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知的分析や概念化のさかんな現代にあって、人々は非常にシンプルな何かを忘れています。人々が忘れているのは、人間の意識の基本的性質は愛であるということです。この”大いなる愛”の表面にチラチラと映るたえまない影は、実は影以外の何ものでもないのですが、人はそれを現実と思いこんでいるので、影を反映したドラマの方が人を魅了して、そのあいだに愛はすりぬけてしまいます。そして、人は、愛し方がわからないと言うのです。あなたは愛し方をちゃんと知っています。


誰も愛し方を学ぶ必要はありません。必要なのは、もっと簡単なことです。自分の怖れを捨てることです。怖れがなくなったとき、愛がそこに現れます。



あなたはいつも自分の人生で、兄弟の存在を重く考えすぎています。たとえば、自分の問題をすべて兄弟のせいにし、わたしにやったように十字架につけます。かと思えば台座にのせて敬い、わたしにやったように、ひたすらにあがめたてまつるのです。


兄弟をあなたと対等なものだと見るのは、昔からむずかしかったようですね。あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい、とわたしが説いたとき、それはいろいろな状況で使える簡潔なルールのつもりでした。ところが残念ながら、自分自身を愛していないと、隣人を愛するという幸運にまで手がまわりません。


自分自身を愛するのを学ぶことと、兄弟を愛するのを学ぶことは、同時進行です。兄弟を愛して自分を憎むことはできませんし、自分自身を愛していて兄弟を憎むこともできません。兄弟に対する感情は、自分自身に対する感情を鏡に映しているにすぎません。


そんなわけですから、兄弟とのかかわりあいは、あなたが自分自身の中のなにを宥さねばならないかを見せてくれるでしょう。あなたが兄弟の出すぎたふるまいを宥すことが、相手が自分を宥すことにつながれば、そのかぎりにおいて、それも意味があります。同じように兄弟があなたのふるまいを宥してくれて、そのおかげであなたが自分を宥すことができたとすれば、それなりの意味があります。


でも他人からの宥しは、あなたがそれを必要だと信じている場合にだけ必要です。たいていの人がそうなのですが、宥してもらわねばと思いこんでいると、償いをすることが重要になります。宥しを乞うことは、その事件に関して、自分の心を変える準備ができていることのあらわれです。これはプロセスの重要な一歩です。


しかしながら、あなたを宥す「力」を兄弟に与えてしまうのは、誤りです。それでは、力をあなたの外においてしまいます。外に力はありえません。兄弟に宥しを乞うのはいいでしょう。しかし、宥してくれなければ自分は永遠に宥されないのだ、と考えてはなりません。じつは宥しとは、つねにあなたに与えられているものなのです。宥しを与えない人は、それを自分に対しても拒んでいるというだけにすぎません。


自分が兄弟を非難していることに気づいたら、自分の非難相手は、ほんとうはその当人ではないということがわかります。非難しているのは、自分が認めていない、自分の恥ずべき部分です。兄弟にどこか欠けたところがあると感じたら、いい気持ちにはならないでしょう。それは自分自身の無価値感をもつのらせるだけです。


正義も救済も、兄弟を攻撃することによっては得られません。実態をよくごらんなさい。あなたが兄弟の手に打ちつける釘はすべて、自分自身をも十字架に打ちつけています。わたしがそのよい例です。すべての攻撃がとだえるまで、わたしはずっと十字架にかかったままでいるでしょう。そのときまでは、あなたもわたしも同じです。どちらも十字架にはりつけられています。


兄弟とのかかわりの中には、シンプルな選択があります。相手を無罪とするか、有罪とするかです。この選択は何度も何度も、毎日、毎時、毎秒やってきます。ひとつの思いで兄弟を幽閉し、べつの思いで釈放します。相手をこう扱おうと決めたやりかたで、あなたはあなた自身を裁くことになります。


兄弟をひきずりおろすことによっては、天国に行けません。しかし兄弟を背負ってつれていこうとしても、やはり天国には行けないのです。あなたがたにはひとり残らず、自分自身の無実を見いだす手だてが与えられているからです。ただ、兄弟のありかたを認め、その旅を祝福しなさい。助けを求められたら、よろこんで助けなさい。しかし、彼が自分でなすべきことを肩代わりしてはいけません。


