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対混乱期


今日はこれから予想される災害や、非常事態の際にどういう精神状態を構えていたほうがいいだろうかと考えてみます。自分用の頭の体操です。


必要なのは「一手」だけです。二手はいりません。


・思考が流れてきたときに瞬間的(1秒)に気づける意識の焦点になっていること


自分の思考をフリーパスにしているから苦しみます。苦しみは思考のボス「私」が身をくねらせる、カーテンがカーテンをくねらせる、分離意識の雑音発生状態のときにだけ生まれます。


思考に気づく焦点というのが、思考と思考の隙間そのものに焦点をあてていないと
「準備完了」になっていません。


流しそうめんみたいなものです。
箸を構えますよね。箸を構えてスタンバイしていない人はそうめんをスルーします。


スルーするということは想念を「私の考え」として同一視してしまい、
そこから発生する自我という一人の人格に振り回される状態が続くということです。


箸を構える。と気軽に言いますけれど、
これが伝わるかどうかがなんだかんだ言ってむずかしいです。


「次の思考に1秒で気づく状態」を保つと表現しています。


流しそうめんの桶の「空白部分」を見ているはずです。
そうめんはまだ流れてきていないとき、空白だけが残ります。


この空白を見る状態を、
「空白を見ること」という一つの名詞にするなら、注意すべきことはもう一つあります。
「空白を(私を現さずに)見ること」です。


「私が」+「考えている」
と考えていますよね?
この前提は
「私が(肉体をもつ個人として生きています)」+「考えている」
です。
「私が(肉体をもつ個人として生きています)」←これそのものが最強の強度をもつ思考です。


「最強の強度をもつ思考」+「考えている」
ですから、
「ボスも思考(生態調査をしたことがないので発生点が不明)」+「子分も思考(注意すれば流れてきた瞬間に気づける)」


子分はボスがいるときにしか「発生しない」ので、
思考が流れてきているのは「私」が想像されているからです。たとえば


「カツ丼が食べたいなあ」という思考が流れてくるのは
「カツ丼を食すことのできる私である」と今この瞬間想像しているからです。


カツ丼食べたい←浅い思考
カツ丼食べれる私←深い思考


カツ丼の思考は、私という思考の「ために」発生しています。
私という思考(=抽象観念)の利益のために働いているんです。


浅い思考が流れてきた時点で、
深い思考まで遡らないといけません。


正確には「私=肉体」という幻想の想念を直視して、
それが消滅するのを見届けます。


思考と思考の隙間というのは
浅い思考と深い思考双方がクリアされた空白状態でなければなりません。


クリシュナムルティの言い方なら
「観察者なしに見ること」


これはよく観察すればわかりますが、デフォルトの意識状態です。


次の思考に1秒で気づく状態ということは
・私が現れていない(私が現れているかどうかがリアルタイムに見張られている)
・区別・判断が現れていない


ということです。


これが中立・中庸です。
瞬間とともにある愛のあり方です。


カルキ・バガヴァンの言い方なら、
五感が「私から」解放されている状態です。


沈黙とあるがままと愛はひとつです。



いつであれ、いかにあれ、ただ心だけを「至高なるもの」の中に失いなさい。それがヨーガ、それが至福だ!それがヨーギー、至福の化身なのだ!


神を礼拝するのに花々や物を捧げるのは厄介なこと。ハートというたった一本の花をシヴァの御足(みあし)に捧げて安らぎなさい。こんな単純なことさえ知らずに、さ迷い続けるのは何と愚かなことか!何と不幸なことか!


あなた自身の状態について日々考えなさい。夢のない深い眠りの中に知性はありません。しかし今はそれがあります。子供の中に知性はありません。それは年齢とともに発達するのです。眠りの状態や子供の中に知性が種子として存在していなかったのなら、どうして現れることができたのでしょうか?
この基本的事実を理解するために歴史を振り返る必要はありません。歴史における真理は個人における真理と同レベルのものなのです。


質問者 神には形がありますか?


マハルシ そう問うのは誰でしょうか?


質問者 もし神に形がないなら、偶像崇拝は正しいのでしょうか?


マハルシ 神のことは放っておきなさい。なぜなら、それは未知の存在だからです。あなたはどうなのですか?あなたには形がありますか?


質問者 はい。私にはこの身体があります。


マハルシ それでは、あなたには手足があり、身長は170センチほどで、髭をはやしているなどということですね?


質問者 そのとおりです。


マハルシ では深い眠りの中でも、あなたはそのような姿をしていますか?


質問者 目が覚めた後、私は自分が眠っていたことに気づくのです。これから推測すれば、私は深い眠りの中でもそのような身体だったということになります。


マハルシ もしあなたが身体なら、なぜ死後、死体は埋められるのでしょうか?身体は埋葬されるのを拒むはずです。


質問者 いいえ。私は粗大な身体の中に宿る精妙なジーヴァです。


マハルシ それゆえ、あなたは本当は無形なのです。しかし今のあなたは自分を身体と同一視しています。あなたに形があるかぎり、なぜ無形の神を形あるものとして礼拝してはいけないのですか?


