始めてから今日で丸7年経った。
まさかここまで安倍政権が続くとは思わなかった。2年前の今頃は北への攻撃を半ば覚悟して緊張していた記憶がある。18年1月に攻撃がなかったときは肩透かしだった。
それでも日本は令和になって代替わりできたことを思えば、2年前にトランプ大統領が仕掛けなくてよかったと今では思っている。
何か決定的な破局が避けられないとしても、正しいと信じることができる価値観とともに歩みたいし、それができる国家に生まれたことを感謝している。n210027



ヨブ記について私には事前知識は一切ない。
聖書を読んだことすらないのだから、旧約聖書のことも知らない。
これからがヨブ記の時代だと言うなら、相当外形的には覚悟が必要なことを言われているようだが実感が追いついてくれない。n210017



NHK「安楽死」番組に波紋…障害者支援団体が問題視する点とは?
2019/12/20 08:00


医師の幇助による自殺が認められているスイスに渡った難病患者を取材したNHKのドキュメンタリー番組が波紋を呼んでいる。障害者・難病患者の支援団体が放送倫理上問題があるなどとして声明を出した。医療ジャーナリスト・福原麻希氏が問題点とその背景を取材した。


*  *  *


番組は今年6月放送のNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(詳細は後述)。放送後に障害者や難病患者の自立生活を推進する団体「日本自立生活センター(JCIL)」(京都市)が「障害者・難病患者の尊厳や生命を脅かす」として声明を出した。NHKに質問状を送り、回答を得た上で、さらに放送倫理・番組向上機構(BPO)に放送倫理上の問題の有無の調査・審議を依頼した。障害者や難病患者に、番組はどのように映ったのか。


まずはこの番組を見た人を取材した中で聞いた、ある重度障害者の女性の声を紹介する。


京都市在住の岡山祐美さん(39)は頭や首を支えるヘッドレストと背もたれがなければ、上半身が崩れ落ちてしまい座ることもできない。食事・寝返り・トイレなど、生活のすべてで介助が必要なため、24時間連続の重度訪問介護を利用しながら、家族と離れて一人で暮らす。


20歳のとき、難病に指定されている遠位型ミオパチーと診断された。「ミオパチー」とは筋肉が萎縮し筋力が低下する進行性の病気の総称。遠位型は指先や足首から障害が起こる。


症状は中学3年、15歳の頃から表れ、高校生の頃はよく転んだ。大学卒業後、金融機関で働いたが、歩けなくなって通勤が困難になり、1年後に辞めざるを得なくなった。


実家で親と暮らした。親から介護を受けることへの抵抗感や申し訳なさが積み重なった。家族も岡山さんも、将来像を思い描くことができなかった。


「その頃は、ふと気づくと、病気の進行によって生活でできないことが増えていた時期で……。毎日を生きることがしんどくて、しんどくて。寝るとき、このまま朝が来なくてもいいとさえ思っていました」


だから、岡山さんは放送当日、番組を見ながら女性の気持ちに共感したという。


「あの頃だったら、『こんなふうにラクになれたらいいな。うらやましいな』と思っただろうな」と言う。


そんな苦しい日々が変わるきっかけは、重度訪問介護を利用して、一人暮らしをしている人がいると知ったことだ。親亡き後の生活を考え、公的介助によって重度障害者でも主体的に生きていけるならやってみようと考えた。34歳で実家を出て、5年になる。


三十数人のヘルパーが入れ替わり家に入るため、慣れるまでは気持ちが落ち着かなかった。だが、いまの生活をこう話す。


「食べたいときに食べたい物を食べる、何かしたいときに希望がかなう、それだけなんですが、前向きに生きていけるようになりました。買い物や街歩き、観光、ライブにも行きます」


このほか、病院の筋ジストロフィー病棟で長期入院している患者が地域で暮らすためのプロジェクトにも取り組む。


NHKの番組では、安楽死した女性と同じ病気に罹患しているが、人工呼吸器を装着して家族と共に生きることを選んだ女性のことも紹介した。岡山さんはこう感想を漏らす。


「2人の事例が出てきたものの『重度障害者になったら死んだほうがいい』というメッセージのほうがより強く印象に残りました。私と同じような境遇の人に安楽死を誘発しないといいですが……」


JCILが6月に公表した声明には、こんな文章が並ぶ(声明から抜粋)。


──私たちの中には、障害や難病による不自由な日常生活や様々に受ける差別の中で、毎日がこんなに苦しいのだったら、こんなにみじめな思いをするのだったら、死んでしまいたい、家族に迷惑をかけて生き延びたくない、などと思っている者、思ってきた者が少なからずいます。


