枝分かれ 分化 一本の樹


学問が細分化していくように、名前をつけてカテゴリーに分けていくとだんだん枝分かれしてくる。でもラベルが分化しているだけで実質は一本の樹のままだ。
境界線はないし、横断的に物事は動く。
どんなに枝分かれしているものも、逆に遡っていけばシンプルになっていく。
根源はより数が少なくなっていって、最終的に一つしか残らないからだ。
厳密には数字さえ残らない。
それを巨人たちは「あるがまま」と呼び、指差すようにして亡くなった。


フィオラに世界の構造を説明してもらっている時、
「世界樹のような一本の樹」を、同時に「球体」として捉えることを教わった。
樹=球 なのだと。
遺伝子、DNAは葉脈の先に「進む力(進行方向)」のように具現化している。
世代を交代する度に葉脈は先に進むのだ。
根源は根で、幹が伸び、枝に入り、葉が連なる。
一枚の葉が自身を孤独だと思うなら、それは勘違いにすぎない。
葉が葉であるために支えてくださっている縁(円)のかたちは想像を絶するものだから。


細分化した難題に囲まれているのは現実だが、
その細分化は同時に「球」であり「円」であることも現実なのだ。
意味なくそこにあるものはない。
すべてつながっている。
ここにこれがある理由を、全員が支えている。
PNT (Position, Navigation and Timing) は一つの円(縁)であり、完全性の顕現だ。
逆に言えば、
わたしたち一人一人が


全員を支えようとするとき、ここにこれ(?)がある理由がはっきり生まれる。n100053



世界に蔓延する排外主義の波、絶えることのないテロや国際紛争、人間の欲望を駆り立て続けるグローバル経済……私たちは今、自分の意志だけでは動かしようのない「宿命」ともいうべき現実の中を生きています。そんな「宿命」に直面したとき、人はどう生きていけばよいのか? 今から200年近くも前、「宿命」に翻弄された人間たちの群像を描ききった一篇の作品が生み出されました。「ノートル=ダム・ド・パリ」。フランス最大の文豪とも称されるヴィクトル・ユゴー(1802- 1885)の傑作です。


物語の舞台は15世紀末。ノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロは、前庭で踊る異邦の女エスメラルダに魅了され、自分が育て上げた孤児の鐘番カジモドにさらわせて我が物にしようとします。しかし王室親衛隊長に救われ一目ぼれするエスメラルダ。嫉妬に狂ったクロードはエスメラルダに濡れ衣を着せ破滅させようとします。エスメラルダの優しさに触れていつしか愛を抱くようになったカジモドは彼女をなんとか救い出そうとしますが、物語は終盤、破局的な結末を迎えるのです。


人間が決して避けることができない「根源的な葛藤」にスポットを当て、「ノートル=ダム・ド・パリ」という作品から、人間は宿命とどう向き合い、生きていけばよいのかを読み解いていきます。


「ノートル=ダム・ド・パリ」の面白さの一因は、キャラクターたちの圧倒的な魅力にある。元祖ストーカー男、クロード・フロロ司教補佐。醜い容貌の内に無垢なる魂をもつ鐘つき男、カジモド。少女性と妖艶さを併せ持つ異邦の女、エスメラルダ。そして圧倒的な民衆エネルギーを放つ「奇跡御殿のひとたち」。いずれも現代の漫画やアニメに出てきてもおかしくないような、輪郭の際立った魅力にあふれている。ユゴーはいかにしてこのようなキャラクターたちを設計しえたのか?



教義によって恋愛を禁じられた司教補佐の許されざる愛。強固な中世の秩序とそこからどうしてもはみ出してしまう人間の欲望。嫉妬が生み出す愛と憎しみの混在。どんな時代でも人間が直面してしまう葛藤が物語を駆動しているおかげで、誰が読んでも、その葛藤の中に自分自身の姿や運命をみてしまうのだ。


一人の明敏な自我意識をもった作家が一字一句ゆるがせにせず、変更不可能な唯一の「作品」としてつくりあげるのが近代小説だとすると、『ノートル=ダム・ド・パリ』はむしろ、人から人へ、口から口からへと語り継がれる口承文芸、あるいは古代から中世へと続く民族叙事詩や神話の流れに棹(さお)さす小説であるということができるのです。


