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1コの光のボールがあり
全体が黒い布のようなもので覆われています。
その布には無数の穴が開いていて
光の柱がそこから無数に乱立しています。


個人というのはこの光の柱で、
「投影映像」です。「ホログラフィ」です。
これを”固い”と想像するから、実体のない投影映像を守るために自我が動きます。
守る必要はないことを理解できないのは、
実体が「どちら」なのかを忘却し、逆転して理解してしまっているからです。


実体は、根源の光のボールであり、
共有ボールです。


この光のボールを神(創造主)というならば、
投影映像である個人から
本当の実体であるボール、神へと意識の向きが変わることを


寿(ス)


というのです。
投影映像Aさんと投影映像Bさんは幸せになるためにいるのではありません。


神を幸せに彩るためにいるのです。このニュアンスの違いがわかりますか。
(魂の彩りは神の計画です。あなたがた一人一人には元々、神が計画した彩り、彩色役が課せられています。魂とは絵の具です)
喜ぶのは、実体である神だけであり、
映像には喜ぶ機能がないのです。


映像を喜ばせようとすると空回りです。
では神を喜ばせようとするとき、あなた(がた)はどうなるのでしょうか。Fiora



人が怖れに打ちのめされてしまうのは、怖れは自分のほんの一部にしかすぎないという事実を理解していないからです。



もしも、思考に殺す力があるとしたら、あなたがたのうちの何人がいま生き残っているでしょうか。もう一度言います。あらゆる行為の種は、あなたがたの思考の中にあるのです。「あなたの考えはがまんならない」と思うと、すでに相手を攻撃しています。


思考として始まるものは、すぐに口をついて言葉となります。みんなの前でだれかをおとしめたり、かげぐちをたたいたりしたら、その人を攻撃していることになります。


言葉となったものは、すぐに行為となります。言葉によって、あなたの意見に賛同する人々が出てきたら、相手をたたいたり、殺したりしてもよいのだという気持ちになります。


社会はこう言います。「物理的な行為だけが非難されるべきだ。言葉での攻撃は不幸なことだが、避けられない。それに、人がある考えを抱いただけで、その責任をとるべきだと考えるのは愚かなことだ」


そしてあなたがたは殺人事件には憤激しますが、殺人という考えは受けいれられるわけです。あなたがたはみな、そういう考えを抱いたことがあります。レイプや性的虐待の行為には憤激しますが、そういうことを頭に描いただけではそれほど動揺しないでしょう。


自分の抱く考えすべて、そして他人に言ったり、したりしたことのすべては、自分が自分をどう思っているかの反映だということを忘れないでください。だれかにネガティブな考えを抱くということは、同時に自分自身をどう思っているかを示しています。だれかについてたたくかげぐち、言葉での侮辱は、自分自身に恥ずべきところがあり、拒絶されていると感じていることを示しています。そしてだれかに実際に暴力をふるうということは、自分自身の自殺衝動のあらわれなのです。


これは神秘的なことでもなんでもありません。傷ついている人だけが、他人になぐりかかります。そして、わたしはたずねたいのですが、あなたがたのうちの何人が傷ついていないと言えるでしょうか。あなたがたのうちの何人が、ごく小さな形であれ、他人になぐりかかろうとしていないでしょうか。


レイプ犯、殺人犯とあなたとの違いは、あなたが思っているほど大きくはありません。わたしがこれを言うのは、あなたを落ちこませるためではありません。兄弟に対する責任に目覚めてもらいたいと思って言うのです。


復讐の考えを抱いた自分を宥すことができれば、復讐の行為をおこなう人を宥すことができないわけがありません。その人はあなたがすでに考えていたことを、行為に移したにすぎません。


わたしは、復讐の行為を正当化するつもりはありません。攻撃も正当化しませんし、あなたがたにも正当化してほしくありません。ただ、なぜその兄弟をあなたのハートから追い出してしまうのか、とたずねたいのです。その人は、おそらくあなたよりも愛と宥しに飢えていたのでしょう。それをけっして与えまいとするのですか。


