横領するかしないかという選択肢が目の前に顕われて
誰の顔が浮かぶか


人が犯罪を実行するかどうか迷うとき、目の前に誰の顔が浮かぶかがその後を決めるような気がする。
愛情をかけてくれた人が浮かび、自分のために泣いてくれた人の顔が浮かび、思いとどまるという幸せな人もいるだろうし、そういう人が浮かばない人もいるかもしれない。


私も途中まで知らなかったが、「目に見えない人」も実在する。
彼らとの縁もないがしろにすべきでない。
いるかいないかわからないときは、万が一「いた場合に備えて」保険をかけておいたほうがいい。


犯罪を迷う瞬間だけではない。
単純な日常の選択の瞬間にも、一日を終えて眠りにつくときも、
誰の顔が浮かぶかでその後は変わると思う。


浮かんだ相手との関係性のなかで
いつも自分が定義されている。


わたしたちは、関係性によって、定義されている。


わたしたちのチューニングは、関係性を変えることなのだ。
目の前の物事に、今日意識に上ったなにかに、浮かんだあの人の顔に、自分を再定義する。


こうして与えられている機会自体とも関係性を定義している真っ最中なのだ。n130130



「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見いだすのだろうか」  そんな問いを発し、人間にとって「生きがいとは何か」を真摯に追求した一冊の名著があります。神谷美恵子「生きがいについて」(1966)。


著者の神谷美恵子(1914-1979)が「生きがい」という問題に直面したのは、四十三歳のとき。精神科医として働いた、岡山県のハンセン病療養施設「長島愛生園」でのことでした。なぜ世の中には、絶望的な状況にあってなお希望を失わずに生きぬいている人たちがいるのか。ハンセン病患者たちに寄り添いながら、神谷が見つけたのは、「苦しみや悲しみの底にあってなお朽ちない希望や尊厳」でした。


視力を完全に失いながらも窓外の風物に耳を澄ませ俳句を創り続けるひとたち、失った指の代わりに唇や舌に点字を当てて、血をにじませながら読み続けるひとたち……ハンセン病患者たちの姿に照らし出されるように、神谷は、「生きがい」の深い意味をつかみとっていったのです。


しかしこの書は、単に極限状況にある人々の「生きがい」を描いたわけではありません。神谷は、日常を平凡に生きている私たちが「生きがいをいかにおろそかにしているか」「生きがいを奪い去られるような状況に直面したときいかにもろいものか」を問いかけます。ひとが生きていくことへの深いいとおしみと、たゆみない思索に支えられた神谷のまなざしは、私たちが日々暮らしていく中で、「生きがい」がいかにかけがえのないものなのかをも明らかにしてくれるのです。


「生きがいとは何か」という極めてシンプルな問いからはじまる「生きがいについて」。神谷美恵子がとりわけこだわったのは、「生きがい」が決して言語化できない何かであり、考える対象ではなく「感じられる何か」であるということだった。「存在の根底から湧き上がってくるもの」「自分がしたいことと義務が一致すること」「使命感に生きること」。神谷が生きがいをとらえようとする様々な言葉から浮かびがあるのは、生きがいが、他者のものとは安易に比較できない「固有のもの」であるということだった。


ハンセン病療養施設「長島愛生園」に精神科医として調査に入った神谷美恵子。しかし患者たちは決して心を開いてくれなかった。「奥深い問題を探求する上で意味あるものは、むしろそうした機械的調査のあらい網の目からは洩れてしまう」。そう宣言し、神谷美恵子はこれまで使ってきた学術的方法を放棄する。その上で、神谷はハンセン病患者たちの只中に入っていき、本当の意味で言葉を交じり合わせていこうとした。その結果、むしろ患者たちから照らし出されるように「生きがいの深い意味」を知らされていくのだ。


この本でいう「生きがい」とは、生きる意味であり、将来への期待であり、今、ここで行われる挑戦であり、また、知らない間に育んできたものの現われでもある。著者である神谷美恵子は、それは人間が努力して一から作り上げるものではなく、発見すべきものであるといいます。そしてその「生きがい」の発見は、自分が何か大きなものに包まれているという実感から始まる、というのです。


神谷は、その大いなるものをさまざまな言葉で表現していますが、「大地」もその一つです。この言葉は、この本を読み解くとき、鍵になる言葉になっています。彼女はそれを「自然」と書くこともあります。


社会をはなれて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえることができるというルソーのあの主張は、根本的に正しいにちがいない。少なくとも深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力─それは彼の内にも外にもはたらいている─によって癒され、新しい力を恢復するのである。


