人間は、心の傷に直面することなど、とてもつらくてできないと怖れ、感情を感じることを避けながら一生を終えます。ところが、実際には、あなたはすでに傷を負っているのです。ただ、その傷を超えたところにある、もっと大きな自分の存在を感じていないだけです。それを感じれば、そこにはエネルギーの動きが生じます。ところが、そこにあるのはエネルギーの動きなのだという真理を見ようとせずに、マイナス極への振れを怖れるという幻影に生きる限り、身動きがとれなくなってしまいます。感情は、自分のなかの動いている部分ですから、止まれません。感情は生まれたり、消えたりします。自分と静かに向かいあって、このことを自分で発見する必要があります。


ひとりになることを非常に怖れている人がたくさんいます。話し相手がいないと、自分というものを経験しなければならないからです。ひとりにならないようにと、人は自分の人生ドラマになるべく多くの人間を登場させようとします。けれども、自分と静かに向きあったときに起きるのは、私がこれまで話してきたようなエネルギーに触れ、それとひとつにとけあうことなのです。自分自身が自分にとって最良の友です。本当の「自分」に出会ったときに、やっと、人は心の平安を得、ゆったりとくつろいで、ありのままの自然な自分になれます。


今まで怖れて逃げまわってきたものこそが、実は、長いあいだ求めていた心の平安をもたらしてくれるものなのです。



あなたがたは人生に起きるものごと、あるいは起きないものごとに反応するのに忙しすぎて、経験を味わうひまがありません。喜びも苦しみも、怒りも悲しみも感じません。これは不幸なことです。


あなたは問題の答えを自分の外側に探して、膨大な時間をむだにしています。自分自身とともにいる時間をとれば、その答えはひとりでに浮かび上がってくるでしょうに。


自分自身の体験とともにいることを学んでください。「分析・解明」につとめなさいとは言いません。「ともにいる」ことは分析的行為ではありません。むしろ、自分の体験を分析検証することはできないと知りなさい。それとともにいるか、それを知的に解釈するかですが、後者はもちろん逃避です。


あなたは毎瞬、人生の船を本来のコースにもどすのに役立つようなささやきを受けとっています。でもそれと「ともにいる」「耳を傾ける」時間がとれなければ、それらのささやきは聞こえません。


皮肉なことですが、あなたが狂おしく頭を働かせ、問題を「分析・解明」しようとしているときこそが、まさに静かにして聞き耳をたてるべきときなのです。最初はそれに気づかないかもしれません。しかし、ものごとを分析し、やみくもに解き明かそうとすればするほど、それが複雑怪奇になっていくことには、どうしたって気づくでしょう。


遅かれ早かれ、人生をこうあるべきだと考えるとおりに動かそうとあくせくしても、行き詰まります。そのとき、あなたは「なぜ、わたしはこの移行を経験しようとしているのだろう。焦点をあわせている対象を、変える必要があるのだろうか」と思いはじめます。そして、耳を澄ませて、答えを聞こうとするのです。


あなたが障害物の多い道にいるときに受けとる答えはたいてい次のようなものでしょう。「スローダウンせよ。まわりを見回せ。行こうとしているところに行く道ではないかもしれないぞ」


すばらしい答えには聞こえないかもしれませんが、次のステップを踏み出すには十分な助けです。スローダウンし、まわりを見回すことは、修正の始まりです。


ものごとがスムーズにいっているときに、わざわざ修正する必要はありません。しかし海が荒れ模様になってきたら、とまって針路を考えなおしたほうがよいでしょう。


まさにこの時に得た洞察が、あなたの人生を深いところで変えていきます。外的な現実が八方ふさがりになり、自分の内側に入っていくしかなくなるような時期が幾度かあります。


毎日二時間瞑想せよ、などと勧めているのではありません。定期的な瞑想が役に立たないと言っているのでもありません。ただ、人生には、静かにして聞き耳を立てるべき時期があります。その時期をたいせつにすることを学べば、多くの悲しみを免れられるでしょう。


