天にすごい人がいるから、では問題は解決しない


数日前にのせた神の愛の解説をしている動画で、「生命が知るべき愛」にすべての傷や汚れが癒されたという表現があった。
では、わたしたちが天に帰った時、そういうすごい人がいるから問題が解決するのだろうか。
よく考えてみたい。


帰った。あの人はすごい。あの人たちはすごい。
で?


そこにあるのは、自分の精神だ。自分の恥ずかしい気持ちだ。
そこではっきりするのは、いままで向き合ってきた自分の気持ちこそが、真に主役だったということ。誰がどんなにすごくても関係ない。どんなにイヤなやつでも関係ない。


主役は別にいる。


真に相手にするべきは、帰っても離れないもの、
通り過ぎていくものに対して、通り過ぎない者。


わたしは、「主体を」変えたかったのだ。
この自分を変えたかった。


では、わたしが求めていたほんとうの条件だけは、
見た目と違ってずっと「叶えられて」いたのか。


だからいま、わたしは正しい道にいるのか。
このゴツゴツとした手触りの、冷たい雨のような冷気に満ちた道の上で、
なにより自分を削りたかったと言えるのだろうか。n280107



「ディープステート」とは、日本で言えば戦前政府の方針に従わずに暴走して満州事変を引き起こした関東軍のような存在を言うが、米国の場合、すでに連邦捜査局(FBI)の幹部がトランプ政権の捜査情報をリークしたり、国務省でもトランプ大統領が指名登用した幹部職員に対して嫌がらせの中傷が行われたりしていると伝えられていた。
加えて今回ホワイトハウスという「本丸」でも抵抗勢力が見つかったことで、「ディープステート」はフェイクニュースではなく現実に存在することが証明されたようだ。
(木村太郎)


(ディープステートが何を意味しているかのイメージも人によってバラバラだ。1900年からの金融支配勢力の継承者を言っている人もいるし、ベトナム戦争を起こしたような過程での軍産複合体の悪質さを意味する場合もある。もっとずっと異質のものをイメージしている人も中にはいるn)



「悲しき熱帯」「神話論理」等の著作で知られ、「二十世紀最大の人類学者」と呼ばれるフランスの文化人類学者レヴィ=ストロース(1908~2009)。構造主義という全く新しい方法を使って、未開社会にも文明社会に匹敵するような精緻で合理的な思考が存在することを論証した代表作が「野生の思考」です。しかし、これは単に文化人類学の研究書ではありません。現代人たちが陥っていた西欧文明を絶対視する自文化中心主義を厳しく批判し、「人間の根源的な思考」を明らかにしようとした野心的な著作でもあるのです。


友人のヤコブソンに言語学を学ぶ中で、あらゆる現象を言語学的構造から解明する「構造主義」という方法を手にした彼は、先住民たちの習俗や儀礼、神話の数々が決して野蛮で未熟なものではなく、極めて精緻で論理的な思考に基づいていることを発見します。彼はそれを「野生の思考」と呼びました。


未開民族の思考を「前論理的」だとする見方は西洋近代の「科学」にのみ至上権を置く立場からの偏見でしかないといいます。幅広いフィールドワークと民俗誌の渉猟の果てに、「野生の思考」こそ科学的な思考よりも根源にある人類に普遍的な思考であり、近代科学のほうがむしろ特殊なものだと結論づけ、「精密自然科学より一万年も前に確立したその成果は、依然としてわれわれの文明の基層をなしている」と喝破したのです。


長い間未熟で野蛮なものとして貶められてきた「未開社会の思考」。近代科学からすると全く非合理とみられていたこの思考をレヴィ=ストロースは、「野生の思考」と呼び復権させようとする。「野生の思考」は、非合理などではなく、科学的な思考よりも根源にある人類に普遍的な思考であり、近代科学のほうがむしろ特殊なものだと彼は考える。それを明らかにする方法が「構造主義」というこれまでにない全く新しい方法だ。


最初から完全な設計図を前提とするエンジニアの思考のような「近代知」。レヴィ=ストロースは、人間にとって本源的な思考は、そのような「知」ではなく、「ブリコラージュ(日曜大工)」といわれる、ありあわせの素材を使い、様々なレベルでの細かい差異を利用して本来とは別の目的や用途のために流用する思考方法だと考える。そこには近代化の中で私たちが見失ってしまった、理性と感性を切り離さない豊かな思考の可能性が潜んでいる。その代表的例がオーストラリアの先住民族ムルンギンの神話だ。気象現象や動植物など経験的な素材を使って精緻な知の体系を築き上げる彼らは、神話によって「宇宙の中で人間はどんな意味をもつのか」といった哲学的な問題を問うているのだ。