──今回の報道は障害や難病を抱えて生きる人たちの生の尊厳を否定し、また、今実際に「死にたい」と「生きたい」という気持ちの間で悩んでいる当事者や家族に対して、生きる方向ではなく死ぬ方向へと背中を押してしまうという強烈なメッセージ性をもっています。


声明を起案したメンバーで、JCILの介助コーディネーター(支援者)の渡邉琢さんはこう話す。


「日頃から障害者や難病患者は『ベッドで寝たきりのまま生きていて、どうするの』と社会から生に対する否定的なメッセージを浴び続けています。番組の影響を考えると、社会がさらにその方向へ動くのではないかという怖さや強い危機感を持ちました」


さらに、JCILが問題視したのは、番組で放送した安楽死に至る瞬間の映像だった。医師が致死薬の点滴を処方し、女性が手首のストッパーを外すと眠るように亡くなった。それは視聴者にとって、まるでドラマのようにも見えた。


実際のできごとをそのまま映したそのシーンは重度障害者や支援者に衝撃をもたらしただけでなく、「放送番組の倫理基準から逸脱しているのではないか」とJCILは指摘する。


自殺に関しては、2008年にWHO(世界保健機関)が「自殺予防 メディア関係者のための手引き」を、国内でも日本民間放送連盟が「放送基準」を作成し、報道に倫理的な姿勢を求め、留意を促している。例えば、WHOの手引き(17年の最新版)では「自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと」などと書かれている。放送基準では「人心に動揺や不安を与えるおそれのある内容のものは慎重に取り扱う」「心中・自殺は、古典または芸術作品であっても取り扱いを慎重にする」などとされている。


「安楽死」については学問的に公認された定義はない。表(下記)の分類は生命倫理学でよく使われるもので、大きく3種類に分けられる。


この分類によると、今回のNHK番組のケースは(2)に当たる。


だが、NHK報道局はJCILへの回答書でスイスの自殺幇助団体の「自殺とは単純に言えない」の見解を引用してこう説明する。


──安楽死は実現に厳格な要件(筆者注:1.耐えられない痛みがある2.回復の見込みがない3.明確な意思表示ができる4.治療の代替手段がない)があることや医師が介在すること等、世間一般に言う「自殺」とは大きく異なる部分があるため、自殺に関する放送基準が必ずしもそのまま妥当するとは考えていません(回答書の抜粋)。


この点について、JCILの声明公表時にコメントを書いた鳥取大学医学部の安藤泰至(やすのり)准教授(生命倫理・死生学)はこう指摘する。


「番組のようなケースを『自殺ではない』とするのは合法化していくための政治的な戦略です。自殺という言葉のイメージが悪いから、言い換えをしなければならないわけです」


安楽死合法化について、海外では1970年代からオランダや米国で議論されてきた。国内でも海外で安楽死のニュースが流れたり、医療における裁判の解説などで議論されたりしたこともあったが、全体的に安楽死の議論は端緒についたばかりとも言える。


NHKのこの番組に取材協力をした横浜市立大学国際教養学部の有馬斉(ひとし)准教授(倫理学・生命倫理)は、合法化の問題点について、こう指摘する。


「安楽死合法化賛成派の意見は『自分で死を選べるようにするべきだ(自己決定の尊重)』『痛みや苦しみから解放してあげるべきだ』などとわかりやすい。一方、反対派の障害者・難病患者が置かれている状況や合法化によるリスクは社会から見えにくい。理解されにくいから問題になるわけです」


障害者や難病患者のリスクとは、冒頭の岡山さんのように重度障害者でも自立して生きていこうとするとき、社会の理解不足や障害者支援の遅れなどから生まれる「生きていても不幸」という無意識の差別的偏見であり、生きることへの無言の圧力につながりやすいことを意味する。


さらに、この番組では「患者と社会とのつながり」が出てこなかった。特に、がんや神経難病の患者には医療者による「緩和ケア」が生きる支えになる。


「NHKの番組で取りあげられた女性のような神経難病に対する緩和ケアはまだ普及していません。そのようなときに、安楽死を合法化する流れができることは危ないです」と川崎市立井田病院緩和ケア内科医長の西智弘医師は指摘する。


JCILからBPOへの調査・審議の依頼は放送倫理検証委員会などで審議するかどうか、検討される。(医療ジャーナリスト・福原麻希)


■6月2日放送の「NHKスペシャル彼女は安楽死を選んだ」の内容


昨年、スイスで日本人女性(当時51)が安楽死<表の(2)参照>をした経緯とその死を遂げる瞬間を放送した。女性は亡くなる3年前、進行性の神経難病「多系統萎縮症」と診断され、会話や食事を含めた日常生活全般の動作が不自由だった。激しい痛みは薬物治療で抑えていた。医師から、やがて人工呼吸器や胃ろうが必要になり、寝たきりになると言われた。女性は「私が私であるうちに、安楽死をほどこしてください」とスイスの自殺幇助団体に登録し、海を渡って実行した。日本で安楽死は認められていない。