質問者はまごつき、困惑した。



質問者 私たちには意識を拡張する麻薬のさまざまな体験の長い経歴があります。それらは高次や低次といった別の意識状態の体験を、そして麻薬は信頼できず、良くても一時的であり、最悪では有機体と人格を破壊するという確信を私たちに与えてくれました。私たちは意識の発達と超越のためのより良い方法を探しています。探求の結果が、薄れゆく記憶と無力が後悔に変わるのではなく、私たちとともにとどまり、人生を豊かにしてくれることを望んでいるのです。もし霊的ということで、私たちが自己探求と発達を意味するなら、インドに来た目的はまぎれもなく霊的なものです。幸福なヒッピーの時代を私たちは後にしたのです。私たちは、今真剣に進んでいこうとしています。そこに発見すべき実在があることは知っているのですが、どのようにしてそれを見つけ、つかまえればいいのか知りません。私たちには説得ではなく指導が必要なのです。助けていただけますか?


マハラジ  あなたに助けは必要ない、ただ助言だけが要る。あなたが探しているものは、すでにあなたのなかにある。私の場合を例に見てみなさい。私は真我の実現のために何もしなかった。私の師が、実在は私のなかにあると言ったのだ。私は内面を見て、そこにそれを発見した。まさしく、師の言ったように。実在を見ることは、自分の顔を鏡で見ることのように簡単なことなのだ。ただ鏡は汚れのない、本物でなければならない。欲望や恐れによる歪みがなく、観念や意見から自由な、すべてのレベルで明晰な、静かなマインドが実在を反映するために必要なのだ。澄んで、静かに在りなさい。油断なく冷静に在りなさい。そうすればほかのすべてはひとりでに起こるだろう。


質問者 あなたは真理を悟る前に、マインドを澄んだ静かな状態にしなければなりませんでした。どうやってそれをしたのでしょうか?


マハラジ  私は何もしなかった。それはただ起こっただけだ。私は私の人生を送り、家族の必要に従事していたのだ。私のグルも何もしなかった。彼が言ったとおり、それはただ起こったのだ。


質問者 ものごとはただ起こるものではありません。すべてに原因があるはずです。


マハラジ  起こることすべてが起こることすべての原因なのだ。原因は無数にある。たったひとつの原因という考えはただの幻想だ。


質問者 あなたは何か瞑想やヨーガといった特別なことをしていたに違いありません。真我の実現がひとりでに起きるなどと、どうして言えるのでしょうか?


マハラジ  何も特別なことはなかったのだ。私はただ私の人生を生きていただけだ。


質問者 驚きです!


マハラジ  私もそうだったのだ。だが、驚くような何があるというのだろう?私の師の言葉が現実となった。だから何だというのだろう?彼は、私自身を私よりよく知っていたのだ。なぜ原因を探すのか?最初のうち、私は「私は在る」という感覚に注意を払っていた。だが、はじめのうちだけだ。しばらくしてグルは死に、私は生きつづけた。彼の言葉が真実だと証明された。それだけだ。それはすべてひとつの過程だった。あなたはものごとを時間のなかで区別し、それから原因を探しだそうとしているのだ。


質問者 あなたの現在の仕事は何でしょうか?あなたは何をしているのですか?


マハラジ  あなたは在ることと、することを同一視している。それはそうではないのだ。マインドと身体が動き、変化し、ほかのマインドと身体を動かし、変化させていく。それがすること、行為と呼ばれるものだ。私が見るには、燃えることによって火が続いていくように、行為がつぎの行為を生みだしていく、それが行為の本質だ。私は行為もしなければ、ほかの者に行為させることもしない。私は永遠に、起こっていることに気づいているのだ。


質問者 あなたのマインドのなかや、他者のマインドのなかのことも気づいているのでしょうか?


マハラジ  そこには、「私はこれだ、私はあれだ。これは私のものだ。あれは私のものだ」という考えが群れをなしたひとつのマインドがあるだけだ。私はマインドではない。けっしてそうではなかったし、そうあることもないだろう。


質問者 マインドはどうやって現れたのでしょうか?


マハラジ  世界は物質、エネルギー、知性で構成されている。それらは多くの方法でそれ自体を現している。欲望と想像が世界を創造する。知性はその二つを調停し、平和と調和の感覚をもたらすのだ。私にとっては、それはすべて起こるだけだ。私は気づいていて、しかも影響を受けないままなのだ。


質問者 影響を受けないまま、気づいていることはできません。そこには言葉上の矛盾があります。知覚とは変化です。ひとたびあなたがある感覚を体験したら、記憶は以前の状態に後戻りすることを許さないでしょう。


マハラジ  そのとおりだ。記憶に加えられたことを消去するのは簡単なことではない。しかし、間違いなくそれはできる。事実、私はつねにそれをやっている。飛ぶ鳥のように、私は足跡を残さないのだ。


質問者 観照者は名前と形をもっているのでしょうか、それとも、それらを超えているのでしょうか?


