そうにゃ、われには下界コンサルタントの資格があるにゃ





フィオラは最初に会った時にこう言った。
1、神を信じてね。
2、素直にね。


そして数年たってからこう言った。


3、私を含めて誰も信じないでね。
(責任転嫁になりかねないという意味と、専門家の地平はそれほど信用に足るものではないという意味もあったのだと今では思っている)


1は前提だった。2は道を歩く姿勢について言っていた。
3は責任について注意していたのだと思う。
世の中がどう変わるかは二次的なもので、
自分自身はどうしたいのか、何にこだわりたいのかが先に来る。n300319









何故に【米】一字型教は終わらなければならないのか?。新地球で【みろくの世が開門】
2019.12.30 Monday - 00:06 - by ○○公園


私は朝鮮に残されていた最後の審判前に【救世】の為に【米一字】の教えが起きる。その米一字の教えが終わった後、その米一字の教えに従った者達の上には天の神罰は降りないが、そうでなかった者達の上には天からの神罰が開始される。が、その天の神罰の最中に現れる【白十字】によって、天罰を受けている人達も罰が取れると救われるとあった内容に、これはどういう意味だろうと考えてはいました。だが、これまで意味がまるで解りませんでした。


当時は【米】字から【×(罰)】を取ると残るは【十】字程度の解釈


私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から魂の【輪廻転生】に関しては教えられていました。人は死んでは生まれ変わるです。そして魂を腐らせたりねじ曲げてはいけない等です。が、そうした事柄以外はさほど重要な教えは受けていません。ほとんどが【格言】とか【諺】の類いです。全てこの世から学べです。


私が子供の頃に旧約聖書の神と称する声から受けたことは、そなたは社会の底辺で【人の心の在り方】を学びなさいです。人の心の在り方に関して社会の底辺の人達から学ぶであって、【宗教書】を学びなさいではないのです。旧約聖書の神と称する声は、【世界の宗教書に私の教えなど載ってはいない】とまでて告げられたのです。自分の書である旧約聖書ですら、学ぶ必要が無いとまで告げられたほどなのです。為に、そなたを社会の底辺の環境下に置くです。それで私も人としての下座行を積んで来たなのです。


私は社会の底辺で何を学んだのか?


それは人々に内在している【良心】でした


社会の上層部に居る人にはあまり【良心】見られないが、社会の底辺の人達には【良心】を持つ人が多く見られる。


私が米の教えとして説いている内容は、結果的にはお釈迦様の悟りであった【人には良心と呼ばれる神が内在する】であり、大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊】で【ラ】の言霊を紐解いたのですが、私の良心神の基本は、社会の底辺で【人の心の在り方】から学んだ結果です。その為には社会の底辺を歩く必要がありました。良心神など学問では誰も教えてくれません。良心という言葉は世に存在しても、学問的なことはほとんどなかったのです。スピリチュアル等は良心の【呵責】は重いから捨てましょうで、真正面から取り組む姿勢すら持たないなのです。


大本教の出口王仁三郎聖師は、世の立替に関して【牛の糞が天下を取るようなことだ】と述べておられますが、自分は神霊界で何々神だったではなく、【牛の糞】です。だが、広辞苑の様な大辞書にも「牛の糞」の意味が載っていません。それで意味を知る方は少ないでしょう。


牛の糞とは、人を意味した意味なのです。


①つまらない者(凡人)


②表面は剛直だが、内側は柔らかい人


一番解りやすいのは、【どこの馬の骨やら牛の糞】の諺です。この世で何の身分も無い者に対して、外から発する言葉です。言うならば【社会の底辺の者】を指した言葉です。


私が神霊世界に修業に入った頃、ある不動明王と一体化している方が、私に対して【どこの馬の骨とも解らない者が奉納した酒など不味くて飲めるか!】と毒づいた時、私がお世話になっていた豊受姫が、この方(私)がどなたか解っているのかと立腹されて、その不動明王を金縛りにする事件がありました。


