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障害は、
1、自己の純粋な存在を忘れるという無知。
2、その体験が真実だったのかどうかと疑い始めること。
3、「私は身体だ」「世界は実在だ」という誤った概念。
などにある。それらは真理を聞き、それについて熟考し、集中することで克服されるのだ。


それは閃光のように現れ、閃光のように消え去りました。始まりのあるものには、終わりがなければなりません。常在の意識が実現されたときにだけ、それは永遠のものとなるのです。実際、意識は常に私たちとともに在ります。誰もが「私は在る」ことを知っています。自分自身の存在を否定することは誰にもできません。深い眠りの中にいる人は気づいていません。目覚めているときは気づいているように見えます。しかしそれは同じ人なのです。眠りについた人と、今目覚めている人の間には何の変異もありません。深い眠りの中にいるとき、彼は身体に気づいていません。身体意識がそこにないからです。目覚めの状態では、彼は身体に気づいており、そこには身体意識があります。それゆえ、違いは身体意識の出現にあり、真の意識の中にはいかなる変化もないのです。


身体と身体意識はともに立ち現れ、ともに沈みゆきます。これはつまり深い眠りの中には限定がないのに対して、目覚めの状態には限定があるということです。この限定が束縛であり、「私は身体である」という感覚が誤りなのです。この偽りの「私」が消え去らなければなりません。真の「私」は常に存在しています。それは今、ここに在ります。新たに現れることもなければ、再び消え去ることもありません。在るものである「それ」は、常にそこに在り続けるはずです。新たに現れたものは、再び失われるでしょう。深い眠りと目覚めを比較してみなさい。身体は一つの状態の中に現れますが、もう一つの状態の中には現れません。それゆえ、身体は失われるものなのです。意識は身体よりも前に存在し、身体が失われても在り続けます。事実、「私は在る」と言わない人はいません。「身体が私だ」という偽りの知識がすべての不幸の原因です。この誤った知識が消え去らなければなりません。これが実現です。実現は何か新しいものを獲得することでも、新しい能力を手に入れることでもありません。それはただすべての覆いを払い去ることなのです。



質問者 真の本性を実現する前に、人は個人として在る必要があるのではないでしょうか?自我にはそれなりの価値があるのではないでしょうか?


マハラジ  個人は何の役にも立たない。それは自分の関心事に深く巻きこまれ、その真の存在に完全に無知なのだ。観照意識が個人に働きかけないかぎり、そして個人が観察の主体よりも、むしろ対象とならないかぎり、真我の実現は不可能だ。真我の実現を望むべき達成可能なものとするのは、観照者なのだ。


質問者 人生のなかで、個人が観照者になる時点が来るのですね。


マハラジ  そうではない。個人が自ら観照者になることはない。それでは冷たいロウソクがやがて自ら火を灯すことを期待するようなものだ。個人は気づきの炎に触れられないかぎり、無知の暗闇の中に永遠にとどまることもありうる。


質問者 誰がロウソクに火を灯すのでしょうか?


マハラジ  グルだ。彼の言葉、彼の臨在だ。インドでは、しばしばそれはマントラだ。ひとたびロウソクに火が灯れば、炎はロウソクを燃やし尽くすのだ。


質問者 なぜ、マントラはそれほど効果的なのでしょうか?


マハラジ  絶え間ないマントラの復唱は、個人が自分のためにするような何かではないからだ。ロウソクが燃えるほどロウソクが増えていくということがないように、その恩寵を受ける人は個人ではないのだ。


質問者 個人は自分で自分に気づくことができるのでしょうか?


マハラジ  できる。それはときどき、大変な苦しみの結果として起こることがある。グルはあなたを果てしない苦痛から救いたい。彼の恩寵とはそのようなものなのだ。たとえ外側のグルが発見できないとしても、そこにはつねに内側から助け導く、内なる師(サットグル)がいる。内面や外面という言葉は身体にだけ関係する言葉だ。実際には、すべてはひとつだ。外側の存在は単に内面の投影にすぎない。気づきは高次の次元からやってくるのだ。


質問者 火花が点火される前と後では何が違うのでしょうか?


