なぜ一番目に「神」がくるか?


それはこの世もあの世もそれ以外の世も、すべてが神の「支配下」にあるからだ。
UFOだ、宇宙の高度意識存在だ、一切関係ない。
どんなものも神の支配下にある。


悪と神が戦ったらどうなるか?
戦いにすらならない。
だが、悪と人が戦ったらどのくらい大きな問題が起こるかは歴史に学んだほうがいい。
そしてこの二つを混同しないことだ。


もし神に挑もう(エベレストに挑戦しようというような意味で)というならば
歴史上に存在した人類のあらゆる美徳をすべてかき集めて
たった一個の宝石をつくり、
その宝石を胸に掻き抱くようにして人生を生き切ること。
そうすればエベレストの頂上が一番空に近いように、地球人類の相対的な視点では一番神の威光(栄光)に近づけるのだと思う。


円または球は神の世を象徴している。
どの時代、どの地域、どんな環境においても、
神の「円」が一部分でも欠けたことはなかった。
欠損しているように人の目には見えたことはあっても、その者の理解が浅かっただけで、欠損がないどころか、完全に完璧な美が背景にあった。
たとえるならホラー映画の、最も残酷なシーンも「神という完全性の円」が背景にある。
だがこのシーンをつくったのは神ではない。
神が人に与えた創造力を用いて、人が撮った(採った)シーンなのだ。
表面上は、人の悪意を満載した「最悪のシーン」だが、
このシーンを撮れていること自体が、裏に完全性の創造力が働いている証拠でもある。
その完全性は、人類の趣味の悪い創造力の使い方も当然理解している。


時代に関わらず神の円は完全であり、いまという暗黒の時代も同じだ。
神の円は欠けていない。
新地球への移転もどなたが計画された事態なのかと言えば、究極的には一人しかいない。
だから、最後の最後は問題ない。
金正恩もそういう意味ではしかるべき(ふさわしい)位置につくだろう。


悪にはこの計画の全体像を把握することもできないはずだ。
できることは反抗することだけ。
そして人の役割は
神の視点に立った神の信仰とともに歩むことなのだと思う。
もちろんそういう信仰のない歩き方もあるが、
つらい時代にどちらがふさわしかったのかは結果が語るだろう。n080047



遺伝子操作、iPS細胞による再生医療……生命科学の進歩はとどまるところを知りません。AIや脳科学の飛躍的な進歩は「人間の意識」の解明に新たな光を当てようとしています。しかし、そもそも「生命とは何か」「意識とは何か」というより根源的な問いの解明については、人類はまだその入り口に立ったばかりです。そんな現代的な問いを予見するように問うた小説が今から半世紀も前に書かれていました。スタニスワフ・レム「ソラリス」。


惑星ソラリスの探査に赴いた科学者クリス・ケルヴィンは、科学者たちが自殺や鬱病に追い込まれている事実に直面。何が起こっているのか調査に乗り出します。その過程で、死んだはずの人間が次々に出現する現象に遭遇し、自らの狂気を疑うクリス。やがて惑星ソラリスの海が一つの知的生命体であり、死者の実体化という現象は、海が人類の深層意識をさぐり、コミュニケーションをとろうする試みではないかという可能性に行き当たります。果たして「ソラリスの海」の目的は?


さまざまな意味を凝縮した「ソラリス」の物語を【科学や知の限界】【異文明との接触の可能性】【人間の深層に潜む欲望とは?】【人間存在の意味とは?】など多角的なテーマから読み解き、混迷する現代社会を問い直す普遍的なメッセージを引き出します。


人間とは全く異なる「未知なるもの」と遭遇したとき人間はどうなるのか? 「惑星ソラリス上で不可解な自己運動を繰り返す海は果たして知的生命体なのか?」 理解不能な事態に直面し、人類は「ソラリス学」という膨大な知の集積を続けてきた。そして、登場人物たちも、海がもたらす想像を絶する事態に巻き込まれ、あるいは現実逃避、あるいは自殺へと追い込まれていく。主人公クリス・ケルヴィンは、自らの狂気を疑うが、ぎりぎりの理性の中でそれが現実にほかならないことをつきとめる。


既に死亡した人物が、実体をともなって再び出現するという恐るべき状況。しかも、彼らは、忘れがたいが悲痛さのため心の奥にしまいこんだはずの記憶の中の人物だった。自分自身が自殺に追いやってしまったかつての恋人ハリーと遭遇するクリスは、その現実を受け入れられず、ロケットで大気圏外に射出することで葬り去ろうとする。しかし、ハリーは再び忽然と出現する。やがて過去の探検隊の記録から、彼らは、ソラリスの海が人間の潜在的な記憶を探り、不可解な力で実体化したものということがわかっていく。ソラリスの海は、いったい何のために、このようなことを行うのか?


