フィオラは最初に会った時にこう言った。
1、神を信じてね。
2、素直にね。


そして数年たってからこう言った。


3、私を含めて誰も信じないでね。
(責任転嫁になりかねないという意味と、専門家の地平はそれほど信用に足るものではないという意味もあったのだと今では思っている)


1は前提だった。2は道を歩く姿勢について言っていた。
3は責任について注意していたのだと思う。
世の中がどう変わるかは二次的なもので、
自分自身はどうしたいのか、何にこだわりたいのかが先に来る。n300319


今から起ころうとする事の重大さ、1日100万人亡くなる事態ならたった1日で東日本大震災の混乱の50倍の規模であって、社会は一瞬で沸騰するだろう。日本も韓国も火の海に近い風景が出て、朝鮮半島から日本へ泳いで渡ろうとする人も多数出るかもしれない。人はつらいものを見たくないので無意識に相手の理性に期待してしまうものだが、餓えている集団に理性はないn



暴力ではなく精神の力でインドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンディー(1869~1948)。「インド独立の父」とも呼ばれ、彼が身をもって実践した「非暴力不服従主義」の思想は、今も多くの人に巨大な影響を与え続けています。とりわけヤラヴァーダー中央刑務所に収監中に、弟子たちに宛てて一週間ごと書き送られた「獄中からの手紙」には、ガンディーの思想の精髄が込められているといわれています。


ガンディーは、グジャラート地方で裕福な家庭に生まれ知的エリートとして育てられました。イギリス留学後、商社の弁護士として南アフリカに赴任した際、いわれなき人種差別にさらされ、社会活動の道を歩み始めます。約20年にわたって人種差別撤廃運動を行ったガンディーは、1915年にインドに帰国。これまでに経験を糧にインド独立運動を開始します。国産品を愛用する「スワデーシー」、塩税法への市民的不服従を示した「塩の行進」、「ハルタール」という名の仕事の一斉放棄など、イギリスへの非暴力不服従運動を次々に指導していきました。それらの運動によって全国民的なうねりが巻き起こり、ついに1947年、インドは独立を勝ち取ったのです。


彼の行動や思想がここまで多くの人々を突き動かしたのはなぜでしょうか? 政治学者の中島岳志さんは、ガンディーが「思弁的で難解な宗教思想を、誰にでもわかる、そして誰の心にも響くような行為によって実践したこと」にあるといいます。たとえば、「塩の行進」にみられる「炎天下を歩き続ける」という行為は、ヒンドゥー、ムスリム、仏教といった宗教の違いを超えて共有できる「宗教的行為」といえます。自分たちと同じような粗末な格好で炎天下を歩き続けるガンディーの行為は、同じような日常をすごす庶民たちの想像力を喚起し、文字すら読めないような人々の「内発的な力」を呼び起こしました。その結果、わずか数人で始まった「塩の行進」は数千人という巨大なうねりとなっていたのです。


「歩く」「食べない」「糸紡ぎ車を回す」といった日常的行為を通して、政治の中に宗教を取り戻そうとしたガンディー。彼の人生は「宗教的な対立や抑圧を起こすことなく、政治と宗教の有機的なつながりをつくるにはどうしたらよいか」「すべての生命の意味を問い、近代社会の問題や人間の欲望と対峙しながら、具体的な政治課題を解決していくことは果たして可能か」といった壮大な課題に取り組み続けた人生でした。


わずか数人の行進が数千人もの人々を巻き込むまでのうねりとなったのはなぜか。それは「政治の中に宗教を取り戻す」というガンディーの思想の根幹に関わっている。特定の宗教を政治の中に取り込むのではなく、あらゆる宗教が違いを超えて共有できる象徴的な行為を見出し、それを政治行為に転換したガンディーの思想は、私たちの既存の「宗教観」「政治観」を大きく揺るがす。


ブラフマチャリヤー(自己浄化)という思想で、徹底的な禁欲主義を貫いたとされるガンディー。しかし、ガンディーは生まれながらの聖者ではない。様々な欲望にまみれ、人の何十倍もの反省を繰り返しながら、ゆっくりゆっくりと自分の思想を練り上げていったのがガンディーという人間だった。いわば、誰よりも人間の「弱さ」「愚かさ」を知り抜いた人間だといっていい。自分には欲望があって、悟りなど開いていないという自覚があったからこそ、ガンディーは、自分自身の欲望と向き合う様々な「実験」を続けたのだ。


断食をして人々の心に訴えかけることで、ガンディーが食を断ってやせ細っていく姿をみんなが想像することによって、紛争がやんだ。こういう話は、私たちが今まで学んできた西洋発信の近代政治学の中には決して登場しません。
つまり、近代政治学の方法論とはまったく違うやり方で、ガンディーはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の根深い対立に──もちろん、根本的な解決には至らなかったにしても──実際に和解をもたらした。