その人は人生で深い傷を負っていたのです。父親がいなかったかもしれません。九歳から麻薬中毒だったかもしれません。そして四六時中危険を感じるような組織の中で生きてきたのです。あなたは、罪を犯した男の中にいる、この傷ついた少年に少しでも同情を感じませんか。


あなたが彼の立場だったとしたら、もっとましな生き方ができたのでしょうか。正直になってください、友よ。正直になれば、あわれみを覚えるでしょう。その犯罪者にではなくとも、その前身の少年に。


わたしはいま、はっきりと言います。ひきがねを引いてしまったのは、その男ではなく、少年です。それはすっかり押しつぶされてしまった、聖なる存在です。愛され、受けいれられていると感じられなかった少年です。攻撃に出たのは、その男ではなく、その傷ついた少年なのです。


友よ、大人などというものはいません。少年だけです。その男の怒りに満ちたいやらしい顔に、あなたの視界をくもらされないでください。そのこわばった外見の下には、圧倒的な苦痛と自己批判があります。生き方を誤った大人の、いまわしい怒りの仮面の下には、自分が愛されるべきだとは信じられない少年がいます。


その少年を抱きしめられないなら、自分の中の少年あるいは少女をどうして抱きしめることができましょう。その子の恐れとあなたの恐れは、さほど違ったものではありません。


まず、自分が倫理的で立派な人間だという仮面をはずしてください。それから自分の中の少年少女に、その男の中の少年をながめさせます。そこから愛と受容が始まります。宥しはそこに根を張っています。


犯罪者はあなたがたの社会の中の、みんなが見ないふりをしているグループのひとつにすぎません。あなたがたは、その生活を見ようとしません。彼らの苦しみについては聞きたくもありません。自分の目の届かないところに押しやってしまいたいと思います。老人についても、精神病者についても、ホームレスについても、同じように感じます。


友よ、あなたは兄弟を愛するという責任をとりたくありません。でも彼を愛さなくては、自分自身を愛し、受けいれることはできません。あなたの兄弟はあなたの救いの鍵です。そういう兄弟はいままでもいましたし、これからもずっといるでしょう。


個人が自分の受けいれたくないネガティブな傾向を否定し、抑圧するように、社会もまた直面したくない問題を否定し、制度化してしまいます。個人の無意識も、集合的無意識も、口に出せない傷をいっぱいかかえています。その傷口に埋めこまれている、自分で意識しない苦痛、罪悪感、恐怖心が、個人をも社会をもそういう行動に駆り立てています。


宥しは、自分と社会の中にある、こうした暗黒の秘密の場所にサーチライトをあてていきます。宥しはあなた自身の罪悪感と恐怖心にむかって、「出てきて、姿を見せなさい。あなたを理解したいから」と言います。そして犯罪者にむかっては「出てきて、あなたの罪の犠牲者たちに会い、償いをし、癒しのプロセスを始めなさい」と言います。


傷を認めることは、いつでも癒しのプロセスの第一歩です。個人としても、社会という集合体としても、傷の背後にひそむ恐怖心に進んで直面するつもりがなければ、癒しのプロセスは始まりません。


自分自身が押し殺している苦痛を見るのは、むずかしいことでしょう。社会にとっても、自分が排除したものたちの苦痛を見るのはむずかしいことなのです。しかし、それは必要なことです。


どんな人でも、傷が意識化されるまでは、無意識的反応という牢獄の中に住んでいます。鉄格子の向こうにいるのは、犯罪者だけではありません。犯罪者をそこに追いやる人はだれでも、ちがった鉄格子の中に住んでいます。無意識の素材を、意識の光の中に持ちこまなければ、それはおのずとゆがんだ形で自分を表現しようとします。あなたがたが進んで犯罪者にはたらきかけて、自分自身を愛し、受けいれるようにさせなければ、その人は同じ怒りや復讐心をもって、また社会に出ていきます。


