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イスに座った人の一点を指で押さえると座った人は立ち上がれなくなるような力点のポイントがありますよね。


一点のみの力点が天、地、人にあります。


地は「私(自分)」を「出す」ことを抑止すること。または
「私(自分)」を出していない(現在進行形)ことを自覚している(現在進行形)こと。


天は「神(創造主)」を信頼すること。


人は「人のなかに神を見る」こと。


この3点が整列しているかが問われます。
特に今から「人の力点」を維持することがむずかしくなり、整列が崩れ、実現できない人が増えます。


整列です。Fiora



愛は人間にとって、不自然な状態ではありません。他人が自分を愛するように仕向けるときに、それが不自然になります。そのやり方はよくありません。あなたを愛するのは、彼らの義務ではありません。自分を愛するのが、あなたの義務です。これは傲慢な意味で言っているのではありません。エゴはあなたに、自分を愛するのは傲慢なことだ、と感じさせるでしょう。けれども、自分自身を愛するまでは、他人を愛することはできないのです。


自分以外の誰かを最初に選んで、「あの人を愛する」と決めたりしないでください。愛する対象として選ぶべきなのは、あなた自身です。私が愛せよと言っているのは、あなたのエゴの性質ではありません。それらは必ずしも愛すべき性質ではないからです。愛されている人のすべてが、すばらしい人だというわけではありません。エゴの性質は本当のあなたではありません。その気になれば、自分のエゴの向こうに隠れている”大いなる愛”の存在を見ることができます。肉体や精神や感情面での特質は、そのまま存在しつづけます。私は、あなたのエゴを愛せと言っているのではありません。自己、自分の奥深き”大いなる自己”を愛するようにと言っているのです。そのような愛をいったん味わい、それと親密な関係を持つようになると、一体化することなく、自分のエゴの部分を受け入れることができるようになります。そうなると、もう問題に悩まされることがなくなります。



人生で有意義な貢献をするために、わざわざ人生の歯車を再調整しなおす必要はありません。あたりを見回せば、自己を表現する小径(こみち)がたくさんあるのがわかります。どの小径も、あなたに完全にぴったりとはいえません。あなたが自分を合わせなければならないような小径もあります。それでもいいのです。適応できる、ということはよいことです。同じことを言うにもするにも、いろいろな方法がある、ということを理解するのはよいことです。


もしあなたが完全な形──たとえば完全な仕事、完全な人間関係──を求めていれば、いつもいらいらに悩まされます。この世界は、そういう面では完全なものを与えてはくれません。世界が与えてくれるのは成長と変化の機会であって、それは、あなたがひとつの自己表現の形に固執していなければ、むずかしいことではありません。


そのときどきで、使える形を使ってください。先入観を捨てます。毎瞬があたらしい瞬間です。すべての状況が、あなたのちがう面をひきだそうとします。


あることをある特定のやりかたで言ったりしたりすることに固執すれば、時間に縛られることになります。そういう執着は、あなたを過去に縛りつけます。やってくる経験がたずねているのは、あなたが喜んで過去を手放すか、喜んで信頼に身をゆだねるか、喜んで時間の外に踏み出すかどうか、ということです。


あなたが形に執着しなければ、時間の外に踏み出すことはかんたんです。あなたはいま現在に焦点をあわせます。永遠のいまです。どんなことが起きようと、そのことに全身でかかわっていけます。


でも、あなたがたの中でどれほどの人が、経験のなかで完全に現在という瞬間にいるでしょう。たいていの人は、経験を評価したり、判断したり、アラ探しをしたり、こうあってほしいという色眼鏡で見たりという作業で手一杯です。つまり、あなたがたはにせのアイデンティティにしがみついています。現在を過去に合わせようとしています。


率直に自分にきいてみてください。あなたは、確実不動で予測可能な人生をのぞんでいますか。それがあなたの求めるものでしょうか。もしそうなら、この世界はそれをかなえてはくれません。この世界のすべては、変化のプロセスの中にあります。なにひとつ確実不動なものはありません。予測可能なものはありません。一時的な安全以外のものは与えてくれません。思考は来て、また去っていきます。人間関係は始まり、終わります。肉体は生まれ、滅びます。この世界が与えてくれるのはそのようなことです。つまり、無常、成長、変化です。