私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【そなたは自分が本当は誰かを知らないし。神達にも解らないようにしてある。】と告げられていましたので、別に私に対して不動明王が何を言おうとも気になどしていませんでしたが、豊受姫が立腹されたなのです。如何なる身分の筋か解らないような者が馬の骨で、牛の糞は取るに足りない見向きもされない者です。


社会の底辺に身を置くほど、魂のことは見えて来る


私は子供の頃には旧約聖書の神と称する声が臨んでいたこともあり、昭和五十五年に私の身の上に起きた摩訶不思議な出来事から覚悟を決めて神霊界修業に入ったしだいです。


私が伏見稲荷山に初めて上がった時、豊受姫はそのお代であった最初の師匠を通じて、【貴方は言葉の神と呼ばれる貴き御方で、貴方の言葉による教えは天帝の【詔(みことのり)】と同じであり、貴方の言葉の教えに従えない神達は天帝に対する反逆罪として、如何なる神であろうとも天帝から処罰される。】と告げられたのです。


その【言葉の教え】が大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】で、【米】一字の型の教えだったわけです。豊受姫は私の言葉による教えに従わなかった者達の上には如何なる神で有ろうと天帝に対する反逆者として、天帝が処罰されると告げられたなのです。だが、その処罰の中味は何を指しているのかが解りませんでした。


【米】一字で知る【三六九(みろく)】とは、天帝の【詔】


豊受姫の神示に従えば、朝鮮に残されていた【米】一字の教えに従わなかった神達は天帝に対する反逆罪者として処罰されるという意味ともなります。しかし、その天帝はどこに居るかとなります。それは記紀神話で語られる【天之御中主】と呼ばれる神のことでもありません。


私を見た霊能者の7~8名の方は、貴方の本守護神は国常立尊様だと指摘されましたが、一部の霊能者の方は貴方の背後には国常立尊様も天之御中主様も見えるとも指摘もされて来ました。別の一部の方は貴方の背後には【宇宙最高神龍神】すら存在して来るとも言われます。


私自身が神霊世界を歩いていますと、天帝?。それは何じゃ?。という御神霊達があまりにも多いことからして、天帝の存在は神々にも解らないという現実があります。それは私も別に天帝を知るほどの者ではありません。私には子供の頃は旧約聖書の神と称する声は臨んでいましたが、別にその姿すら見たでもありません。私が霊的に見たのは【閻魔大王】と呼ばれている存在だけです。


私はこの西暦2019年末。厳密に言えば2020年の節分迄なのでしょうが、人の目にも世に出ておられる神々にも見えない霊線で人類は線別(選別)されたと見ています。その選別そのものは2019年からでなく、数年前から既に起きていると説いておられる霊能力者ブロガーの方もありました。その線引きが終わったというだけの話にしか過ぎません。


この2020年から霊的には線別(選別)されることに何か特別の意味があるのだろうか?。そこに私の疑問も生じたのですが、この2020年から霊的世界であることが起きるなのです。


人類の上に天罰が降りるとしても、その救済の【白十字】が現れるのはまだまだ先となります。それは私自身、豊受姫から【貴方は立替の嵐の中を突破する】と告げられましたので、私も天からの神罰が降りている最中は何等かの災害の罰は受けると覚悟しています。


問題は、最後の審判の日迄にこの世を去られた方の魂はどうなるかがありました。これまでの霊界にその日まで留め置くかです。ここは私も思考が抜けておりました。これまでの霊界にその日まで留めて置くのではなくて、そうした魂はこの世を去ると直に【みろく世】に渡るなのです。


みろく世に入る開門が西暦2020年から始まる


2019年末迄に霊的な線引きを終えておく必要は、2020年から【みろく世(新・神の御国)】に渡る資格を得た魂が入る為だったと言えます。


私は子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声からは、【そなたが教えを間違えれば、それはそなたの責任に非ず。この私の仕組が悪かったのである。】と告げられましたが、旧約聖書の神と称する声が告げられた仕組の解説を間違えないように努力はしています。しかし、私の様な者にどこまで解るかのだろうとは常に思っています。


