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内なる神の栄光


神とはまったく抽象的なものではなく、生きた存在で、ひたすらに良きもの、与えるもの、幸福、全体性、そして自由なものです。


あなたには想像するのがむずかしいことはわかっています。でも心(マインド)を広げてみてください。可能性はここまでだと区切っている限界を手放してください。神はその限界の外にあります。なぜなら形をもたないからです。形がないので、万物の内に住むことができます。神の存在が見いだせないような場所はありません。


神は男でも女でもありません。身体がないので、性別もありません。神がしばしば「父」と呼ばれるのは、わたしたちとの関係が男性的なものだからです。わたしたちは神のスピリットを持ち運び、育み、世にもたらす子宮です。


しかし、そのような関係、花嫁と花婿のような関係にあるからといって、神を男性的なイメージ一辺倒にする必要はありません。神は戦士でもシャーマンでもなく、救い主でもありません。白髪の賢人でもなければ、賢女でもありません。そうしたイメージは文化人類学的なものです。


神は、男性と女性の持つあらゆるポジティブな可能性を結びつけた、愛の存在です。育みそだて、また保護します。力強く能動的であると同時に、優しく温和です。


神は、いにしえの賢者の知恵と同時に、おさな子の無邪気さを備えています。戦士の強さと同時に、若い母親の気遣いを備えています。神はすべてであり、それ以上です。


神は定義できません。わたしたちが「神」について抱いている概念の中には、閉じこめられません。


制限なき存在であるがゆえに、神のスピリットはわたしたちの心と経験の中を生きて動いています。この神の臨在からわたしたちは、自分の本性を引き出しています。その本性こそ、わたしたちのまことの姿です。その本性に意識的に気づくことはあまりないのですが。


スピリット、つまり”聖なる本性”は、生まれることも死ぬこともありません。それは肉体的な誕生の前から存在し、肉体の死ののちも存在します。その本性は、知性的・感情的経験の範囲には押しこめることができません。それはつねに変わらぬ愛の存在であって、自分自身を十字架につけたり、他人を攻撃したりするのをやめさえすれば、そこへもどることができるのです。


あなたの中の”聖なる本性”は、兄弟姉妹の中のそれとまったく同じです。それはたったひとつの本性、たったひとつのスピリットなのです。肉体はたがいに別々ですが、”聖なる本性”があなたがたを結びつけています。心どうしはくいちがい、他人をあれこれ批判し、攻撃するかもしれませんが、”聖なる本性”はあらゆる心をたったひとつの調和の中に抱きとります。


あなたが肉体に、あるいはたがいに分離しているという考えに自分を同一化しますと、”本性”を忘れてしまいます。ほんとうの自分を忘れてしまいます。あなたは兄弟とは別の分離した存在だと思っています。神からも分離していると思っています。そう思っていなければ、まわりを批判したり、攻撃したりできるはずがありません。


あなたが”本性”を思い出せば、あらゆる存在とのスピリチュアルな関係をも思い出すことになります。ほんとうの自分を思い出せば、攻撃などできません。


内なる”聖なる本性”を認めるまでは、あなたは神の栄光を知ることはないでしょう。この”聖なる本性”はあなたの性別、人種、経済状態、国籍、宗教には関係ありません。自分のことをどう考えているか、他人にどう思われているかも関係ありません。


あなたの内なる”聖なる本性”は、まったく愛すべきものであり、愛です。その”本性”に接触すれば、あるがままの自分でいい、それで受けいれられるのだとわかるでしょう。あなたには、なにも改善したり手直ししたりするべきところはないとわかります。自分の”本性”を知るには、自己批判と自責を手放さなければなりません。また兄弟姉妹に対する批判をも、根こそぎ捨てなければなりません。


この状態にとどまることに慣れてきますと、人生はどんどん楽になります。だからこそ多くのスピリチュアルな教えは、瞑想と祈りを日課にすることを勧めているのです。神との交わりは、あなたを力づけます。肉体的にも感情的にも知的にもよい状態になるには、それが必須です。


わたしはなにも一日一時間ずつ瞑想や祈りをしなさいとは言いません。しても悪いことはないのですけれども。ただ、一時間に五分は、そして十の考えのうちの一つは、自分の”聖なる本性”を思い出すようにしてください。神を思い出すということをたえず行うようにすれば、人生のソープオペラ(波瀾万丈のストーリーを持つチープな連続ドラマ)にはまりこむことはなくなります。十のうち九つの考えはおそらく、自分はここを直すべきだとか、あの人はあそこを直すべきだとかいうものでしょうが、十番目の考えは、直すべきところのないものについての考えにしてください。十番目の考えは、完全に受けいれられるもの、完全に愛すべきものについての考えにしてください。


これは、安息日として確立すべきリズムです。六日のあいだ、あなたは仕事や葛藤のドラマにはまりこみますが、七日目には神を思い出すようにしてください。七番目の日は休息の日、内側に向かう日にしてください。


