答えを出している最中(さいちゅう)


数式があって、変数があって、自分なりの答えがある。
明日答えを出すわけでも、昨日答えを出したわけでもない。
いま答えを出している最中なのが、ずっと続いている。


鍵はなんだと思うか?
そう人と話し合う時もあって、みんな違う答えを出していく。


人の答えなんか重要じゃない(敬意は維持するけど)
自分なりの答えを出している最中なのが、なにより大切な機会だ。
吐く息が止まったとき、人は還るのだから。
私の責任というのは、あくまで私が出した答えのことを言う。


答えの選択権が失われたことはない。
チューニングの手が麻痺したこともない。
欠損する肉体とは違い、私の本質とはたぶんそういうことにある。


私が今日出した答え、いま出している答えに責任を感じる。
だってこれに責任を感じてくれる担当者は世界に私一人なんだから。
0か1かを選ぶというなら、1を選ぶ。n170029



人間にとって「知とは何か?」「言語とは何か?」「政治とは何か?」……数多くの根源的な問いを投げかけ、全世界で5500万部を超えるベストセラーを記録した一冊の小説があります。「薔薇の名前」。世界的な記号学者ウンベルト・エーコ(1932- 2016)によって書かれた推理小説です。人間がいかに「言語」によって翻弄される存在なのか、人間の「知」や「理性」がいかに脆弱なものなのかを、克明な人物描写、巧みな古典の引用を通して見事に描き出したこの作品から、現代人にも通じるさまざまな問題を読み解いていきます。


物語の舞台は14世紀初頭。対立する教皇側と皇帝側の間を調停するための密使として北イタリアの修道院に派遣される修道士ウィリアムと見習いアドソ。到着早々、彼らは謎の連続殺人事件に遭遇し修道院長に事件解決を依頼されます。遺体発見の場は「ヨハネの黙示録」に描かれた世界終末の描写と酷似。持ち前の論理的な思考を駆使して推理を続けるウィリアムはやがて修道院内の図書館の奥に納められている一冊の本が事件の鍵を握っていることに気づきます。一体誰が何のために殺人を行っているのか? 一冊の本に秘められた謎とは? 果たしてウィリアムはその謎を解くことができるのか?


この作品は推理小説であるにもかかわらず、最後まで完全に謎が解き明かされることはありません。快刀乱麻ともいうべき主人公の知性は、事件解決のための鋭い切れ味を各所で示しながらも、最後にはこの事件の大半が偶然の産物であることがわかり、彼の推理は大きく裏切られます。この小説は、近代的理性の限界を暴く物語でもあるのです。



北イタリアの修道院に派遣される修道士ウィリアムと見習いアドソ。到着早々、彼らは謎の連続殺人事件に遭遇し修道院長に事件解決を依頼される。鮮やかな推理をみせるウィリアムとその解説者アドソの設定は、ホームズとワトソンをモデルにしていることは明らかだ。ホームズ的な探偵小説という形を借りて、中世秩序がほころび近代が黎明を迎える中で「知」を武器に言語や記号の解明に挑む人間の姿が鮮やかに描かれていく。


黙示録に描かれた世界終焉の描写をなぞるように連続する殺人事件。ウィリアムは、その知力を駆使して、事件の鍵が失われたとされる一冊の本にあると推理。その本を探し出すべく修道院内の図書館に潜入する。しかし、そこは、さまざまな仕掛けや暗号で守られた迷宮だった。人類の知の宝庫ともいうべき膨大な蔵書の中を巡りながら、ウィリアムは多様な解釈を試み、図書館の謎に挑戦していく。この知の迷宮への旅は、私たち人間と書物の関係を象徴的に示している。


ウンベルト・エーコは北イタリアのピエモンテ地方南部にあるアレッサンドリアという町で生まれました。大学からトリノに移って哲学を学び、学者になるかと思いきや、イタリアの公共放送局であるイタリア放送協会に就職します。主にテレビの文化番組の制作に携わったエーコは、その過程で、のちにかれの最大のテーマとなる「記号」というものに興味を持つきっかけとなるさまざまな体験を積んでいきます。


エーコは放送局員から次第に書籍編集の仕事に比重を移し、一九七一年からはボローニャ大学で記号論を教えるようになります。一九七五年、記号論の体系的な理論書、いわゆる『一般記号論』(邦題は『記号論』として刊行)を発表。この本はすぐに英語にも翻訳され、エーコは世界の記号論界の中心人物のひとりとして注目されるようになります。


