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今までのあなたは、自分にはどこかいけないところがあるから直さなくてはならない、という仮定にもとづいて生きてきました。私に言わせてもらうなら、あなたにはどこも悪いところなどないし、直さなければならないところもありません。ただ、あなたが自分のなかの特定の部分を愛していないことが原因で、心の緊張が生まれています。あなたがそういう自分の一部を愛せないのは、同じように自分の愛せない部分を無視している人たちから、愛してはいけないと教えられてきたからです。


自分の心のなかに入っていき、自分の全存在のパワーを使って、「嫉妬心のまっただなかにいる自分を愛します。怒りの行動のまっただなかにいる自分を愛します。自己憐憫を感じている自分を愛します」と言うことで、あなたは自由を獲得できます。どんな感情であれ、どんな想念であれ、どんな行動であれ、そのただなかで、「私はこの瞬間、ありのままのこの自分を愛します」と宣言することから、あなたの自由が生まれます。



なにひとつ隠すものがない場合には、あなたの意識の光は、もはや恥ずかしい秘密の罪の意識にくもらされることはありません。もう、うそでとりつくろう必要はありません。あなたの人間関係は、あれこれの思惑や下心に妨げられません。シンプルさと明晰さが人生を支配します。もう欺瞞はないからです。


だれでもたったいま、この明晰さに到達することができます。自分の考えや感じ方のすべてを、ためらいなく打ち明けて話す勇気さえもてればです。それは兄弟姉妹への信頼の行為にもなります。それはまた、進んで自分をさらけだし、弱さを見せるという意志でもあります。


あなたに恐怖心があっても、それを人に話せば、その恐怖心とその下にある罪悪感は隠れていられなくなります。だれかを批判する考えが浮かんだとき、それを否定したり、そんなことはないとごまかしたり、あいつこそが悪いのだと投影したりすることもできます。しかし、それに気づいて、その考えに癒しをもたらすこともできます。人を攻撃する考えを隠すこともできますし、告白することもできます。


教会での告解(こっかい)の儀式は、儀式というもののつねとして、その本来の目的を果たさなくなっています。本来の目的とは、他人から赦免を受けとるということではないのです。欺瞞の暗闇を投げ捨て、恐怖心と罪悪感に意識の光をあてることなのです。告解を聞く人は、裁判官ではなく、証人なのです。その人はローブを着ている必要もありませんし、なにか権威ある立場にいなければならないこともありません。どんな人が証人でもいいのです。自分の役割は批判や告発ではなく、共感をもって耳を傾けることだと理解している人であるならば。


過ちをおかさない人はいません。わざとであろうと、そうでなかろうと、たがいに衝突することはよくあることです。あらゆる衝突が止められると考えるのは、おろかしいことです。人間としての自分の弱さをよく知らない人だけが、そのような地に足のつかない高邁な理想を追い求めるのです。そして、自分の人間らしさを受けいれられない人が、どうして自分の聖性を受けいれられるでしょうか。


過ちはこれからもあるでしょうから、過ちをおかすたびに、ありがたく思うようにしてください。過ちは、修正をもたらしてくれる贈り物です。あらゆる小賢しいはからいや欺瞞を表面に浮上させてくれる、その機会を祝福してください。心(マインド)の暗い場所をのぞきこむ機会に感謝し、その中身を意識的検証の光の中に持ちこんでください。


あなたが過ちをむりに正当化すると、それにしがみつき、何度も自己弁護をくりかえすことになります。莫大な時間とエネルギーのむだです。もしあなたがそれをしていることに気づかなければ、一生それをやりつづけ、それが人生の目的になってしまいます。