西欧の近代科学は、自然と文化を厳しく分離し、全てを計量的に組み上げる抽象的な思考を成立させた。しかし、レヴィ=ストロースは、それが人類の長い歴史の中では極めて特殊なものだと考える。むしろ自然と文化のインターフェイス上に働く根源的な知性作用こそ重要であり、人類を基層から動かしてきたという。例えば「サンタクロース」という伝承は、さまざまな外部のインパクトを受けながら大きく意味を変容させることで、人類が直面してきた巨大な変化を受け止めるインターフェイスとして働いてきた。こうした「神話的な思考」は基層で常に働き続け現代人をもつき動かし続けている。一見非合理なものとして排除されがちな「神話的な思考」が、むしろ自然と文化の対立を回避し結び合わせる巧妙な知恵であることを明らかにする。


「人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化」とはどういうことか? 日本の伝統産業の職人たちは、土や木などの素材に対して、一方的に自分のプランを押し当てるのではなく、むしろその素材の中に隠れている本質を「受動的に」取り出すことで、ものづくりを行っていることにレヴィ=ストロースは気づきます。そのことを職人たちは「土や木自体が望んでいることを実現してあげる」と表現しますが、確かに、コンクリートによって成形される建築物のように素材を完璧に人間の都合に合わせて加工しつくす行為と、土や木が本来もっている艶や肌合い、素材感などと対話をしながらよさを引き出していく職人たちの行為は、根本的に異なっていますよね。これこそが西洋近代の労働概念にはない「人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化」という事態なのだとレヴィ=ストロースは結論づけるのです。


あらかじめ準備した設計図などは一切使わず、与えられた条件の中でありあわせの素材を使って見事にその時その場に最適なものを作り出す「ブリコラージュ(日曜大工)」を本質とする「野生の思考」。


レヴィ=ストロースが「人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化」と呼んだ、独自の労働観、独自の思考法は、芸術の領域、サブカルチャーの領域、日本料理の世界、先端技術の領域、「里山」に代表される環境保全の知恵など、あらゆる領域に脈打っています。


私たちは、レヴィ=ストロースが見抜いた、日本に生きる「野性の思考」にもっと自覚的にならなければならないのではないか。ここにこそ、さまざまな行き詰まりを打開するヒントがあるのではないか。そんなことを彼の日本論を読みながら痛感しました。放送第四回をみながら、みなさんも一緒に考えていただけるとうれしいです。


レヴィ=ストロースは晩年、日本を訪れた。伝統の技を守り続ける職人たちや豊かな恵みが集まる市場を訪ねるなど、精力的に日本各地を巡った彼は、その豊かな文化、世界観に驚き、「野生の思考は、日本にこそ生きている」と述べた。「構造・神話・労働」、「月の裏側」といった著作で詳しく展開される彼の洞察を読み解くと、日本の文化の中に、今後の社会を変えていく大きな可能性を見つけることができるという。


一例をあげると「ブリコラージュ(日曜大工)」というレヴィ=ストロースのキー概念をどう解説するかという難問。「野生の思考」は、あらかじめ準備した設計図などは一切使わず、与えられた条件の中でありあわせの素材を使って見事にその時その場に最適なものを作り出す「ブリコラージュ」をその特徴としますが、原文に忠実に未開人が行っている思考法のみを例に説明すると、現代の私たちにはピンときません。 私は、個人的に「野生の思考」を読みながら温めていた例をおそるおそる中沢さんに当ててみました。「たとえば、ぼくのおふくろは、料理を作るのに一切レシピを使いません。冷蔵庫の中にあるありあわせの素材を実に巧みに組み合わせて、ときどきちょっとしたレストランでもかなわないような料理を作ってしまうことがあります。それも、その日の湿度や気温などに合わせて微妙に塩加減や入れる調味料を変えてしまう。こういうのってブリコラージュといっていいんでしょうか?」
中沢さんは「そうそう、それそれ!」と共感してくれて、次々に面白い例をあげてくれました。例えば「女子高生のファッション」や「現代アートの作品」。実は、科学の最前線でも、本当の意味で新しい発見や発明は、設計主義的に行われるのではなく、ブリコラージュ的に行われるということも。








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