アカイライ(真っ赤な嘘) と 悟りの書


2048分の1という数字で重要なことは「1」です。それはある、ということ。0だったら論じたり取り組む価値はまったくありません。どんなに低確率でも「1」なので、それに取り組む人はこの構造を理解する必要があります。真っ赤な嘘、とほぼ断言できるだけの偽物率があり、そのすべての奥に「1」が鎮座しています。この2種類の要素(数字)はどちらも大事です。真実や根源となる「1」の実在と、「99.9999%(シックスナイン)」という表現が適当に思えるほどのフェイク率です。出会うすべてが偽物です。出会いを可能にしている存在以外は。こ、こっちみんな。n


フィオラは


相手の歩んできた道に敬意をもってください、と言っていました。あなただったら、同じように歩けていたはずがないのですから。出会うすべての人の「道」に敬意をもつことができたとき、あなたは「意思」に近づいたのです。原初に生じた意思です。風がない日はなかった。あなたが受け止めることに真剣でなかった日があっただけ、ちがいますか? 素直でないから、「直ってないから」意思の音を聴くことができないでいるのです。あなたが出口です。神の出口です。直してみせます。必ずです。n


この短剣の名はアシッドレイン。


降り注ぐ雨を嘆くだけでなく、
誰がいつ酸を加えたのか省みるべきです。


(現象の原因も対策も)自分と切り離されていると想像したときにのみ
我々は力を失うのです。Fiora


あなたのなかにある「神を見つけたい、”大いなる故郷”へ帰りたい」と切望する気持ちは、神から切り離された自分というものがあって、神を見つけるためには、どこかへ行ったり、何かをしたりしなければならないとまだ信じている、そういう部分の自分なのです。


人生のいいものすべてが欲しいと人は言います。欲しがらないで、すべてになってください。あなたは、自分が求めるものそのものなのです。そこに達するために越えなくてはならない障害は何もありません。ただしその境地に達するには、自分は神から分離した存在であるという考えを捨てなければなりません。


あなたに最もあった、あなたらしいやり方を見つけてください。そして愛したいと強く望むことです。その強い気持ちが正しい道へと導いてくれます。正しい道をあゆんでいけば、必ず最後は叡智と愛の境地へと到達します。真の道を求めると、叡智と愛は姉妹のように一緒についてきます。こうした道は、最初はどんなにけわしくとも、最後には愛にめぐり会います。最初は愛にかたよった道であっても、最後には必ず叡智に行きつきます。愛と叡智はコインの裏表であり、切り離すことはできません。どんな道を選ぼうとも、旅の終わりに発見するのは愛と叡智なのです。B


善を見て愛慕せず
悪を見て嫌悪せず


感覚の対象を見 また思うことで
人はそれに愛着するようになり
その愛着によって欲望が起こり
欲望から怒りが生じてくる


様々な欲望が次々に起こっても
追わず取りあわずにいる人は平安である


心が感覚の対象に執着しているのは
自己をあざむく者であり
彼は偽善者とよばれる


だが自己の本性を知って
「それ」に満足し 歓喜し
「それ」に安んじ 楽しむ者には
もはや為すべき義務はない


そのような人物にとっては





行為して得る目的もなく
行為せぬことによって失うものもない





この世界には二種の創造物がある
一つは神性をもつ者 他は魔性のもの
神性については既に話したから
次に魔性について説明しよう


思い上がり 尊大な態度 うぬぼれ
怒り 荒々しさ 無知
これらの性質は プリターの息子よ
魔性に属するものである


魔性の者たちは──為(す)るべきことと
為(し)てはならぬことの区別を知らない
清らかさも無く 礼儀もわきまえず
不誠実 不正直である


地獄に到るには三つの門があり
肉欲 怒り 貪欲がそれである
これらは魂を堕落させる原因ゆえ
正気の人間はこの三つを切り捨てよ


故に人間は聖典に示された教えによって
為(す)るべきことと為(し)てはならぬことを知れ
その規則を知り それに従うことにより
向上の道を着実に歩んで行きなさい

バガヴァッド・ギーター 第16章 神性と魔性



質問者 言葉で伝えられた個人的な教えに価値があるのです。


マハルシ もしも何か新しく未知なものなら教えも適切でしょうが、ここでは心を静め、想念から自由であることが教えなのです。


質問者 日々の生活の中にその状態は見られません。


マハルシ 日々の生活と霊的な人生が異なると想像されたとき、問題は起こるのです。

(対話376)


マハルシ あなたは深い眠りの中でも存在していたのです。そのときのあなたと今存在しているあなたは同じ人ですか? 違いますか?