NHKは番組のナレーションで「海外で安楽死を選ぶ人が増える中で、本人や家族が何を考え、どんな現実と向き合うことになるか」「私たちは命の終わりをどう迎えるか。大切な人をどう見送るかを考える」と伝えた。女性はスイスでの行動に密着した取材班に「みんなで安楽死を考えることは、私の願いでもある」と話した。


■日本での「安楽死」の分類


生命倫理学の分類/国内での呼称:安楽死


(1)積極的安楽死


医師が致死薬を患者に投与することで死に至る。嘱託殺人とも言われる。


(2)医師の幇助による自殺


患者の依頼で医師が致死薬を処方する。患者のタイミングで体内に入れることで死に至る。


生命倫理学の分類/国内での呼称:尊厳死


(3)消極的安楽死(延命治療の差し控えと中止)


患者の希望によって人工呼吸器・人工透析等を導入しない、および、継続の中止。こちらも(1)(2)と同様に国内での法整備はされていないが、現在、学会のガイドラインのもと、要件を絞ったうえで医療現場では実施されている。


参考:『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(安藤泰至著)


※週刊朝日  2019年12月27日号


(この番組は録画して、何度も何度も繰り返し見た。再三に渡る最終意思確認の上、最後の瞬間、家族に見守られながら薬剤を投与し、逝く前の最後の感謝を述べる本人と、泣き崩れて謝罪を繰り返す家族の姿に、何も言えなくなった。
だが、この番組に対する問題提議は正しいと思う。安楽死は、どんな背景があっても、そう簡単に肯定できるわけがない。逆にNHKがその覚悟もなくこの番組をつくっていたというなら、スタッフ陣の認識が足りなすぎた。当然のことが起きたのであって、いまから制作側は説明責任を果たし切る姿勢を示さなければならないはずだ。それが出来るか出来ないかで、どういう覚悟をもってこのテーマに取り組んでいたのか明らかになるだろう)n202357



探偵ナイトスクープ
2013年2月8日(金) 放送
テレビのオンオフがわかる特殊能力
田村 裕 探偵
滋賀県の主婦(30)から。家族と一緒によく近所の住宅街を散歩するが、家の前を通るたびに主人は「この家はテレビがついている」、「この家はテレビを見ていない」などと言う。夫は家の中を見なくても、テレビがついているのか、消しているのかが、わかる能力があるらしい。しかし、この言葉が本当かどうか、一軒一軒聞いて回るわけにも行かず、確かめるすべがない。本当に夫にテレビの電波を感じる能力があるのか、調べて欲しい、というもの。


「テレビがついている時は、空間が止まっている感じで、ザーとなっている中に、
”パチ、パチ”というものが自分の頭の周りで感じられる」
検証結果は外で12回連続成功、ホテル20室で20回連続成功となり、偶然とは考えられない。
(当然だがブラウン管式のテレビばかりではない。
理性的な結論としては、音波発生の有無を10mほど離れた場所で映像として感知できる者がいるということになる)

 
地上波デジタル放送以前のテレビ放送はNTSC方式と言います。525本の水平線を集めて1枚の画にしてそれを1秒間に30枚映します。ブラウン管式テレビは、525×30回の往復運動をするついでに、フライバックトランスという部品等で画面を光らせるための高圧電気も作ります。1行目を横方向に左から右になぞり、次に2行目を横方向に同様に左から右になぞっていきます。これを525回繰り返すと、1枚の絵ができあがります。この際にどうしても音がでてしまいます。
これが15,750Hzの音として人間に聞こえる場合があるのかもしれません。


…レベル2、音漏れに敏感になる程度の能力です。
(これはブラウン管式だけわかる場合の可能性)


ただし、液晶テレビや薄型テレビ はフライバックトランスがなく、描画方式も違うためブラウン管式ほどの超音波の音漏れは考えられません。


2015年3月16日 伊勢白山道さんが記事で取り上げていた内容






阿弥陀仏の本願により念仏するだけで浄土へ往生できるという「浄土仏教」。誰もが簡単に実践できるわかりやすさから多くの人たちの心をとらえた。しかし、その革新性ゆえに、大きな誤解にさらされていた。「念仏さえしていればどんな悪事をはたらいても往生できる」「もっと他に極楽往生できる秘法があるのではないか」等々。人々から寄せられる異義に対して、親鸞は「念仏が浄土に生まれる種なのか地獄へ落ちる所業なのか私は知らない」「念仏を信じるも捨てるもそれぞれが決めなさい」と冷徹にいい放つ。そこには、自分の都合で教えの意味を歪め、自身の中にある「影」の部分を見つめようとしない人々への嘆きがあった。親鸞は、死後に救われるかどうかといった利己的な目的ではなく、己の罪深さを徹底して見つめぬき「そんな自分が救われるのはもはやこの道しかない」というぎりぎりの決断の中でこそ、真の信仰が開かれると考えたのだ。


