのならば、私は賛成します。しかし、私たちは自由意志についてまだ討論していません。


マハラジ あなたの秩序はあなたに快楽を与えるものであり、あなたの無秩序はあなたに苦痛を与えるものだ。


質問者 あなたはそう表現するかもしれませんが、その二つはひとつだと言わないでください。私の言語で話してください、幸福を探求する一個人の言語で。私は非二元性の空言に惑わされたくはないのです。


マハラジ あなたが分離した個人だと、何があなたに信じさせるのだろうか?


質問者 私は一個人としてふるまい、私自身で機能します。私自身が基本であり、他者は私との関係性において在るだけです。早い話が、私は私自身のことで忙しいのです。


マハラジ それならば、あなた自身のことで忙しくしていればいい。いったいどういうつもりでここに来たのだね?


質問者 自分自身を安全で幸せにするため、私が古くからやっている商売のためです。白状すると、成功してきたとは言えません。私は安全でも幸せでもありません。ですから、私はここにいるのです。ここは私にとっては新しいところですが、私がここへ来た理由は古いものです。安全な幸福、幸福な安全の探求です。今までのところ見つけてはいません。助けてもらえますか?


マハラジ 一度も失ったことのないものは、けっして見つけられない。安全と喜びの探求そのものが、あなたを幸福から遠ざけてしまう。探すことをやめなさい。失うことをやめなさい。病はシンプルなものだ。治療も同じくシンプルだ。あなたを不安に、不幸にするのはあなたのマインドなのだ。予測があなたを不安にし、記憶があなたを不幸にするのだ。マインドを誤用することをやめなさい。そうすれば、すべてはうまくいくだろう。あなたがそれを正す必要はない。あなたが過去と未来へのすべての関わりを放棄し、永遠の今のなかに生きるやいなや、それはそれ自身を正すだろう。


質問者 しかし、今という瞬間には何の空間的広がりもありません。私は誰でもない人に、無になってしまうでしょう!


マハラジ まったくそのとおりだ。無として、誰でもない人としてのあなたは安全で幸福なのだ。望むならば体験させてあげよう。試してみるがいい。
だが、何が偶然で、何が自発的、自然なのかという点に戻ってみよう。あなたは自然が規則的であり、偶然は混沌の兆候だと言った。私はその違いを否定し、原因の由来をたどれないとき、その出来事を偶然と呼ぼうと言った。自然のなかに混沌というものは存在しない。混沌は人のマインドのなかにだけ存在するのだ。マインドは全体を把握することができない。その焦点はたいへん狭いものだ。それは断片だけを見て、状況を察知しそこなう。それはある人が音は聞いても言語を理解せず、話し手のことを、無意味でわけのわからないことを話し、結局すべて間違いだと非難するようなものだ。ある人にとっては混沌とした音の流れが、別の人には美しい詩なのだ。
ジャナカ王は、あるとき彼が乞食になった夢を見た。目覚めたとき、彼のグルであるヴァシシュタに尋ねた。「私は乞食になった夢を見ている王でしょうか、あるいは王になった夢を見ている乞食なのでしょうか?」グルは答えた。「あなたはそのどちらでもない。あなたはその両方だ。あなたは在る。だがあなたが考えているあなたではない。あなたはそのように在る。なぜなら、あなたはそれにしたがってふるまっているからだ。あなたはそれではない。なぜなら、それは永遠には続かないからだ。あなたは永遠に王や乞食として在ることができるだろうか? すべては変わっていかなければならない。あなたは変わらないものだ。そのあなたとは何か?」ジャナカは言った。「そのとおりです。私は王でも乞食でもありません。私は覚めた観照者です」。グルは言った。「あなたが普通の人びととは異なる、より優れたジニャーニだという考え、これがあなたの最後の幻想だ。またしても、あなたはマインドと自己同一化したのだ。この場合、正しい処し方であり、あらゆる面で模範となれるマインドである。だが、ほんのわずかでも違いを見るかぎりは、あなたは実在の局外者なのだ。あなたはマインドのレベルにいる。『私は私自身だ』が去ったとき、『私はすべてだ』が現れる。『私はすべてだ』が去るとき、『私は在る』が来る。『私は在る』さえ去ったとき、ただ実在だけが在る。そして、そのなかですべての『私は在る』は維持され、栄光を与えられるのだ。分離のない多様性、それこそマインドが触れることのできる究極なのだ。その彼方では、すべての活動がやむ。なぜなら、そのなかですべての目的地は到達され、すべての目的は果たされるからだ」。


質問者 ひとたび、至高の状態が到達されたら、それは他者と分かちあうことができるでしょうか?


マハラジ 至高の状態は、普遍の今、ここに在るものだ。すべての人がすでにそのなかで分かちあっている。それは存在の、知ることと愛することの状態だ。誰が存在することを愛さないというのだろう、あるいは自らの存在を知らないというのだろうか? しかし、私たちはこの意識的存在の喜びを利用しない。私たちはそのなかに入り、それとは異質なものすべてを浄化しようとしない。この精神的な自己浄化、精神の浄化は本質的なものだ。目に入ったゴミが炎症をひき起こし世界を視界から消し去るように、「私は身体─精神だ」という誤った観念は利己的関心を生み出し、宇宙を覆い隠す。限定された存在と分離された個人という感覚と闘うことは、その根本を取り去るまでは無駄なことだ。利己主義は自己の誤った観念のなかに根づいている。探求とはマインドの浄化なのだ。


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