むしろ過ちを告白すれば、すべての時間を言い訳にあてる必要がなくなります。自分のごまかしを認めれば、過去という限界に縛りつけられることもなくなります。あらゆる衝突をオープンに認めてください。兄弟のことをよく思えないのであれば、彼にそう言って、宥しを求めます。それは相手を台座にのせてまつりあげるということではなく、自分が自己嫌悪と絶望の底なしの穴に落ちこまないための方策なのです。それはあなたが恐怖心や不正直さ、罪悪感をもたずに生きるための薬なのです。この薬を飲んでください、友よ。前にもわたしはこの薬をさしだしましたが、もう一度、さしだします。


この世界がくもって見通しが悪いのは、あなたが過ちを認める勇気を欠いているからです。あなたが兄弟とともに演じている、見せかけ、ふりのゲームのせいです。兄弟よりも自分のほうが倫理的で正しい、ということがありえると、あなたは本気で信じていますか。


あなたにできることは、せいぜい、自分の過ちを隠す能力を磨くということくらいでしょう。それは悲しいことですし、自己欺瞞のゲームです。それをやめてください。


兄弟を信頼してください。あなたよりも上にいるのだと判断するのではなく、隣にならんでいる対等な相手なのだと認めてください。兄弟があなたを非難するとき、彼は自分自身をも非難しているのです。


自分自身に対し、告白します。また伴侶や、上司、路上の見知らぬ人に対しても、告白してください。人にどう思われてもいいではありませんか。あなたは革命的な教えを伝えているのです。あなたの告白によって、ほかの人も自分自身の過ちを、あわれみをもって見てよいのだとわかるのですから。


自分の過ちを認める人は、人々への燈台のようなものです。その人は、自分の闇のマントを脱ぎ捨てたのです。そのひとを通じて光が輝きます。その心が、透明で、真実が楽々と流れでるすきとおった通路になっているからです。


兄弟はすぐに、この人は信頼できるとわかり、その手をとろうとします。このような人は真の司祭です。自分自身の罪を宥したので、それを他人の罪にも及ぼすことができます。この人の権威は外部からではなく、内部から来ます。宗教的な権威者と世間で認定されているわけではありません。でもそのもとへ来る人はすべて、この人こそ力のある人だと知り、信頼し、自分を打ち明けます。


これが告解ということの真実です。どんな男でも女でも聴聞司祭になりえます。わたしの名前をかたってあなたがたに伝えられている、いかなるうそをも信じないでください。常識を働かせてください。


もしあなたが、うそを許容できなくて宗教に背を向けてしまったのだとしたら、それを恥じることはありません。ごまかしを教え、自分だけを権威者とし、罪悪感を植えつけるような教会に対しては、わたしも背を向けるでしょう。


そうした偽りの教えを拒否するのは、正しいことです。しかし、聖職者の衣をまとった世俗的な偽善者への怒りがあるからといって、わたしと直接に交流することをやめないでほしいのです。他人に教えられたことすべてを忘れ、自分のハートの中にいまある真実だけに思いをめぐらせてみてください。そのハートの中で、あなたとわたしは出会います。わたしの教えや生涯をあざけるような見かけだおしの建物の中ではなく。


友よ、真実を思いめぐらしてください。わたしや兄弟から、なにか苦しみから抜け出す秘訣のようなものを聞き出すことはできません。苦しみを終わらせるには、あなたの人生のあらゆるごまかしを終わらせなければなりません。それは自分自身に対して、わたしに対して、兄弟に対して、真実を語ることによってのみ達成されます。


それによって失うものは、この世のくもりと混乱だけではありませんか。秘密を秘密にしておいて、迷路の中にとどまりますか。それともそれを告白し、暗く曲がりくねった小径(こみち)から抜け出しますか。選ぶのはあなたです。


でも、自分をごまかさないでください。隠蔽や闇の中には救済はありません。救済は、真実の光の中にいる人だれにでも与えられます。その光の中には、恥や罪といった影は残っていることはできません。


