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Krishnamurti あるがままのものの観察


―あるがままのものの観察、あるがままのものに“なる”こと―


理想(比較)なき観察―「あるがまま」と「あるべき姿(こうありたいもの・こうであって欲しいもの)」 あるがままのもの=現にあるもの、今、現に、このように存在する私の知覚的・心理的事実 瞑想は、「あるがままのもの」からの逃避ではない。それは、あるがままのものを理解し、そしてそれを超えることである。 あるがままのもの(=今、現に存在する私の心理的/経験的事実・現状)を理解することなしに瞑想は、 一種の自己・現実・問題からの逃避になるに過ぎない。瞑想とは、私・自我の感覚を生み出す思考の全活動を、一個の事実として理解することなのである。


それ自身の内部で、現在、実際に進行しつつあることに、どんな選択も是非判断もなしに気づいていること。 その基礎は「何かに到達する」という希望の一切ないところに敷かれます。希望を持つなら、この現状―絶望―から逃げているのです。 希望を持つのではなく、絶望を理解しなくてはなりません。 「あるがままのもの」の理解のなかには希望も絶望もありません。


動いている自己を観察し、それに学んで下さい。 それを見守り、それに破壊することなしに気づいていて下さい。 「私はそれを変えなければならない」「私はそれを取り除かなければならない」と言わないで。何の取捨選択もなしに、何の常識的・文化的・教義的な是非判断もなしに、ただそれを見守って下さい。 そのとき、その見守り-学ぶことの結果、自己は消え去ります。


この心の浄化は、意志によるものでも宗教的な訓練の結果でもありません。 いま在るものへの全的な気づきが、唯一の解放者なのです。


もし、あなたがあるがままのものを見るなら、あなたは世界全体を見ます。 あるがままのものを否定することに葛藤の始まりがあります。 世界の美しさはあるがままのもののなかにあります。 そして、努力なしにあるがままのものと共に在ることが徳なのです。


私たちは、私たち自身のありのままの生を見なければなりません。 果てしのない不満足さと空虚さを、 決して満たされることのない欲望と葛藤を、 そして、様々な娯楽、刺激物への逃避を。 非難も選択もすることなしに、恐怖や願望の歪みもなしに、 いま現にそうである私たち自身の姿を観察しなければならないのです。


そのとき、その観察のなかに、とてつもない変化が生じるのです。


いま現に、あるがままの姿(現実・事実)と、あるべき姿(観念・理想・理念)のあいだの矛盾・葛藤に 莫大な量のエネルギーが費されています。 この矛盾が無くなったなら― つまり、瞬間的・心理的に反対物を作り出してしまい、 そこへ移行しようとすることによって、事実あるものを見ない、ことを止めてしまったなら― 変容に必要なエネルギーは充分に存在するのです。 この反対物のあいだの闘いが、エネルギーの浪費を引き起こしているのです。


性的、生物的欲望などへの非難や修正、制御もまたエネルギーの浪費を引き起こします。 しかし、それらを非難することなく、そのなかに入り込み、それと共に流れ、 それと一つになってそれを見つめ、それを理解していくことができるなら、 そこにエネルギーのロスはないのです。 この豊富なエネルギーが変容には必要なのです。


ある瞬間において「あるがままのもの」は、恐怖や、ひどい絶望、束の間の喜びであるかもしれません。


結局、いわゆる修行を実践している人たちは、 彼らがいつか達成することを望んでいる遠くにある観念を追求しているので、 今、ここにある現実を見ることがありません。 彼らは常に明日の観点から考え、自分自身を訓練します。


未来において実現されるであろう理想像を心に思い描き、 「そう(で)あるべきだ」と考えるものを実現しようと、常に努力し、自己訓練しています。


彼は自分自身のなかで、現在、正に起こっている過程の全体を決して理解しようとはしません。 そうではなく未来の理想にのみ関わっているのです。


野心的な人間は誰よりもいちばん恐れている人間である。 なぜなら、彼はあるがままの自分であることを恐れているからだ。


困難なのは、 「あるがままの事実(現実)」から走り去ってしまうことなしに、それと共に留まる、ということです。


我々の反応・応答のたいていが、事実(現実)からの逃避の行為となっているため、 逃避しないでそれと向きあうことが、これほどにも難しいこととなっているのです。


しかし、真の実在はあなたの近くにあるのです。 遠くにそれを求める必要はありません。 真理を求める人は、決してそれを見つけないでしょう。 真理は「あるがままのもの」のなかにあるからです。 そういう真理こそ、美しいのです。


それに反し、 あなたが真理を自分の知識に基づいて思い描き、それを追求し始めた瞬間から、戦いが始まるのです。 戦う人は理解することができません。 ですから私たちは、注意深く、受動的に、 この「あるがままの生、あるがままの、今、存在するもの」を観察しなければならないのです。 いま現に存在するものについて、それを否定したり、何かに変えようとするのではありません。 あるがままのものの知覚それ自体が、その変容をもたらすのです。


しかし「あるがままのものの見方」を知らなければなりません。 それは… 「どんな取捨選択もなしに、ただ全的に観察すること」なのです。 山登りを私は信じません。 “登り”など、ないのです。 「私はこれだが、いずれそれになる」など、ないのです。 あるのはただ「これ」のみです。 「これ」を変えなさい―それがすべてです。 心がもはや、「あるがままのもの」を避けておらず、抵抗しておらず、 それに単純に、受動的に、気づいているとき― その受容性のなかに変容が生じているのを知るでしょう。