刑務所の数を増やしたり、路上の警官を増やしたりしても、あなたの身のまわりが安全になるわけではありません。こうした行為は恐怖心のレベルをあげ、状況をさらに悪化させます。


状況を改善したいのであれば、刑務所やご近所に宥しのわざを持ちこむことです。教師やカウンセラー、ソーシャル・ワーカーの数を増やします。人々に食べ物を与え、感情的にも知的にも刺激を与えてください。安全な感情的結びつきの経験をさせてください。教育と訓練の機会を与えてください。希望を与えなさい。受容を与えなさい。愛を与えなさい。


これが平和を作り出すもののわざです。これが奉仕です。自分自身を抱きしめるのと同様に、兄弟を抱きしめることです。


どうか忘れないでください。人に与えているとき、あなたがたは自分自身にも与えています。愛を与えるときには、必ず愛を受けとっています。贈り物を与えるときには、同時に受けとっています。


そろそろ自分自身のなかの罪人を、そして社会の中の犯罪者を罰するのをやめるときです。罰は拒絶感を強めるだけです。それは必要なことのまったく反対です。拒絶感をやわらげ、軽くするべきです。批判と攻撃を、意識の光の中にもちだしてください。罪悪感と恐怖心をあるがままに見るべきです。


この再生の行為は、統合の行為です。暗黒は光の中にさらされるべきです。受けいれられないもののすべてを受けいれれば、それを恐怖心なしに見ることができます。行為の種子は考えの中にありますから、そこに働きかけるべきです。考えを変えずに、行為を変えることはできません。


あなたがある種の考えをタブーにしていれば、それを見るのを恐れます。それは建設的ではありません。どうか自分の精神の中にある殺人の考えをよく見てください。そうすれば、無意識の中に埋めてしまう必要はありません。


まわりの人々が自分の思考に、そしてその思考の結果に責任をとれるよう、手を貸してください。内なる力と正しい自己尊重は、自分は何を考え、何を言い、どう行動すべきか、自由に選択できるのだと悟るところから始まります。


他人に打ちかかろうとする人は、自分には選択がないと感じています。選択があると知っている人は、他人に打ちかかりません。


これが鍵です。自分に選択の余地があるのだと教えれば、その人は犯罪をおかさないでしょう。犯罪は自己処罰のひとつの形式であり、無意識の罪悪感につきうごかされて無意識に選択されたものです。犯罪者は、自分を罰そうとしているので罪を犯すのです。社会は彼を罰し、罪悪感を強めることで、その自己処罰をかなえてやります。


社会がこの悪循環から抜け出る唯一の道は、弾劾や処罰の儀式を捨て、癒しに向かうことです。苦しんでいる人すべてに、自分で自分を助けるよう手助けをします。そういう人が、自分の無価値感や罪悪感を意識にのぼらせ、認められるようにしてあげなさい。そしてそうしたネガティブな感情や、自分についてのネガティブな思いこみを、ポジティブなものに変えられるように手を貸します。


あなたがたの社会のハンセン病患者の状況は、わたしの時代のそれとほとんど変わっていません。その人とたちは万人の傷を、みずからの皮膚にあらわしています。あなたがたが向きあおうとしない苦痛の、大胆な証人なのです。社会はかれらが道を示してくれていることに対して、感謝すべきです。かれらは全人類が行かねばならぬ癒しの道を指し示しています。



質問者 私はシュリー・ラマナ・アシュラムから、今着いたばかりです。そこで7ヶ月間過ごしました。


マハラジ  アーシュラムでは、何の修練をしていたのかね?


質問者 できるかぎり、「私は誰か?」に集中していました。


マハラジ  どのようにしていたのだろうか?言葉を使ってかね?


質問者 一日のうちで私が自由にできる時間に、ときには「私は誰か?」「私だ。しかし、私は誰なのか?」と自分自身につぶやきながら、あるいはそれをマインドのなかで行っていました。ときには何か良い感じがしたり、まったく幸せな気分になったりしました。概して、体験を得ようと骨を折るよりも、静かに受容的であろうとしていました。


マハラジ  あなたが正しい心もちでいたとき、実際には何を体験したのだろうか?


