武力とは相手のホコを止める実力があり、その抑止体制が整っていること。もしも「止まっていないなら」そのプロセス全体が誤っている。


免震構造のようにある程度の”揺れ”は許容するとしても、いまの北朝鮮というより金正恩は、止まっていない。国内の圧倒的人災の中心で、被害者の拡大を続け、利己的で、中国の陰に隠れて生き延びようとしているだけだ。
ただの犯罪者ではない。核をもった犯罪者・究極の自爆犯と向き合うということの意味を、いま日本を含め周辺国は味わっている。


止まっていない以上、このままではすまない。
1日で100万人犠牲になる日が7日続けば、まさに地獄が出現してしまうかもしれない。


異邦人を聴きながら、この曲は結局どこから来たのだろうと思う。
こういった名曲の源に、対地獄の采配を訊きたくなる。n250053



巨大な歴史の流れの中では、戦争を回避し、恒久平和を実現することは不可能なのかという絶望感も漂っていました。そんな中、「国家」の在り方や「政治と道徳」の在り方に新たな光をあて、人々がさらされている戦争の脅威に立ち向かったのがカントの「永遠平和のために」です。そこには、「常備軍の廃止」「諸国家の民主化」「平和のための連合創設」など、恒久平和を実現するためのシステム構築やアイデアが数多く盛り込まれており、単なる理想論を超えたカントの深い洞察がうかがわれます。それは、時代を超えた卓見であり、後に「国際連盟」や「国際連合」の理念を策定する際にも、大いに参考にされたといわれています。


カントの平和論には、「戦争と経済の関係」「難民問題との向き合い方」「人間の本性に根ざした法や制度のあり方」等、現代人が直面せざるを得ない問題を考える上で、重要なヒントが数多くちりばめられているというのです。


「常備軍の廃止」「軍事国債の禁止」「内政干渉の禁止」といったアイデアを提言した平和論だが、それは単なる理想論ではないかと批判されてきた。


恒久平和を維持するシステムとして「諸国家による平和のための連合」を構想したカント。それは、戦争のない理想状態とされてきた「世界統一国家」を断念する消極的ともいえる提案だ。なぜ「世界統一国家」という積極的な提案ではだめなのか? そこには、人間や国家についてのカントの鋭い洞察があった。世界統一国家への統合は、異なる文化、価値観、言語という個別の事情を超えて、特定の強者の文化や価値観が一方的に物事を決定するという大きな抑圧を生みかねない危険性が必然的に生じるのだ。


『永遠平和のために』の原著が出版されたのは一七九五年。そう聞くと「二百年以上も前の古くさい哲学書に今さら読む価値があるの?」と感じられるかもしれません。しかし、この本が書かれたのはヨーロッパが近代社会の幕開けを迎え、民主主義国家の原型がつくられた時代です。


読み方によっては「戦争と経済の関係」「難民問題との向き合い方」「憎悪の連鎖をどう断ち切るか」といった、現代社会が直面している問題を考えるうえでのヒントもみつかります。


ひとことで言えばカントは「人間の理性の可能性」(われわれは何を知りうるか、理性のもとで何をすべきか)というものを考え続けた哲学者ですが、この本を読んでいくと、彼の考えた「理性」、とりわけ「実践理性」というものがどんなものなのかがおのずとわかってきます。つまり、カント哲学の入門書としても読むことができるのです。


カントは、平和論を構築する上で「人間の本性は邪悪である」という前提に立つ。理想主義者ととらえられてきたカントのイメージを覆す論だが、さらに衝撃的なのは「人間の本性が邪悪だからこそ、自然の摂理は永遠平和を保証する」という論を展開することだ。これは一体どういうことか? 自然状態では他者と衝突して自分の権利や利益が侵害されかねないため、人間はルールを作ってそれを他者に守らせたいと考える。このとき自分だけはそのルールに縛られたくないと考えるが、最終的には、自分の自由や権利が一部制限されたとしても、全員が同じルールに従う方が「結果的に自分の利益が最大化する」という結論に至るというのだ。もともと人間に備わったこうした傾向性をうまく利用して、法や制度、経済システムを設計していくことが肝要だという。


