
本線にかえりなさい 神のために
もし神が、私たちに選ばせたくないのならこのような人間体験や自我意識をわざわざ経験させることはなかった。だから、基本的にこの人間という形状を選択しているのは神であり、神の私たちに対する意思だ。人間を生きよと言われているに等しい。
子供のころは魔術的な世界観や、魔法は実在しない、ただの虚構なのだろうと推測していた。大人たちが醸し出す空気がそうだった。
でも実際に経験を積んで得たいま現在の世界観は、
この現実世界というのは、神がセットした人間という「体験」のための舞台だということ。
現実のビル群、人間社会のルールがまるまる大がかりな「魔法」だったのだ。
現状の地球は、人類の選択のバランス欠如が甚だしいせいで大きな舞台転換を余儀なくされているが、本来は神が介入することはなく、人間のことは人間の意思で決めて「体験」をすることが本線だった。
輪廻転生は、この地球という惑星において機能する一自治体ルールのようなものだったが、間もなく舞台転換のために大きく変わる。
はっきり言えばいま亡くなると、地球にもう一度生まれ変わることができるかはもうわからない。
地球の鞍替えが霊の感覚ではどのような次元のものなのか、廃藩置県のようなもので済むのかもまったくわからない。
残念ながら、ここまで崩したバランスを人類が自分たちで直すことは厳しいのかもしれない。
だからといって、ポカンと口を開けて待っていてくださいねとは言われていない。
最後人(さいごじん)には最後人としての誇りをもって事の終わりに臨んでほしいと言われているような気がする。
文明の終わりを目撃することになった人たちはいままでどんな気持ちだったのだろうか。
西暦1700年頃、まだ何とかできるときの「本線」の意味と、
いまの「本線」の意味は少し違う。
あなたの望むように人間体験をしてほしい、というだけではなくて、
脱いだスリッパを後ろを向いて揃えるような風情を要求されている感じ、列車の最後尾の車窓から見届けるけじめを要求されている感じ、違うだろうか。n240133


熱狂を疑え
インターネットやSNSの隆盛で常に他者の動向に細心の注意を払わずにはいられなくなっている私たち現代人。自主的に判断・行動する主体性を喪失し、根無し草のように浮遊し続ける無定形で匿名な集団のことを「大衆」と呼びます。そんな大衆の問題を、今から一世紀近く前に、鋭い洞察をもって描いた一冊の本があります。「大衆の反逆」。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883 - 1955)が著した、大衆社会論の嚆矢(こうし)となる名著です。
社会のいたるところに充満しつつある大衆。彼らは「他人と同じことを苦痛に思うどころか快感に感じる」人々でした。急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、人々は自らのコミュニティや足場となる場所を見失ってしまいます。その結果、もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めます。自分の行動になんら責任を負わず、自らの欲望や権利のみを主張することを特徴とする「大衆」の誕生です。20世紀にはいり、圧倒的な多数を占め始めた彼らが、現代では社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析し、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。
オルテガは、こうした大衆化に抗して、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することを旨とするリベラリズムを主唱します。そして、「多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾ける寛容性」や「人間の不完全性を熟知し、個人の理性を超えた伝統や良識を座標軸にすえる保守思想」を、大衆社会における民主主義の劣化を食い止める処方箋として提示します。
大衆は「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在だと分析するオルテガ。彼らは、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足場となる場所を見失い、根無し草のように浮遊を続ける。他者の動向のみに細心の注意を払わずにはいられない大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、「みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険性にさらされ」、差異や秀抜さは同質化の波に飲み込まれていく。こうした現象が高じて「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させて」いくところまで逢着(ほうちゃく)するという。
オルテガは、大衆化に抗して、歴史的な所産である自由主義(リベラリズム)を擁護する。その本質は、野放図に自由だけを追求するものではない。そこには「異なる他者への寛容」が含意されている。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること。「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのだ。そして、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することこそが自由の本質だと主張する。