境界を超えて成長しようと思うなら、まず適切な境界線が必要です。あなたの心の平和や幸福を兄弟の責任にせず、また兄弟の平和や幸福を自分の責任にもしないことです。兄弟はあなたを救うためではなく、自分を救うためにここにいるのですから。


しかしそのいっぽうで、兄弟に浴びせていた不満や愚痴から、当人を解放しなさい。兄弟に対しては、いかなる方法でも愛の出し惜しみをしないでください。彼を幸福からひきもどそうとすることは、攻撃であり、あなた自身を恐怖心と罪悪感の中に閉じこめることにもなります。


兄弟から助けを求められたら、避けてはなりません。相手がのぞむかぎり、そばでともに学ばせてあげなさい。彼のほうで離れてゆく準備ができたら、祝福を祈って送りだすのです。旅に必要な食べ物と水を与えます。恩に着せたり、意志に反してひきとめたりしないように。


兄弟の自由は、あなた自身の自由のシンボルにすぎません。ですから、来るのも去るのも、彼の好きにまかせるのです。来たときは歓待し、去ってゆくときは快く送りだします。それ以上のことは、あなたにはできません。それでじゅうぶんです。見知らぬ人すべてをそんなふうに手厚く扱いなさい。そうすればわたしは、信頼がもどり慈悲心が支配する世界を見せてあげられます。


自分を愛するように隣人を愛しなさい。自分と相手を同じように扱いなさい。彼のために自分を犠牲にしたり、彼に犠牲を払わせたりせず、あなたのできるときに彼を助け、必要なときには感謝して、彼の助けを受けいれなさい。このシンプルでおごそかなやりとりこそ、愛と受容のありかたです。おたがいの信頼と尊重のあらわれです。


これ以上はやりすぎです。これ以下では足りません。



質問者 私はスウェーデンで生まれました。現在はメキシコとアメリカでヨーガを教えています。


マハラジ  どこで学んだのかね?


質問者 アメリカに住むインドの聖者(スワミ)からです。


マハラジ  それはあなたに何を与えたのだろうか?


質問者 健康と生活の糧です。


マハラジ  それはいいことだ。それがあなたの求めるすべてだろうか?


質問者 私が求めているのはマインドの平和です。キリストの名のもとに、いわゆるキリスト教徒がしてきた残酷なことのすべてに嫌気がさしてしまったのです。ある期間、私は宗教なしで過ごしました。それからヨーガに魅せられたのです。


マハラジ  あなたが得たものは何だろうか?


質問者 ヨーガの哲学を学んだことが助けになりました。


マハラジ  どのような形でそれがあなたを助けたのかね?何をもってあなたは助けられたと結論を出すのだろうか?


質問者 健康はその明白なしるしです。


マハラジ  健康であることは、疑いなく喜ばしいことだ。その喜びはあなたがヨーガから求めたすべてだろうか?


質問者 健康による喜びはハタ・ヨーガからの報酬です。しかし、概してヨーガはそれ以上をもたらします。


マハラジ  ヨーガということで、あなたは何を意味しているのだろう?


質問者 進化、輪廻、カルマ等々、といったインドの教えの全体です。


マハラジ  よろしい。あなたは求めていたすべての知識を得た。だが、それによってどのような恩恵を得たのだろう?


質問者 それは私にマインドの平和をくれました。


マハラジ  そうだろうか?あなたのマインドは平和だろうか?あなたの探求は終わったのかね?


質問者 いいえ、まだです。


マハラジ  そのとおりだ。それに終わりは来ないだろう。なぜなら、マインドの平和というものは存在しないからだ。マインドとは不安、落ち着きのなさそのものなのだ。ヨーガとはマインドの属性ではなく、マインドの状態でもない。


質問者 ある程度の平和はヨーガから引き出せたと思います。


マハラジ  綿密に調べてみなさい。そうすればマインドは騒然としていることがわかるだろう。それはときおり空白状態になるかもしれないが、それもひとときのことで、またいつもの落ち着きのなさに戻る。静かにさせられたマインドというのは平和なマインドではないのだ。あなたはマインドをなだめたいと言うが、マインドをなだめたいその人自身は平和なのだろうか?