永遠というものは、形のレベルでは見いだせません。あらゆる形はその本質上、本来、形なきものである宇宙をゆがめてしまっています。すべてを包含し、受容し、すべてを愛するものは、形の中に閉じこめられたりしません。愛はその対象を選んだり、愛があらわれる瞬間を選んだりしません。愛はすべてのものに対し、つねに及んでいます。愛は条件をもたないものです。つまり「形をもたない」ものです。


ではこの世界で愛を経験することはできない、ということになるのでしょうか。まったくそんなことはありません。ただし、あなたの愛の経験は、あなたの解釈欲求やコントロール欲求の程度に応じて縮小されます。解釈は、条件をつけてはならぬものに、条件をつけます。愛に条件をつければ、あなたの経験するものは愛ではなく、その条件になります。あなたは形に出あうのみで、中身には出あいません。


愛は開いたハートを通じてのみ、表現されます。ハートを開くということはテクニックによるのではなく、概念的な定義の範囲を超えてあふれでる意欲によるものです。ひとつひとつの形が変化するにつれ、ハートは変化してゆくその中身に対し、恐れなく開かれます。


なにかを理解しようと思うなら、形をつきぬけて、そのむこうにある創造的な意図に目を向けなければなりません。人の表現の背後にある意図に同調すれば、その表現が当人にとってどういう意味があるのかが、もっとよく見えてきます。でも形しか見ていなければ、それが自分にとってどういう意味があるのかしかわかりません。


「形をつきぬけて、そのむこうを見る」ということは、すなわち「自分自身の先入観のむこうに出る」ということです。兄弟の真の姿をありのままに見るためには、自分が相手にはりつけている判断のむこうに抜け出なければなりません。相手のことを知りたいのなら、相手に近づいて、ハートを開き、なにを意図しているのかたずねなさい。相手について知るには、そのやりかたしかありません。


相手の意図が変化すれば、そのあらわれである形もまた変化します。自分自身や他人の意図に敏感であれば、変化する形にも楽に対応していけるでしょう。


形に執着しなくなるには、人と疎遠になるよりも、親密になることです。相手とのあいだに距離をおけば執着しなくなるのではなく、逆です。あなたが他人を自分のハートに迎えいれたときだけ、その人たちにしがみつくことなく、自由にさせてあげることができるのです。


慈愛と、執着を手放すことは、同時に進行します。相手を愛していればコントロールしようとは思いません。相手にとって一番よいことを望めばこそ、相手を自由にさせてあげられるのです。相手に自由を与えないのは、愛していることにはなりません。


形への執着は、根深い不安定さや不安感から出てきます。その執着の向こう側に行けるまでは、そのことはわからないでしょう。でもその移行は、避けられないものです。人生の青写真にすでに描かれていることです。


どのような人生の状況も、他人とより親密になり、かつ、より自由になるという機会を与えてくれます。あなたは愛すれば愛するほど、そして多くの人をより深く愛するほど、個々の人に執着しなくなるでしょう。特定の個人に執着するのではなく、それぞれの人がさしのべてくれる愛に執着するのです。そして身体を超えた、あらゆる形を超えた”聖なる愛”の経験へとうつっていくことになります。


いま現在のどんな形でも使えるものを使いなさいというのは、柔軟で受容的になってほしいということです。意図のレベルへ入っていってください、ということです。定義したりコントロールしたりしない親密さの中に入っていってください。もしそれができれば、形に制限されたり、とらわれたりしなくなります。その場で臨機応変にふるまえるようになります。


これが、わたしのさしあげられる最上のアドバイスです。期待をもたずに、結果にしがみつくことなく、いま現在の瞬間にいること。あなたにさしだされた形が気にくわないとぐちったり、逆にまた、それに過剰な意味づけをしたりしないでください。完全性はあなたの外部にはありません。


真実を見つけたいなら、自分の中を見てください。自分自身の意図を見るのです。そうすれば、ほかの人の意図を見誤ることはなくなります。



質問者 私は話を聞くよりもむしろ、あなたとともにいるためにやってきました。言葉では多くを語れません。沈黙はより雄弁です。


マハラジ  まずは言葉、それから沈黙だ。沈黙のためには成熟しなければならない。


質問者 私は沈黙のなかで生きることができるでしょうか?