勇気をもって過ちを認めれば、それらの過ちを宥し、自分自身を、悩み、苦労、欺瞞から解き放つことができます。兄弟にむかって打ち明けなさい。そうすればいつか、彼もまたあなたを信じて打ち明けるでしょう。真実を否定したり、それを聞かなかったふりをするのはやめてください。わたしはここで、あなたがたに理解できるようなシンプルな言葉で真理を語ったではありませんか。このさきはあなたしだいです。真理は人生で実践されないかぎり、十全に受けいれられたとは言えません。


あなたがたひとりひとりは、神の愛と恵みという宝石の多くの面のひとつなのです。それぞれが、それぞれの神性のシンプルな表現のしかたをもっています。ひとつの面の美しさは、別の面の輝きを打ち消すことはなく、むしろ両者の広がりと光を強めます。


ある面を輝かせるものは、ほかのすべての面を輝かせるのに役立ちます。わたしの中にある光は、あなたの中にもあります。わたしがあなたがたにまさって、神に愛されているわけではありません。兄弟姉妹よ、このことは自分のハートの中でおのずとわかってくるでしょう。どれほど外から教えられたり説かれたりしても、それを信じることはできません。


だからこそ、実践してくださいと、わたしは言います。あなたのものの感じ方の透明さを妨げる判断・批判という不純物をとりさりなさい。ハートを流れる愛を妨げる競争心、妬み、貪欲をとりさりなさい。恐怖心や、自分に不足があるという思い、あなたのした干渉、そしてあなたの悲しみを告白しなさい。秘め隠した考えや感情の闇に、意識の光をあててください。


修正できないような過ちはありえません。宥されないようなふるまいはありえません。これがわたしの教えです。あなたがたは、わたしの言葉だけを通して理解するのではありません。教えたことすべてを、わたしは自分の生涯で示しました。ですから友よ、あなたも同じようにしてください。



質問者 あなたは、数多くの自称グルがいるが、真のグルは非常にまれだと言われました。自らを真我を実現したと想像している多くのジニャーニがいます。しかし、彼らがもっているのは本からの知識と高い自己評価だけです。ときおり、彼らは人びとに感銘を与え、魅了し、弟子を引きつけます。そして役に立たない修練によって彼らの時間を浪費させるのです。何年かたって弟子が自分自身を評価したとき、何の変化もなかったことを見いだし、彼が師に不平を訴えると、努力が足りないのだという通常の叱責を受けるのです。責任は弟子のハートの愛と信頼の欠如にあると非難されます。ところが実際には弟子を受け入れ、彼らの希望を向上させようとしないグルのほうに責任があるのです。そのようなグルからどうやって自分を守るのでしょうか?


マハラジ  なぜそれほどまで他者に関心をもつのかね?グルが誰であろうとも、もし彼が良き信仰のもとに行為し、純粋なハートをもっているなら、弟子たちに何の害も与えることはないだろう。もし何の進展も見られないのなら、過失は弟子のほうにあるのだ。彼らの態度と自己制御の欠如がそれだ。一方、もし弟子が誠実で、サーダナ(修練)に対して知的で、熱心に取り組んでいるなら、彼はもっと遠くへ彼を連れていける、より適格な師にかならず出会うことになる。あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。二つ目は、人はほかの人を評価できるということ。三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。


質問者 私たちはグルへの完全な明け渡しがあれば充分であり、残りはグルがするだろうと聞いてきました。


マハラジ  もちろん、完全な明け渡しがあれば、自己の過去、現在、未来と、身体的、そして霊的安全性や地位に関するすべての完全な放棄があれば、豊かな愛と美にあふれた新たな人生の夜明けはやってくる。そうすればグルは重要ではない。なぜなら、弟子は自己を守る殻を破ったからだ。完全な自己放棄そのものが解放なのだ。


質問者 弟子と師の両方が不適切な場合は何が起こるのでしょうか?