質問者 内なる静けさ、平和、沈黙です。


マハラジ  自分が無意識になったときに気づいたときがあったろうか?


質問者 はい。ときには、とても短い間ですが。そうでなければ、私はただ内側でも外側でも静かにしていただけです。


マハラジ  それはどのような静かさだったのだろうか?何か深い眠りに似た、それでもやはり意識のある、目覚めた眠りの類だろうか?


質問者 はい。油断なく気づきながら眠っている状態(ジャーグラット―スシュプティ)です。


マハラジ  重要なのは欲望、恐れといったマインドの「六つの敵 *」である否定的感情から自由になることだ。ひとたび、マインドがそれらから自由になれば、あとはたやすい。洗剤に浸けおいた布がきれいになるように、純粋な感情の流れのなかでマインドは浄化されるのだ。あなたが静かに座り自己を見つめるとき、あらゆることが表層に現れてくるかも知れない。それらに対して何もしてはいけない。それらに反応してはならない。それらはやってきたようにそれら自身で去っていくだろう。重要なことは注意、自分自身へというより、むしろ自分のマインドへの完全な気づきだけだ。


質問者 「自分自身」とは日常の自分ということでしょうか?


マハラジ  そうだ。個人のことだ。それだけが客観的に観察可能なのだ。観察者は観察の彼方にいる。観察可能なものは本来の自己ではない。


質問者 私は観察者の背後へと果てしなく退くことにより、つねに観察者を観察することができます。


マハラジ  観察を観察することはできる。だが、観察者をではない。あなたは観察を基盤とした論理的過程によってではなく、直接的洞察によって、あなたが究極の観察者だということを知っている。あなたはあなたであるものだ。だが、あなたが知っているのはあなたではないものだ。自己は存在として知られ、非自己は一時的なものとして知られる。しかし実際は、すべてはマインドのなかにあるのだ。観察されるもの、観察、そして観察者は精神的構成概念にすぎない。真我だけが在るのだ。


質問者 なぜマインドはこれらの区別をつくり出すのでしょうか?


マハラジ  区別することはマインドの本性そのものなのだ。区別すること自体に害はない。しかし分離は事実に反している。ものごとや人びとはさまざまだ。しかし、それらは分離していない。自然はひとつ、実在はひとつだ。反対のものはあっても、対立はないのだ。


質問者 私は自分がたいへん活動的な性質だと気づきました。ここにいる間、私は活動を避けるように勧められました。不活発になろうとすればするほど、何かをしようとする衝動は大きくなっていきます。これが私を外面的に活動的にするばかりでなく、本質的にそうではない私になろうとする内面の葛藤ももたらします。仕事への切望に対する治療法はあるのでしょうか?


マハラジ  仕事と単なる活動の間には違いがある。すべての自然は働いている。働くことは自然だ。自然は働くのだ。一方、活動は欲望と恐れ、所有し楽しむことへの切望、苦痛と消滅への恐怖を根底にしている。仕事は全体による全体のためのものだ。活動は自分による自分のためのものだ。


* 訳注 「六つの敵」 性欲、怒り、強欲、妄想、慢心、羨望。


質問者 活動に対する治療法はあるのでしょうか?


マハラジ  それを見なさい。そうすれば、それは止むだろう。あなたが束縛のなかにいること、何であれ、あなたに起こることは身体的存在という事実によることを、あらゆる機会を使って自分に思い起こさせなさい。欲望、恐怖、困難、喜び、それらは現れる対象であるあなたがいないかぎり、現れることはできない。それにもかかわらず、何であれ起こることは知覚する中心としてのあなたの存在を指し示す。指し示すものは無視し、それらが何を示しているのかに気づきなさい。それはとても簡単だが、実行されなければならない。重要なことは、あなた自身に戻りつづけるという持続性なのだ。