すでに世界的な記号学者であったエーコが一九八〇年、四十八歳でいきなり小説家デビューを果たします。その作品が、今回取り上げる『薔薇の名前』です。物語の骨格としては、これは十四世紀北イタリアのベネディクト会修道院を舞台にした歴史推理小説、ということになるでしょうか。八六年に映画化され、九〇年には邦訳が出て日本でも大きな話題を呼び、いまだに版を重ねるロングセラーになっています。世界での発行部数はエーコが亡くなった時点で五千五百万部。これだけの部数が出ているということ自体、この作品の衝撃の大きさを物語っていると言えるでしょう。


「物語の骨格として」という、若干持ってまわった言い方をした理由は、この小説にはその枠にとどまらない仕掛けが全編にわたり張りめぐらされているからです。
例えば小説の冒頭。「手稿である、当然ながら」という言葉につづいて、「一九六八年八月十六日」という日付が出てきます。「あれ?」と思いますよね。中世が舞台の小説のはずなのに、いきなり現代からはじまっている。つづく部分を読んでみると、この小説は、この日に一冊の書物を手に入れた人物によって書き起こされているという設定であることがわかります。しかもそれは、十九世紀に翻訳出版されたものだと断りがある。翻訳であるということは、誤訳や遺漏、意図的な省略や要約などもあるかもしれない。そうした翻訳にまつわる改変の可能性がすべて提起されたところから、ようやく物語のプロローグがはじまっているのです。


エーコは六二年の『開かれた作品』のなかで、読者を大きく「経験的読者」と「モデル読者」という二つのカテゴリーに分類しています。本文中でも触れることになりますが、経験的読者とは、「この小説はおもしろいな」「悲しいな」など素直に反応しながら物語を読み進める読者のこと。モデル読者とは、この小説に作者はどんな戦略を盛り込んでいるのか、またその戦略にはどんな意図があるのか、といったことにまで思いをめぐらせる読者のことです。簡単に言えば、自分の感情のままに読む読者と、小難しく小説を読んでしまう読者、とも言えるかもしれません。そして『薔薇の名前』は、このどちらのタイプの読者にも「開かれて」いる作品なのです。


教皇側から派遣された異端審問官ギーが修道院に乗り込んでくる。彼は異端派たちを強引にも犯人に仕立て上げ火刑に処す。その勢いをかって皇帝側を会議で断罪。教皇側と皇帝側の調停は決裂してしまう。実は、こうした描写は、当時イタリアの政治状況を隠喩的に表現したものだ。反政府勢力に対する苛烈な弾圧、要人誘拐事件を政府側の一方的解釈で捻じ曲げ、結局要人が殺害されてしまう「モーロ事件」等々。イタリアでは、言葉狩りのような言論弾圧が横行し、知識人たちが黙して語らない「鉛の時代」を迎えていた。この小説は、エーコによる告発と読むこともできる。



ウィリアムはついに図書館の奥へ入るための暗号を解く。秘密の場所へ辿りついた彼らを待っていたのは、老僧のホルヘ。「笑い」の重要性を説くアリストテレス「詩学」第二部こそ事件の鍵だった。「笑い」はキリスト教を滅ぼす脅威となると考えたホルヘは、この本に毒を塗り読むものを死に至らしめていた。推理はことごとくミスリードだった。それどころか、彼の知への驕りはホルヘの傲慢さと瓜二つ。ウィリアムは自らの「知性」の限界を突きつけられる。


「最近、『言葉』というものがもつ重みが、なくなってしまっているのではないか?」


「平気でうそやデマを流す」
「間違った言葉を発しても謝罪しないどころか撤回もしない」
「これまで積み上げてきた言説をいともたやすくひっくり返す」
「都合のよい情報や言葉だけを集めて歪んだ世界観を作り上げそこに安住する」
「一度作り上げてしまった世界観は、たとえ綻びを見つけても、チェックも検証もしない」


「薔薇の名前」に描かれたことが、執筆当時のイタリアの政治状況を隠喩的に表現したものだということです。反政府勢力に対する苛烈な弾圧とそれへの報復、要人誘拐事件を政府側の一方的解釈で捻じ曲げ、結局要人が殺害されてしまう「モーロ事件」など。イタリアでは、言葉狩りのような言論弾圧が横行し、知識人たちが黙して語らない「鉛の時代」を迎えていました。この小説は、エーコによる告発と読むこともできるのです。