マハラジ  観照者は気づきのなかの単なる点にすぎず、名前も形もない。それは露のしずくに映る太陽の反映のようなものだ。露のしずくには名前も形もない。だが、光の小さな点は太陽によってできたものだ。しずくの透明さとなめらかさは必要な条件であるが、それ自体としては充分と言えない。同じようにマインドの明晰性と沈黙は、マインドのなかに実在の反映が現れるために必要であるが、それだけでは充分でないのだ。それを超えたところに実在がなければならない。実在は永遠に存在しているため、必要条件のほうが強調されるのだ。


質問者 マインドが澄んで、静かであるにもかかわらず、反映が現れないこともありうるのでしょうか?


マハラジ  運命が考慮されなければならない。無意識は運命に捕らえられている。事実、それが運命なのだ。人は待たなければならないかもしれない。しかし、運命の手がいかに重くのしかかろうと、忍耐と自己制御によって取り除くことはできるのだ。統合と純粋さが障害をぬぐい去るとき、マインドのなかに実在の姿は現れてくる。


質問者 どのようにして自己制御を習得するのでしょうか?私のマインドは軟弱なのです!


マハラジ  まず、あなたはあなたが考えているような個人ではないということを理解しなさい。あなたがあなた自身だと考えていることは、単なる想像や思いつきにすぎないのだ。あなたに両親はいない。あなたは生まれてもいなければ、死にもしないのだ。私がそう言うのを信じるか、あるいは探求し、調査することでそれに到達するがいい。完全なる信頼の道は速い。もうひとつの道は遅いが、安定している。どちらも行為によって試されなければならないのだ。あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。これが真理への道なのだ。


質問者 真理を受けるに値する人となることと運命とは、ひとつであり同じことなのでしょうか?


マハラジ  そうだ、それらはどちらも無意識のなかにある。意識している長所とは単なるうぬぼれにすぎない。意識はつねに障害なのだ。障害のないとき、人はそれを超えることができる。


質問者 私は身体ではないという理解が自己制御に必要な力を与えてくれるでしょうか?


マハラジ  あなたが身体でもマインドでもないと知るとき、それらによって影響されることはなくなる。それがどこにあなたを連れていこうとも、あなたはする必要のあることをし、払うべき代償が何であれ、真理にしたがっていくだろう。


質問者 行為は真我の実現に本質的なものなのでしょうか?


マハラジ  真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。行為は偶然のものでしかない。確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。行為とは真理の試験なのだ。


質問者 試験が必要なのでしょうか?


マハラジ  もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在と空想との区別はできなくなるだろう。観察と注意深い理性はある程度の助けになる。しかし、実在は逆説的なのだ。思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らないうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現したということをどうして知ることができるだろう?本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。


質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?


マハラジ  光が身体によって遮られたとき、影が現れるのと同じように、純粋な自己覚醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が現れる。そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働いたり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為す」と言うのだ。「私は知っている」ということは、真実に反することではない。それは単に限定されているだけだ。しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。


質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?


マハラジ  宇宙は行為であふれている。だが、そこに行為する者はいないのだ。そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そして大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。行為はそれらの領域なのだ。観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとどまりなさい。木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係してはいるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性もないのだ。人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。あたかも重荷が落ちたかのように。


質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのような体験があなたにそう言わせるのでしょうか?それはただの観照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?


マハラジ  それはプリント地の布を洗うようなものだ。はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白になる。人格は観照者に場をゆずる。それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。布は、はじめは白く、終わりも白い。パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。


質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか?


マハラジ  気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのような状態が個人と呼ばれるのだ。実際にはただひとつの状態があるだけだ。自己同一化によって歪曲されたとき、それは個人と呼ばれる。それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もないとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。


質問者 私はつねに落ち着きがなく、切望し、期待し、探しだし、見つけだし、楽しみ、放棄し、また探しはじめるのです。何が私を煮えたたせつづけるのでしょうか?


マハラジ  本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。あなたは愛するにふさわしい、完全に愛する価値あるものに恋いこがれている。無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。


質問者 私はいつまでもこの悲しみに満ちた世界に取り組んでいくのでしょう。


マハラジ  先走ってはいけない。あなたは知らないのだ。すべての現れが対立のなかにあるのは本当だ。快楽と苦痛、善と悪、高い低い、進歩と後退、休息と闘い。それらはすべて、ともに来て、ともに去っていくものだ。そしてそこに世界があるかぎり、その矛盾はそこにあるだろう。そこにはまた完全な調和、至福、そして美のときがあるかもしれない。だが、ほんのしばらくの間だけだ。完全なものは、すべての完全なものの源に帰り着き、対立するものはその戯れを続けるのだ。


質問者 どのようにして完成に到達するのでしょうか?


マハラジ  静かになりなさい。世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。だが、内側では静かにしていなさい。そうすればすべてはやってくるだろう。真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにしていることにあるのだ。真我実現した人たちはとても静かなのだ。



今日をありがとうございました。
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