質問者 同じです。


マハルシ 違いは、眠りの中のあなたは機能していなかったということにあります。言うならば、あなたは目覚めのときは思考機能と関わり、眠りのときは思考機能と関わっていなかったということです。
それでは、どちらがあなたの本性でしょうか? 思考と関わっているほうでしょうか、関わっていないほうでしょうか?

(対話520)


マハルシ 「私」という想念が初めに立ち現れ、それからその他のあらゆる想念が生まれます。それらが心というものを構成します。心は対象であり、「私」は主体です。「私」なしに意思がありえるでしょうか? 意思は「私」の中に含まれています。「私」という想念は知性の鞘であり、意思はその一部なのです。
心は想念だけで形作られており、「これ」が対象で、「私」が主体です。

(対話277)


マハルシ これらの疑いはすべて、誤った観点と自分の外側の物事に結果を期待するために起こります。

(対話157)


ヨーガする人の魂は清浄で
心と感覚を支配し
すべての生物に思いやりがあり
絶え間なく働いても決して仕事に縛られない


神聖な意識の人は
見ても 聞いても 触れても
嗅ぐ 食う 動く 眠る 呼吸等をしても
内心では”私は何も為していない”と観る


話すときも 捨てたり取ったりする時も
また眼を開け閉じするときも
五官がその対象と作用しているのみと観じ
彼は常に超然としているのだ


神はあるレベルでは、すべてのものの材料を構成する物質である。別のレベルでは、さまざまな次元の時間の流れであり、複数の並行宇宙を創り出す時間のゆがみである。また、さらに別のレベルでは、物質を支えている光と呼ばれる振動数だ。そして、すべての中で最も偉大なレベルでは、あなたを今の位置に保っている「何もないもの」、すなわち思考であり、宇宙の永遠性なのだ。


神とは、永遠に続いていく生命全体であり、それは脈打ち、広がり、進化している。それは「在ること」であり、この「在ること」は、これまでにあったものを許容するものであり、いま在るものが広がっていくことであり、これからやってくるものを約束するものだ。それは生命を与える動きであり、特定のゴールや理想に到達するのではなく、思考から光へ、それから物質へと、絶え間なく生命を創造し続けている無限の思考プロセスなのである。神は在るものすべての本質であり、この在るものすべては、つねに変化し続け、創造し続け、広がり続け、存在し続ける「ある動機をもった力」の中に在るのである。


心の本質は気づき、あるいは意識です。しかし自我に支配されると、それは理性、思考、感覚器官として機能します。自我によって限定されない普遍的な心は、それ自体から分離したものが何もないため、ただ気づいています。これが、聖書が「私は私で在るものである」という言葉で意味したことなのです。

(対話188)



質問者 戦争が起こっています。戦争に対するあなたの態度とはどのようなものでしょうか?


マハラジ ある場所、またはほかの場所で、ある形で、あるいはほかの形で、戦争はつねに起こっている。戦争の起こらなかったときがかつてあっただろうか? ある人は、それは神の意志だと言う。ある人は、それを神の戯れだと言う。それは戦争とは不可避であり、誰の責任でもないということの別の言い方にすぎない。


質問者 しかし、あなた自身の態度とはどのようなものでしょうか?


マハラジ なぜ私に態度を押しつけるのかね? 私自身のものと呼べる態度を私はもってはいないのだ。


質問者 この恐るべき無意味な虐殺の責任を取るべき誰かがかならずいるはずです。どうして人びとはそんなにも互いに殺しあう用意があるのでしょうか?


