自分が変わらなければ、状況が先に変わる。激烈に。


人類もそうなってしまった。自分たちが変わらずにいたら、状況が先に変わってしまった。なんとかその変化に対応しなければならない。


船が沈みかけているという舞台は、タイタニックの映画だ。
レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが駆け回ったあの舞台。
のんきな人たちはいた。優雅な音楽とともに沈んだ人もいた。
怒号が飛び交い、混乱の極致だった。
出口がどこにあるかわかっていた人はたぶん一人もいない。
あの舞台で最善の態度はなんだったのか、いまでもわからない。
ジャックは危機意識を持ち、大切な人の手を引き、出口を探し続けた。
みんな死ぬほど怖かったはずだ。
同じ舞台の上で、いろいろな人がいた。n020134












イラク、米国との関係見直し 親イラン組織空爆に反発
2019年12月31日 6時44分
AFPBB News


【AFP=時事】米国がイラクの親イラン派武装組織に対して空爆を実施したことを受け、イラク政府は30日、米国との関係を見直すと表明した。イラク国内では空爆に抗議する街頭デモが行われ、参加者が米国旗を燃やして怒りをあらわにした。


米軍は29日夜、イラクの武装組織「神の党旅団(カタイブ・ヒズボラ、Hezbollah Brigades)」の複数拠点を空爆。少なくとも25人が死亡した。同組織は、イランを後ろ盾とするイラクの民兵組織「人民動員隊(Hashed al-Shaabi)」の傘下組織の中でも特に過激なグループの一つ。


イラクは現在、いずれも同盟国であるイランと米国の間の緊張の高まりで板挟みになっているほか、政治腐敗とイランの影響力の高まりに抗議する大規模な街頭デモへの対応にも苦慮。デモを受けてアデル・アブドルマハデ(Abdel Abdul- Mahdi)首相が辞意を表明したため、現政権は次期首相が決まるまでの暫定政府となっている。


暫定政府は声明で米国の空爆を非難し、米国との関係に影響を及ぼす恐れがあると警告。「米軍はイラク側の優先事項でなく、自国の政治的優先事項に基づき行動した」とし、このような空爆は「イラクの主権を侵害」し、「イラクに対して、主権保護のために米国との関係や安全保障、政治、法律上の枠組みの見直しを強いる」ものだと言明した。
【翻訳編集】AFPBB News



「三国志」の世界は、後漢(25-220)の終焉から始まります。前漢と合わせて約400年以上も中国を支配した漢王朝は、外戚と宦官の専横によって衰退期を迎えていました。これに乗じて太平道という宗教結社が「黄巾の乱」を起こし、世は大混乱。その鎮圧を巡って各地に群雄が並び立ちます。次の覇権を狙う董卓とそれに対抗する反董卓連合。その生き残りをかけた戦いの中から次代を担うリーダーたちが続々と出現していきました。やがて、魏の曹氏、蜀の劉氏、呉の孫氏という三人の皇帝が同時に立つ、中国史上初めて三つの国家に分裂した時代を迎えるのです。


三つの国の存亡をかけた戦いが展開する「三国志」ですが、曹操、劉備、孫権ら三人のリーダーや彼らを巡る人々が、国や組織の生き残りをかけて知恵をしぼりしのぎを削る姿には、「人間関係の築き方」「人材登用の秘訣」「ライバルを出し抜く戦略」「失敗から学ぶべきこと」等々……今を生き抜く上で貴重なヒントや教訓にあふれています。


人間と組織が一進一退の興亡を繰り返す後漢末の時代。動乱の時代が故に少しでも読みを誤ると没落の運命が待っている。「名士」を重んじたが欲望におぼれ見放されていく董卓。「名士」を軽んじ自ら帝位につこうとして身を滅ぼす袁術。逆に「名士」の意見を聞きすぎて優柔不断で決断できなかった袁紹。いずれも地域社会に支配階層として根をおろす「名士」と呼ばれる知識人たちとの距離のとり方を誤ったが故に没落していく。その中で「名士」を味方につけ、つかず離れずで見事に運用した曹操ただ一人が頭角を現したのだ。


「乱世の奸雄」と評され、とかく悪役のイメージがある曹操。だが人々に理解されないのは曹操の戦略や政策があまりにも革命的で時代に先駆けすぎていたからだともいわれる。かつての敵を精鋭部隊に育てる「人材登用術」、兵糧の確保のために流人となった農民を活用する「屯田制」、儒教に対抗して新しい文化を育てる「建安文学」のサロン作りなど、時代に先かげたアイデアは、後の律令体制の基礎ともなっていくのだ。その一方で手段を選ばない強引な手法はマイナスに働くことも多い。