質問者 私は自分のなかに深く没頭してしまう奇妙な状態に陥ります。それは、しかし予期できない、一時的なものなのです。そのような状態を自分でコントロールできるとは思いません。


マハラジ  身体は物質的なものであり、変えるには時間がかかる。マインドは考え方と感じ方という精神的習慣の集合だ。変えるためには、それらは表層に引き出され、調べられなければならない。これもまた時間がかかる。ただ決心し、たゆまずやり通すことだ。あとはそれ自身が面倒を見るだろう。


質問者 どうやら私は何をすべきか、という明確な計画をもったようです。しかし私は疲れ、ふさぎこんで友人たちを求め、そうして孤独と瞑想に与えられるべき時間を浪費してしまうのです。


マハラジ  あなたの感じるようにするがいい。自分を責めるのはやめなさい。暴力はあなたを固く、厳しくしてしまう。道の上の障害と闘ってはならない。ただそれらに関心をもちなさい。それらを見て、観察し、調べなさい。良いこと悪いこと、何であれあるがままに起こらせるがいい。だが、あなた自身を起こることのなかに沈みこませてはならない。


質問者 自分が観照者だとつねに思い起こさせる目的は何なのでしょうか?


マハラジ  動き回るマインドの彼方には、不変なる気づきという背景が存在する。マインドは本来の自己を知り、それを敬い、月食で月が太陽を隠すように、それを覆い隠すことをやめなければならない。ただ観察可能なもの、体験可能なものは何ひとつあなたではなく、またあなたを束縛することはできないということを自覚しなさい。あなた自身ではないものに注意を払いなさい。


質問者 あなたが言ったことをするには、私は絶え間なく気づいていなければなりません。


マハラジ  気づくことは目覚めることだ。気づかないことは眠っていることだ。いずれにせよ、あなたは気づいている。そうあろうと試みる必要はない。あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。意図的に、そして意識的に気づいていなさい。気づきの領域を広げ、そして深めなさい。あなたはつねにマインドを意識している。だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。


質問者 私が理解するには、あなたは「マインド」「意識」「気づき」という言葉に、明確に区別された意味を与えています。


マハラジ  こういうふうに見てみなさい。マインドは、たとえあなたが見ていないときでも、想いを絶え間なく生みだしている。マインドのなかで何が起こっているかを知っているとき、あなたはそれを意識と呼ぶ。あなたの意識は感覚から感覚へ、知覚から知覚へ、観念から観念へと果てしない連続のなかで移行している。これがあなたの目覚めの状態だ。そしてマインドの全体性、意識全体への直接の洞察である気づきが現れる。マインドは川のように、身体の川床のなかを絶えず流れている。あなたはあなた自身を一瞬ある特定の波と同一化し、それを「私の想い」と呼ぶのだ。あなたが意識するすべてはあなたのマインドであり、気づきとは意識の全体性の認識だ。


質問者 誰もが意識しています。しかし、誰もが気づいているわけではありません。


マハラジ  「誰もが意識している」と言ってはならない。「意識がそこにはある」と言いなさい。そのなかですべては現れ消えていく。私たちのマインドは意識の大海の波にすぎない。波としてのそれは、来ては去っていく。海としてのそれは、無限で永遠だ。あなた自身を生命の大海、すべての存在の子宮として知りなさい。もちろん、これらはすべて隠喩だ。実在は描写を超えている。あなたはそれで在ることによってのみ、それを知ることができるのだ。


質問者 それを探求することに苦労するだけの価値があるのでしょうか?


