道が二つに分岐するところで


その分かれ(別れ)の条件をなんだと見なすかが本人の責任だと思う。
誰かに言われた条件はあまり意味がなく、本人が条件を想像し、選択する。
道を歩く前に、道そのものを道として見ることができることがそれを歩くための前提条件になる。
二つの道のどちらかを選択し、歩き出した後は、
道=分岐時の条件そのものになるのだ。
分岐時の条件への深い理解そのものが、マイクのハウリングのようにフィードバックループとして延々と大きくなり続けるから。
だからこそ条件への深い理解は、本人が自分で想像し、選択したものにしか宿らない。
設計者に問いかけて、深く広い答えが返ってくるのは、
設計者が設計時に苦悩して刻み込んだ体験や他を切り捨ててでも掴みとった選択が血肉になっているからであって、実際に選択した本人でなければ道が道である意味をほんとうの意味では知りえない。知りえないからこそ、歩けない。
二つの道のどちらかを歩くためには、分岐条件を自分で想像し、覚悟をもって掴みとらなければならない。
道の先、になにがあったとしても、これは自分で選んだと一点の疑いも生まれないほどの覚悟だ。魂の今後を決めるほどの選択にはそれが要る。
歩かされている道ほど歩きたくない道はない。n030058



聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ「維摩経(ゆいまきょう)」。興福寺にある「維摩居士(ゆいまこじ)」の坐像は、今も多くの人たちに親しまれています。かの文豪・武者小路実篤も「維摩経を読んで偉大な知己に逢ったような気がした」と述べるなど、日本人に親しまれてきた経典です。しかし、現代人には、意外にその内容は知られていません。


「維摩経」が成立したのは西暦紀元前後の頃。インドでは部派仏教と呼ばれる教団が栄え、出家者を中心にした厳しい修行や哲学的な思索が中心になっていた時代でした。仏教が庶民の暮らしから少し遠い存在になる中、リベラルな在家仏教者たちが一大仏教変革ムーブメントを巻き起こしました。自分自身の救いよりも、広く人々を救済しようという「大乗仏教」の運動です。「維摩経」はこうした流れの中で生まれた経典なのです。


主人公は釈迦でも仏弟子でもありません。毘耶離(びやり)という都市に住む一市民、維摩居士です。この維摩がある時病気になりました。釈迦が弟子たちに見舞いに行くようにすすめますが、誰一人としてそれにこたえるものはいません。かつて維摩の鋭い舌鋒でことごとく論破された経験から、みんな腰がひけているのです。唯一人、見舞いに行くことを引き受けた文殊菩薩が維摩の元を訪れ、前代未聞の対論が始まります。その対論からは、「縁起」「空」「利他」といった大乗仏教ならではの概念が、単なる観念の遊戯ではなく、日々の暮らしの中の「実践」の問題として浮かびあがってきます。


「理想の生き方は、世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと」「すべては関係性によって成立しており、実体はない」「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ」。


排外主義が横行し分断されつつある社会、世界各地で頻発するテロ、拡大し続ける格差……なすすべもない苦悩に直面せざるを得ない現代、「維摩経」を現代的な視点から読み解きながら、「こだわりや執着を手放した真に自由な生き方」「矛盾を矛盾のまま引き受けるしなやかさ」「自分の都合に左右されない他者や社会との関わり方」などを学んでいきます。


出家者を中心に形骸化・硬直化が進んでいた紀元前後のインド仏教界。そこに風穴を開けようと、リベラルな在家仏教者が起こしたのが「大乗仏教」のムーブメントだ。「維摩経」の主人公・維摩居士は、それを体現するような人物。都市に住む一市民で、俗世間の汚れの中にありながらも決してその汚れにそまらない。そんな徳の高い維摩があるとき病気になる。その病気は、実は人々を導くための方便だというのだ。そこには、自分より他人を先とし、この世に苦しむ人が一人でもいる間はその汚れた世界にとどまり続け、自分だけが悟りの境地を目指さないという菩薩の生き方が象徴的に示されている。


その論点を一つ一つ紐解いていくと、大乗仏教に解かれた重要な教えの数々が明らかになる。浮かび上がってくるのは、「自己分析」と「他者観察」という大乗仏教ならではの二つの手立て。この二つをしっかりやりきり、点検を続けていけば、人は決して独りよがりな偏りには陥らないのだ。


十年ほど前に『維摩経』についての解説書を書かせていただく機会があり、全編の“超訳”に取り組んだことがあるのですが、訳しながらこのお経の面白さにどんどん引き込まれていきました。なぜなら、他の多くの経典は釈迦が教えを説き、それを弟子たちや菩薩たちが聴聞するスタイルで書かれているのに対して、『維摩経』は「維摩」という在家仏教信者のおじいさんが教えを説くというユニークなお経だからです。


『維摩経』は、面白いだけで仏教の本筋から外れた経典であるようにも思われそうですが、そうではありません。よくよく読み込んでいくと、維摩は決して間違ったことを言っているわけではなく、誰よりも仏教というものの本筋をきちんと理解したうえで、出家者たちをかきまわしているのがわかってきます。そのかきまわし方が、また巧妙です。いったん投げ飛ばしたと思ったら、いきなりもとの場所(仏教の基本)に引き戻したり、また遠くに再び投げ飛ばしたり……、一度構築されたものを解体し、また再構築していく作業を延々と繰り返しているとでもいったらいいのでしょうか。読者はいつのまにか維摩の術中にはまり、ぐるぐると行ったり来たりを繰り返しながら螺旋状の階段をのぼらされて、ふと気づくと仏教についての理解が深まっているという、なんともよく考えられた構成になっているのです。