マハラジ  非利己的な仕事は沈黙へと導く。なぜなら、私利私欲なしに働くとき、あなたは助けを求める必要がない。結果に頓着せず、もっとも不適切な方法で働くことも厭わない。才能のあるなしや、用意が整っているかも気にせず、認められることも、援助も求めない。あなたはただ為すべきことを為し、成功や失敗は未知なるものに預ける。なぜなら、すべては無数の要因によって起こり、あなたの努力は、そのなかのひとつにすぎないからだ。しかし、人類の意志と愛がひとつになるとき、もっとも起こりそうにないことが起こる。人のマインドとハートの魔法とはそういうものなのだ。


質問者 価値のある仕事のとき、援助を求めることに何の間違いがあるでしょう?


マハラジ  求める必要がどこにあるだろうか?それはただ、弱さと不安を表しているだけだ。働きつづけなさい。そうすれば、宇宙はあなたとともに在るだろう。つまるところ、正しいことをしているという考えは未知なるものからやってくる。結果に関するかぎりは未知なるものにゆだねるがいい。ただ必要な行動を通り抜けるだけだ。あなたは因果関係の長い連鎖のなかのひとつの輪にすぎないのだ。根本的に、すべてはただマインドのなかで起こる。あなたが何かのために全身全霊で着々と働くとき、それは起こる。なぜなら、ものごとを起こらせることがマインドの機能だからだ。実際には、何の欠如も必要もない。すべての仕事はただ表面上のものだ。その深みには完全な平和がある。すべての問題が現れるのは、あなたが自分自身を定義し、それゆえ限定したからだ。あなたが自分自身をあれやこれやと考えないとき、すべての葛藤はやむ。問題に対処しようとするいかなる試みも、失敗せざるをえない。なぜなら、欲望によって起こったことは、欲望から自由になることによってのみ、取り消すことができるからだ。あなたは自分自身を時間と空間のなかに閉じこめ、一生という期間と、身体という容積のなかに自分を押し込めてしまった。それゆえ、生と死、快楽と苦痛、期待と恐れという無数の葛藤をつくり出したのだ。幻想を放棄せずに、問題を追い払うことはできない。


質問者 個人はもともと限定されるものです。


マハラジ  個人というようなものは存在しない。そこにはただ制限と限定があるだけだ。それらの定義の総計が個人なのだ。あなたが何なのかを知るとき、あなたはあなた自身を知っているかのように考える。しかし、あなたはけっしてあなたが誰なのかを知らないのだ。壺のなかの空間が壺の匂いと容積と形を一見もっていると見えるように、個人はただ現れたように見えるだけだ。あなたはあなたが自分自身だと信じているものではないということを見抜きなさい。あなたとは名づけることのできる、描写可能なものだという観念に対して全力で闘いなさい。あなたは存在しないのだ。あれやこれといった言葉で自分自身を思うことを拒否しなさい。調べることなく、盲目的に受け入れることでつくり出してきた惨めさからの出口はほかにないのだ。苦しみは探求への呼びかけだ。すべての痛みは調べられることが必要なのだ。考えることをおろそかにしてはならない。


質問者 行動は実在の本質です。働かないことのなかには何の徳もありません。考えることとともに何かが為されなければなりません。


マハラジ  世界のなかで働くことは難しい。すべての不必要な仕事をやめることは、さらに難しい。


質問者 個人としての私にとってこれらはみな不可能なように見えます。


マハラジ  あなた自身について、あなたは何を知っているだろうか?あなたは、真実あなたであるものとしてだけ在ることができる。あなたでないものとしては、そう現れるように見えるだけだ。あなたは完全性からけっして離れたことがない。すべての自己改善という観念は、慣習的な、言語上のものだ。太陽が暗闇を知らないように、自己は非自己を知らない。他者を知ることで他者に成ってしまうのはマインドなのだ。それにもかかわらず、マインドこそがほかでもない自己なのだ。自己は他者、非自己になり、しかも自己として残る。それ以外のすべては見せかけにすぎない。雲が太陽に影響を与えることなく太陽を覆い隠してしまうように、見せかけは実在を破壊することなしに実在を隠してしまう。実在の破壊という観念自体、道理に合わない。破壊者はつねに破壊されたものよりもリアルなのだ。実在は究極の破壊者だ。すべての分離、あらゆる疎遠や疎外は偽りだ。すべてはひとつだ――これがあらゆる衝突の最終的な解決法なのだ。


質問者 こんなにも多くの指導や援助にもかかわらず、私たちが進歩をとげないのはなぜでしょうか?