マハラジ  火花が点火される前には、違いを知覚する観照者がいない。個人は意識しているかもしれない。だが、意識していることには気づいていない。個人は考えること、感じること、体験することと完全に自己同一化している。その中の暗闇も、個人が自らつくり出したものだ。暗闇が疑われたとき、それは解け去る。疑おうとする欲望は、グルによって植えつけられるものだ。別の言葉で言えば、個人と観照者との違いは、自分自身を知っていることと、知らないことにある。そこに調和(サットヴァ)があるとき、意識のなかで見られる世界は意識の本性として在る。だが活動性(ラジャス)や受動性(タマス)が現れるとき、それらは覆い隠し、歪ませ、そうしてあなたに偽りを実在として見せるのだ。


質問者 グルの到来の準備として、個人には何ができるのでしょうか?


マハラジ  準備への欲望自体が、グルがすでに訪れ、炎が灯されたことを意味している。それは偶然出くわすひとつの言葉、あるいは本のなかの1ページかもしれない。グルの恩寵は神秘的に働くのだ。


質問者 心構えといったものはないのでしょうか?私たちはヨーガのサーダナ(修練)について、たいへん多くのことを聞いています。


マハラジ  サーダナをするのは個人ではない。個人は不安で、最後の最後まで抵抗する。個人とその幻想、過去、現在、未来全体に働きかけるのは観照者なのだ。


質問者 あなたの言われることが真実だと、どうやって知ることができるのでしょう?それ自体のなかで充足し、内なる矛盾のないあなたの話が、絶え間ないくり返しによって豊かに飾りたてた、創意に富んだ想像の産物ではないと、どうやって知ることができるのでしょうか?


マハラジ  真理の証拠は聞き手への影響のなかにあるのだ。


質問者 言葉はもっとも強力な影響を与えることができます。聞くことによって、あるいは言葉をくり返すことによって、人は多様な超越状態を体験することができます。聞き手の体験は誘導されたものかもしれず、証拠として考慮することはできません。


マハラジ  影響がかならずしも体験である必要はない。それは人格、動機、人々との、そして自己との関係性における変化でもありうる。言葉や薬物、あるいはほかのいかなる感覚的、精神的方法で誘導された超越状態や幻想も一時的なもので、決定的とは言えない。ここで語られた真理は不動の、永遠のものだ。そしてその証拠は聞き手のなかに、彼の存在全体における深い永続的な変化のなかにあるのだ。彼自身の自己の存在を疑わないかぎり、その証拠は彼が疑えるようなものではない。わたしの体験があなた自身の体験となったとき、それ以上の証拠をあなたは求めるだろうか?


質問者 体験者が彼の体験の証拠です。


マハラジ  まったくそのとおりだ。だが、体験者に証拠は必要ないのだ。「私は在る」、そして私は「私は在る」と知っている。それ以上の証拠を望むことはできない。


質問者 ものごとの真の知識というものはありうるのでしょうか?


マハラジ  相対的見地からすれば――ある。絶対的見地からすれば――ものごとといったものはないのだ。何も存在しないことを知ることが、真の知識だ。


質問者 何が相対性と絶対性を連結するものなのでしょうか?


マハラジ  それらは同一のものだ。


質問者 どの見地から、それらが同一なのでしょうか?


マハラジ  言葉が話された後、そこには沈黙がある。相対性が終わったとき、絶対性が残るのだ。言葉が話される前の沈黙は、話された後の沈黙と異なるだろうか?沈黙はひとつであり、それなしには言葉も聞こえなかっただろう。それはつねに言葉の背景にあるのだ。あなたの注意を言葉から沈黙へと移行しなさい。そうすれば、あなたは聞くだろう。マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。ジニャーニはすべての体験を超えている。そして彼は過去の記憶をもたないのだ。彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のなかに押しこもうと熱心なのだ。すべてにおいてそれは観念を求める。なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。実在は本質的にひとりなのだ。だが、マインドはそれをひとりにしておかない。そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことなのだ。


質問者 実在を実在として見ることは?


