人間はプラスとマイナスの両極を持てるだけの力があります。人間自体がプラスとマイナスの両極であり、かつ、それ以上のものを持つ存在だからです。人が不幸でみじめになるのは、かたくなになり、苦しみというエネルギーの動きを認めようとしないときです。



人生で有意義な貢献をするために、わざわざ人生の歯車を再調整しなおす必要はありません。あたりを見回せば、自己を表現する小径(こみち)がたくさんあるのがわかります。どの小径も、あなたに完全にぴったりとはいえません。あなたが自分を合わせなければならないような小径もあります。それでもいいのです。適応できる、ということはよいことです。同じことを言うにもするにも、いろいろな方法がある、ということを理解するのはよいことです。


もしあなたが完全な形──たとえば完全な仕事、完全な人間関係──を求めていれば、いつもいらいらに悩まされます。この世界は、そういう面では完全なものを与えてはくれません。世界が与えてくれるのは成長と変化の機会であって、それは、あなたがひとつの自己表現の形に固執していなければ、むずかしいことではありません。


そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。


あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。


あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。


でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。


率直に自分にきいてみてください。あなたは、確実不動で予測可能な人生をのぞんでいますか。それがあなたの求めるものでしょうか。もしそうなら、この世界はそれをかなえてはくれません。この世界のすべては、変化のプロセスの中にあります。なにひとつ確実不動なものはありません。予測可能なものはありません。一時的な安全以外のものは与えてくれません。思考は来て、また去っていきます。人間関係は始まり、終わります。肉体は生まれ、滅びます。この世界が与えてくれるのはそのようなことです。つまり、無常、成長、変化です。


永遠というものは、形のレベルでは見いだせません。あらゆる形はその本質上、本来、形なきものである宇宙をゆがめてしまっています。すべてを包含し、受容し、すべてを愛するものは、形の中に閉じこめられたりしません。愛はその対象を選んだり、愛があらわれる瞬間を選んだりしません。愛はすべてのものに対し、つねに及んでいます。愛は条件をもたないものです。つまり「形をもたない」ものです。


ではこの世界で愛を経験することはできない、ということになるのでしょうか。まったくそんなことはありません。ただし、あなたの愛の経験は、あなたの解釈欲求やコントロール欲求の程度に応じて縮小されます。解釈は、条件をつけてはならぬものに、条件をつけます。愛に条件をつければ、あなたの経験するものは愛ではなく、その条件になります。あなたは形に出あうのみで、中身には出あいません。


愛は開いたハートを通じてのみ、表現されます。ハートを開くということはテクニックによるのではなく、概念的な定義の範囲を超えてあふれでる意欲によるものです。ひとつひとつの形が変化するにつれ、ハートは変化してゆくその中身に対し、恐れなく開かれます。


なにかを理解しようと思うなら、形をつきぬけて、そのむこうにある創造的な意図に目を向けなければなりません。人の表現の背後にある意図に同調すれば、その表現が当人にとってどういう意味があるのかが、もっとよく見えてきます。でも形しか見ていなければ、それが自分にとってどういう意味があるのかしかわかりません。


「形をつきぬけて、そのむこうを見る」ということは、すなわち「自分自身の先入観のむこうに出る」ということです。兄弟の真の姿をありのままに見るためには、自分が相手にはりつけている判断のむこうに抜け出なければなりません。相手のことを知りたいのなら、相手に近づいて、ハートを開き、なにを意図しているのかたずねなさい。相手について知るには、そのやりかたしかありません。


相手の意図が変化すれば、そのあらわれである形もまた変化します。自分自身や他人の意図に敏感であれば、変化する形にも楽に対応していけるでしょう。


形に執着しなくなるには、人と疎遠になるよりも、親密になることです。相手とのあいだに距離をおけば執着しなくなるのではなく、逆です。あなたが他人を自分のハートに迎えいれたときだけ、その人たちにしがみつくことなく、自由にさせてあげることができるのです。