マハラジ  私たちが自分たちを他者からまったく離れた、分離した人物だと想像するかぎり、本質的に非人格である実在を理解することはできない。まず私たちが次元も時間も超えた観察の中心である観照者としての私たち自身を知らなければならない。そしてそのとき、マインドと物質の両方であり、そのどちらをも超えた広大無辺で純粋な覚醒の大洋を悟るのだ。


質問者 実在において私が何であろうと、私は小さな分離した数多くのなかのひとりの個人だと感じます。


マハラジ  あなたが個人として在るのは、時間と空間という幻想のためだ。あなたが自分をある容積を占有する、ある点だと想像しているからだ。あなたの人格は身体との同一視によるものだ。あなたの思考と感情は時間の連鎖のなかに存在し、記憶があなた自身をある期間、存在しつづけていると想像させるのだ。実際には、時間と空間があなたのなかに存在する。あなたが時間と空間のなかに存在するのではない。それらは知覚の様式だ。だが、それらがすべてなのではない。時間と空間は紙の上に書かれた文字のようなものだ。紙は現実だが、言葉は表現のための約束事にすぎない。あなたは何歳だろうか?


質問者 四十八です。


マハラジ  何があなたを四十八歳と言わせるのだろう?何があなたを「私はここにいます」と言わせるのだろう?憶測から生まれた言葉の習慣だ。マインドは時間と空間をつくり出し、自らの創造を実在と見なすのだ。すべては今ここに在る。だが、私たちはそれを見ない。本当は私のなかに、私によってすべてが在る。ほかには何もない。「ほか」という考えそのものが災いなのだ。


質問者 人格化の原因、時間と空間のなかでの自己限定の原因は何なのでしょうか?


マハラジ  存在しないものが原因をもつことはできない。分離した個人というようなものは存在しないのだ。経験的見地から言っても、すべてがすべての原因であることは明らかだ。すべてはあるがままだ。なぜなら、宇宙全体があるがままだからだ。


質問者 それでも、人格に原因はあるはずです。


マハラジ  人格はどのようにして存在を持つのだろうか?記憶によってだ。現在を過去と同一視し、未来へと投影することによってだ。あなた自身を過去も未来もない、一時的なものとして考えてみなさい。あなたの人格は消え去るだろう。


質問者 「私は在る」は残らないのでしょうか?


マハラジ  「残る」という言葉は当てはまらない。「私は在る」はつねに新鮮なものなのだ。あなたが在るために、覚えている必要はない。実際問題として、あなたが何かを体験する前に、そこには存在の感覚がなければならないからだ。現在、あなたの存在は体験することと混同している。あなたに必要なことは、体験のもつれから存在を解きほどくことだけだ。ひとたびあなたがあれやこれとして在ることのない純粋な存在を知ったならば、もはやそれを体験のなかから認識することも、名前や形によって迷わされることもないだろう。自己限定は人格の主要な本質なのだ。


質問者 どのようにして私は普遍的になれるのでしょうか?


マハラジ  だが、あなたは普遍なのだ。あなたはすでにそうであるものになることはできないし、またなる必要もない。ただ、あなた自身が特定の存在だと想像するのをやめなさい。去来するものは存在をもたない。それはその現れそのものが実在のおかげをこうむっている。あなたは世界が在ることを知っているが、世界はあなたのことを知っているだろうか?すべての知識は、すべての存在とすべての喜びとしてあなたから生じる。あなたが永遠の源であり、すべてはあなた自身のものなのだと悟りなさい。そのような受容が真の愛なのだ。


質問者 あなたの言われることはどれもすばらしい話です。しかし、どのようにしてそれをひとつの生き方にすればよいのでしょうか。


マハラジ  家を一歩も出たことがないのに、あなたは家への帰り道を尋ねている。誤った考えを捨て去りなさい。それだけだ、正しい考えを寄せ集めることも助けにはならない。ただ、想像することをやめなさい。


質問者 それは達成という問題ではなく、理解の問題なのですね。


マハラジ  理解しようとしてはならない。誤解しなければそれで充分だ。解放を得るためにマインドに頼ってはいけない。あなたを束縛へと追いやったのはマインドなのだ。それをすべて超えていきなさい。はじまりのないものに原因はありえない。あなたは、あなたが何であるかを知っていて、それから忘れてしまったわけではない。ひとたび知れば、あなたは忘れることはできない。無知にははじまりがない。しかし、終わりはある。誰が無知なのか、と探求しなさい。そうすれば、無知は夢のように溶け去る。世界は矛盾でいっぱいだ。それゆえ、あなたは調和と平和を探しているのだ。それらを世界のなかに見いだすことはできない。世界とは混沌の子供だからだ。秩序を見いだすためには、あなたは内面を探求しなければならない。あなたが身体の中に生まれて、はじめて世界は存在を表す。身体がなければ、世界はない。まずあなたが身体なのかどうか、探求しなさい。世界を理解することは、後にそれにしたがってやってくるだろう。


質問者 あなたの言われることは納得のいくものです。しかし、それらが世界のなかで、世界に属する個人として在る人にとって、何になるというのでしょうか?