マハラジ  実在を見るという状態はない。誰が何を見るというのだろう?あなたは実在として在ることができるだけだ。いずれにせよ、あなたは実在なのだ。問題はただ精神的なものだ。偽りの概念を放棄しなさい。それだけだ。真の概念など必要ない。そんなものはないのだ。


質問者 では、どうして私たちは実在を探し求めるように勧められるのでしょうか?


マハラジ  マインドは目的をもたなければならない。非実在からマインドを自由にするように奨励することは、何らかの見返りを約束することだ。実際には目的の必要などない。偽りから自由になること自体が良いことなのだ。それは報酬を求めてはいない。それはまったく汚れずにいるようなものだ。それ自体がその報酬なのだ。


質問者 自己知識は報酬ではないのでしょうか?


マハラジ  自己知識の報酬は個人的自己からの解放だ。あなたに知る者を知ることはできない。なぜなら、あなたが知る者だからだ。知っているという事実は知る者を証明している。ほかの証拠など必要ない。知られるものを知る者は不可知なのだ。光が色彩でのみ知られるように、知る者は知識のなかで知られるのだ。


質問者 知る者とは推測にすぎないのでしょうか?


マハラジ  あなたは身体、マインド、感情を知っている。あなたは推測にすぎないのかね?


質問者 私は他者にとって推測ですが、わたし自身にとってではありません。


マハラジ  私にとってもそうだ。私はあなたにとってはひとつの推測だが、わたし自身にとってではない。私は私自身であることによって、わたし自身を知っている。あなたが人間として在ることで、あなた自身が人間であることを知っているように。あなたは自分が人間だということをつねに自分に思い起こさせたりはしない。あなたの人間性が疑問視されたときにだけ、それを主張するのだ。同じように、私は私がすべてであることを知っている。私には、「私はすべてだ。私はすべてだ」と繰り返す必要はない。あなたが私を何か特定の者、個人として見なすときだけ、私は言明するのだ。あなたがつねに人間であるように、私はつねに私で在るものなのだ。疑いの余地なく、何であれ、変わることなくあなたであるものがあなたなのだ。


質問者 あなたがジニャーニであることをどのようにして知るのかと尋ねると、あなたは、「私のなかには欲望がない。それが証拠ではないかね?」と言われます。


マハラジ  私が欲望に満ちていたとしても、それでも私は私で在るものなのだ。


質問者 私自身、欲望に満ちています。そしてあなたも。そこにどのような違いがあるのでしょうか?


マハラジ  あなたは欲望と自己同一化し、それらの奴隷になる。私にとって欲望はものごとのなかのひとつであり、精神的な空のなかに浮かぶ雲にすぎない。そして私がそれらを満たす行為へと強いられることはないのだ。


質問者 知る者と彼の知識、それらはひとつでしょうか、それとも二つのものでしょうか?


マハラジ  それらはひとつであり、二つでもある。知る者が非顕現であり、知られるものが顕現だ。知られるものはつねに動いている。それは変化し、それ自体の形も、住処ももたない。知る者はすべての知識の不変の支持者だ。どちらも互いを必要としている。だが、実在はその彼方に在るのだ。ジニャーニが知られることはない。なぜなら、そこには知られるような誰もいないからだ。個人が存在するとき、それについて何か言うことはできる。だが、そこに特定のものとの自己同一化がないとき、何を言うことができるだろう?あなたはジニャーニに何かを言うかも知れない。彼の質問はつねに「あなたは誰について語っているのか?そのような個人は存在していないのだ」というものだろう。あなたは宇宙について何も言えない。なぜなら、それはすべてを含んでいるからだ。同じように、ジニャーニについて言えることも何もないのだ。なぜなら、彼はすべてであり、特定の何かではないからだ。壁に絵を掛けるにはフックが必要だ。フックがなければ何に絵を掛けるというのだろう?ものの位置を決めるには空間が必要だ。出来事を位置づけるには時間が必要だ。だが、時間と空間を超えたところでは、手のつけようがない。それはあらゆるものを知覚可能にする。それにもかかわらず、それ自体は知覚の彼方にあるのだ。マインドはマインドの彼方にあるものを知ることができない。だが、マインドはその彼方のものによって知られる。ジニャーニは誕生も死も知らない。存在、非存在は彼にとって同じことなのだ。