マハラジ  それがなければ、すべてが苦労だ。もしあなたが正気で、創造的に、幸福に、そして分かちあえる無限の豊かさをもって生きたいと願うならば、あなたであるものを探求しなさい。マインドは身体の中心にあり、意識はマインドの中心にあるが、気づきは自由だ。身体はその衝動をもち、マインドはその苦痛と喜びをもっている。気づきは無執着で、不動だ。それは透明で、静かで、穏やかで、油断なく、恐れがなく、欲望も恐怖もない。あなたの真の存在として、それに瞑想しなさい。そして日々の生活のなかでそれで在ろうと試みなさい。そうすれば、あなたはその豊かさを実現するだろう。マインドは起こっていることに関心をもつが、気づきはマインド自体に関心をもつのだ。子どもはおもちゃを追い求めるが、母親はおもちゃではなく子どもを見ている。たゆまず見つづけることで、私は完全な虚空となったのだ。そしてその虚空とともに、すべては私に戻ってきた、ただマインドを除いて。私はマインドを失い、取り戻すことができないことに気づいたのだ。


質問者 今、あなたは私たちに話しかけていますが、あなたは無意識なのでしょうか?


マハラジ  私は意識でも無意識でもない。私はマインドと、その多様な状態と条件を超えているのだ。区別はマインドによってつくられ、マインドにのみ適用される。私は純粋な意識そのものだ。存在するものすべての完全な気づきだ。私は神聖な状態にいる。個人を構成する区分や分離に惑わされることはない。身体が続くかぎり、それにはその要求がある。しかし、私の精神的過程は終焉したのだ。


質問者 あなたは考える人のようにふるまっていますが。


マハラジ  いけないかね?だが私の思考は消化作用のように無意識であり、意味のあるものだ。


質問者 もしあなたの思考が無意識ならば、どうやってそれが正しいと知るのでしょうか?


マハラジ  それを妨げる何の欲望も恐れもないからだ。どうして間違いを犯すことができるだろうか?ひとたび自分自身と、自分が何を意味するのかを知れば、自分自身をつねに確かめる必要はない。あなたの時計が正確な時を告げていると知れば、それを見るたびにためらう必要はないのだ。


質問者 もしマインドではないのなら、今、この瞬間誰が話しているのでしょうか?


マハラジ  質問を聞いているそれが答えるのだ。


質問者 しかし、それとは誰でしょうか?


マハラジ  誰ではなく、何がだ。あなたにとって、私は個人として見えるかも知れないが、あなたの言葉の意味でいう個人ではない。私はそのなかですべてが起こる無限の意識の大海なのだ。そしてすべての実存と認識を超えた存在の純粋な至福だ。私から分離したと感じられるものは何もない。それゆえ、私はすべてだ。私はいかなるものでもない、それゆえ、私は無なのだ。火は燃え、水は流れ、種子は発芽し、樹木は生長する。その同じ力が私をしてあなたの質問に答えさせるのだ。言葉や話しぶりは個人的に見えるかも知れないが、私に関しては何も個人的なことはない。個人とは、欲望や思考や行動の一様式だ。私の場合、そのようなものは何もない。私には望むものも恐れるものもない。どうして様式がそこにありえようか?


質問者 間違いなく、あなたも死ぬでしょう。


マハラジ  生命は離れ、身体は死を迎えるだろう。だが、それが私に影響を与えることはまったくない。私は時間と空間を超えた彼方に在る。原因なく、原因を与えることなく、しかも存在の母体そのものなのだ。


質問者 あなたがどうやって現在の状態に至ったのか、尋ねてもかまいませんか?


マハラジ  私の師が、「私は在る」という感覚をしっかりつかまえ、一瞬でさえ離してはならない、と私に言ったのだ。私は彼の助言にしたがって最善を尽くし、比較的短期間で彼の教えの正しさを実現した。私がしたことといえば、彼の教え、彼の顔、彼の言葉を絶えず思い起こしていたことだ。これがマインドに終焉をもたらした。マインドの静寂のなかで、私は束縛から解放された、あるがままの私を見たのだ。


質問者 あなたの真我の実現は突然のものでしょうか、それとも段階的なものだったのでしょうか?


マハラジ  どちらでもない。それは永遠にそれなのだ。欲望と恐れがぬぐい去られたとき、それを実現するのはマインドなのだ。


質問者 真我の実現のための欲望もぬぐい去られたのでしょうか?


