自分のベストを尽くして、自分のパワーのバランスをとるようにし、ほかの人々の努力も認めてあげてください。自分もまわりの人々も無目的に行動しているのではないのだ、と信頼することです。あなたの子供は、あなたを親として選んで生まれてきたのです。あなたが、自分の特定のパワー因子のバランスをとろうとして、奮闘する過程をともに経験することが、あなたの子供にとって必要な課題だったからです。人は、必ず自分が必要とする課題を選び取っています。


あなたが生きているのは、行き当りばったりの世界ではありません。自分が創り上げた幻影が何であれ、それはいつかは死ぬのだということを知ることによって、”大いなる自由”を得ることができます。パワー因子のすばらしさは、あなた方が「永遠性」と呼ぶものにあります。ここで得られたバランスは、「次の次元」に行くときにもっていけます。そのバランスのなかから新しい生き方が生まれ、精神的に成長したり、他の人と分かちあうための、新たな機会が生まれます。幻影は死に、真実のみが残るのです。



分割し、征服する、というのがエゴの本性です。分割のないところには、征服もありえません。あらゆる思考は、ものを分離するか、統合するかどちらかです。考えどうしに差異をたてる思考、人をたがいに区別する思考は、一体性の気づきをくもらせます。人々をたがいに結びつける思考、ある考えを別の考えに結びつけるような思考は、一体性を明らかにします。


考えは、敵になりえます。それを考えた人が敵になるのと同じくらいかんたんなことです。他人を攻撃せずに、その考えだけを攻撃できると思うかもしれませんが、考えを攻撃された場合に、それを個人攻撃と受けとめない人はそうたくさんいません。


人々は、自分の考えと自分を同一視します。だれかと話をする場合には、相手の考えかたをもふくめて知り、それを認めてください。それからあなたが自分の考えを話せば、相手もそれを認めるでしょう。


おたがいの考えかたが競合せずに共存できるまでは、どんなふたりの人もくつろいでいっしょにいることはできません。相手の考えを受けいれることは、たとえその考えに自分は同意できなくても、相手に敬意と信頼をさしのべることになります。


だれかといっしょに平和にいるためには、自分と相手を隔てるものではなく、結びつけるものを見る必要があります。結びつけるものを見てとるなら、たがいの差異をも尊重できます。差異のほうを見てとるなら、その差異を克服しようとあくせくすることになります。


差異を克服しようとしても、たいてい失敗します。それは、差異があるということは健全だからです。おたがいの差異を尊重するかぎり、親密なよい関係を築く可能性を妨げることはありません。


いつでも相手に、自分と違っているためのすきまの場所を残しておいてあげなさい。そうすればあなたも、相手と親密になることを避けようとは思わないでしょう。


自分が受けいれられるためには、相手と同じようにならねばならない、そしてその逆も真だと感じると、あなたは差異を克服する努力をします。


差異はそのままにしておきなさい。あなたはそのままで受けいれられる人ですし、相手もそうです。そうすれば、あなたのハートにも相手のハートにも平和があります。それでいいのです。


自分がいかに相手を、こうあるべきだと信じるイメージどおりに変えようとしているかに気づきはじめてください。また相手がいかにあなたを変えようとしているかにもです。その押したり引いたりを感じてください。それがエゴの世界というものです。


エゴとは宇宙でもっとも不安定なものです。だからこそいつでも、どの側につくかを決めたり、地位や立場によりかかったりするのです。自分自身にもともと信頼を寄せていませんし、スピリットの寛大性をもちあわせてもいません。


エゴは自分自身を憎んでいるので、他のあらゆるものをも憎みます。その傲慢さは見せかけにすぎません。エゴを切り離せば、そのあとに傷口がぽっかり口をあけているのがわかります。


エゴとは、自分が愛されているのを知らないあなたの一部分です。エゴは愛を与えません。与えるほどの愛が自分にあるとは知らないからです。


愛されないもの、愛されえないものが、どうして愛を見いだせるでしょう。これは、この世界をさまよい続けるすべての魂の叫びです。


エゴには、自分が愛をもっていることを教えなければなりません。これはエゴにとっては危険な提案です。エゴは自分に愛があると知った瞬間、エゴであることをやめるからです。エゴはエゴとしては死に、愛として再生します。


だからこそ、多くの人が悟りに抵抗するのがわかりますね。目覚めという考えは、まだ眠りこんでいる人すべてをおびやかすのです。あなたがたはいつも考えます。「目を覚ましてしまったら、もう、わたしはここにはいられないだろう!」


それだからこそ、あなたがたの死の恐怖と目覚めの恐怖は同じなのです。制限のない宇宙的な”自己”は、制限のある仮の自己が死なないかぎり、生まれることがありません。


ですから、どちらにしても、ある意味での死が来るのです。死ぬか、あるいは別種の死である目覚めにいたるかです。


いったん目が覚めれば、死はもはや大事件ではありません。失うべき貴重なアイデンティティなど、もはやないからです。ですから物理的肉体にとどまっているか、そうでないかは重要ではありません。どちらにしても、あなたは現在にいることが必要です。