質問者 あなたの身体が死を迎えるとき、あなたは残るのです。


マハラジ  何も死にはしない。身体はただ想像上のものだ。そこにそのようなものはないのだ。


質問者 もうひとつの世紀が訪れる前に、あなたは周りのすべてに対して死んでいることでしょう。あなたの身体は花に覆われ、それから焼かれ、そして灰はばらまかれるでしょう。これが私たちの体験なのです。あなたの体験はどのようなものでしょうか?


マハラジ  時間は終焉するだろう。これが偉大な死(マハームリティユ)と呼ばれるものだ。時間の死だ。


質問者 それは宇宙とその内容が終局を迎えるということを意味するのでしょうか?


マハラジ  宇宙とはあなたの個人的な体験なのだ。どうしてそれが影響を受けようか?あなたは二時間の講義をしていたかもしれない。それが終わったとき、それはどこへ行ったのだろうか?それは講義のはじめ、中間、そして終わりのすべてのなかにある沈黙のなかへと消え去ったのだ。時間の終わるときが来た。それは在った。だが、それはもうないのだ。一生話しつづけた後の沈黙と、一生沈黙していた後の沈黙は同じ沈黙だ。不死とは「私は在る」という感覚からの自由だ。しかもそれは消滅ではない。その反対に、それはあなたが思い描く以上にかぎりなく実在で、気づいていて、幸福だ。ただ、自己意識だけがもうないのだ。


質問者 なぜマインドの大いなる死と身体の小さな死とは同時に起こるのでしょうか?


マハラジ  それは同時には起こらない。あなたは精神的動揺もなく、百回もの死を死ぬかもしれない。あるいはあなたは身体を維持しながら、マインドのなかだけで死ぬかもしれないのだ。マインドの死は智慧の誕生だ。


質問者 個人は去り、ただ観照者だけが残ります。


マハラジ  誰が残って「私は観照者だ」と言うのだろう?そこに「私は在る」がないとき、どこに観照者がいるというのだろう?時を超えた状態のなかに、自我が逃れる場所はないのだ。包みをもっている人は、それを失わないかと不安だ。彼は「包み意識」をもっているのだ。「私は在る」の感覚を大切にしている人には自意識がある。ジニャーニは何もつかまない。それゆえ、意識しているということはできない。しかも、彼は無意識でもないのだ。彼は気づきの本質そのものだ。私たちは彼をディガンバラと呼ぶ。空を身にまとい、すべての現れを超えた裸の人だ。彼がそのもとに存在するといえるような名前や形は何もない。それでも彼は唯一、真に存在する人なのだ。


質問者 私には理解できません。


マハラジ  誰にできるだろうか?マインドにはそれ自身の限界があるのだ。知識の極限の地へとあなたを連れていき、未知の広大さに直面させるだけで充分だ。そのなかへと潜っていくことはあなた次第なのだ。


質問者 観照者は実在でしょうか、それとも非実在でしょうか?