マハラジ  恐れることへの恐怖がもっとも奇妙な恐れであるように、すべての欲望に終止符を打とうと望むことは、もっとも奇妙な欲望だ。ひとつは、あなたにつかみ取ることをやめさせ、もうひとつは、あなたに逃げだすことをやめさせる。あなたは同じ言葉を使うかも知れないが、その状態は、同じではない。真我の実現を探し求める人は欲望に溺れない。探求者は欲望に沿うことなく逆らっていく。自由への一般的な切望はただの初歩段階だ。適切な手段を見つけ、それらを適用することが、つぎなる段階だ。探求者には、彼の真我を見いだすというたったひとつのゴールしか視野にない。すべての欲望のなかで、それはもっとも野心的なものだ。なぜなら、何も、そして誰もそれを満たすことはできないからだ。探求者と探求されるものはひとつだ。そして探求のみが重要なのだ。


質問者 探求は終焉するときが来ます。探求者は残るでしょう。


マハラジ  いいや。探求者は消え去るが、探求は続く。探求は究極であり、永遠の実在だ。


質問者 探求とは、欠けていること、欲していること、未完成、そして不完全を意味します。


マハラジ  いいや。それは不完全と未完成の拒絶と拒否を意味する。実在の探求自体が実在の動きなのだ。ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我の探求を意味している。この探求が終わることはけっしてない。それと同時に、それ以外のすべてへの落ち着きのない切望が終わらなければならないのだ。実在、神、あるいはグルの探求は、真我の探求と同じだということを理解しなければならない。ひとつが発見されると、すべては発見されるのだ。「私は在る」と「神は在る」があなたのマインドのなかで区別不可能となったとき、何かが起こる。そのとき疑いの余地なく、神が存在するのはあなたがあるからであり、あなたが存在するのは神があるからだと知るだろう。


質問者 すべてが運命によってすでに定まっているのなら、真我の実現もまた定まっているのでしょうか?あるいは、少なくともそれに関して私たちは自由なのでしょうか?


マハラジ  運命は名前と形にのみ関係する。あなたは身体でもマインドでもないのだから、運命があなたをコントロールすることはできない。あなたは完全に自由だ。コップは形、材質、利用法などに条件づけられている。だが、コップのなかの空間は解放されている。それはコップに関連して見られたときにだけ、コップのなかにあると見なされる。そうでなければ、それはただの空間だ。身体があるかぎり、あなたは肉体化されたかのように見える。身体がなくなっても、あなたは肉体から分離されたのではない。あなたはただ在る。運命さえもただの概念にすぎない。言葉はあらゆる方法で組み立てられる。表明は異なるだろうが、それらが現実において変化をもたらすだろうか?数多くの説がものごとを説明するために発明されてきた。それらすべてはもっともらしいものであり、どれも本物ではない。車を運転するとき、あなたは科学と力学の法則の支配下にある。車を降りたら、生理学と生化学の支配下にある。


質問者 瞑想とは何でしょうか?何がその効用なのでしょうか?


マハラジ  あなたが初心者であるかぎり、ある形式的な瞑想、あるいは祈りが向いているだろう。しかし、実在の探求者にはただひとつの瞑想があるだけだ。それは思考を潜ませることへの厳格な拒絶だ。思考から自由になること、それ自体が瞑想だ。


質問者 それはどのようになされるのでしょうか?


マハラジ  思考が起こるにまかせ、それらを見ることだ。その観察自体がマインドをゆっくりさせ、完全に止まらせる。ひとたび、マインドが静まったなら、それを静かに保ちなさい。平安に退屈になってはならない。そのなかに在りなさい。そのなかにより深く入っていきなさい。


質問者 ほかの思考を避けるため、ひとつの想いをもちつづけるということについて聞きました。しかしどのようにして、すべての思考を追い払いつづけるのでしょうか?その考え自体が思考なのです。


マハラジ  新しい実験をしてみなさい。過去の体験にしたがってはならない。あなたの思考を見なさい。そして思考を見ているあなた自身を見なさい。すべての思考から自由になった状態が突然起こるだろう。そしてその至福によって、それを認識するだろう。


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