私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、【私は人類を新しい地球に移す。】と聞かされて来ました。その新地球とはこれまでの地球と同じ型で瓜二つなのですが、存在する次元が違う為に天文学や科学では見えませんし解りません。


その新地球の存在を知る霊能者達は【七次元界】にあった予備地球だと言われます。この地球が危なくなった時、その地球に住む人類を助ける為です。為に天帝が隠されていたと言います。その時には五次元界迄その高次元界の地球を降下させるです。だがそれは霊的な存在で【宇宙船】と言われる方達もあります。 三次元物質界に依存しないということです。


その新地球の存在に関してはヨハネの黙示録には既に予告されていますが、この日本でも人類は新地球に移行すると語っておられる方は少なからずおられます。ただ、それを世に発信している方は非常に少ないなのです。あまりにも途方もないことであり。皆さん、宣伝しても宣伝してもやって来ないみろくの世に、さすがに諦めの気持ちが入ったと言えます。しかし、霊的に新地球の存在を見たと言う方達はそれなりに居られるのです。


そうした新地球の存在を知る方の中で、十数年前の話になりますが、国常立尊様は新地球の建設に当たって、新地球(みろく世)に行くことが早くから決定している魂を分割して、魂の片方を新地球の建設に当たらせて、魂の片方を肉体に留めて神界の御用をさせておられるとの話がありました。


もしも下準備がないまま、行きなり新地球(みろくの世)に人類が行かされると、何の受け入れ準備も無いということになるからです。ただ、分割された魂であっても、新地球で受け入れ活動している魂とこの地球に留まっている魂との間では、交流が遮断されているがあったのです。みろく世に渡っている自分の魂の半分から、その様子が聞けないなのです。


だが、西暦2020から新地球のみろくの世が開門となりますと、既に分割されてみろく世に行っていた自分の魂から、その世界の様子が自分にも入って来るともなります。その新地球に早くから行っている魂の持ち主は、最低でも五次元界以上に行ってはおられるのです。


ただ、みろくの世は次元界だけでは言えないのです。それは今の霊界は六次元界まで邪神達が闊歩していることは知られています。黒龍神界の大物達が六次元界には多いからです。六次元界に居るからと言って、それらの邪神は新地球には移行させないがあります。


そこを巡って正神邪神の神界最終戦争が勃発します


その神界最終戦争の関係上、天帝自らがこの地球に降臨するが起きます。そうしないと善悪が決着しないからです。個々の魂を浄化させる【魂浄化の為の大祓いたる天罰】と【神界最終戦争】が複雑に絡み合って来るので、【みろくの世】とはスピリチュアルの様に【何の心配をしなくてもいいのです。この地球が自然に五次元界に自動上昇するだけです。】と単純なことを言ってはおられないのです。


そうしたことが解っている反国常立尊派の神々は、この地球上に【地底王国】の建設に走っている。そこまで見通しておくが必要があると言えます。


私の【米】一字の教えは、新地球(みろくの世)で開門が始まる迄であったようです。米の教え(天帝の詔)を無視した方達は、【魂浄化の大祓いたる身殺ぎ(禊ぎ)の天罰】を受けた後、悔い改めをすると神の御国(みろくの世)に渡ることになります。


その世界は【分かちの国】となりますので、どうしても自己本位。自分勝手。礼儀知らずだと天国住民の中には入れないことになります。スピリチュアルの様に【神は愛だから何をしても赦される】で自分勝手なことをしていれば、他の天国住民とは合わないとなります。そうしたことは理論的に【思考】すれば誰でも気づけるはずなのですが、なまじ霊が見えたり会話が出来ると、そこに高い神名や天使を名乗るニセ霊の正体が見破れないとなるのです。