ルソーは、悩める同時代人にむかって、自然に還れと言いました。それは、原始的な生活をすることを意味しません。自然とのつながりを感じながら生きることを指します。
ここで見過ごしてはならないのは、ルソーと神谷が、人間もまた「自然」の一部であることをよく理解しつつ、そう述べていることです。山川草木や花鳥風月との真の関係を取り戻すとき、私たちは同時に、本来の自分も他者との関係も取り戻すことができる。
別な見方をすれば、「自然」は、私たちを生かしてくれているものでもあります。「生きがい」と呼ぶべきものは、人間が、生きようと強く感じるときよりもむしろ、生かされていると感じるところにその姿を現わす。


野に一輪の花を見るように、また、さえずる鳥の声を全身で引き受けようとするときのように、私たちが隣人の言葉と向き合うとき、眠れる「生きがい」が何ものかによって照らし出されるというのです。


わたしは耕す
世界の足音が響くこの土を
………
原爆の死を、骸骨の冷たさを
血の滴を、幾億の人間の
人種や 国境を ここに砕いて
かなしみを腐敗させてゆく
わたしは
おろ おろと しびれた手で足もとの土を耕す
泥にまみれる いつか暗さの中にも延ばしてくる根に
すべての母体である この土壌に
ただ 耳をかたむける。


志樹は、ハンセン病を患い、筆舌に尽くしがたい困難を生きてきました。彼はその苦しみと悲しみの経験を通じて、人生の「土」と呼ぶべきものの発見に至ったというのです。そして彼は、その「土」にふれることによって、戦争やさまざまな不条理な出来事のなかで亡くなっていった人々と時空を超えてつながるという経験をします。


「かなしみを腐敗させてゆく」とこの詩人はいます。悲しみは、落ち葉のように「土」に舞い降りる。落ち葉はもう人の眼を楽しませることもなく、樹木にとって光を吸収する働きもない。一見すると不要なものに映る。しかし、私たちは、それは「土」が新生するためになくてはならないものであることを知っています。ここでの「土」は、世界そのものを示しています。この世界は、個々の人間のそれぞれの悲しみによって支えられ、育まれているというのです。


神谷は、「生きがい」は、苦しみや悲しみの経験のなかで芽吹き、花開かせると考えています。また、人は、大地の上で生きているのではなく、大地に「生かされて」いるのではないか。「生きがい」とは、大地が与えてくれているものを発見することなのではないか、と志樹の詩を引くことによって問いかけるのです。



「容易に癒えない病を生きる苦しみ」「愛する人を失った悲しみ」……私たちは、「生きがいを奪い去るもの」を決して避けては通れない。そんな「苦しみ」や「悲しみ」と私たちはどう向き合ったらよいのか? ハンセン病患者たちが教えてくれるのは、暗闇の中にいる人間こそがむしろ「光」を強く感じるという事実だ。体が動かなくなったときにこそ感じられる「ここに存在していることの意味」。大事な人を失ったときにはじめて感じる「命の尊さ」。わが身に降りかかってくる困難を避けるのではなく、その意味を掘っていくことこそ「生きがい」を深めていく営為なのである。


「生きがい」の問題を考えぬいていくとき、ひとはいつしか「宗教的なもの」に近づいていく。それは決して既成宗教や宗派の枠にとらわれるものではない。それを神谷は、教義や礼拝形式などの形をとる以前の「目に見えぬ人間の心のあり方」と呼ぶ。神谷は、困難に直面している人々と対話する中で、彼らが、自分を超えたより大きなものに生かされていると感じており、自己をあるがままに大きな力にゆだねることで、困難に立ち向かう力を得ていることに気づくのだ。


見事に整理された学術論文の姿を呈している前半部に対して、後半部に至ると、単なる論文を超えた思想ともいえる様相を呈しはじめ、大きくとまどいつつも文章の素晴らしさに胸を打たれたことを今もよく覚えています。


「苦海浄土」と「生きがいについて」は、深いところで言葉同士が呼び合っているという直観を抱きました。


2時間近くにも及ぶその対話は、とっかかりこそ、「苦海浄土」と「生きがいについて」の響きあいの話であり、神谷美恵子さんのお話だったのですが、7割がたは、そこから導かれるように縦横無尽に広がるお話になり、内村鑑三、鈴木大拙、柳宗悦、果てはレヴィ=ストロースまで、連綿とつながっていく思想の系譜の水脈が浮かびあがるような内容でした。


「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。(中略)体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形で取り出すこと」(神谷美恵子「日記・書簡集」より)





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