安息日の知恵を日常生活に持ちこんでください。そうすれば、ほんとうの自分、また兄弟のほんとうの姿を、あまり長く忘れないですみます。思い出すという儀式に入れば、あなたの一日一日、一時間一時間、そして毎分がすっかり変わります。


食事のときには、神があなたとともにテーブルについておられます。兄弟と話すときには、神があなたに、相手を勇気づける言葉を言わせてくださるでしょう。そういうことを全部忘れて、妻あるいは夫に向かってわめきちらすときも、神は手をのばし、あなたにそっとふれ、ユーモアたっぷりに言われます。「またソープオペラにはまったね」あなたは自分自身がおかしくなって笑いだし、自作自演のドラマに深入りしないですむでしょう。



すべては思い出すというゲームです。いったんそのことに気づけば、儀式の意味はあなたにとって、まったく変わってしまいます。ですから、自分が思い出すことの助けになるような儀式の形式を自由に選べます。どんな形式でもいいのです。さいわい、形式は探そうと思えば山ほどありますし、だれでも自分にぴったりのものを見つけられます。


兄弟の選んだ形式が、自分のと根本的にちがっていても、心を乱さないでください。その人が思い出すのに役立つような形式であれば、そのことはあなたの役にも立つのです。形式の違いで言い争うことはありません。それはまったく本質的ではないのですから。


形式に関するむなしい議論ほど、わたしをいらだたせるものはありません。人々をたがいに分かち隔てるような言葉や信条は、わきにのけておきなさい。あなたが恵みの道を歩きたいなら、目に入るあれこれの違いを見過ごし、むしろ人と分かちあえる部分に着目し、それに焦点をあわせることです。


真実はあらゆる形式、あらゆる大きさでやってきますが、すべてはたったひとつのシンプルな真理です。あらゆる形式のなかに、あらゆる状況のなかに、その真実を見いだせるようにしてください。平和を愛する男女なら、そうすべきです。


あなたがたは、文化や宗教のバリアーが乗りこえられるような時代に入ってきています。ちがった言葉を話す人々が、おたがいを理解するようになるでしょう。多様性を許容すれば、すべての人に認められる普遍的な価値という考えにゆきつくでしょう。これからはひじょうに重要な時代です。あなたがたひとりひとりは、このバリアーをはがして、平和にいたりつくための重要な役割をになっています。


ですから、どうか、そこでは自分が完全ですべてであるような、そういう場所をみつけるようにしてください。その場所からなら、人生に入ってくるすべての人を祝福し、受けいれられます。その内なる平和の場所からなら、あなたは男と女のあいだに平和を打ちたてられるでしょう。これがわたしの教えです。あらゆる時代を通じて、つねに変わりなくそうだったのです。



質問者 あなたは、実在はひとつだと言います。単一性、統一性は個人の属性です。それでは、実在とは宇宙をその身体とした個人なのでしょうか?


マハラジ  あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。


質問者 私はただ理解しようとしているだけです。あなたは個人、観照者、そして至高なるもの(ヴィアクティ、ヴィアクタ、アヴィアクタ)に関して語りました。純粋な覚醒(プラジニャー)の光は、観照者(ジーヴァートマ)のなかの「私は在る」、マインド(アンタカラナ)を照らす意識(チェタナ)、身体(デーハ)に生気を与える生命(プラーナ)に焦点を合わせています。これらすべては言葉で表現するかぎりはいいでしょう。しかし、私のなかで観照者から個人を区別し、至高なるものから観照者を区別しようとすると、混乱してしまうのです。


マハラジ  個人はけっして主体ではありえない。あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた時間と空間において観照者として現れたのだ。その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡すのだ。


質問者 私が自分を見るとき、この身体をどう使うかについて、私のなかで何人かの異なった個人が互いに争いあっているのを見いだします。


マハラジ  それらはマインドの多様な性癖(サンスカーラ)に相当するのだ。


質問者 私は彼らの間に平和をもたらすことができるでしょうか?


マハラジ  いいや。彼らはまったく反駁しあっているのだ。彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。


質問者 それでも、彼らは皆「私は在る」と言うのです。


マハラジ  なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」たちと彼らの要求から自由になる。「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。それを手放すことはできない。しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分け与えることができる。ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。


質問者 今、私には私が個人ではなく、個人のなかに反映されたとき、それに存在の感覚を与えるものだと理解できました。では、至高なるものについてはどうでしょう?どのようにして私自身を至高なるものとして知るのでしょうか?


マハラジ  意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。源を知るということは、源として在るということだ。あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。それが源であり、無尽蔵の可能性だ。


質問者 源はたくさんあるのでしょうか、それとも、ひとつがすべてのためにあるのでしょうか?


マハラジ  それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにとって低次のものは多数として現れる。


質問者 形や名前はみな同じひとつの神のものなのでしょうか?


マハラジ  これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。


質問者 どのようにして絶対性は体験されるのでしょうか?


マハラジ  それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではない。それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在しているのだ。


質問者 もしそれが源なら、なぜ、そしてどのようにしてそれ自身を現すのでしょうか?