米教そのものは使命を果たしましたが、豊受姫からは【貴方は立替の嵐の中を突破する】と告げられていることもあり、米の教えを信じた方達の為に私も最後の審判(みろく世の次元界決定)の時まで発信して行きます。何故ならば五次元よりも六次元。六次元よりも七次元。さらにそれを超えて、皆さんの魂が本守護神の段階(八次元界以上の神界とされています)に辿り着く為には不定期になるかも知れませんが、永遠に嬉し嬉しの世に渡る迄お付き合いのほどを宜しくお願いします。


私は何の為にこんなことをしているのか?。別に地位や名誉を欲しいからではありません。


私の魂の本親の【本守護神】の元に帰りたいからです


私がしていることは皆さんの為にではありません。自分は他の方より高い魂だと威張りたいではありません。ただ、自分の魂の親元に帰りたいという子供心からです。父の胸に帰りたい。この世の地位や名誉など何も要らないのです。地位や名誉等に縛られていたら魂に重い荷物を背負うだけです。私と一緒に皆さんの魂の本親の為にも神の御国に帰りましょうと言っているだけです。



木花咲耶姫様の御神示より
2019年12月28日
人類の危うさ、事の重大さ
人は神の創られたる自然の一部ならん。
自然はすべて人間を助ける存在なり。
自然の中で生かされるを忘れ、自ら自然を破壊するは、自分で自分の首を締めるようなもの。
己の都合、利益のため、自然を作り変えたり、自然の循環や運行を乱し生態系破壊するは人間以外のなにものにもあらず。
なれど便利さになれてしまった人間は、今やもとに戻るはできぬものなり。
便利なるは悪しきことにあらず。なれど何事も程々なるが望まるる。
分不相応なる文明は必ずやいつか滅びゆく。
神がはじめに与えたる多くの恵みも、現代にては、品質改良、あるいは人工設備にてつくられんとす。
さなる食物はいかに作られるも、神の与えられたる元の食物とは似て非なるものなり。
栄養も少なかれば、現代人は栄養不足、医食同源の言葉は遠きものとなりにけり。
神の与えし四季おりおりの食べ物には、人のはかりしれぬ効果も、栄養もあるものなり。
自然を蔑ろにした生活、今の人類の危うさ、今から起ころうとする事の重大さに、はやく気づくべけれ。
このままならば、辛き選択早めねばならぬ。神の苦しさを推し測るべけれ。


(今から起ころうとする事の重大さ、1日100万人亡くなる事態ならたった1日で東日本大震災の混乱の50倍の規模であって、社会は一瞬で沸騰するだろう。日本も韓国も火の海に近い風景が出て、朝鮮半島から日本へ泳いで渡ろうとする人も多数出るかもしれない。人はつらいものを見たくないので無意識に相手の理性に期待してしまうものだが、餓えている集団に理性はないn)



暴力ではなく精神の力でインドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンディー(1869~1948)。「インド独立の父」とも呼ばれ、彼が身をもって実践した「非暴力不服従主義」の思想は、今も多くの人に巨大な影響を与え続けています。とりわけヤラヴァーダー中央刑務所に収監中に、弟子たちに宛てて一週間ごと書き送られた「獄中からの手紙」には、ガンディーの思想の精髄が込められているといわれています。


ガンディーは、グジャラート地方で裕福な家庭に生まれ知的エリートとして育てられました。イギリス留学後、商社の弁護士として南アフリカに赴任した際、いわれなき人種差別にさらされ、社会活動の道を歩み始めます。約20年にわたって人種差別撤廃運動を行ったガンディーは、1915年にインドに帰国。これまでに経験を糧にインド独立運動を開始します。国産品を愛用する「スワデーシー」、塩税法への市民的不服従を示した「塩の行進」、「ハルタール」という名の仕事の一斉放棄など、イギリスへの非暴力不服従運動を次々に指導していきました。それらの運動によって全国民的なうねりが巻き起こり、ついに1947年、インドは独立を勝ち取ったのです。