マハラジ  その両方だ。それは幻想の最後に残るものであり、実在の最初に触れるものだ。「私はただの観照者でしかない」と言うことは、偽りであり、真実でもある。それは「私は在る」ゆえに偽りであり、観照者ゆえに真実なのだ。「そこに観照がある」と言ったほうがより確かだ。あなたが、「私は在る」と言った瞬間、宇宙全体がその創造者とともに存在のなかに現れるからだ。


質問者 別の質問です。個人と自己とを二人の兄弟として想い浮かべることができるでしょうか?弟はいたずら好きで、利己的であり、粗野で落ち着きがないのですが、兄は知性があり、親切で、分別があり、思いやりがあって、身体意識とその欲望と恐れから自由です。兄は弟を知っています。しかし、弟は兄の存在に無知で、完全に独立して生きていると考えています。グルがやってきて弟に言うのです。「あなたはひとりではない。あなたはとても良い家族の出なのだ。あなたの兄は大変注目すべき人で、賢明で、優しく、そしてあなたをとても愛しているのだ。彼を思い出しなさい。彼を想いなさい。彼を見いだしなさい。彼に仕えなさい。そうすれば、あなたは彼とひとつになることだろう」と。さて、質問とは、私たちのなかには二人がいるのでしょうか?個人と自己が。偽りの自己と本来の自己が。それともそれはただの直喩にすぎないのでしょうか?


マハラジ  その両方だ。そこには二人いるように現れる。だが、調べることによってひとりであることがわかるのだ。疑われないかぎり、二元性は継続する。マインド(ヴィヤクティ)、自己(ヴィヤクタ)、魂(アヴィヤクタ)の三位は、超越の体験の様式にすぎない。


質問者 私たちが夢の状態にいるというあなたの仮説が、あなたを論破することのできない立場に置いているのです。何であれ私たちが異議を唱えると、あなたはただその正当性を否定してしまいます。あなたと討論することは不可能です。


マハラジ  討論したいという欲望もまた、単なる欲望にすぎない。知ろうとする欲望、力を持とうとする欲望、存在しようとする欲望さえ、ただの欲望なのだ。誰もが、存在すること、存続すること、継続することを欲望する。なぜなら、誰も自分自身に確信がないからだ。しかし、誰もが不死不滅なのだ。あなたは自分を身体と見なすことで、自分自身を死ぬべき運命のものにしてしまうのだ。


質問者 あなたは解放を見いだしたのです。私に少し分けてくださいませんか?


マハラジ  なぜ少しなのかね?すべてを取りなさい。それは取るためにそこにあるのだ。だが、あなたは解放を恐れているのだ。


質問者 スワミ・ラームダース* は同じような頼みに対処したことがありました。ある日、何人かの弟子たちが彼のまわりに集い、解放してほしいと頼んだのです。ラームダースは微笑みながら聞いていましたが、突然、彼はまじめになって言ったのです。「あなたは今ここでそれを得ることができるのだ。絶対的な永遠の解放を。欲しいのは誰かね?前に出てきなさい」と。誰ひとり動く者はありませんでした。三度、彼はくり返し申し出たのですが、誰も受け入れませんでした。そして彼は言ったのです。「申し出は取り消された」と。


マハラジ  執着が勇気を破壊するのだ。与える者にはいつも与える用意がある。だが、受け取る者がいないのだ。自由とは手放すことを意味している。人々はすべてを手放したくない。死が不死の代価であるように、無限なるものの代価が有限なるものだということを彼らは知らないのだ。霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。あきらめることが第一歩なのだ。だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではない。ただそれを忘れるだけだ。


*訳注 スワミ・ラームダース Swami Ramdas(一八八四-一九六三)
南インドのケララ州生まれの偉大な聖者。一般の家住者の生活を送っていたが、三十六歳でサンニャーシンとなる。ラーマ神の帰依者として OM SRI RAM JAI RAM JAI JAI RAM のマントラを復唱。一九一八年、シュリー・ラマナ・マハルシに出会う。聖なる丘アルナーチャラの洞窟に暮らし、ラーマ神のヴィジョンを見る。インド各地を遊行した後、カドリ洞窟にてラーマ神との自己同一性を実現する。アーナンダアシュラムを設立。後継者はクリシュナ・バイ。






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