特に、元首相のアルド・モーロを死に追いやった「モーロ事件」の顛末は、本人の意図を捻じ曲げる形でモーロの手紙をよってたかって「過剰解釈」し、本人の要望を無視して見殺しにしたという戦慄すべきものでした。この言葉や記号への解釈の乱用は、まさに、私が冒頭に掲げた印象にも通じており、現代社会の似姿とも感じられました。エーコ自身も「モーロ事件がなければこの作品を書くことはなかった」と述懐している通り、この作品からエーコの現代社会への警告を読み取らなければならないと、和田さんの解説を聞きながら強く思いました。


○「笑い」について
中沢さんは、この作品の隠れた真の主人公は「笑い」ではないかといいます。老僧ホルヘが人間にとっては害悪をなすものとあくまで退け続けた「笑い」。しかし、一方で、主人公のウィリアムをはじめ、多くの人たちがこの「笑い」の魅力に魅了されています。中沢さんは、この「笑い」を、記号にもならないし名前にもおさまりきれない何かが動いているもの、根底で人々や事象を動かしている何かを象徴したものだといいます。それが物語全体を動かしている。「笑い」は秩序を吹き飛ばし、ひっくり返す力をもっているものであり、だからこそ、人はそれを恐れたり、魅了されたりするのではないでしょうか?


○カーニバルと民衆世界
その「笑い」を古来から支えてきたものが「カーニバル」であり「民衆世界」だと中沢さんはいいます。キリスト教世界がもっとも危機感を覚えたのが「民衆世界」。民衆文化であるカーニバルは、世俗権力を全部ひっくり返したり、男が女になったり女が男になったり、ありとあらゆる価値をひっくり返すもの。そういう文化がイタリアには深く根付いている。エーコはそのことをこの作品にこめたのではないでしょうか?
またカーニバル的な世界は、異端の世界にも通じている。カタリ派などの異端は、民衆の中から湧き上がってくるような宗教改革運動ですから、そのメンタリティや思想の中には、必ずカーニバル的なものがある。そして、その淵源は、厳格な一神教のキリスト教的な世界観ではなく、笑いに満ち溢れた多神教的なギリシャ世界に発している。「喜劇」の本質を追究したとされるアリストテレス「詩学」第二部は、まさにそこに横溢していた「笑い」を分析した書なのだから、それを通じてキリスト教世界に「民衆的なもの」「カーニバル的なもの」がはいってきてしまうと既存の秩序が崩壊してしまう。だから、ホルヘたちは、「異端」以上に、この本を畏れたのではないかというわけです。
当時のカーニバルでは、「薔薇の名前」の中にも出てきた風刺画のように、教皇の格好をしたロバが出てきて、ひひーんと鳴きながら神聖な説教をしたりする。カーニバルや民衆世界というのは、ある意味罰当たりなものであり、権威的な物言いや、「これこそが真理だ」といった態度を、根本から笑いのめしてやろうという強力な力が働いているものだから、体制側は必死でそこから教会を守ろうとしていたわけです。そうした構図が「薔薇の名前」では見事に描かれているんですね。


○反知性主義に抗するために
エーコが活躍していた1970年代というのは、ある意味で、西欧の知的なテンションがもっともピークに達している時代だといいます。その真っ只中で書かれたのが「薔薇の名前」という小説。記号を徹底的に相対化したり、笑いや無の中に人々を放り込んで圧倒するという知的にハイレベルなはなれ技をやってのけたエーコは、まさに「反知性主義」とは正反対の存在なのです。
現代は、反知性的なものが蔓延していて、こういう著作が読まれなくなってしまっているけど、こういう流れというのは大体50年周期で循環しているというのが中沢さんの見立てだそうで、2020年から30年くらいに、もう一回、この知的テンションは上昇してくるのではないかといいます。


「知」と「笑い」というものが根底において通じ合っているものである視点は、まことにエーコらしく、その後の多くの著作の中に通奏低音のように鳴り響いているように思います。そして、エーコは、この「知」と「笑い」というものを武器に、既存の秩序や権力と対峙しようとしたのではないかとも感じます。
ところが、現代という時代を見渡すと、どうも「知」も「笑い」も、権力と対峙するどころか、権力に奉仕し、支えるものとして使われてしまうことが多々あるようです。








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