質問者 いいえ。私は平和ではありません。私はヨーガの助けを借りているのです。


マハラジ  あなたはそこに矛盾を見ないだろうか?もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。それなのにあなたは見つけられなかった。本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。


質問者 ある程度の改善はあります。


マハラジ  あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。あなたの言う平和はただの不安の不在だ。それに本当の価値はない。真の平安は乱されることのないものだ。けっして揺らぐことのないマインドの平安が私にはある、とあなたに言えるだろうか?


質問者 私は努力しています。


マハラジ  努力もまた不安の一形態だ。


質問者 では何が残されているのでしょうか?


マハラジ  自己を安心させる必要はない。自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさだ。心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。実在にははじまりはない。ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。


質問者 では、何ができるというのでしょうか?


マハラジ  ヨーガを通してあなたは知識と体験を蓄積してきた。それは否定できないことだ。だが、それらすべてがあなたにとって何だというのだろう?ヨーガとは統合、結合を意味する。あなたは何を再統合し、再結合したのだろうか?


質問者 わたしは人格を真我に再結合しようと試みているのです。


マハラジ  人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。個人はそれ自体で独自に存在できない。個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは自己なのだ。すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)の彼方に在る。個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。なぜなら、個人というものは存在しないからだ。ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。


質問者 ヨーガは真我の探求とその発見を助けます。


マハラジ  あなたが失ったものは見つけることができる。だが、失わなかったものを見つけることはできないのだ。


質問者 何も失っていないのならば、私は悟っていたでしょう。しかし、私は悟ってはいません。私の探求そのものが、何かを失ったことの証拠ではないでしょうか?


マハラジ  それはあなたが失ったと信じていることを意味するだけだ。だが、信じているのは誰だろうか?そして何を失ったと信じるのだろう?誰かあなたのような人を失ったと言えるのだろうか?あなたの探している自己とはいったい何だろうか?何をあなたは見いだすと期待しているのだろう?


質問者 真の自己知識です。


マハラジ  真の自己知識は知識などではない。それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるような何かではない。それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。知識とは記憶にすぎない。思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。あなたはあなた自身なのだ。そしてそれには何の理由も必要ない。


質問者 ヨーガを通して私は平和を見いだすでしょう。


マハラジ  平和があなたを離れて存在するだろうか?あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか?あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。言葉は破壊のためにも用いられる。言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。


質問者 ある程度の内的平和に私は到達したのです。それを破壊するのですか?


マハラジ  到達されたものはふたたび失われるかもしれない。ただ、あなたがけっして失うことのなかった真の平和を実現したときだけ、その平和はあなたとともに残るだろう。それは一度も去ったことはなかったのだ。あなたのもっていないものを探すよりも、あなたがけっして失わなかったものとは何かを見つけなさい。すべてのはじまる以前、すべての終わった後に存在するもの、不死、不生のものだ。身体やマインドの生死に影響されない、不動なる状態、あなたはそれを知覚しなければならない。


質問者 そのような知覚を得る方法は、何でしょうか?


マハラジ  生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。快楽、苦痛という動機が道を阻んでいる。すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。


質問者 そのような欲望をあきらめるには、時間が必要ではありませんか?


マハラジ  もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。


質問者 欲望と恐れの根は同じ、幸福への切望です。


マハラジ  あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。


質問者 たとえ身体的、精神的健康とともに現れる感覚的、精神的快楽であっても、それらはその根を実在のなかにもっているはずです。


マハラジ  それらはその根を想像のなかにもっているのだ。石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、それが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と先入観に基づいたものとして見られるのだ。普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。


質問者 なるほど、快楽は想像上のものかもしれません。しかし苦痛は現実です。


マハラジ  苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。一方からの自由はその両方からの自由を意味する。もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的なものだ。しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でもないということだ。それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実在についての無知からやってくるのだ。


質問者 たくさんの師にしたがい、多くの教義を学びましたが、何ひとつ私の望んだものを与えてくれたものはありませんでした。


マハラジ  もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望はかならず満たされるだろう。しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めてはならないのだ。もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたなら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるまで、本来の目的は先延ばしにされるだろう。内側に入っていきなさい。けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。


質問者 しかし、それでも私の欲望と恐れは依然そこにあるのです。


マハラジ  それらはあなたの記憶以外のどこにあろう?それらの根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟りなさい。そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。


質問者 社会奉仕はきりのない仕事なのだと、よくよく理解しました。なぜなら改善と堕落、進展と退行が肩を並べていくからです。私たちにはそれがあらゆる段階のすべての面にあることがわかります。だとすれば、最後に残るのは何なのでしょうか?