マハラジ  長期にわたってみれば、すべては適切になるだろう。結局、双方の真我は、しばらくの間彼らが演じたコメディによる影響を受けはしないのだ。すぐに彼らは冷静になり、成熟し、関係性のより高いレベルへと移行していくだろう。


質問者 あるいは、彼らは別れていくでしょう。


マハラジ  そうだ。彼らは別れるかもしれない。結局、いかなる関係性も永遠ではないのだ。二元性は一時的な状態だ。


質問者 私があなたに出会ったのは偶然であり、別の偶然によって私たちは別れ、けっしてふたたび出会うことはないのでしょうか?あるいは、あなたとの出会いはある宇宙的なパターンの一部であり、私たちの人生の偉大なドラマのひとコマなのでしょうか?


マハラジ  実在は意味深く、意味深いことが実在と関係するのだ。もし私たちの関係が私とあなたにとって意味深いものであれば、それは偶然ではありえない。過去がそうであるように、未来もまた現在に影響をあたえるのだ。


質問者 誰が真の聖者であり、誰がそうではないのかを、どうしたら見極めることができるのでしょうか?


マハラジ  人のハートへの明晰な洞察をもたないかぎり、あなたに見極めることはできない。外見はあてにならないのだ。明白に見るためには、あなたのマインドが純粋で無執着でなければならない。自分自身を知らないかぎり、どうして他者を知ることができるだろう?そして、あなた自身を知るとき、あなたが他者なのだ。しばらく他者のことは後回しにして、まず自分自身を調べなさい。あなたが何なのか、誰なのか、どうして生まれることになったのか、今、何をなぜしているのか、あなたはどこへ行くのか、あなたの人生と死、そして未来にはどのような意味と目的があるのか?あなたに過去があるのか、未来があるのか?あなたの全存在が幸福と平和のために闘っているというのに、どうして苦しみと悲しみのなかに生きるようになったのか?これらのことが重要な問題であり、最初に留意しなければならないことだ。あなたには、誰がジニャーニであり、誰がそうではないのかを見つけだす時間もなければ、必要もないのだ。


質問者 私は正しくグルを選択しなければなりません。


マハラジ  正しい人でありなさい。そうすれば正しいグルがかならずあなたを探しだすだろう。


質問者 あなたは私の質問に答えていません。どのようにして正しいグルを見いだすのでしょうか?


マハラジ  だが、私は質問に答えたのだ。グルを探してはならない。考えさえしてはならない。あなたの目的をあなたのグルとしなさい。結局のところ、グルとは終焉そのものではなく、終焉への道なのだ。あなたにとって重要なのは彼ではなく、何を彼から期待するかだ。さて、あなたは何を期待しているのだろうか?


質問者 彼の恩寵によって、幸福に、力強く、平和になることです。


マハラジ  なんという野望だろう!どうして時間と空間に限定された単なる「身体―精神」であり、誕生と死の狭間で苦痛に喘いでいるひとりの個人が幸福になれるというのだろうか?個人が現れるその条件自体が幸福を不可能にしているのだ。平和、力、幸福。これらはけっして個人的な状態ではない。誰も「私の平和」「私の力」と言うことはできない。なぜなら、「私のもの」とは除外を暗示しているからだ。それはこわれやすく、はかないものなのだ。


質問者 私が知っているのは、私の条件づけられた存在だけで、ほかには何もありません。


マハラジ  もちろん、そうとは言えない。深い眠りのなかでは、あなたは条件づけられていなかったのだ。どんなにあなたは喜んで、進んで眠りにつくことか、どんなに眠りのなかで平安で、自由で、幸福であることか!