単なる理想論では決して平和を実現することはできない。それは単なる観念の遊戯にしかならない。冷徹に、また徹底して理論的に「人間の本性」を見つめぬくこと。それこそ、平和に向かう第一歩であると、カントは考えたのです。


人間は放っておくと戦争をしてしまうという「邪悪さ」をもっている。だとしたら、その傾向性をうまく活かして制度設計をすれば、戦争抑止の方法が見つかるはずだ。


何よりも驚かされたのが「共和的な政体」の根本原理を、「立法権」と「行政権」が分離されていることであると洞察していたこと。どんなに国民主権の民主国家を実現したとしても、「立法権」と「行政権」の境目があやふやになってしまえば、その国家は戦争へと突き進んでいく危険性をはらんでしまう。講師の萱野稔人さんがサッカーの試合の例で見事に説明していましたが、一方のチームが試合をしながら勝手にルールを変える権限をもってしまったら、そのチームが勝つのに都合のよいように、とめどなくルールが書き変えられてしまうことになります。ルールを決めるものとルールを実行するものがきちんと分離されているからこそ、そうした暴走を防げるのです。


最も共和的だといわれたワイマール憲法に支えられた第一次世界大戦後のドイツが戦争への道を突き進んでしまったのは、ナチス政権によって、この「立法権」と「行政権」の分離が崩壊してしまったからです。


私たちも民主主義国家にいるからといって安心してはいけません。「立法権」と「行政権」の分離は、世界中のあらゆる国家が平和を維持するために機能するかどうかをはかるリトマス試験紙のようなものです。カントが提唱したこの理念が形骸化していないかどうか、私たちは常に監視の目を光らせなければなりません。


「恒久平和」を実現するために、カントは、根本にさかのぼって「道徳と政治」の関係を深く考察する。カントは「道徳」の根本が「無条件でしたがうべき命令を示した諸法則」であることを解明し、既存の「良心に基づく道徳」というイメージを覆す。つまり「道徳」は良心の問題ではなく、「普遍的なルールとしてあらゆる人の利益や都合を保証するために活用されるもの」だというのだ。この前提に立てば、たとえ自分の欲望を最優先する悪魔が国家の成員であったとしても、ルールに従わざるを得なくなるメカニズムを構築できるのである。


萱野さんの解説の中でとりわけ印象的だったのが、「『永遠平和のために』という本は、現実にある問題をとことんまで考えつめたときに、それが結果的に『哲学』になっていたという代表的な本だ」と語っていたこと。「哲学というものは、私たちが近づきがたい抽象的なことばかりを考えているわけでない。私たちが普段手触りをもって感じているような事柄も、つきつめていくと哲学になっていくのだ」。


思い出したのは、萱野さんがパリ第10大学で哲学者エティエンヌ・バリバールに師事したという経歴。バリバールに関する著作も学生時代に読んだのですが、国家や社会というものを、当時流行していた「表象」や「言説」といった抽象的なものに還元するのではなく、あくまでも「実体的な運動」として捉えようとした哲学者でした。


「哲学」を私たちの生活とは関係のない抽象的なものとして忌避することなく、むしろ、私たちが生きる現実をクリアに分析してくれる道具と考えること。



2年連続3度目の審査員だった富澤は「ご覧になったように敗者復活メンバー含め、年々漫才のレベルが上がっていてきています」とし、「平成から『ツッコミの進化』が止まることなく、ついに令和ではぺこぱがつっこまない、『受け入れ』というところにまで昇華させました。かまいたちは訂正であるツッコミに負けない開き直りのボケでツッコミを不安にさせ、和牛は前後の奥行きも上手く使い、途中からツッコミもおかしくなる。違いを出す為の試行錯誤が新しい漫才を生み出していく」と解説した。
さらに「ミルクボーイは松本さんが『行ったり来たり漫才』と呼んだ、ツッコミが提案したり否定したりする形の漫才」「関西弁の省略された言葉のリズムだからこそなせるテンポある漫才で優勝を勝ち取った」とし、「本当に決勝3組にほとんど差はなく、どこが優勝してもおかしくなかった。みんなオリジナルな形を持ち、一年で進化させてくる。見ていて恐ろしくなる大会でした」と振り返った。








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