(中略)


コースを卒業した人は、どこに送られてもそこで満足しています。それが肉体を受けることであっても、それで満足です。肉体をもっただれかを助ける役目であっても、それで喜んでいます。


どこへ行くかはほんとうは重要なことではありません。なぜなら、あなたには何かを達成して自分の価値を証明する必要はないのですから。あなたはただ、行った先々でまわりの人を助けるだけです。


無意味なアイデンティティをこそぎおとすことは、故郷へ帰るためにはぜったい必要です。自己防御の必要が少なければ少ないほど、あなたは人の役に立てます。そして役に立てれば立てるほど、あなたの経験は祝福に満ちたものになるでしょう。


わたしは「死はおもしろおかしいものだ」とまでは言いませんが、死が「おもしろいものではない」理由は、あなたがたがいまだに自己の定義のきれっぱしにしがみついているからにすぎません。


あなたがたの地上での経験は、自分自身を、兄弟を、神を信頼することを学ぶプロセスです。目覚めの最後の瞬間には、その信頼が完全に花開き、”自己”のこの三つの側面がひとつに溶けあいます。


その瞬間は言葉では言いあらわせませんが、あなたがたが必ずそれを経験することは確かです。それを経験して初めて、このことすべてが完全に腑に落ちるでしょう。



質問者 私たちは先日、現代における西洋人のマインドのあり方と、それがヴェーダーンタ* の道義的、また知的修練に服従することの困難さについて語りました。その障害のひとつは、若いヨーロッパ人やアメリカ人は、世界の悲惨な状態と、それを正そうとする緊急の必要性に没頭することにあるのです。
彼らは、あなたのような世界の改善の必要条件として個人的な改善を教える人に対する、忍耐力をもっていません。彼らは、それは可能ではなく、必要でもないと言うのです。人類はその社会的、経済的、政治的な組織体系を変える用意があると彼らは言います。世界政府、世界警察、世界計画、そしてすべての物質的、観念的境界線を廃棄することだけで充分であり、個人的変容は必要ないのだということです。確かに、人びとが社会を形成しますが、社会も人びとを形成するのです。人間社会のなかで、人は人間らしくあることでしょう。それだけでなく、科学は以前宗教の領域にあった多くの質問の答えを供給しています。


* 訳注 ヴェーダーンタ Vedanta 「ヴェーダ(知識)の終焉」を意味する。『ウパニシャッド』、『バガヴァッド・ギーター』、『ブラフマ・スートラ』を根本においたヒンドゥー教の教義の体系。純粋な非二元性と限定された(条件つき)非二元性の二つの教義を提示している。


マハラジ 確かに、世界の改善のために努力をすることは、もっとも称賛に値する仕事だ。非利己的に為されることで、それはマインドを明晰にし、ハートを浄化する。しかし、じきに人ははかない夢を追求していることを自覚するのだ。特定の地域の、一時的な改善はつねに可能だ。そして、それは偉大な王や教師の影響のもとで何度も達成されてきた。だが、それはすぐに終局を迎え、人類を新しい悲惨な循環の輪のなかにおきざりにするのだ。


質問者 あなたは逃避を勧めているのではありませんか?


マハラジ その反対だ。再生への唯一の道は破壊を通してしかないのだ。新しい金の宝飾品を鋳造する前に、あなたは古い宝飾品を、一度形のない状態に溶かさなければならない。世界を超えた彼方へ行った人びとだけが、世界を変えることができるのだ。そうでなければ、それはけっして起こらない。影響力が長く続いた少数の人たちは皆、実在を実現した人たちだった。彼らのレベルに到達しなさい。そして、そうなってから世界を助けることについて話すがいい。


質問者 私たちが救いたいのは山や川ではなく、人びとなのです。


マハラジ 世界には、何も間違ったことはない。ただ、それを悪くする人たちのせいなのだ。行って、彼らに正しくふるまうように言いなさい。


質問者 欲望と恐れが彼らにそのようにふるまわせるのです。


マハラジ まったくそのとおりだ。人間の行動が恐れや欲望に支配されているかぎり、そこには何の希望もない。そして、どのようにして効果的に人びとに話をもちかけるかを知るには、あなた自身、すべての欲望と恐れから自由にならなければならないのだ。


質問者 一定の基本的な欲望や恐れは不可避なものです。それらは食べ物、セックス、死に関連しているのです。


マハラジ それらは必要なものであり、必要なものとして容易に満たされる。


質問者 死でさえも必要なのでしょうか?