マハラジ その犯人を内側に探し求めなさい。すべての衝突の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。それから自由になりなさい。そうすれば、あなたは衝突から解放されるだろう。


質問者 私が衝突から解放されたからといって、それが何になるのでしょう? それが戦争に影響を与えはしないでしょう。もし私が戦争の原因ならば、私は破壊される用意があります。それでも、何千人もの私のような者の消滅が、戦争を止めることがないのは明らかです。それらは私の誕生とともにはじまったのではなく、私の死とともに終わるのでもありません。私に責任はないのです。誰にあるというのでしょうか?


マハラジ 争いや闘いは存在の一部分なのだ。どうしてあなたは存在の責任が誰にあるのかを調べないのだろうか?


質問者 なぜあなたは存在と衝突が不可分だと言うのでしょうか? 闘うことなしには存在はありえないと言うのでしょうか? 私自身であるために他者と闘う必要はありません。


マハラジ あなたは「身体─精神」、特定の名前と形として存続するために、つねに他者と闘っているのだ。生きるために、あなたは破壊しなければならない。懐妊された瞬間から、あなたは周囲と戦争を始めたのだ──死があなたを解放するまで、相互に根絶しあう残酷な戦争を。


質問者 私の質問はまだ答えられてはいません。あなたは単に私の知っていることを描写しているだけです──人生とその不幸を。しかし、あなたは誰に責任があるかを言いません。私がせがむと、あなたは神やカルマ、あるいは私の欲望や恐れを非難し、それは単にそれ以上の質問を招くだけなのです。どうか最終の答えをください。


マハラジ 最終の答えとはこれだ。何も存在しない。すべては宇宙的意識界のなかの一時的現れだ。名前と形としての継続性は、容易に一掃できるただの精神的形態なのだ。


質問者 私は直接の、一時的な現れについて尋ねているのです。ここに兵士によって殺された子どもの写真があります。あなたをにらみつけている──それは事実です。あなたはそれを否定できません。さて、この子どもの死の責任は誰にあるのでしょうか?


マハラジ 誰の責任でもない。あるいは皆の責任だ。世界とは、それが包含するものであり、それぞれがそのほかのすべてに影響を与えるのだ。私たち皆が子どもを殺し、私たち皆が子どもとともに死ぬのだ。すべての出来事には無数の原因があり、無数の結果を生みだしている。責任の所在を求めることは何の役にも立たない。何に起因するわけでもないのだ。


質問者 あなたの国の人びとはカルマや因果応報という言葉を使います。


マハラジ それはただ相対として真実に近いというだけだ。実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり。互いの重荷の原因であり、互いの重荷の重さに耐えているのだ。


質問者 では、無実の人が罪で苦しんでいるというのでしょうか?


マハラジ 無知であることで、私たちは無実なのだ。行為のなかで、私たちは有罪だ。私たちは知らずに罪を犯し、理解することなく苦しむのだ。私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすことだ。なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。


質問者 いったい、なぜ私は想像するのでしょうか?


マハラジ 意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。脳の欠陥と混乱のために、あなたが知覚することは歪曲し、好き嫌いの好みに色づけされてしまう。あなたの思考を秩序あるものにし、過度の感情的な意味づけから自由になりなさい。そうすれば、あなたは人々やものごとをあるがままに、明晰性と慈愛を持って見ることだろう。
誕生、人生、死の観照者は同一だ。それは愛と苦痛の観照者なのだ。なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私たちはそれを愛しているからだ。私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。そしてそれにもかかわらず私たちは愛情深く、献身的なのだ。私たちは優しく子供の世話をする。そして子供を捨てもするのだ。私たちの人生は矛盾で満ちている。しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。この執着がすべての根底にある。その上それは完全に表面的なものだ。私たちは何かに、あるいは誰かに全力でしがみつき、そしてつぎの瞬間それを忘れてしまう。子供が泥だんごを作り、軽い気持ちで捨て去ってしまうように。それに触れてみなさい。子供は怒りとともに泣き叫ぶことだろう。気をそらしてみなさい。彼はそれを忘れてしまう。なぜなら、私たちの人生は今に在るからだ。そして人生への愛は今に在るからだ。私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。私たちは対比によって魅せられているのだ。このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。


質問者 私は絵を見ることはできますが、画家は誰なのでしょうか? 誰がこの悲惨な、しかし賞賛すべき体験の責任を取るのでしょうか?