マハラジ  何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に手を着けてはならない。まずあなた自身を見いだしなさい。そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。なぜなら、彼はすべての葛藤を超えているからだ。


質問者 そうです。私はつねにアヒンサー(非暴力)の考えに魅了されてきました。


マハラジ  本来、アヒンサーは「傷つけてはならない」という意味だ。善を行うことがはじめに来るのではなく、傷つけるのをやめ、苦しみを加えないということなのだ。他者を喜ばせることがアヒンサーなのではない。


質問者 私は喜ばせることを話していたわけではありません。他者を助けることを思っているのです。


マハラジ  与える価値のある唯一の助けとは、さらなる助けの必要性からの自由にある。繰り返される援助は、まったく助けになっていない。他者が援助の必要性を超える地点にあなたが連れていくまでは、他者を助ける話はしない方がいい。


質問者 どのようにして援助の必要性を超えるのでしょうか?そして人は他者がそうするのを助けることができるのでしょうか?


マハラジ  すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助けの必要性を超えたのだ。あなたは規範と実例によって、とりわけあなたの存在によって、他者を助けることができる。あなたがもっていないものを与えることはできないし、あなたは、あなたでないものはもっていないのだ。あなたであるものしか与えることはできない。そしてそれは、あなたがかぎりなく与えられるものなのだ。


質問者 しかし、すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当でしょうか?


マハラジ  この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?幸せな人が幸せを探すだろうか?なんと人びとは落ち着かないのだろう!なんとつねに動きまわっているのだろうか!彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。


質問者 もし私が自分自身と見なしている個人が幸福になれないのなら、どうすればいいのでしょうか?


マハラジ  現在のあなたとしての在り方をやめるだけだ。私の言うことは何も残酷なことではない。悪夢から人を目覚めさすことは慈悲だ。あなたは苦痛で苦しんでいるために、ここに来たのだ。そして、私が言えることは、「目覚めなさい。あなた自身を知りなさい。あなた自身で在りなさい」ということだけだ。苦痛の終焉は、快楽のなかにはない。あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。なぜなら、苦痛は快楽の後を追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。


質問者 究極の状態では、幸福もありえないのでしょうか?


マハラジ  不幸もまたありえない。ただ自由だけがある。幸福は何かに依存し、やがて消え去る。すべてからの自由は何にも依存せず、失われることはない。不幸からの自由には原因がなく、それゆえ破壊されない。その自由を実現しなさい。


質問者 私は過去の結果として苦しむために生まれたのではないでしょうか?自由を得ることは本当に可能なのでしょうか?私は自分の意志で生まれたのでしょうか?私はただの創造物なのではないでしょうか?


マハラジ  誕生と死は、意識内の一連の出来事のはじまりと終わりにすぎない。分離と限界という観念のために、それらは苦痛となるのだ。苦痛からの一時的な解放を、私たちは快楽と呼ぶ。そして、いわゆる幸福と呼ばれる終わりなき快楽を期待して、私たちは空中に城を築くのだ。それはみな誤解であり、誤用だ。目を覚ましなさい。それらを超えていきなさい。真に生きはじめなさい。


質問者 私の知識はかぎられ、力は取るに足らないのです。


マハラジ  自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。観察可能なものはマインドのなかにある。自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響されることはない。この身体の誕生と死の外に、あなたの存在を置きなさい。そうすれば、あなたの問題は解決するだろう。それらの問題が存在するのは、あなたは死ぬために生まれてきたと信じているからだ。迷いから覚め、自由になりなさい。あなたは個人ではないのだ。


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