この世はすべての情報階層に向けて完備されている


早稲田の某教授のように科学万能説を信じる者に向けても最善を提供できるようになっているし、それ以外の階層に向けても万全に準備されている。


階層が違う。扱っている商品が違う。ただそれだけのこと。


準備されていない階層はない。
そして、すべて準備されているために、時代の変化の真っただ中でも必要なものには触れられるようになっている。
足りないものは逆説的で、


問題意識のほうが足りない。
これこれを必要だと認識する認識のほうが足りない。


ブラックボックスをブラックボックスとして認識している者には中身についてのヒントが届けられるようになっている。
ブラックボックスとして認識できていないから、穴だらけになるのだ。


世界観の押しつけ。排他性。
それを今から改善する時間なんてない。
だから情報はもう階層の違いとして見切りをつけるしかない。割り切らないと被害が拡大する。


情報が違えば、行動も違う。
そもそも価値判断が違うのだから、行動が違う。


そして行動の前に大きな大きなセンサーとして、
やはり言葉が違うのだ。


とがったことを言うのは強さじゃなく弱さだったりすると思うn200044



36カ国で翻訳され、全世界で5000万部以上出版されているという驚異的な本がある。「赤毛のアン」。もともと無名の作家だったルーシー・モード・モンゴメリ(1874 – 1942)が1908年に発表して以来、多くの人たちが今なお愛してやまない永遠のロングセラーだ。「人間にとって想像力がいかに大切か?」「異なる個性を認め合うには何が必要か?」「自分の人生を愛する方法とは?」といったさまざまなテーマを、克明な人物描写、心理描写を通して見事に描き出したこの作品から、現代人にも通じる生きるヒントを読み解いていく。


舞台はカナダのプリンス・エドワード島。グリン・ゲイブルスに暮らす初老の兄妹マシュウとマリラは、農場を手伝ってもらおうと孤児院から男の子を迎えようとする。しかし、やってきたのは十一歳の赤毛の女の子アン・シャーリー。当てがはずれたマシュウだが、想像力の翼を広げ周囲に明るさをふりまくアンにたちまち魅了される。アンを預かることに強く反対していたマリラもやがてアンの魅力に心をほどいていった。アンの登場で島の人々の生活は一変。彼女の想像力と天性の明るさによって人々は次第に感化され、忘れかけていた若々しい気持ちや暮らしを取り戻す。そして、アン自身もさまざまな出会いの中で大きく成長していくのだ。


「ここには想像力の余地があるわ」が口癖のアン・シャーリー。彼女の手にかかれば、何の変哲もない風景もたちまち宝物に変わってしまう。「歓喜の白路」「輝く湖水」「雪の女王」などなど。見慣れたものや場所に、想像力で素敵な名前を与えることで、そこは感動の場となる。最初は唖然としていた周囲の人間も、いつしか感化され、なにげない日常が想像力によって生き生きと動き出していくことに気づく。アンの登場で、島の人々の生き方も大きく変わっていくのだ。


天性の明るさをもつアンにも大きなコンプレックスがあった。みんなと全く違う「赤毛」だ。赤毛嫌さに行商人に騙されて髪を染めてみたらなんと緑色に。かえって元々の赤毛がかけがえのないことに気づく。あれだけ嫌だった赤毛は、やがてすらりとしたアンの肢体を引き立てる金褐色になっていく。長所と短所は裏腹なのだ。こんな風に、物語の登場人物たちは誰もがどこかしら欠点をもっている。しかし、作者はそんな欠点に対して優しい。それぞれの違いや限界を認め合い尊敬しあう生き方を最終的に描いていくのだ。


『赤毛のアン』の物語は、孤児院にいた十一歳の少女アン・シャーリーが、年老いた兄妹のマシュウとマリラのもとに引き取られるところから始まります。生まれて三か月で両親を亡くしてしまったアンにとっては期待に溢れた出だしですが、兄妹の望みが実は男の子だったということから、さっそく大問題が発生します。