「歎異抄」の中で最も有名な一節、「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」。普通に考えれば「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」というのが筋のはずだが、親鸞は「善人よりも悪人こそが救われる」と論理を逆転させる。有名な「悪人正機説」だ。ここでいう「善人」が「自力で修めた善によって往生しようとする人」を意味することに注目する必要がある。そこには「仏の目からみれば全てが悪人であるのに、自分自身は善人であると思っている傲慢さはどうなのか」という親鸞の問いがあると釈徹宗さんはいう。また、一般的な社会通念では決して救われないような人々に対して全く異なるものさしを提示することで、弱者や愚者といった社会の底辺に置かれている人々が救われる原理を追求したのが親鸞の「他力本願の思想」なのである。


親鸞の思想の核心である「悪人正機」と「他力」という言葉に込められた深い意味を読み解き、自らの悪を深く自覚した人、社会の底辺で生きる弱者や愚者こそが救われるという、親鸞の教えの核心に迫っていく。


近代になり、日本の知識人たちはキリスト教文化圏からの哲学・思想に触れました。そこには、人は生まれながらに罪を背負っているという「原罪」の感覚が深く浸透しています。日本の思想や宗教には、あまりそうした性質のものはありませんが、親鸞だけは別でした。明治以降の思想家や哲学者たちは『歎異抄』に、近代知性ともがっぷり四つに組める罪業観が備わっていることを見出したのです。


宗教の言葉というのは、本来は「語り」のなかにあります。また、その語りが身体化する性格を持っています。『聖書』や『クルアーン』にも同様のことが言えますが、繰り返し声に出して唱えるうちに、書かれたことが身体に蓄積されていきます。そうすると、生きていくなかで、たとえば絶体絶命のピンチに陥ったと感じる瞬間、宗教の言葉が浮上してきて私たちを助けてくれるのです。


唯円は「歎異抄」で、常識的な倫理や道徳の見方で親鸞の教えを歪め、自分の都合のよいように解釈する人々の異義に一つ一つ反論していく。人が浄土へ往生するためには「学問で学ぶ必要があるのではないか」「犯した罪を消す必要があるのではないか」「お布施をたくさんする必要があるのではないか」等々。こうした自己流の解釈を唯円は「自見の覚悟」と呼び、厳しく批判する。そこにあるのは、何をするにも自分を軸としてしか行動できない、全てに対して自分というフィルターを通してしか考えられない、哀しい人間の性。「歎異抄」はそうした「自己の偽物性」から脱け出し、迷いと救いの間で宙吊りになりながらも、それをあるがままに受け止めていく生き方が示されている。


自分自身を振り返るとき、こんな自分だって、いろいろな縁によって過ちを犯すこともあるだろうし、悪を犯してしてしまうかもしれません。そんな「弱さ」を誰だってもっているはずです。そのことを自覚せず、自分だけが正しいと思った瞬間に、見えなくなることがたくさんあると思います。


親鸞ほど、人間の「光」と「闇」の間でゆれ動いた信仰者は稀だ。浄土仏教への信仰を貫きながらも、我が身の罪深さ、自分の信仰が偽物ではないかとの懐疑に懊悩し続けた。そんな親鸞を支えていたのが「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人がためなり」との確信だった。あまりにも有名な親鸞の言葉だが、常識的に考えれば、傲慢ともとれる言葉だ。しかし、深く読み解いていくと、そこには、我が身一身でこの教えを引き受け、その切実さを生き切ろうという親鸞の実存的な決断がある。


……「情報」は人を救えない。それは消費の対象で、道具として使われるしかないものだ。新しいものが出てきたらすぐに捨てられてしまう。それに対して、「物語」は、「それは私のために準備されたものだ」と受け止めるもの。生き方自体を変え、それに出会うと二度と元に戻れないようなものだ。……


私たちは普段「情報」とばかり接しているけど、それとは質がまったく異なる経験をすることがある。それを知ってしまった後では、もう決してその前にはもどれないような、一冊の小説、一本の映画との出会いって確かにある。「この作品は私だけのためにある」といった体験が。こうした経験の延長上にあるものととらえることで、「宗教」という、私たちが普段縁遠く感じているものを、現代の人たちにも届く言葉で伝えられるのではないか。


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