マハラジ 画家は絵の中にいるのだ。あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。分割してはいけない。偽りの質問をしてはいけない。ものごとはありのままだ。そして、誰か特定の人に責任があるわけではない。個人的責任という考えは媒介者という幻想から来ている。「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」と。今のような社会と、その法律と習慣の構成は、分離した責任ある個人という考え方を根底にしている。だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態ではない。分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類の社会形態もありうるだろう。


質問者 あなたには何の問題もないのでしょうか?


マハラジ 私には問題がある。もう言ったはずだ。在ること、名前と形とともに存在することは苦痛に満ちたものだ。それでも私はそれを愛している。


質問者 しかし、あなたはすべてを愛しているのです!


マハラジ 存在のなかにはすべてが含まれている。私の本性そのものが愛なのだ。苦痛に満ちたものでさえ、愛すべきものだ。


質問者 それが苦痛を弱めるわけではありません。なぜ無限のなかにとどまらないのでしょう?


マハラジ それは探求の本能なのだ。未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのものであるように、成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの本性そのものなのだ。この在ることと成ることの交替は不可避だ。だが、私の住処はその彼方にあるのだ。


質問者 あなたの住処は神のなかにあるのでしょうか?


マハラジ ある神を愛し、礼拝することもまた無知なのだ。私の家は、いかに高尚なものであろうとすべての概念の彼方にある。


質問者 しかし、神は概念ではありません! それは存在を超えた実在です。


マハラジ どんな言葉でも好きなように使うがいい。何であれ、あなたの考えることを私は超えているのだ。


質問者 ひとたびあなたの家を知ったのなら、なぜそこに住まないのでしょうか? 何があなたをそこから連れだしたのでしょうか?


マハラジ 集合的な存在への愛から、人は生まれる。そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。運命とは、成ることから分離できないものだ。特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といったすべてを含んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。ある偉大な人物を見てみなさい。何と素晴らしい人物だったのだろう! だが、何と彼の人生は困難に満ち、その成果はかぎられたものだったろうか。何と人の人格は完全に依存したものか。そして何と世界はそれに無関心なのだろうか。そしてそれにも関わらず、私たちはそれを愛し、その取るに足らない無意味さゆえに、それを保護するのだ。


質問者 戦争が起こっています。そこには混沌があり、あなたは食物供給センターを監督するように頼まれます。あなたは必要とされるものを与えられ、それはただ仕事を通して得るということがらにすぎません。あなたはそれを拒絶するでしょうか?


マハラジ 働くか、働かないかは私にとって同じことだ。私は監督するかも、しないかも知れない。そのような仕事には、私よりふさわしいほかの者たちがいるかもしれない。例えば本職の飲食店業者のように。だが、私の態度は異なっている。子供の誕生を祝わないように、私は死を災難としては見ないのだ。子どもは困難のなかへと生まれてきた。死者はそれから立ち去るのだ。生命への執着は不幸への執着だ。私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。私たちの本性とはそんなものなのだ。
私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。私は泣いて生まれてきた。私は笑って死ぬだろう。


質問者 死の瞬間における意識の変化とは何でしょうか?


マハラジ どのような変化を期待するというのだろう? フィルムの投影が終わったとき、後に残るのはそれがはじまったときと同じものだ。あなたの誕生以前の状態は、またあなたの死後の状態なのだ。もしあなたが覚えているとすればだが。


質問者 私は何も覚えていません。


マハラジ なぜなら、あなたはけっして試みたことがないからだ。それはただマインドの波長を合わせる問題なのだ。もちろん、それには訓練が要求される。


質問者 なぜあなたは社会活動に参加されないのでしょうか?