作者のルーシー・モード・モンゴメリ(一八七四─一九四二)は、カナダのプリンス・エドワード島の名家に生まれた女性で、一歳九か月で母親と死別したのちは、祖父母のもとで育てられました。この作品にはそんな彼女の感受性や経験が、あちこちにちりばめられています。


教養小説の定義は「主人公が幼年期の幸福な眠りから次第に自我に目覚めて、友情や恋愛を経験し、社会の現実と闘って傷つきながら、自己形成をしていく過程を描いた長編小説」とされています。ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』やロマン・ロランの『ジャン=クリストフ』などが代表的な作品ですが、『赤毛のアン』は普通の子の成長物語ではなく、環境に恵まれていない、つらい立場にいた子が、良好な環境を得ることによって輝き始めていくという、ちょっと特別な成長物語です。でもだからこそ、どんな子どもでも機会さえ与えられれば、その子自身の資質をぐんぐんと伸ばすことができるのだという、希望の物語だと思います。



子どもの時には気づかなかったことですが、『赤毛のアン』で成長するのは主人公だけではありません。マシュウとマリラに出会うことで成長していくアンと一緒に、マシュウとマリラも成長するのです。すでに五十歳を超えていた二人の大人が、アンと出会ったことで思いもよらぬ変化を遂げていく。人が人と出会うことの大切さ、人間の変わっていく可能性が描かれています。それはヒューマニズムと呼ぶべきものかと思います。


親友ダイアナの誕生日に招待され、客用寝室での「お泊り会」を企画するアン。嬉しさのあまりベッドに飛び込むとそこにはダイアナの父親の伯母ミス・バリーが! かんかんになってダイアナの音楽レッスン料金を支払わないと言い出したミス・バリー。アンはもちまえの「ひたむきさ」で心からの謝罪を行い、逆にミス・バリーからの深い信頼を勝ちとるのだ。アンは、いかなるときも、この「行動力」と「ひたむきさ」で、「偶然の出会い」や「幸運」を自らのものとして、運命を切り開いていく。


物語の終盤、アンに、自らの夢を諦めなければならない瞬間が訪れる。愛するマシュウの突然の死。そして目が不自由になるマリラ。次々に襲ってくる不幸に対して、アンがくだした決断は、大学に進学するという夢を諦めること。地元で教師になることで、目が不自由になったマリラを支え、グリン・ゲイブルスと農場を守っていくという決断だった。それは諦めでありながらも限りない清々しさに満ちている。その結果、アンは、ずっと不仲だったギルバートとの和解という奇跡を手に入れるのだ。



とりわけ印象に残ったところは、私自身も大好きなマシュウのエピソード。びっくりするくらいシャイで、特に女性とはまともにコミュニケーションがとれないマシュウが、誰よりも深く、アンが他の女の子と違う服を着ていることの違和感に気づき、シャイさと必死で格闘しながらも、なんとかパフスリーブをアンにプレゼントするエピソードです。効率さや速度だけが重視される現代社会にあっては、マシュウという存在はコミュニケーション能力のない、とろい人間と切り捨てられてしまいがちかもしれません。だけど、愛する人ををしっかりと見つめることができ、その人にとって一番大切なものを見出していくマシュウの能力は、効率や速度では測れない、マシュウ自身の人格や個性から生まれてきたものだと思います。長所と短所は裏表なんですよね。また、マシュウが初老ともいえるような年齢だということも重要です。人間は何歳になっても、生き方を変えたり、自分とは全く異なる個性をまるごと受け容れるような度量の大きさをもつことができるんだという可能性を、マシュウの中にみて感嘆します。


モンゴメリの視線は、こんな風に、年齢や性別を超えて、あらゆる登場人物の個性や価値観、考え方の違いを、誰が正しいとか、誰が優れているとか決めつけることなく、ありのままに受け止めて、それぞれを愛しむように描いています。このような姿勢こそ現代人が最も忘れがちであり、取り戻さなければならない姿勢ではないでしょうか?








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