唯一人、維摩のお見舞いを引き受けた、随一の智慧をもつ文殊菩薩。見舞い先の邸宅で、いよいよ維摩と文殊菩薩との本格的な対論が始まる。そこから浮かび上がるのは、「すべては関係性によって成立しており、実体はない」という空の思想。「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会や他者と関わっていけ」という縁起の思想。


維摩は、数多くの菩薩たちに向けてこういう。「菩薩はどのようにして『不二の法門』に入るのか?」。「不二の法門」とは、相反するものが即一になる世界のこと。菩薩たちはその答えとして、「善と悪」「悟りと迷い」「身体と精神」「自分と他者」「光と闇」といったあらゆる二項対立の概念を語りながら、その構造が解体された世界こそ不二の法門であると述べる。同じ質問を問い返された維摩はどう答えたか? なんと、黙ったまま一言も発しないのだ。


「あなたが毎日曜日に『街をきれいにしよう』と、ゴミ拾いのボランティアを始めたとしましょう。代償を求めて始めたわけでも、誰に褒められようとして始めたわけでもない。純粋に"自分が気持ちいいから”という思いから始めました。立派です。あなたは誰にも知られず、その活動を続けたとしましょう。(中略)でも、一歩間違えれば、あなたは無神経にゴミを捨てる人を許せない人間になってしまいます。そういう人を心から軽蔑し、ゴミを捨てている行為に対してはげしい怒りを感じるかもしれません。もしそうなれば、あなたは『街をきれいにする人』と『街を汚す人』との二項対立で組み立てられた人格になってしまうんですよ。ここがワナなんですね」
 (釈徹宗「なりきる すてる ととのえる」より)


最初は理想に燃えていた集団が、正義を純粋に追及してしまうあまり、世界を「敵か味方か」の二色だけに塗り分けて、敵を糾弾、殲滅しようとし始める。「原理主義」なんて自分たちには関係ないと思っていたら大間違い。SNSでのつぶやきをちょっとのぞいてみるだけでも、すべてを「愛国者か反日か」「右翼か左翼か」等の二色に塗り分けないと気がすまないといった発言のいかに多いことか。それだけではありません。趣味のサークルだって、ママ友の間だって、サラリーマン組織の中だって、程度の差はあってもこうした二項対立のワナにはまってしまっている例は、ちょっと見回すだけで、枚挙にいとまがありません。


現代社会では、「他者に迷惑をかけない限り何をやってもかまわない」という倫理を構築してきました。こうした自己決定社会では、人々は老いてくると、どうしても孤立しがちです。だからこそ、意識的にコミュニティへ首を突っ込んで暮らしていくよう心がける。これを釈さんは「縁起の実践」と呼びます。「あらゆる存在や現象は、関係性で成り立っている」という縁起の思想を、「関わる態度」として拡大解釈して、関係性のニューロンを常に延ばしていくことを釈さんは勧めるのです。


しかし、一度関わったコミュニティにしがみつくのもよくない。そうなると、人はたやすく原理主義のワナにはまってしまう。ここで、一度結んだ関係性をたやすく手放せる「こだわりのなさ」が大事になってきます。縁があればつながり、縁がなければ離れる。これが「空の実践」です。この両輪を回してくことが、高齢化社会、成熟社会にあって、「こだわりや執着を手放した真に自由な生き方」「自分の都合に左右されない他者や社会との関わり方」を実践する上で重要だなあということを、釈さんの解説を聞きながら、しみじみ思いました。


こうした理想的なあり方を、釈さんは、「お世話され上手」と呼びます。「お世話上手」はよく聞くけど、「お世話され上手」とはこれ、いかに? 逆説的なのですが、釈さんによれば、本当に自由で自立している状態というのは、「多様に依存している状態のこと」なのだそうです。生まれながらに四肢が不自由な知人の方が、かつてこんなことをおっしゃったそうです。「自分は生まれながらに四肢が不自由なので、他者に迷惑をかけねば生きていけない。だから、いかに上手に迷惑をかけるかが生きるすべなのだ」と。これは、程度の差はあれ、すべての人にいえることではないでしょうか? どんな人だって、弱いところや人に頼らざるを得ない部分ってもちあわせているわけですから。


釈さんが勧めるのは「コミュニティへの重所属」。単一のコミュニティへの所属だけだと、どうしてもそこにしがみついてしまったり、関係性が息苦しくなってしまいます。そこで、いろいろなところに顔を出す暮らしを心がけるのです。どこから外れても孤独にならない、縁があれば関わり、縁がなければ離れるという緩やかなつながりを保つ。そうしていくことで、都市にいながらにして、誰かにたよったり、たよられたりする心身を育て、「お世話され上手」を目指していく。


世を見回すと、正義を振りかざして他者を支配しようとしたり、ひとつの主義主張を何の疑いもなく信じ込んで少しでも異質な主張があれば徹底して排除する風潮がはびこったりと、どうもプチ原理主義のようなものがいたるところに根をはって息苦しい限りです。





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