およそ千八百年前、二世紀から三世紀にかけて、中国は激動の時代を迎えていました。その模様を描いた代表的史書が、陳寿(二三三~二九七)の著した『三国志』です。この当時、中国は春秋戦国時代(紀元前八~前三世紀)と並ぶ、社会の変革期を迎えていました。四百年も続いた「漢」が崩壊し、数多の群雄が栄枯盛衰を繰り広げ、やがて乱世は魏、蜀、呉の三国鼎立状態へと収斂します。そして、最終的に魏を継いだ晋が中国を再統一することになりました。


当時の時代背景については、「伝統」と「革新」という構図で見ると、わかりやすくなります。「漢」は長きにわたり中国を統治し、「漢民族」や「漢字」という言葉が現在まで残っていることに明らかなように、後世への影響力が大きく、まさに「永遠の漢」と呼ぶべき存在でした。その漢の後継を自認していた劉備が建国した蜀(正式な国名は漢。そのため「蜀漢」ともいう)と、劉備を支えた諸葛亮は、「伝統」の側といえるでしょう。


これに対し、曹操が土台を整え、その子・曹丕の建国した魏と、孫権の呉は、いわば「革新」の立場にありました。とくに魏は、漢の制度が限界を迎えていた状況で新たな制度を創出し、後世への影響力は絶大なものがありました。その具体例として、以降の税収体系の基礎となった租調制や、均田制の源流になった屯田制など、国家の支配体制そのものを大きく変えた功績を挙げることができます。


一方、呉は、孫権が重用した魯粛の「天下三分の計」に基づく新しい発想により、活路を見出した国家です。制度そのものは後漢をそのまま継承していますが、広大な中国において、長江下流の江東だけで独立するという考え方は、紀元前二二一年に中華を統一した秦の始皇帝以降の中国において、非常に斬新なものでした。


このように、制度的・発想的に新しいことを目指す「革新」の魏と呉に対し、「漢」の「伝統」の固守を試みる蜀、という大まかな構図がありました。そしてその構図のもとに描かれた「漢」崩壊後の趨勢と、混迷の時代を生き抜いた刺激的で個性豊かな数多くの登場人物。それこそが『三国志』の基本要素であり、最大の魅力なのです。


三国時代もまた、四百年間続いた漢という国家、そしてその疑いのない指針とされていた儒教が潰れようとしていました。既成の価値観が大いに揺らぐ状況の中で、先人たちはどのような歩みをたどり、時代を切り開いていったのか。


弱小集団だった孫氏がなぜ一国を築く君主にまでのぼりつめたのか? 荒らされた漢王朝の陵墓を整備した初代の孫堅、漢王朝をないがしろにしたとして自分を支えてくれた袁術に絶縁状を出す二代目の孫策。孫氏一族は、常に漢王朝を崇敬する信義の人々だった。孫権は一族が築いてきた信義を基礎に多くの「名士」を味方につける。その代表が周瑜。大勢が曹操への降伏に傾く中、只一人主戦論を唱えた周瑜。孫権が信じた周瑜の意見が反対論を押し切り「赤壁の戦い」が始まる。結果は呉の大勝利。曹操の天下統一の野望をくじくのだ。



多くの人に「仁」の人と評価された劉備。その人柄ゆえに多くの味方を作っていくが、それはマイナスに働くこともあった。関羽、張飛との個人的な友誼を優先してしまうが故に離れて行く「名士」たち。天下国家を視座に置くべきなのに、関羽の仇討ちを優先し身を滅ぼしてしまう悲劇。「仁」の人、劉備はときに情に流されてしまう。その弱さを補ったのが軍師・諸葛亮孔明だ。「三顧の礼」で発言権を確保し、重要な場面では主君を諌め、軸をぶらさない。「水魚の交わり」といいながら、劉備とはいい意味での緊張関係を保ち続けたのだ。二人の「仁」と「智」は、ともすると崩れがちな組織のバランスをとる絶妙な働きだった。


心にしみる部分は数多くあれど、一番印象に残ったのは、リーダーたちの「自らが言った言葉に対する誠実さ」「責任の取り方」「理想に殉じる生き方」。もちろん人によってレベルの差があったり、完璧に遂行されていないケースもあるけど、ここぞというところで発揮されるリーダーたちのふるまいには、その誠実さ故に心を打たれます。彼らは決して「言い逃れ」はしない。過去にやった過ちをごまかさない。責任を他に転嫁しない。そして、自らが信じる理想に対しては決して妥協せず行動していく。清々しいまでに潔いのです。


何よりも、「不正」や「ごまかし」に対しては、自分自身に誠実であれるよう、堂々と言葉を発し、行動していきたい。そう願ってやみません。





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