私たちは理想が必要だと考えます。 しかし理想は私たちのなかに、この根源的な変化をもたらすのに役立つでしょうか。 それとも、それは単に、私たちが変化を延期し、未来に押しつけ、 それによって即座の根本的な変容を避けるのに役立つだけでしょうか。 確かに、私たちが理想を持つかぎり、私たちは決して本当には変化せず、 実際には、即座の根源的変容を避けるための延期の手段として、その理想を利用しているだけなのです。 理想は欠くことのできない大切なものであるということが、私たちの多くにとって当然のことだと思われています。 それなしには変化のはずみがないだろう、 それなしには、腐敗し、淀んで、腐るだろう、と私たちは考えるからです。


しかし、何らかの種類の理想が本当に私たちを変えるでしょうか。 私たちはなぜ理想を持つのでしょうか。 私が暴力的なら、非暴力の理想を持つ必要があるでしょうか。 非暴力の追求は、心を暴力から解放するでしょうか。 それとも、非暴力の追求(への欲求)そのものが、実際には暴力の理解を妨げているのでしょうか。


結局、私が心の全体で、問題=心の暴力性に完全な注意を注ぐときのみ、 私はそれ=暴力性を理解することができます。 そして、私が「暴力性」という事実と、その事実の理解に全面的に関わるとき、 非暴力の理想がどんな意味を持つでしょうか。 理想の追求は、現実・事実の回避、変容の未来への延期なのではないのでしょうか。 私が暴力を理解するつもりなら、私の心の全体を、それに注がなければなりません。 非暴力の「理想」によって注意をそらされていてはなりません。 これは本当に、非常に重要な問題です。


私たちの多くは、理想を自己変革の本質的な要因とみなします。 しかし実際には、心が暴力そのものの全体を理解するときにのみ本質的な変化があるのであり、 暴力を理解するためには、あなたはそれにあなたの全面的な注意を注がなくてはなりません。 理想によって注意をそらされていてはなりません。 ひとが暴力を完全に注意して見ることができ、それを完全に理解することができるなら、 そのとき多分、それを根源的に解決する道が見えてくるのです。


非暴力を習慣的に実行する人は、本質的に自己中心的であり、 したがって、その言葉の真の意味において「暴力的」です。 謙虚を習慣的に実行するひとは決して謙虚ではありません。 なぜなら、謙虚を獲得する、あるいは何であれ徳を養成するという過程が 自己中心性のもう一つの現われに過ぎず、 それは本質的に邪悪で暴力的だからです。 私がこれを非常に明確に見るなら、そのとき私はどうしたらいいでしょうか。


どんな風に私は、暴力から心を解放することに取り掛かったらいいのでしょうか。 私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている。 「あのようになりたい」という絶え間ない葛藤が私たちを苦しめ続ける。 あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあ、と思います。 あなたが一度も、静かであるとはどんなことか、 心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことについて、聞いたことがなければなあ、と思うのです。 もしも、あなたがこれらのことを、何も、一度も聞いたことがなく、 ありのままのあなたの生を― 悲惨、葛藤、苦しみに満ちたあなたの日常の生を―処理するだけであったなら、 その観察のなかに「他なるもの」が起こり得るかもしれないでしょうに。 しかし、あなたはそれを理解しようとはせずに他のものを望んでいます。


それが私が、「もしも、あなたが知ることなしに始めることができたらなあ」と言う理由です。 私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません。 私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に何も知らないのです。


質問者:人間の生の究極的な意味、あるいは目的は何でしょうか。


クリシュナムルティ:私たちの生には意味や目的があるでしょうか。 私たちは目的を考え出すことはできます。 ―完璧な悟り、至福の状態に到達すること、と云った。 あるいは果てしなく理論を考え、それを自分の生の主題として生きていくこともできます。 私たちの生には、 幾ばくかのお金を稼ぎ、馬鹿げた種類の娯楽にそれを費やすこと以外、何の意味も目的もありません。 理論のなかにではなく、実際に、自分自身の生のなかに、このすべてを見ることができます。 自分自身のなかの果てしない戦い、目的の、悟りの追求、 世界中に―インドや日本に―瞑想の技術を学ぶために行くこと。 あなたは千もの目的を考え出せます。 しかし、あなたはどこへ行く必要もありません。 ヒマラヤにも、僧院にも、どんな道場にも。 なぜなら、あらゆるものがあなたのなかにあるからです。 どうやって見るのかを知るなら、最高のもの、測り知ることのできないものが、あなたのなかにあるのです。 「あるがままのもの、測り得るもの」を通して、あなたは「測り知れないもの」を見出します。 それは、あなたが自分自身で始めなければならないことです。 それをどうやって見るのかを知ることです。 それは、観察者なしに見ることなのです。 努力とは、あるがままのものをそれとは違ったものに― つまり、あるべきものに変える闘いを意味しています。 私たちは、あるがままのものに直面することを怖れるため、 絶えずそれに制御や修正という形で働きかけ、 それを見ることを避けるのです。 私は、どんなときにも自分や他人を測定しません。 この測定のない状態は、実際にあるがままのものと共に生きるとき、 あるがままのものを善悪の規準で判断しないときにやってきます。
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