慈愛と、執着を手放すことは、同時に進行します。相手を愛していればコントロールしようとは思いません。相手にとって一番よいことを望めばこそ、相手を自由にさせてあげられるのです。相手に自由を与えないのは、愛していることにはなりません。


形への執着は、根深い不安定さや不安感から出てきます。その執着の向こう側に行けるまでは、そのことはわからないでしょう。でもその移行は、避けられないものです。人生の青写真にすでに描かれていることです。


どのような人生の状況も、他人とより親密になり、かつ、より自由になるという機会を与えてくれます。あなたは愛すれば愛するほど、そして多くの人をより深く愛するほど、個々の人に執着しなくなるでしょう。特定の個人に執着するのではなく、それぞれの人がさしのべてくれる愛に執着するのです。そして身体を超えた、あらゆる形を超えた”聖なる愛”の経験へとうつっていくことになります。


いま現在のどんな形でも使えるものを使いなさいというのは、柔軟で受容的になってほしいということです。意図のレベルへ入っていってください、ということです。定義したりコントロールしたりしない親密さの中に入っていってください。もしそれができれば、形に制限されたり、とらわれたりしなくなります。その場で臨機応変にふるまえるようになります。


これが、わたしのさしあげられる最上のアドバイスです。期待をもたずに、結果にしがみつくことなく、いま現在の瞬間にいること。あなたにさしだされた形が気にくわないとぐちったり、逆にまた、それに過剰な意味づけをしたりしないでください。完全性はあなたの外部にはありません。


真実を見つけたいなら、自分の中を見てください。自分自身の意図を見るのです。そうすれば、ほかの人の意図を見誤ることはなくなります。



マハラジ  世界を知覚する者は、世界以前に存在するのだろうか、あるいは、彼は世界とともに存在を現すのだろうか?


質問者 何と奇妙な質問でしょうか?なぜあなたはそんな質問をされるのですか?


マハラジ  あなたがその正しい解答を知らないかぎり、平和を見いだすことはできないからだ。


質問者 私が朝目覚めるとき、世界はすでにそこにあって私を待っています。もちろん、世界が先に存在の中に現れ、私はずっと後になって、もっとも早くて私が誕生したときに現れます。世界と私の間では、身体が媒介となります。身体なしでは私も世界も存在しないでしょう。


マハラジ  身体はあなたのマインドのなかに現れ、マインドはあなたの意識の内容なのだ。あなたはあなたを変えることなしに永遠に変化しつづける意識の流れの不動の観照者だ。あなたの不変性があまりにも明白なため、それに気づかないだけだ。あなた自身をよく見てみなさい。そうすれば、それらすべての誤解や誤った観念は溶け去るだろう。魚が水のなかに生き、水なしでは生きられないように、全宇宙もあなたのなかに在り、あなたなしでは在りえないのだ。


質問者 それは私たちが神とよぶものです。


マハラジ  神はあなたのマインドのなかの概念にすぎない。あなたは事実だ。あなたが知っているたったひとつ確かなことは、「ここに今、私は在る」ということだ。「ここと今」を取り除きなさい。「私は在る」が確固として残る。世界は記憶のなかに存在する。記憶は意識のなかに現れる。意識は気づきのなかに存在し、気づきは存在の水面上の光の反映なのだ。


質問者 それでも、まだ私にとってはその反対の、「私は世界のなかに在る」ということがあまりにも明白であり、どうして世界が私のなかにあるのか理解できません。


マハラジ  「私は世界であり、世界は私だ」と言うことさえ無知のしるしだ。しかし、人生において、世界との自己同一化をマインドのなかに保ち確信するとき、無知を破壊し、完全に焼き尽くそうとする力が沸き上がってくるのだ。


質問者 無知の観照者は、無知から分離しているのでしょうか?「私は無知だ」ということは無知の一部分ではないでしょうか?