マハラジ  それは意識に誕生を与えるのだ。それ以外のすべては意識のなかにある。


質問者 なぜそれほどたくさんの意識の中心があるのでしょうか?


マハラジ  客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影しては溶解している。いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、物質のなかで気づきの反映によって意識(チェタナ)が現れる。


質問者 至高なるものはどのような影響を受けるのでしょうか?


マハラジ  何が、どうやってそれに影響を与えられるというのだろう?水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか?至高なるものはすべてを可能にする。それだけだ。


質問者 なぜあることは起こり、あることは起こらないのでしょうか?


マハラジ  原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。原因と結果という二元性は存在しない。すべてはそれ自身の原因なのだ。


質問者 それでは、目的をもった行為は不可能なのでしょうか?


マハラジ  私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。意識のなかではすべてが可能だ。もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。


質問者 自己(ヴィアクタ)と至高なるもの(アヴィヤクタ)との関係は何でしょうか?


マハラジ  自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、至高なるものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。


質問者 それはつまり、未知はアクセス不可能ということでしょうか?


マハラジ  いいや。至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。


質問者 では、もし私が至高なるものさえも、何も求めないとしたら?


マハラジ  それでは、あなたは死んだも同然だ。あるいはあなたが至高なるものなのだ。


質問者 世界は欲望でいっぱいです。誰もがあれやこれやを欲しています。欲しているものとは誰なのでしょうか?個人でしょうか、あるいは真我なのでしょうか?


マハラジ  真我だ。神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。それらはすべて「私は在る」という感覚に依存しているのだ。


質問者 神聖な欲望(サティヤカーマ)が真我から発しているということは理解できます。それは真我のサッチターナンダ(存在―意識―至福)の側面の表現でしょう。しかし、なぜ神聖ではない欲望もそうなのでしょうか?


マハラジ  すべての欲望は幸福を目指している。欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)があるところには、その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸福になってほしいという衝動が見られる。だが、至高なるものはすべてを超えている。さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。


質問者 どの欲望が適切なのでしょうか?


マハラジ  主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益であり、充分満たされるのだ。


質問者 神聖なものも神聖でないものも、すべての欲望は苦痛をともないます。


マハラジ  それらは同じではない。苦痛もまた同じものではない。熱情は苦痛だ。慈悲に苦痛はありえない。全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。


質問者 至高なるものはそれ自身を知っているのでしょうか?非個人性は意識をもっているのでしょうか?


マハラジ すべての源はすべてをもっている。源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在しているのだ。そしてひとつの種子は無数の究極的なものであり、それが経験を含み、数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうありえたこと、そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含んでいる。何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、過去と未来が永遠の現在の中で共存しているのだ。


質問者 あなたは至高なる未知のなかに生きているのでしょうか?


マハラジ  それ以外、どこに住むことができるだろうか?


質問者 何があなたにそう言わせるのでしょうか?


マハラジ  どんな欲望もわたしのマインドのなかに湧いてはこないのだ。


質問者 それでは、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ  もちろんそうではない。わたしは完全に意識している。だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静寂が在る。


質問者 誰がその静寂を知っているのでしょうか?


マハラジ  静寂がそれ自身を知っている。それは熱情や欲望が静まったときの、沈黙したマインドの静寂なのだ。


質問者 あなたはときどき欲望を経験しますか?


マハラジ  欲望とはマインドのなかの波にすぎない。それを見たとき、あなたは波だと知る。欲望は数あるもののなかのひとつにすぎない。私にそれを満たそうという衝動は起きない。それに対して何もする必要はない。欲望からの自由とは、それを満たさなければという強迫観念が不在だということだ。


質問者 そもそも、なぜ欲望は湧いてくるのでしょうか?


マハラジ  なぜなら、あなたは生まれてきて、もしあなたが身体の面倒を見なければ死んでしまうだろうと想像するからだ。身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。


質問者 しかし、こんなにもたくさんの生命(ジーヴァ)が身体を得ているのです。間違いなく、それは判断の誤りではありえないでしょう。そこには目的があるはずです。いったい何でしょうか?


マハラジ  自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければならない。欲望は体験へと導く。体験は識別、無執着、自己知識──解放へと導く。そして解放とはいったい何だろうか?それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像することで、あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に負わせてきた。
探求もまた、あなたの目を覚ます。苦しみを待つまでもない。幸福への探求のほうがずっといい。なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。


質問者 究極の体験者とは誰なのでしょうか?真我、あるいは未知なるものでしょうか?


マハラジ  もちろん、真我だ。


質問者 それでは、なぜ至高の未知なるものという概念をもちこんだのですか?


マハラジ  真我を説明するためだ。


質問者 しかし、至高なるものを超える何かが存在するのでしょうか?


マハラジ  真我以外に存在するものはない。すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。トゥリーヤの醒めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧のなかでは「見ること」になる。
だが、なぜ至高なるものにこだわるのか?知る者を知りなさい。そうすればすべては知られるだろう。


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