質問者 私はそのことをまったく知らないのです。


マハラジ  それを否定的に表現してみなさい。あなたが眠っているとき、そこには苦痛も、束縛も、落ち着きのなさもないのだ。


質問者 私にはその要点が理解できます。目覚めている間、私は私が在ることを知っています。しかし、私は幸福ではありません。眠りのなかで、私は在り、幸福です。しかし、それを私は知らないのです。私に必要なことは、私が自由で、幸福だと知ることなのです。


マハラジ  まったくそのとおりだ。今、深く内側に入っていきなさい。目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへと入っていきなさい。その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では自由で幸福なのだと知るだろう。唯一の困難は、あなたが体験に耽溺し、記憶を大切そうに抱えていることだ。実際には、その反対なのだ。思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。


質問者 言葉の上ではすべて理解できますが、私自身の一部分にならないのです。それはマインドのなかで見られるための絵としてとどまるのです。その絵に命を与えるのはグルの役目ではないのでしょうか?


マハラジ  またしてもその反対なのだ。絵は生きている。死んでいるのはマインドなのだ。マインドが言葉とイメージでできているように、マインドのなかのあらゆる反映もまたそうなのだ。それは言語化することで実在を覆い隠しておいて、それから不平を言うのだ。あなたはあなたに奇跡を起こすためにグルが必要だと言う。あなたは言葉で戯れているだけだ。ロウソクと炎のように、グルと弟子はひとつの単一体なのだ。弟子が誠実でないかぎり、彼を弟子と呼ぶことはできない。グルがまったくの愛であり、献身的でないかぎり、彼をグルと呼ぶことはできない。偽りではなく、ただ実在だけが実在を生みだすことができるのだ。


質問者 私には、わたしが偽りであることがわかります。誰が私を真実にしてくれるのでしょうか?


マハラジ  あなたが言ったその言葉自体がそれをするだろう。「私には、私が偽りであることがわかる」というその言葉が、あなたの解放に必要な全てを含んでいるのだ。それについて熟考しなさい。そのなかへと深く入っていきなさい。その根源まで行きなさい。それが働きだすだろう。力は人のなかにではなく、言葉のなかにあるのだ。


質問者 私はあなたを完全に理解していません。一方では、あなたはグルが必要だと言い、他方ではグルは助言だけを与え、努力は私のものだと言います。どうか、はっきりおっしゃってください。グルなしに、真我は実現できるのでしょうか、それとも、真のグルを見いだすことは本質的なことなのでしょうか?


マハラジ  それ以上に本質的なことは、真の弟子を見つけることだ。私を信じなさい。真の弟子は非常にまれなのだ。なぜなら、自己を見いだすことによって、すぐさま彼はグルの必要性を超えるからだ。あなたの得た助言が知識からのものなのか、それとも有効な体験からなのかを見定めようとすることで時間を浪費してはならない。ただ誠実に助言にしたがうがいい。もしほかのグルが必要なら、人生があなたにもたらすだろう。あるいは、人生はあなたから外側の導きすべてを奪い取り、あなた自身の光にあなたを置き去りにするかもしれない。個人としてのグルではなく、教えが重要だと理解することは非常に重要なことなのだ。あなたを笑わせたり、泣かせたりするような手紙を受け取ったとしよう。あなたを笑わせたり、泣かせたりするのは郵便配達人ではない。グルはあなたの真我に関する良き知らせを告げ、そこへの帰り道を示すだけだ。だが、メッセージはひとつだけだ。「あなたとして在りなさい」というものだ。あるいは違う言い方をすれば、あなたが真我を実現するまでは、誰が真のグルかを知ることはできないのだ。あなたが実現したとき、すべてのグルたちがあなたの実現に貢献したのだと知ることだろう。あなたの真我の実現が、グルが本物だったことを証明する。それゆえ、彼をあるがままに受け入れなさい。彼が言うことを、熱意と誠実さをもって行ないなさい。そして、もし何かが間違っているようなら、あなたのハートが警告することを信頼しなさい。もし疑いが起こったなら、それと闘ってはいけない。疑いのないことを手放してはいけない。そして疑わしいことは放っておくがいい。