内なる言葉に耳を澄ませることを学べば学ぶほど、起きた経験と「ともにいる」ことになります。自分の人生のよきパートナーとなることができ、やってくるものごとに進んで参加し、感じ、体験しようという気になります。


自分の経験とともにいるために時間をとろうとしなければ、人生のできごとの一方的な犠牲者になった気がしてきます。それは大きな自己欺瞞です。あなたは自分の経験に対して、なにか征服したり、コントロールしたりしなければならないものである、というふうな態度でかかわります。経験が期待にそわなかったとき、あなたは不当に罰せられたと感じます。実はそうではありません。そうではなくて、あなたはただ、コントロールせねばという思いのネガティブな結果のほうを経験しているだけです。


あなたは経験に対して、自分を開いていません。それとたえまないふれあいをもってはいません。対話をしていません。だからこそ経験とあなたとの関係は、愛憎半ばするような関係になってしまうのです。うまくいっているときは起きることを愛していますが、うまくいかなければ憎みます。あなたの経験は黒白いりまじったものです。人生とは、全的な祝福か、さもなければ全的な処罰のどちらかに見えます。


真実をいえば、人生はあなたを祝福しているのでもなければ、罰しているのでもありません。人生はあなたとともにはたらき、あなたがなにものかという真実に目覚めるのを助けてくれます。それは、あなたの教師です。たえまないフィードバックや修正を送り返してくれますが、あなたは耳を傾けようとしません。


耳を傾けるのを選ぶとは、自分の人生との共存関係に自分をまかせ、あけわたすことです。思考、行動、修正というダンスを受けいれることです。そうすれば、これらすべてを学びのプロセスにおいて必要な、しかも味わい深いものとして経験することになります。



質問者 真我の実現の方法について尋ねられたとき、あなたは変わらず「私は在る」という感覚にマインドを固定させることの重要さを強調します。どこにその因果的な要因があるのでしょうか? なぜこの特定の思いが真我の実現という結果をもたらすのでしょうか? どのように、「私は在る」への黙想が私に影響を与えるのでしょうか?


マハラジ 観察するという事実自体が、観察者と観察されるものを変えるのだ。結局、自己の真の本性への洞察を妨げるのは、マインドの弱さと愚鈍さ、そして粗大なものにのみ焦点を当て、把握しがたいものは抜かしてしまう傾向にあるのだ。私の提案にしたがい、マインドを「私は在る」だけにとどめるように試みれば、あなたはマインドとその気まぐれに完全に気づくようになる。行為のなかの透明な調和(サットヴァ)である気づきは、愚鈍さを消し去り、マインドの落ち着きのなさを静め、穏やかに、しかし着実にその実体を変化させていくのだ。その変化は目ざましいものである必要はない。それはほとんど人目を引かないものかもしれない。それでも、それは暗闇から光へ、不注意から気づきへの根本的な移行なのだ。


質問者 それは「私は在る」という形式でなければならないのでしょうか?ほかのマントラではだめなのでしょうか? 「そこにテーブルがある」という言葉に私が集中しても、同じ目的を果たさないのでしょうか?


マハラジ 集中のための訓練としてならいいが、それがあなたをテーブルという概念を超えたところに連れていくことはできないだろう。あなたが知りたいのはあなた自身であって、テーブルに興味があるのではない。このため意識の焦点を、唯一の手がかりであるあなたの存在の確実性に、着実に保つのだ。それとともに在りなさい。それと戯れなさい。それを熟考しなさい。それに深く沈潜していきなさい。無知の皮が破れ、あなたが実在の領域に現れでるまで。


質問者 私が「私は在る」に焦点を当てることと、殻が破れることの間に何らかの因果的なつながりがあるのでしょうか?


マハラジ 自分自身を見いだそうとする衝動は、あなたに用意ができたことのしるしなのだ。衝動はいつも内面からやってくる。時節が調うまでは、あなたが全身全霊で真我の探求をするための欲望も強さも得ることはないだろう。


質問者 欲望とその充足はグルの恩寵に依るのではないでしょうか? グルの輝きを放つ顔が私たちを誘惑して捕まえ、不幸の泥沼から引き出してくれるのではないでしょうか?