マハラジ  もちろん、私が偽りなく言えることは、「私は在る」だけだ。それ以外はすべて推測だ。しかし、推測が習慣になってしまったのだ。考えることと見ることというすべての習慣を打ち破りなさい。「私は在る」という感覚が顕現の根本的な原因だ。それを自己、神、実在、あるいはほかの名で呼んでもいい。「私は在る」は世界のなかにある。しかし、それは世界の外に出るための扉を開く鍵なのだ。水面に踊る月は、水のなかに見られる。だが、それは水によってではなく、空の月によって生じたのだ。


質問者 それでも、まだ私は要点を逃しているようです。私がそのなかで生き、動き、存在する世界が私自身の創造、私自身の投影、私の想像だということは認めます。未知の世界、あるがままの世界、「絶対的物質」の世界、その物質が何であれ。映画のスクリーンがその上に投影された画像とはまったく似ていないように、私自身が創造した世界は究極の、実在の世界とはまったく似ていないものかもしれません。それにもかかわらず、絶対の世界は私にまったく依存せず存在しているのです。


マハラジ  まったくそのとおりだ。あなたのマインドがその上に相対的な非実在の世界を投影してきた絶対的実在の世界は、あなたに依存していない。その単純な理由とは、それがあなた自身だからだ。


質問者 そこに言葉の矛盾はありませんか?どうして非依存性が自己同一性を証明できるのでしょうか?


マハラジ  変化の動きを調べてみなさい。そうすればわかるだろう。あなたが不動である間、変わることのできるものはあなたに依存しないと言える。だが不変なるものは、何であれそれ以外の不変であるものとひとつなのだ。なぜなら、二元性は相互作用を暗示し、相互作用は変化を意味するからだ。言い換えれば、絶対的に物質的なものと絶対的に霊的なもの、完全に客観的なものと完全に主観的なものは、実体においても本質においても等しいということだ。


質問者 三次元画像のように、光はそれ自身のスクリーンなのですね。


マハラジ  どんな比較もあてはまるだろう。理解すべき主要な点は、あなたがあなた自身の上に欲望と恐れの記憶をもととした、想像の世界を投影したということだ。そして、そのなかにあなた自身を監禁したのだ。その魔法を解いて自由になりなさい。


質問者 どのように魔法を解けばいいのでしょうか?


マハラジ  思考と行為において、あなたの非依存性を主張しなさい。結局、すべてはあなたが見、聞き、考え、感じることが現実だと確信するあなた自身の信念にかかっているのだ。なぜあなたの信念を疑わないのか?この世界が意識のスクリーンの上に、あなたによって描かれたものだということは疑いないのだ。そして、それは完全にあなたの個人的な世界だ。たとえ世界のなかにあろうとも、あなたの「私は在る」という感覚だけが、世界に属さないものだ。どのような理論や想像による努力によっても、「私は在る」を「私はいない」に変えることはできない。あなたの存在を否定することが自体が、あなたの存在を主張している。ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない!いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたものであり、あなたはそれに束縛されないのだ。誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。想像を想像としてみなさい。そして恐れから自由になるがいい。このカーペットの色は光によってもたらされたものだが、光がその色ではないように、世界もあなたによって現れたが、あなたが世界なのではない。世界を創造し維持するものを、あなたは神、あるいは神の摂理と呼ぶかもしれない。しかし究極的には、あなたが神の存在の証明なのだ。その反対ではない。なぜなら、神についてのどんな質問をする前にも、尋ねるあなたがそこにいなければならないからだ。