『ソラリス』は数多いレムの著作の中でももっとも有名なもので、一九六一年にポーランドの首都ワルシャワで初版が出て以来、ポーランド国内でいまだに版を重ねているのはもちろん、世界四十カ国語以上に翻訳されています。また一九七二年には旧ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが、二〇〇二年にはアメリカのスティーヴン・ソダーバーグが、それぞれ映画化しています。
アンドレイ・タルコフスキー……一九三二~八六。ソ連時代のロシアの映画監督。詩的映像、独自の象徴的・宗教的作風で知られた。八四年亡命、フランスで死去。『僕の村は戦場だった』(六二)、『ノスタルジア』(八三)、『サクリファイス』(八六)など。
スティーヴン・ソダーバーグ……一九六三~。アメリカの映画監督。一九八九年、長篇デビュー作『セックスと嘘とビデオテープ』でカンヌ映画祭最高賞。『トラフィック』(二〇〇〇)でアカデミー監督賞。硬軟様々な作品で職人芸を発揮する。



『ソラリス』という小説は、一言で言えば、人間と人間以外の理性との〝接触〟の物語です。主人公の心理学者クリス・ケルヴィンは、その表面を覆う海が意思を持つとされる惑星ソラリスの謎を解くため、ソラリスの海の上空にある観測ステーションにやってきます。しかし、そのステーションでは異様なことが起きており、そこにいた研究員たちの言動は不穏で、やがてクリスの身にもソラリスの海がもたらす不可思議な現象が起きることになります。


『ソラリス』を読み始めて、私はすぐに理解しました。自分がいま手にしているものは、これまで読んできたSFのどれとも似ていない、何か根本的に違うものだということを。読み進めるうちに、これは特別に強い力をもって読者を引き込む作品であることがわかり、私は単におもしろいというよりは、むしろ、恐怖のような感覚を覚えました。まだ十代半ばの少年であった当時の私には、それを何と呼ぶべきかはまだわかりませんでしたが、いまならば、「形而上的(けいじじょうてき)恐怖」とでも呼んでみたいと思います。それは人間の認識能力の限界を試し、それを越えようとする状況から生ずる感覚です。『ソラリス』の登場人物たちは、読者とともに、「未知の他者」と向き合い、その前で自分の認識能力の限界を悟るとともに、他者に向かって自らを開いていき、違和感そのものに身をひたすのです。


レムは驚異的に博学な作家で、『ソラリス』のような本格SF長篇以外にも、自らが生きた同時代を扱った非SF小説、風刺と諧謔(かいぎゃく)の精神の生きたSF短篇、科学や文学に関する理論的著作、時事批評など非常に多彩な作品を生み出しています。


ソラリスの海が実体化したはずのハリーは、クリスとの交流の中で、より人間らしい自意識を育んでいく。クリスもそんなハリーを、元の恋人とは別の新たな人格として愛し始める。彼らの交流を見つめていると、「自己とは何か?」「他者とは何か?」という鋭い問いをつきつけられる。記憶をもとに造形されたハリーは単なるコピーではない。他者との関わりの中でオリジナルな自己を育んでいく存在なのだ。そして、クリス自身もそんな彼女に影響を受けていく。


ソラリスの海が引き起こす謎の現象は、自分たちに向けての何らかのコンタクトではないのか? クリスたちは、潜在意識ではなく、はっきりとした自己意識を記録しX線に載せてソラリスの海に照射する実験を行う。しかし、海からの応答はなく、不可解な自己運動を繰り返すだけだった。最後の最後まで人間の理解を絶したままの絶対的他者「ソラリスの海」が暗示するのは、それが私たちにとっての「世界」や「神」のメタファーではないかということだ。クリスたちの体験は何も特別なものではない。私たちも、時として「なぜ?」「どうして?」としかいいようのない不条理な出来事に遭遇するものなのだ。


世界は元来、もっともっと複雑で多様であるはずなのに、全てを「敵か味方か」という二色だけで色分けし、敵とみなしたものは徹底して排除するという思潮が世を覆っています。自戒も含めて思うのですが、テレビ、新聞、雑誌等々のメディアは本来、多様な人々の意見を尊重し、マイノリティも含めて多様な権利を擁護し、権力に対して厳しいチェックを行うことが創設されて以来の使命であるはずなのに、全てを一つの意見で塗りつぶし自分と意見を異にするものは全て敵とみなして徹底的に排撃し続けるといった風潮が横行しています。


しかし、人間の真の勇気とは、自分とは全く異なる他者に身をさらし、自分自身が変わっていくことも恐れず、違和感や異質性に向き合い続けることではないか?





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