彼の行動や思想がここまで多くの人々を突き動かしたのはなぜでしょうか? 政治学者の中島岳志さんは、ガンディーが「思弁的で難解な宗教思想を、誰にでもわかる、そして誰の心にも響くような行為によって実践したこと」にあるといいます。たとえば、「塩の行進」にみられる「炎天下を歩き続ける」という行為は、ヒンドゥー、ムスリム、仏教といった宗教の違いを超えて共有できる「宗教的行為」といえます。自分たちと同じような粗末な格好で炎天下を歩き続けるガンディーの行為は、同じような日常をすごす庶民たちの想像力を喚起し、文字すら読めないような人々の「内発的な力」を呼び起こしました。その結果、わずか数人で始まった「塩の行進」は数千人という巨大なうねりとなっていたのです。


「歩く」「食べない」「糸紡ぎ車を回す」といった日常的行為を通して、政治の中に宗教を取り戻そうとしたガンディー。彼の人生は「宗教的な対立や抑圧を起こすことなく、政治と宗教の有機的なつながりをつくるにはどうしたらよいか」「すべての生命の意味を問い、近代社会の問題や人間の欲望と対峙しながら、具体的な政治課題を解決していくことは果たして可能か」といった壮大な課題に取り組み続けた人生でした。


わずか数人の行進が数千人もの人々を巻き込むまでのうねりとなったのはなぜか。それは「政治の中に宗教を取り戻す」というガンディーの思想の根幹に関わっている。特定の宗教を政治の中に取り込むのではなく、あらゆる宗教が違いを超えて共有できる象徴的な行為を見出し、それを政治行為に転換したガンディーの思想は、私たちの既存の「宗教観」「政治観」を大きく揺るがす。


ブラフマチャリヤー(自己浄化)という思想で、徹底的な禁欲主義を貫いたとされるガンディー。しかし、ガンディーは生まれながらの聖者ではない。様々な欲望にまみれ、人の何十倍もの反省を繰り返しながら、ゆっくりゆっくりと自分の思想を練り上げていったのがガンディーという人間だった。いわば、誰よりも人間の「弱さ」「愚かさ」を知り抜いた人間だといっていい。自分には欲望があって、悟りなど開いていないという自覚があったからこそ、ガンディーは、自分自身の欲望と向き合う様々な「実験」を続けたのだ。


断食をして人々の心に訴えかけることで、ガンディーが食を断ってやせ細っていく姿をみんなが想像することによって、紛争がやんだ。こういう話は、私たちが今まで学んできた西洋発信の近代政治学の中には決して登場しません。
つまり、近代政治学の方法論とはまったく違うやり方で、ガンディーはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の根深い対立に──もちろん、根本的な解決には至らなかったにしても──実際に和解をもたらした。


近代に生きる私たちは、どうしても政治と宗教は別のもので、政教分離は当然のことだと考えがちですが、本当にそんなに厳密にいえるものなのでしょうか? 人間の根本には必ず宗教的な要素があり、そこから世界や自分を見つめ直すという観点がある。それなのに、「政治だけはそこから除外ですよ」と、そんなに単純に言ってしまっていいのでしょうか。
もちろん、特定の宗教が政治を操ったり、政府が特定の宗教を抑圧・弾圧するようなことはあってはなりません。しかし、それとは別次元のところで、政治と宗教が密着している構造というものの重要性について、改めて考えてみる必要があるのではないか。


ガンディーがすごいと思うのは、宗教的に高度な哲学者でありながら、それを自分の身体を使って、誰にでも分かりやすい行為や行動の形で示したことです。つまり、食べない、歩く、祈る、所有しないといった、私たちの日常に転がっている、そして今、次の瞬間からでもやってみることができる、そういう行為を通じて非常に壮大な哲学を展開しようとした。


ガンディーのシンボルのようになっている「非暴力」も難しい問題です。ガンディーは単に「暴力がない状態」をよしとしたわけではない。場合によっては暴力を選択する場合もあると明言しています。その真意を私たちはよく知っておかなくてはならないし、この考え方は二十一世紀の現代にこそ輝きを放つ、非常に重要なものだと私は思っています。