マハラジ 長く、充実した人生を生き、あなたは死ぬ必要性を感じるのだ。欲望と恐れが誤って適用されたときにだけ、それは破壊的になる。確かに欲望は正しく、恐れは誤りだ。だが、人びとが間違ったものを欲望し、正しいものを恐れるならば、それらは混沌と絶望を生みだすのだ。


質問者 何が正しく、何が間違いなのでしょうか?


マハラジ 相対的には、苦しみの原因となるものが間違いで、苦しみを和らげるものが正しい。絶対的には、あなたを実在に連れ戻すものが正しく、実在を見えなくするものが間違ったものだ。


質問者 私たちが人類の救済について話すとき、それは無秩序と苦しみに対しての努力を意味しているのです。


マハラジ あなたは単に救済について話すだけだが、かつて一度でも、ひとりの人を本当に助けたことがあるだろうか? あなたは今まで、ひとりの魂を助けの要らなくなるところまで導いたことがあるだろうか? 彼の真の存在への洞察をもった人ではないにしても、少なくとも義務と機会を完全に自覚した人物を挙げることができるだろうか? あなたが自分自身にとって何が良いのかも知らないときに、どうして他者のために何が良いかを知ることができるだろうか?


質問者 生活手段の適切な供給は、すべての人たちにとって良いことです。あなたは神自身かもしれませんが、私たちに話しかけるにも、栄養の充分行きとどいた身体が必要なはずです。


マハラジ あなたに話しかける私の身体を必要としているのは、あなたなのだ。私は身体でもなく、それを必要ともしていない。私は観照者でしかない。私は私自身の形をもっていないのだ。
あなたは、それほどまで自分自身が意識をもった身体だと考えることに慣れているため、意識が身体をもっているということが想像もできないのだ。身体的存在は意識のなかの動き、マインドの状態でしかなく、意識の大洋は無限で永遠であるとひとたび認識し、意識に触れるとき、あなたは観照者でしかないと自覚したなら、完全に意識の彼方へと行くことができるだろう。


質問者 存在のなかには多くのレベルがあると聞きました。あなたはそれらすべてのレベルのなかに存在し、機能しているのでしょうか? あなたは地上に在りながら、同時に天国(スワルガ)にもいるのでしょうか?


マハラジ どこにも私を見いだすことはできない。私はほかのもののなかにあるひとつのものではない。すべてのものごとは私のなかに在る。だが、私はものごとのなかにはいないのだ。あなたは私に、表層について語っている。だが、私は土台に関わっている。表層は現れては衰えていく。しかし、土台にあるものは永続するのだ。私は移りゆくものに興味をもたない。一方、あなたはそれ以外のことは何も話さないのだ。


質問者 奇妙な質問を許してください。もし誰かが鋭い刀で突然あなたの首を断ち切ったならば、あなたにとってどのような違いがあるのでしょうか?


マハラジ まったく何の違いもない。身体がその頭を失うだけだ。伝達経路が断ち切られるだろう。それだけだ。二人の人が電話で話をしている。そして、線が切られたのだ。その人たちには何も起こらない。ただ、彼らはほかの伝達手段を探さなければならないだけだ。『バガヴァッド・ギーター』は、「刀はそれを切らない」と言っている。文字通りそうなのだ。媒体の死にもかかわらず、生きつづけるのが意識の本性だ。それは火のようなものだ。それは燃料を燃やし尽くすが、それ自体をではない。ひとつの炎が燃料の山を長い間燃やしつづけていくように、意識も無数の身体を通して生きつづけていくのだ。


質問者 燃料は炎に影響を与えます。


マハラジ それが続くかぎりは、そうだ。燃料の性質を変えてみなさい。炎の色と姿も変化するだろう。
今、私たちは互いに話しあっている。このために、存在は必要となる。存在しなければ、話しあうことはできない。だが、存在だけでは充分とは言えない。そこには話したいという欲望もなければならないのだ。
何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はありえない。私たちは罠にはまったままなのだ。


質問者 あなたは沈黙の観照者であり、また意識の彼方に在ると言われます。そこには矛盾があるのではないでしょうか? もしあなたが意識の彼方に在るのなら、あなたは何を観照するというのでしょうか?


マハラジ 私は意識と無意識だ。意識と無意識であり、そして意識ではなく、無意識でもない。これらすべてに対して、私は観照者なのだ。だが、実はそこに観照者はいない。なぜなら、そこには観照されるものが何もないからだ。私はすべての精神構造を完全に空にした、空っぽのマインドなのだ。それにもかかわらず、完全に気づいている。これが、私はマインドを超えていると言うことで表現しようとしていることなのだ。


質問者 それでは、どのようにしてあなたのいるところに到達できるのでしょうか?


マハラジ 意識していることに気づいていなさい。そして意識の源を探求しなさい。それだけだ。言葉ではほとんど伝えることはできないのだ。私があなたに話すことではなく、私の言うように、それをすることが光をもたらす。手段はさして重要ではない。重きをなすのは熱望、衝動、真剣さなのだ。


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Fiora & nobody