マハラジ だが、私はほかでもないそれだけをいつもしているのだ。どんな社会活動を私にしてほしいと言うのだろう? 寄せ集めの仕事は私のものではない。私の立場は明らかだ。分配するために生産しなさい。あなたが食べる前に食事を与えなさい。あなたが取る前に与えなさい。あなた自身のことを考える前に、他者のことを考えなさい。分かちあいに根ざした非利己的な社会だけが、安定した幸福な社会なのだ。これは実質的な解決法にすぎない。もしあなたがそれを望まないのなら闘うがいい。


質問者 それはすべてグナ(属性)の問題です。タマス(受動性)とラジャス(活動性)が支配するところでは、争いは避けられません。サットヴァ(純粋性)が支配するところには平和があるでしょう。


マハラジ あなたの好きなように表現するがいい。それは同じことだ。社会は動機によって構築されている。根底に善意を敷きつめなさい。そうすれば、特別な社会事業家は必要なくなるだろう。


質問者 世界はより良くなってきています。


マハラジ 世界はつねにより良くなるべきだった。しかし、それでもそうならなかった。未来にどんな希望があるというのだろうか? もちろん、サットヴァが上昇しているとき、そこには調和と平和の期間があった。だが、ものごとはそれ自体の完成によって破壊されるものだ。完全な社会は静的であることを余儀なくされる。それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。頂上からすべての道は下へと向かっていく。社会は人びとのようなものだ。それは生まれ、成長し、ある時点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死を迎えるのだ。


質問者 崩壊しない絶対的な完成の状態はあるのでしょうか?


マハラジ 何であれ、はじまりあるものには終わりがなくてはならない。永遠のなかでは今ここですべてが完全なのだ。


質問者 しかし、私たちはやがて永遠に到達するのでしょうか?


マハラジ 時が来れば、私たちははじまりの地点に戻ってくる。空間が空間の外に私たちを連れだすことができないように、時間は時間の外に私たちを連れだすことはできない。待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。秘密は今ここの行為にある。あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあなたが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。安全性についてのあなたの考えが何であれ。あなたに必要なのは勇気だけだ。


質問者 どこにそんな勇気を見つけられるのでしょうか?


マハラジ もちろん、あなた自身にだ。内側を見てみなさい。


質問者 あなたの恩寵が助けてくれるでしょう。


マハラジ 私の恩寵が今、内側を見なさいとあなたに言っているのだ。あなたは必要なすべてをもっている。それを使いなさい。あなたの知る最上のあり方でふるまいなさい。すべきだと思うことをしなさい。過ちを恐れてはならない。いつでもそれは正すことができる。ただ維持が重要なのだ。ものごとがどのように形を取るかは、あなたの手中にはない。行為の動機はあなたにかかっているのだ。


質問者 どうして不完全から生まれた行為が、完全へと導くことができるのでしょうか?


マハラジ 行為が完全へと導くのではない。完全性が行為によって表現されるのだ。表現によってあなた自身を判断するかぎり、それらには最高の注意を払うがいい。あなたが自己の存在を実現したとき、あなたのふるまいは自発的に完全なものとなるだろう。


質問者 もし私が永遠に完全であるなら、いったいどうして私は生まれてきたのでしょうか? この人生の目的は何なのでしょうか?


マハラジ それは金をひとつの装飾品につくり変えることに、いかなる利益があるのかと尋ねるようなものだ。装飾品は色彩と金の美しさを得るのだ。金が豊かになったわけではない。同じように、実在が行為のなかで表現されたとき、その行為は意味をもち、美しくなるのだ。


質問者 その表現を通して、実在は何を得るのでしょうか?


マハラジ それが何を得るというのだろう? まったく何も得はしない。だが、それ自身を表現し、それ自身を肯定し、困難を克服するのは愛の本性なのだ。ひとたび世界は行為のなかの愛なのだと理解するならば、あなたはそれをまったく違ったように見ることだろう。しかし、まずあなたの苦しみに対する態度を変えなければならない。苦しみは根本的に、注意を求める呼びかけだ。それ自体が愛の動きなのだ。幸福よりも、愛は意識と存在の広がりと深まりにおける成長を求める。何であれ成長を妨げるものは苦痛の原因となる。そして愛は苦痛を避けたりはしないのだ。正義と秩序のために働くエネルギー、サットヴァは妨害されてはならない。進行を妨害されると、それはそれ自身に敵対して破壊的になるのだ。いつであれ愛を与えることが控えられたとき、そして苦しみが広がることが許されたとき、争いは不可避となる。隣人の苦しみへの無関心が、私たちのもとへ苦しみをもたらすのだ。


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HN:
Fiora & nobody