質問者 神は時間のなかでの体験です。しかし、体験者は時間を超えています。


マハラジ  体験者さえも二次的なものだ。根源は無限なる意識の広がりだ。存在してきた、存在する、存在するだろうすべての計り知れない可能性なのだ。何であれあなたが目にするとき、それは存在の究極を見ているのだ。だが、あなたは雲や樹を見ていると想像してしまう。想像なしに見ること、歪みなしに聞くことを学びなさい。それがすべてだ。本質的に無名無形のものに、名前や形が属すると考えることはやめなさい。あらゆる知覚の形態は主観的なものであり、見たことや聞いたこと、触れたものやにおいをかいだもの、感じたことや思ったこと、期待したことや想像したことは、すべて実在のなかではなく、マインドのなかにあるのだと悟りなさい。そうすれば、あなたは平安を体験し、恐れから自由になるだろう。「私は在る」という感覚さえも、純粋な光の存在の感覚から成るのだ。「在る」なしでも「私」はそこに在る。同様に、純粋な光もあなたが「私」と言おうと言うまいと、そこに在るのだ。その純粋な光に気づきなさい。そうすれば、けっしてそれを失うことはない。存在のなかの存在性、意識のなかの気づき、すべての体験への関心、それは描写不可能でありながら、完全に入手可能なものだ。なぜならそれ以外には何も存在しないからだ。


質問者 あなたは実在について、すべてに遍在し、常在、永遠、全知であり、すべてにエネルギーを与える第一の要因だと直接の体験から語っています。実在についての討論をまったく拒絶するほかの師たちもいます。彼らは実在はマインドを超え、すべての討論は非実在の巣窟であるマインドの領域にある、と言っています。彼らのアプローチは否定的なものです。非実在を正確に示すことで、それ自体を超えて実在にたどり着くのです。


マハラジ  違いは言葉の上にしかない。結局のところ、私が実在を語るとき、それは非実在ではないもの、空間も時間もなく、原因がなく、無始無窮のものとして描写する。つまりは同じことなのだ。荷車が進んでいくかぎり、それを押すか引くかは問題ではない。あるときには実在に引きつけられ、別のときには偽りに対して反発を感じる。それらはただ気分が交互に入れ代わっただけだ。完全な自由に向かうためには、どちらも必要なものだ。あなたはある道を選び、あるいは別の道を選ぶ。だが、それぞれのときにそれは正しい道となる。ただ全身全霊で行きなさい。疑いやためらいに時間を費やしてはならない。多くの種類の食べ物が子供の成長にとって必要だ。だが、食べるという行為は同じだ。理論的には、すべてのアプローチが正しい。実際には、与えられたときにおいて、あなたはひとつの道を進むだけだ。もし本当に見いだしたいならば、遅かれ早かれひとつの場所だけを掘り進まなければならないことを発見するに違いない。それが内面なのだ。身体もマインドも、あなたが探し求めているものを与えてくれはしない。あなたの探求はあなた自身を知り、あなた自身であること。そして、それとともにやってくる大いなる平安だ。


質問者 すべてのアプローチには、かならず何らかの有益な効力があるはずです。


マハラジ  どの場合にもその価値は、あなたの内面の探求の必要性へと導くことにある。さまざまなアプローチに遊び興じるのは、誰か特別な存在として在るという幻想を放棄することを恐れた、内側へ入ることへの抵抗かもしれない。水を探すために小さな穴を至るところに掘ったりはしない。ただ、一カ所を深く掘りつづけるだけだ。同様に、あなた自身を見いだすためには自己を探求しなければならない。あなたが世界の光だと悟ったとき、あなたはその愛だということも悟るだろう。知ることが愛すること、愛することが知ることなのだ。すべての愛情のなかで、自己への愛が最初に来るものだ。世界へのあなたの愛は、あなた自身へのあなたの愛の反映なのだ。世界はあなた自身の創造なのだから。光と愛は非個人的なものだ。しかし、それはあなたのマインドのなかで、知ることと自己の幸せを想うこととして映る。私たちはいつも私たち自身に対して親しく在る。だが、いつも賢明だとは言えない。ヨーギとは智慧と善意が手を取り合っている人だ。


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