近代に生きる私たちは、どうしても政治と宗教は別のもので、政教分離は当然のことだと考えがちですが、本当にそんなに厳密にいえるものなのでしょうか? 人間の根本には必ず宗教的な要素があり、そこから世界や自分を見つめ直すという観点がある。それなのに、「政治だけはそこから除外ですよ」と、そんなに単純に言ってしまっていいのでしょうか。
もちろん、特定の宗教が政治を操ったり、政府が特定の宗教を抑圧・弾圧するようなことはあってはなりません。しかし、それとは別次元のところで、政治と宗教が密着している構造というものの重要性について、改めて考えてみる必要があるのではないか。


ガンディーがすごいと思うのは、宗教的に高度な哲学者でありながら、それを自分の身体を使って、誰にでも分かりやすい行為や行動の形で示したことです。つまり、食べない、歩く、祈る、所有しないといった、私たちの日常に転がっている、そして今、次の瞬間からでもやってみることができる、そういう行為を通じて非常に壮大な哲学を展開しようとした。


ガンディーのシンボルのようになっている「非暴力」も難しい問題です。ガンディーは単に「暴力がない状態」をよしとしたわけではない。場合によっては暴力を選択する場合もあると明言しています。その真意を私たちはよく知っておかなくてはならないし、この考え方は二十一世紀の現代にこそ輝きを放つ、非常に重要なものだと私は思っています。


「スワデーシー」も、現代に大きなメッセージを投げかけています。「自国産品愛用運動」といわれるものですが、実際にはもっと深い意味を含んでいる。糸紡ぎなどの手作業や、今でいう地産地消を重視し、顔と顔が見える小さなコミュニティを大事にしようというガンディーの主張は、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)に象徴されるような、グローバル資本主義といった言葉が飛び交う現代への、重要なメッセージを含んでいるのではないでしょうか。


ガンディーにとって重要なテーマは「赦し」だった。憎悪の反復は、最終的には何も生み出さない。怒りを超えた「赦し」によってこそ、次の平和に向かって進むことができるというのだ。このようにガンディーの「非暴力」思想は、単に暴力を否定するだけのものではない。「怒りや敵意を超えろ」というメッセージが込められている。攻撃的な言葉で敵を攻撃し、声を荒げることも暴力にほからなない。ガンディーは敵対する人々に対しても、「祈り」「断食」といった自己変革を伴う運動によって、相手の心を動かし、高次の対話につなげていこうとするのだ。


彼は暴力に訴えれば訴えるほど、ますます真理から遠ざかってゆくのです。なぜなら、外なる仮想の敵と戦っているときは、内なる敵を忘却していたからです。
 ガンディー「獄中からの手紙」(森本達雄訳)より


ある日、ガンディーのもとに一人の男が血相を変えてやってきます。彼は、ガンディーに向かって言います。「自分はムスリムだが、自分の大切な息子をヒンドゥー教徒に殺された。それでもあなたはヒンドゥー教徒を赦せと言うのか」と。
ガンディーは「そうだ」と言い、次のように言いました。「あなたはこれから、孤児になった子どもを自分の息子として育てなさい。その子どもはムスリムによって殺されたヒンドゥー教徒の子どもでなければなりません。そして、その子をヒンドゥー教徒として育てるのです。その子どもが立派に成長したとき、あなたに真の赦しがやってくるでしょう。
 中島岳志・若松英輔著「現代の超克」より


「赦せない」という思いは欲望であり、怒りに絡め取られた人間の暴力である、とガンディーは考えました。中島岳志さんは、その言葉の真意を「敵だと思って闘っている相手のもつ構造や問題は、実は自分自身の中にもある。相手をただ非難するのではなくて、その『自分』というものを突き刺さない限り、次には進めない。外側の敵を打ち負かしたところで、自分の中に暴力がある限りは、何も解決できない」と解説します。


今後の社会を大きく左右するような意思決定が、十分な議論や対話を重ねることなく、「強制力」や「権力」、「数の論理」で押し通されてしまうような事態が、世界各地で生じています。ガンディーの思想に学びながら、「内なる敵」を見失うことなく、立場を異にする人たちの心にもきちんと届いていく言葉を紡いでいかなければならない、と痛切に感じています。


「手作業をする」「速度をゆるめる」「祈る」……ガンディーの思想では、近代が追い求めてきた価値と正反対のものが称揚される。安価な海外製品を買うよりも、手作業で作った自国産品を作り使おうという「スワデーシー」はその代表例だ。それは「隣人に対する義務」「もともと流れていた豊かな時間」を取り戻す宗教的な行為でもあるというガンディー。機械文明の対極にある手作業、支配の対極にある非暴力、人工性の対極にある身体的な自然……ガンディーの思想には、西洋近代の歪みを是正する東洋的な叡知が確かに存在している。そして、「受動的抵抗」とも呼ばれたその運動の数々は、暴力を伴う前のめりな運動よりも、はるかに大きなうねりを巻き起こしたのだ。


「優れた文章だけに起こる不思議なことがある。文章が自ら動き出す。それは突然起こる。何度も目を通した文章なのに、不意に未知のものが見えてくる。汲めども尽きぬ言葉の織物。そのような文章はすでに訳したことがあっても、汲み尽くせない。おそらくそれこそが最高の価値を持った文章である証拠。それを読み取らねば」
 (ヴァディム・イェンドレイコ監督「ドストエフスキーと愛に生きる」より)
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