質問者 私にはグルがいて、彼のことをとても愛しています。しかし、彼が私の本当のグルかどうか、私にはわかりません。


マハラジ  あなた自身を見守りなさい。もしあなたが変わっていき、成長していくなら、あなたは正しい人を見いだしたのだ。彼は美しいかもしれないし、醜いかもしれない。快いかも、不快かもしれない。あなたを褒めるかも、叱るかもしれない。内的な成長以外は何ひとつ問題ではないのだ。もしそうでないのなら、彼は多分あなたの友人かもしれない。だが、あなたのグルではないのだ。


質問者 私が学歴のある西洋人と出会い、グルや彼の教えについて語ると、彼は、「そんな無意味なことを教える人は狂っているに違いない」と言うのです。彼に何といえばいいのでしょうか?


マハラジ  彼を彼自身に直面させるがいい。彼がどれほど彼自身について知らないかを見せるがいい。いかに彼が彼自身についてのもっとも馬鹿げた表明を神聖な真理と見なしているかを。彼は身体であり、生まれ、そして死に、両親をもち、義務をもっていると人から言われてきた。彼はほかの者たちが学ぶことを学び、ほかの者たちが恐れることを恐れているのだ。完全に、記憶によって生き、習慣によって行動する、伝統と社会の創造物なのだ。彼は彼自身の真の関心について無知で、偽りの目的を追求し、つねに欲求不満をつのらせている。彼の生と死は無意味で苦痛に満ち、そこに出口はないかのようだ。それから彼に言うがいい。出口は彼の手の届くところにあるのだと。それは別の一式の観念に転向するのではなく、一切の観念と生き方のパターンから解放されることだ。グルや弟子については、語ってはならない。このような考え方は彼のためにふさわしくない。内なる道が彼のものだ。彼は内なる衝動によって突き動かされ、内なる光によって導かれてきたのだ。彼が反抗するように誘いなさい。そうすれば反応するだろう。誰それが賢者であり、グルとして受け入れられるなどと、彼に印象づけることはやめなさい。彼は彼自身を信頼しないかぎり、他者を信頼することもできないのだ。そして確信は体験とともにやってくるだろう。


質問者 何と奇妙なのでしょうか!私にはグルなしの人生など考えられません。


マハラジ  それは気質の問題なのだ。あなたもまた正しいのだ。あなたにとっては、神を讃えて歌うことで充分だ。真我の実現への欲望をもつことさえ、サーダナ(修練)をすることさえ必要ない。神の名前があなたに必要なすべての食事なのだ。それによって生きるがいい。


質問者 このわずかばかりの言葉の絶え間ない繰り返しは、ある種の狂気ではありませんか?


マハラジ  それは狂気だ。だが、意図された狂気なのだ。すべての繰り返しはタマス(受動性)だ。だが、神の名を復唱することは、その高い目的ゆえにサットヴァ―タマスなのだ。サットヴァ(純粋性)の存在ゆえにタマスは尽き果て、そして完全な冷静さ、無執着、放棄、超然、普遍性の形を取るだろう。タマスは確固たる土台となり、その上に統合された人生が生きられるのだ。


質問者 不変なるもの――それは死ぬのでしょうか?


マハラジ  変わりゆくものが死ぬのだ。不変なるものは生きも死にもしない。それは生と死の永遠の観照者なのだ。それが死ぬとは言えない。なぜなら、それは気づいているからだ。それが生きているとも言えない。なぜなら、それは変化しないからだ。それはテープ・レコーダーのようなものだ。すべてひとりで記録し、再生する。あなたはただ聞くだけだ。同じように、私はあなたに話していることも含めた起こることすべてを見守っている。話をしているのは私ではなく、マインドのなかに言葉が現れ、それから、それらが語られているのを聞くのだ。


質問者 誰もがそうなのではありませんか?


マハラジ  誰が違うと言ったかね?だが、あなたはあなたが考え、あなたが話すと主張するのだ。一方、私にとっては、そこに考えることと話すことがあるだけだ。


質問者 二つの考慮すべきことがあります。私がグルを見つけたか、あるいは見つけていないかです。それぞれの場合、するべき正しいこととは何なのでしょうか?