あらゆる電子的再生装置が普及した現代においても、歌手のライブというものが盛んなのはどうしてでしょう。それは人間の生の声というものが、他では置き換えできない、いわく言い難い感動を呼び覚ますからです。
ところで、歌手のライブにおいては、それが何語で歌われるかということがとても重要です。多言語を自在に操る歌手であっても、ほんとうに魂の入った歌は母国語でしか歌えません。なぜかといえば、その母国語の歌には遠い先祖から受け継がれてきた民族の言葉や音声的DNAのようなものが含まれているからです。言いかえると、優れた歌手の歌声には言葉や音声的DNAをリレーしてきた無数の人々の存在が潜在的に感じられるので、聞く者を感動させるのです。


詩についても同じことがいえます。詩だけは原詩で読むべきものなのです。
この「原詩でなければダメ」という傾向がとくに強いのがユゴーです。フランス人でない私たちがユゴーの詩を翻訳で読んでも「この詩のどこが凄いのだろう?」などと思ってしまいます。フランス語をかなり理解する日本人がフランス語で音読しても、事態はあまり変わりません。ところが、フランス人が母国語で音読されたユゴーの詩を聞くと、まるで迫力あるライブを聞くような感覚でユゴーの肉声が立ち上がってくるといいます。ユゴーの詩はフランス語を母国語とする人たちには、言葉と文字というプリミティヴな媒体による録音再生装置として機能しているようなのです。


この意味で、ユゴーという詩人は、古代・中世の吟遊詩人であると同時に魂の叫びを歌いあげる現代のロックンローラーに近いのかもしれません。シャウトする欧米のロックンローラーの歌は日本語吹き替えバージョンではダメで、やはり母国語のライブでなければいけないというのと同じことです。


ユゴーの小説もまたこの吟遊詩やロックンロールに近いものなのです。つまり、現代のように黙読が前提となる以前の、すなわち、本来なら音読されるべき作品なのです。そして、この音読性という点において、ユゴーの小説、とりわけ『ノートル=ダム・ド・パリ』は口承文芸である神話や叙事詩に近づきます。言いかえると、民族の音声的DNAのリレーが行われ、そこには無数の作者、歌手が潜在的に存在しているという意味で、神話的、叙事詩的であるといえるのです。ユゴーは一人であって一人ではないというのはこういう意味です。


『ノートル=ダム・ド・パリ』は一人の作者が一人の読者に向けて書き、読者に「これは私のことだ」と思わせるような近代的な作品とは異なります。むしろ、匿名の参加者がいくらでも変奏しリメイクすることが可能な集団的想像力の場であると言ったほうがいいのです。


ユゴーの小説は、このように神話や叙事詩に似た「開かれた構造」を持っている「神話的小説」だと言えるのではないでしょうか。その構造にはスキがあって、なおかつ壊れにくい強さがあるので、何度でも新しく命を吹き込むことができるのです。



パリを俯瞰するようなパノラマ映像から一気に一個人へズームインしていくような視点の切り替え、生命力が漲るようなモブ(群集)シーン、大聖堂や彫像、鐘すらもキャラクターの一つとして立ち上げていく強靭な想像力。現代でいえば映画でしかなしえないような描写をたたみかけていくユゴー。彼が「幻視者」とも称されるゆえんだ。圧倒的な想像力で、光と闇、崇高なものとグロテスクなものを対置して、ユゴーが描き出そうとしたものは何か? それはユゴー自身が激動の時代の中で直面せざるを得なかった人間の「宿命」ともいうべきものだった。


レヴィ=ストロースにならって、キャラクターを要素に分解することで浮き彫りになった「じゃんけん構造」からは、「元祖キャラ小説」という意外な側面が明らかになりました。クロード、カジモド、フェビュスらの愛の読み解きからは、「ストーカー」「オタク」「ホスト」という現代人の「愛のかたち」がくっきりと浮かび上がりました。


原典を読んでみることをお薦めします。今までにない形で「ノートル=ダム・ド・パリ」の世界が立体的に膨らんでくることでしょう。そして、もう一つお薦めなのは、「ノートル=ダム・ド・パリ」を携えて、舞台のパリを訪ねてみること。私自身も昨年「ノートル=ダム・ド・パリ」を片手に持ってパリを旅行してみました。意外にも、当時を彷彿とさせる建物や場所がそこここにあり、想像力をフル稼働させると、かつてのパリが脳内に立ち上がってきます。








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