「スワデーシー」も、現代に大きなメッセージを投げかけています。「自国産品愛用運動」といわれるものですが、実際にはもっと深い意味を含んでいる。糸紡ぎなどの手作業や、今でいう地産地消を重視し、顔と顔が見える小さなコミュニティを大事にしようというガンディーの主張は、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)に象徴されるような、グローバル資本主義といった言葉が飛び交う現代への、重要なメッセージを含んでいるのではないでしょうか。


ガンディーにとって重要なテーマは「赦し」だった。憎悪の反復は、最終的には何も生み出さない。怒りを超えた「赦し」によってこそ、次の平和に向かって進むことができるというのだ。このようにガンディーの「非暴力」思想は、単に暴力を否定するだけのものではない。「怒りや敵意を超えろ」というメッセージが込められている。攻撃的な言葉で敵を攻撃し、声を荒げることも暴力にほからなない。ガンディーは敵対する人々に対しても、「祈り」「断食」といった自己変革を伴う運動によって、相手の心を動かし、高次の対話につなげていこうとするのだ。


彼は暴力に訴えれば訴えるほど、ますます真理から遠ざかってゆくのです。なぜなら、外なる仮想の敵と戦っているときは、内なる敵を忘却していたからです。
 ガンディー「獄中からの手紙」(森本達雄訳)より


ある日、ガンディーのもとに一人の男が血相を変えてやってきます。彼は、ガンディーに向かって言います。「自分はムスリムだが、自分の大切な息子をヒンドゥー教徒に殺された。それでもあなたはヒンドゥー教徒を赦せと言うのか」と。
ガンディーは「そうだ」と言い、次のように言いました。「あなたはこれから、孤児になった子どもを自分の息子として育てなさい。その子どもはムスリムによって殺されたヒンドゥー教徒の子どもでなければなりません。そして、その子をヒンドゥー教徒として育てるのです。その子どもが立派に成長したとき、あなたに真の赦しがやってくるでしょう。
 中島岳志・若松英輔著「現代の超克」より


「赦せない」という思いは欲望であり、怒りに絡め取られた人間の暴力である、とガンディーは考えました。中島岳志さんは、その言葉の真意を「敵だと思って闘っている相手のもつ構造や問題は、実は自分自身の中にもある。相手をただ非難するのではなくて、その『自分』というものを突き刺さない限り、次には進めない。外側の敵を打ち負かしたところで、自分の中に暴力がある限りは、何も解決できない」と解説します。


今後の社会を大きく左右するような意思決定が、十分な議論や対話を重ねることなく、「強制力」や「権力」、「数の論理」で押し通されてしまうような事態が、世界各地で生じています。ガンディーの思想に学びながら、「内なる敵」を見失うことなく、立場を異にする人たちの心にもきちんと届いていく言葉を紡いでいかなければならない、と痛切に感じています。


「手作業をする」「速度をゆるめる」「祈る」……ガンディーの思想では、近代が追い求めてきた価値と正反対のものが称揚される。安価な海外製品を買うよりも、手作業で作った自国産品を作り使おうという「スワデーシー」はその代表例だ。それは「隣人に対する義務」「もともと流れていた豊かな時間」を取り戻す宗教的な行為でもあるというガンディー。機械文明の対極にある手作業、支配の対極にある非暴力、人工性の対極にある身体的な自然……ガンディーの思想には、西洋近代の歪みを是正する東洋的な叡知が確かに存在している。そして、「受動的抵抗」とも呼ばれたその運動の数々は、暴力を伴う前のめりな運動よりも、はるかに大きなうねりを巻き起こしたのだ。


「優れた文章だけに起こる不思議なことがある。文章が自ら動き出す。それは突然起こる。何度も目を通した文章なのに、不意に未知のものが見えてくる。汲めども尽きぬ言葉の織物。そのような文章はすでに訳したことがあっても、汲み尽くせない。おそらくそれこそが最高の価値を持った文章である証拠。それを読み取らねば」
 (ヴァディム・イェンドレイコ監督「ドストエフスキーと愛に生きる」より)





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