マハラジ  多くの人がパンを食べている。だが小麦についてすべてを知っている人は、ほんのわずかだ。そして、それを知っている人だけがパンを改良することができる。同様に、自己を知る人だけ、世界を超えた彼方を見た人だけが世界を改善できるのだ。個人としてある人たちにとって、彼らの価値は途方もないものだ。なぜなら、彼らだけが自分たちの解放への唯一の期待だからだ。世界のなかに在るものが、世界を救うことはできない。もしあなたが本当に世界を救おうとするなら、そこから出なければならないのだ。


質問者 しかし、世界から出ることができるのでしょうか?


マハラジ  世界とあなた、どちらが先に生まれたのだろうか?世界が先だと考えるかぎり、あなたはそれに縛られているのだ。疑いの跡形もなく、世界はあなたのなかに在り、あなたが世界のなかに在るのではないとひとたび悟れば、あなたは外に出ている。もちろん、あなたの身体は世界のなかに、世界に属したままだ。だが、あなたはもはやそれに惑わされはしない。すべての聖典は世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。誰が創造者を知っているのだろうか?創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、あなたの真我だけなのだ。


質問者 あなたの言われることはすべて、世界があなた自身の投影だという仮定によって筋が通ります。あなたは個人的主観的な世界、感覚とマインドを通してあなたに与えられた世界を認めています。その意味では、わたしたちそれぞれが投影による世界に生きているということです。それらの個人的な世界はほとんど互いに通ずることもなく、それらの中心である「わたしは在る」から現れ、そのなかに溶け去っていきます。しかし、間違いなくその個人的世界の背後には、共通の客観的世界があるはずです。その客観的世界のなかで、個人的世界はただの影にすぎません。あなたはそのようなすべてに共通な客観的世界を否定しますか?


マハラジ  実在は主観的でも客観的でもなく、マインドでも物質でもなく、時間でも空間でもない。これらの区分には、それが起こる当の人、意識的な分離した中心が必要となる。しかし、実在はすべてであり無であり、全体性と排他性であり、充満と虚空であり、完全に首尾一貫し、絶対的に矛盾したものだ。それについて語ることはできないのだ。あなたは、ただあなた自身をそのなかに失うことができるだけだ。あなたが実在ではないものすべてをどこまでも拒絶していくと、最終的に否定しきれず残されたものにであう。ジニャーナ(真理の知識)に関する話はすべて無知の印だ。知らないのだと想像し、それから知るようになるのはマインドなのだ。実在はこれらの歪曲に関して何も知らない。創造者としての神という理念さえも偽りだ。わたしは自己の存在を何かほかの存在に負うだろうか?わたしは存在する。それゆえ、すべては存在するのだ。


質問者 どうしてそうあり得るでしょう?子供は世界のなかに生まれます。世界が子供のなかに生まれるのではありません。世界は古く、子供は新しいのです。


マハラジ  子供はあなたの世界に生まれてくるのだ。さて、あなたは世界のなかに生まれたのだろうか、それとも、世界があなたに対して現れたのだろうか?生まれるということはあなた自身を中心として、あなたの周りに世界をつくり出すことだ。しかし、あなたがあなた自身を創造したのだろうか?あるいは、誰かがあなたを創造したのだろうか?誰もが自分自身の世界をつくり出し、己の無知によって監禁され、そのなかで生きているのだ。わたしたちのしなければならないことは、牢獄の実在性を否定することだけだ。


質問者 眠りの間に目覚めの状態が種子として存在するように、生まれてくることによって子供がつくり出した世界も、子供の誕生以前に存在していたのです。その種子は誰とともにあるのでしょうか?


マハラジ  死と誕生を観照し、しかもけっして生まれず死ぬこともないその人とともにある。ただ彼だけが創造の種子であり、最後に残るものなのだ。マインドの彼方に何があるのかを、マインドに確認するよう頼むわけにはいかない。直接体験だけが唯一有効な証拠なのだ。


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