マハラジ 母親が子供を教師に連れていくように、外側の師にあなたを連れていくのは内なる師(サッドグル)なのだ。あなたのグルを信頼し、彼にしたがいなさい。なぜなら、彼はあなたの真我のメッセンジャーなのだから。


質問者 信頼できるグルをどうやって探せばいいのでしょうか?


マハラジ あなた自身のハートがあなたに告げるだろう。グルを見いだすことは困難なことではない。なぜなら、グルはあなたを探しているからだ。グルはいつも用意ができている。あなたは準備ができていない。あなたに学ぶ準備ができていないと、あなたのグルに出会っていても、まったくの怠慢と強情さでせっかくの機会を無駄にしてしまうかも知れないのだ。私を例にとれば、私には見込みがあるわけではなかった。だが、グルに出会ったとき、私は聴き、信頼し、したがったのだ。


質問者 私が師の手の内に完全に自分を明け渡す前に、彼を吟味すべきではないでしょうか?


マハラジ もちろん吟味するがいい! だが、何を見いだせるというのだろう? 彼はあなた自身のレベルでしか現れないのだ。


質問者 彼が首尾一貫しているかどうかを見守ります。彼の人生と彼の教えの間に調和があるかどうかを。


マハラジ あなたは数多くの不調和を見つけだすかもしれない──それが何だというのだろう? それは何も証明しない。ただ、動機だけが問題なのだ。どうやって彼の動機を知るというのだろうか?


質問者 少なくとも、彼が自己制御のできる清廉な人生を生きている人であることを期待すべきです。


マハラジ そのような人はいくらでも見つけられるだろう──そしてあなたにとって何の役にも立たないだろう。グルはあなたの真我へ帰り着く道をあなたに示すことができる。それがその人の人格や性質といった外見と、どんな関係があるというのだろうか? 彼は彼が個人ではないことを、あなたに明確に告げてはいないだろうか? 唯一判断できるのは、あなたが彼と共に在るときに起こる、あなた自身の変化だ。もし、あなたがより平和で幸福に感じるならば、そしてあなた自身を通常より明晰に、より深く理解するならば、それはあなたが正しい人を見つけたということだ。急ぐことはない。だが、ひとたび彼を信頼すると決心したならば、絶対的に彼を信頼しなさい。そしてすべての教えに完全に、誠実にしたがいなさい。あなたが彼を師として受け入れず、彼と共に在ることだけで満足だとしても、それは大した問題ではないのだ。もしマインドが純粋で混じり気がなく、乱されることがなければ、サットサン(聖者と共に在ること)だけでもあなたを目的地へと連れていけるのだ。だが、ひとたびあなたがある人をグルとして受け入れたならば、聴き、覚え、したがいなさい。中途半端な心構えは深刻な障害となる。そして、多くの悲しみを自らつくり出す原因となるのだ。その過ちはけっしてグルのものではない。弟子の愚鈍さと強情さに過失があるのだ。


質問者 そのとき、グルは弟子を追放、あるいは失格にしてしまうのでしょうか?


マハラ もし、そうしたなら彼はグルとは言えない! 彼は時節が調い、弟子が鍛えられ、冷静になって、より受容的な精神で彼のもとに戻ってくるのを待つのだ。


質問者 何が動機なのでしょうか? なぜグルはそれほどの困難を受け入れるのでしょうか?


マハラジ 悲しみと悲しみの終焉のためだ。彼は人びとが夢のなかで苦しんでいるのを見て、目覚めさせたいと願うのだ。愛は苦痛や苦しみを見ることに耐えられない。グルの忍耐には限界がない。それゆえ、打ち負かされることはできないのだ。グルはけっして失敗しない。


質問者 私の最初の師はまた最後の師でもあるのでしょうか、それとも私は師から師へと渡り歩かなければならないのでしょうか。


マハラジ 宇宙全体があなたのグルだ。もし注意深く、知的であれば、あなたはすべてから学んでいく。あなたのマインドが澄んで、ハートが清らかであれば、あなたはすべての通りがかりの人たちから学ぶだろう。あなたが怠惰で落ち着きがないため、内なる真我が外側のグルとして現れ、あなたに彼を信頼させ、したがわせるのだ。


質問者 グルは不可避なのでしょうか?