マハラジ  あなたはけっしてグルなしでいることはない。なぜなら、彼は永遠にあなたのハートのなかに存在しているからだ。ときどき、彼は彼自身を母、妻、教師として具現させ、あなたの人生の高揚と改善の要因としてあなたのもとにやってくる。あるいは彼は公正さと完成への内なる衝動としてとどまるかもしれない。あなたがするべきことは、彼にしたがい、彼の言うことを為すだけだ。彼があなたにしてほしいことはシンプルだ。自己覚醒、自己制御、自己放棄を学ぶことだ。それは厳しく見えるかもしれない。だが、もしあなたが誠実ならば、それはたやすい。そして、もしあなたが誠実でなければ、まったく不可能だ。誠実さが必要であり、またそれで充分だ。すべては誠実さに道を譲るのだ。


質問者 何が人を誠実にするのでしょうか?


マハラジ  慈悲が誠実さの土台だ。あなたと他者に対する慈悲、あなた自身と他者の苦しみから生まれた慈悲だ。


質問者 誠実になるために私は苦しまなければならないのでしょうか?


マハラジ  もしあなたが感じやすく、仏陀がしたように他者の苦しみに反応するなら、その必要はない。だが、もしあなたが冷淡で哀れみがないなら、あなた自身の苦しみがあなたに避けがたい質問を尋ねるようにさせるだろう。


質問者 私は自分自身が苦しんでいることに気づいています。しかし、充分ではありません。人生は不快なものですが、耐えられないほどではないのです。私のわずかな快楽は小さな苦痛の埋め合わせをし、全体的に見て、私は私の知っている人たちよりも暮らし向きがいいのです。私の状況が不確実なものだということは知っています。災難がいつ襲いかかっても不思議はないからです。危機が私を真理への道へ導くのを待つべきなのでしょうか?


マハラジ  あなたの状況がいかに壊れやすいかを見た瞬間、あなたはすでに注意しているのだ。だから気づいていなさい。注意を払い、尋ね、調べ、マインドと身体の過ちを発見し、それらを放棄しなさい。


質問者 そのエネルギーはどこから来るのでしょうか?私は燃えさかる家のなかで麻痺した人のようです。


マハラジ  麻痺している人でさえ、ときには自分の足が危険に直面していることに気づくのだ!だが、あなたは麻痺していない。ただ想像しているだけだ。第一歩を踏みだしなさい。そうすればあなたは進んでいくだろう。


質問者 私はあまりにも強く身体にしがみついているため、「私が身体だ」という観念をあきらめることができません。身体が存続するかぎり、それは私にしがみつくでしょう。生きている間は、真我実現は不可能だと主張する人びとがいます。私は彼らに同意したい気分なのです。


マハラジ  あなたは賛成、あるいは反対する前に、どうして身体という観念自体を調べないのだろうか?マインドは身体のなかに現れるのだろうか、それとも、マインドのなかに身体が現れるのだろうか?もちろん、そこには「私は身体だ」と考えるマインドがなければならない。マインドなしの身体は「私の身体」ではありえない。マインドが停止しているとき、「私は身体だ」という観念は必ず不在だ。マインドが思考と感情に深く没頭しているときもまた、それは不在なのだ。ひとたびあなたが、身体はマインドに依存し、マインドは意識に依存し、意識は気づきに依存していることを、そしてその反対ではないことを自覚すれば、死が訪れるまで真我の実現を待つというあなたの疑問に答えられたのだ。まず、あなたが「私は身体だ」という観念から自由にならなければならず、それから真我を実現するのではない。それは間違いなくその反対だ。真実を知らないから、あなたは偽りにしがみつくのだ。完全性ではなく、誠実さが真我の実現の必須条件なのだ。徳や力は真我の実現とともに現れる。それ以前ではないのだ。


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