著者のオルテガは、二十世紀を生きたスペインの哲学者で思想家ですが、彼は本書の中で、「大衆が社会的中枢に躍り出た時代」にあって民主制が暴走するという「超民主主義」の状況を強く危惧しています。そして、それと対置する概念として「自由主義=リベラル」を擁護しました。
彼が言う「リベラル」とは、自分と異なる他者と共存しようとする冷静さ、あるいは寛容さといったものです。「大衆」が支配する時代においては、そうした姿勢が失われつつあるのではないかというのが、オルテガの指摘でした。
「大衆」という言葉が使われていますが、これは一般的にイメージされるような階級的な概念とはまったく異なります。オルテガはまた「大衆」の対極にある存在を「貴族」と呼んでいますが、これもお金をもっている人や、ブルジョア、エリートといった意味ではありません。過去から受け継がれてきた、生活に根付いた人間の知。あるいは、自分と異なる他者に対して、イデオロギーを振りかざして闘うのではなく対話し、共存しようとする我慢強さや寛容さ……。そうした、彼の考える「リベラリズム」を身に付けている人こそが、オルテガにとっての「貴族」であったのです。
オルテガは、こうした「貴族的精神」が、大衆社会の中でどんどん失われていると考えていました。そして、そのことによって、民主制そのものが非常に危うい状況になっていると指摘したのです。
民主主義と立憲主義は、元来どうしても相反するところのある概念です。民主主義とは、いま生きている人間の多数決によってさまざまなことが決定されるシステム。対して、たとえいまを生きる人間が決めたことでも、してはならないことがあるというのが、立憲というシステムなのです。
彼がこうしたことを考えたのは、その生きた時代と密接な関係があります。オルテガが活躍したのはいまからおよそ百年前で、今回取り上げる『大衆の反逆』が刊行されたのは一九三〇年。これは、二二年にイタリアでファシスト党が政権を取り、三三年にドイツでナチスが政権に就く、そのちょうど合間にあたります。さらにその少し前、一七年にはロシア革命が起こるなど、まさに革命とファシズムの時代と言うべき時期でした。
オルテガによれば民主主義の劣化は「すべての過去よりも現在が優れているといううぬぼれ」から始まる。過去や伝統から切り離された民主主義は人々の欲望のみを暴走させる危険があると警告するオルテガは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っていることに気づくべきだという。数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利。死者たちの試行錯誤と経験知こそが、今を生きる国民を支え縛っているのだ。いわば民主主義は死者たちとの協同作業によってこそ再生されるという。
心に刻まれた言葉はいくつもありますが、一つ選べと言われたらこれです。
「敵と共に生きる!」。
敵と「和解する」でも「話し合う」でも「理解する」でもなく、「共に生きる!」なのです。距離感でいえば、いつも近くにいて、共存しているイメージがありませんか?
この言葉。中島さんの解説を経て、「自分は間違う。だから、自分とは違う人、自分と対立する人、つまり敵こそ尊重すべき」「耳が痛い意見にこそ耳を傾け続けよ」と受け止めました。政治家や専門家に向けたメッセージでもあったようですが、一般人の私にもずしんと響きました。だって、とってもむずかしいですよ!?
オルテガは現代人が人間の理性を過信しすぎているという。合理的に社会を設計し構築していけば、世界はどんどん進歩してやがてユートピアを実現できるという楽観主義が蔓延しているというのだ。しかし、どんなに優れた人でも、エゴイズムや嫉妬からは自由になることはできない。人間は知的にも倫理的にも不完全で、過ちや誤謬(ごびゅう)を免れることはできないのだ。こうした人間の不完全性を強調し、個人の理性を超えた伝統や良識の中に座標軸を求めるのが「保守思想」だが、オルテガはその源流につながる。歴史の中の様々な英知に耳を傾けながら「永遠の微調整」をすすめる彼らの思想は、急進的な改革ばかりが声高に叫ばれる現代にあって、大きなカウンターになりうると中島岳志さんはいう。
かつての日本人たちは、異なる意見の人たちと丁寧に議論を積み重ねる叡知を持ち合わせていたと思います。たとえば、自らの所属する組織に向けてあえて厳しい批判を述べて正そうとした人が出てきても、その人を忌避することなく、むしろ有益な助言者として受け入れ評価しようとした事例を、私は数多く知っています。反対派の意見にも一理あると考えれば、丁寧に耳を傾け、双方の意見を「落としどころ」に練り合わせていくという努力も、数多くの人たちが行っていました。
ところが、現代は、オルテガが「大衆の時代」と述べて厳しく批判した現象と全く同じような出来事が頻繁に起こっています。
「組織のために有益な批判を行った人をも徹底的に冷遇する」
「反対派の意見には一切耳を傾けず、鼻で笑うような対応をする」
「多数派という立場にあぐらをかいて、丁寧な議論をすっ飛ばし、数の論理だけで強引に物事を進めていく」。
オルテガが唱える真正の保守思想とは何か?
「自らとは異なる意見や少数派の意見に丁寧に耳を傾け、粘り強く議論を積み重ねる」
「自らの能力を過信することなく、歴史の叡知を常に参照する」
「短期的な目先の利益だけのために物事を強引に進めない」
「敵/味方といった安易なレッテル貼りに組しない『懐疑する精神』を大切にする」
「大切なものを守っていくために『永遠の微調整』を行っていく」。
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