マハラジ それは「母親は避けることはできないものなのでしょうか?」と尋ねるようなものだ。意識のなかで、ひとつの領域からより高い領域に上がっていくには助けが必要だ。助けがつねに人間の形を取るとはかぎらない。それは名状しがたい存在かもしれない。あるいは直感のひらめきかもしれない。しかし、助けは来なければならない。内なる真我は、息子が父親のもとに戻ってくるのを待っているのだ。時節が調えば、彼は愛情深く、効果的にすべての手はずを整える。メッセンジャーや指導者が必要なとき、真我が必要を満たすためにグルを送るのだ。


質問者 ひとつだけ理解できないことがあります。あなたは内なる自己を、賢明で、善であり、美しく、あらゆる面で完全だとし、個人はそれ自身存在をもたない、単なる反映だと話しています。その一方、あなたはたいへんな困難も顧みず、個人にそれ自身を実現させる助けをしています。もし、個人がそれほど重要ではないならば、なぜそれほどまでしてその幸福を気にかけるのでしょうか?誰が影のことを気にするでしょうか?


マハラジ あなたは存在もしない二元性をそこにもち込んだのだ。身体があり、真我がある。その間にマインドがあるのだ。そのマインドのなかに、真我は「私は在る」として反映されている。マインドはその不完全さ、その未熟さと落ち着きのなさ、識別と洞察の欠如ゆえに、それ自身を真我ではなく身体と見なしてしまうのだ。必要なことはマインドを浄化することだけだ。マインドが真我のなかに没して消え去るとき、身体は問題を呈しなくなる。それはそれであるものとして、認識と行為の道具、内なる創造の炎の表現とその道具としてとどまる。身体の究極的な価値は、宇宙全体である普遍の身体を発見するために仕えることだ。あなたが顕現のなかで自分自身を自覚するほど、あなたはあなたが想像していた以上のものであったことを、絶えず発見し続けていくのだ。


質問者 自己発見には終わりがないのでしょうか?


マハラジ そこにはじまりがないように、終わりもない。だが、グルの恩寵によって私が発見したことは、私はこれだと指し示すことのできるものではないということだ。私は「これ」でもなく「あれ」でもない。これは絶対不動だ。


質問者 それでは、新たなる次元へと永遠に自分自身を超えていく、果てしない発見はどこに現れるのでしょうか?


マハラジ これらはすべて顕現の領域に属する。それは、低次のものからの自由を通してのみ、より高次なものを得ることができるという宇宙の構造そのもののなかにあるのだ。


質問者 何が低次で、何が高次なのでしょう?


マハラジ それを気づきの言語のなかで見てみなさい。より広く、深いほど、意識が高いのだ。生きるものすべては意識を保護し、永続し、拡張するために働いている。これが世界の唯一の意味と目的なのだ。絶えず意識のレベルを上昇させ、それらの特性と質と能力とともに新たな次元を発見すること──それがヨーガの本質だ。その意味においては宇宙全体がヨーガの道場となるのだ。


質問者 完成はすべての人間にとっての運命なのでしょうか?


マハラジ 究極的には、すべての生きるものたちにとってだ。悟りの概念がマインドのなかに現れるとき、可能性は確実性となるのだ。人は、ひとたび解放が手の届くところにあると聞き、理解すれば、けっして忘れはしない。なぜならそれが内側からの最初のメッセージだからだ。それは根を張り、成長し、時が来れば祝福されたグルの姿を取るのだ。


質問者 では、私たちは皆マインドの救済に関わっているのでしょうか?


マハラジ それ以外の何だというのだろう? マインドが道に迷い、マインドが家に帰り着くのだ。「迷う」という言葉さえ的確ではない。マインドはそれ自身のあらゆる気分を知らなければならない。繰り返されないかぎり、何ひとつ間違いということはないのだ。


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